ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

指揮者の役割

2004-06-08 23:44:12 | 音楽あれこれ
指揮者とは、ただ指揮棒を振っていれば良いというものではない。それだったら、誰でもできる。しかし、実際には限られた人にしかそのチャンスは与えられていない。それは一体なぜだろう。いうまでもないことだが、ここで対象となるのはプロの場合であって、趣味でやっているアマチュア指揮者については含まれない。

誰でも知っているように、指揮者は自ら何かの楽器を演奏するわけではない。あくまで指揮棒を振るだけである。何も音を発しないのだから、指揮者は音楽家じゃないといわれそうだが、そうではない。確かに音を発してはいないが、彼は指揮棒によって音楽を作り出している。いや、彼の意志が楽団員に伝えられることによって物理的な音になるといったほうが正しいかもしれない。指揮者が異なれば違った音楽表現になるのは、このためである。

だからといって、指揮者は、ただやみくもに棒を振ればよいというわけではない。また、身体表現をオーバーにすれば良い音楽ができるというわけでもない。実は、そこがポイントなのだが、意外にもわかっていない指揮者が多いように思う。本日サントリーホールで聴いた大植英次&ハノーファー北ドイツ放送フィルは、残念ながらその例だった。

大植は、1995年から2002年までアメリカのミネソタ管弦楽団の音楽監督を務めていた。これと並行して1998年以来、ハノーファーの音楽監督も兼任している。彼のスタイルといえば、全身を用いたアクションに特徴がある。おそらくそれは、バーンスタイン以降のアメリカ指揮界の「流行」なのかもしれない。とりわけ大植の場合は小柄なので、オーバー・アクションをせざるを得ないこともあるだろう。

しかし、残念ながらそうしたアクションの効果は、彼が思うほど楽団員には伝わっていないように思われる。ちょっと皮肉な言い方をすれば、まるで「空回り」しているのだ。実際に音として出てくるものは、彼のアクションほど表現されていないといってよい。その原因はどこにあるのか。

ひとつには、彼自身が演奏者と化しているところにある。前述のように、指揮者が音を発することはない。裏返していえば、指揮者とは、すべての奏者を客観的かつ冷静にコントロールするのが仕事である。ところが、彼の場合は、奏者と一体化してしまい、またまた悪い言い方をするなら「自らの演奏に酔っている」のだ。あのね、演奏に酔うのは、聴衆の役目なんだよ。たとえば、面白い話があると言い出しながら、その話し手が笑ってたら、聞き手は面白くも何ともないでしょ。つまりは、そういうこと。

彼がオケの全体を見ていない証拠のひとつは、後半のブラームス《交響曲第1番》で、明らかに弦と管のリズムが揃ってないことに気づいてないことだな。このオケのホルン隊をはじめ、管セクションはなかなか上手い。にもかかわらず、それを限りなく活かそうとしないのは彼が全体を客観的に聴いていないことにほかならない。いや、リズムの「タテのライン」を揃えれば済むことなんだよ。

指揮者に必要なのは、棒を振る技術だけではない。熱くなって演奏している奏者をいかに御すことができるか。もちろん、奏者を熱くさせてしまったのは指揮者である。だからこそ、指揮者は、自身のもついわば「オーラ」によってコントロールしなければならないのだ。

歴史に名を残した巨匠指揮者たちの映像を思い返すが良い。巨匠といわれた指揮者に共通するのは、決してオーバー・アクションではないこと。巨匠であればあるほど指揮は地味である。その代わり、巨匠たちは冷静に自らの表現する音楽を捉え、天賦のオーラを楽員たちに放つ。最初にワシが、指揮者は「限られた人にしかそのチャンスは与えられていない」と書いたのは、そういうわけなのだ。指揮者こそ、もって生まれた才能といってよい。いくら後天的に訓練しても、ある程度までしか到達できない。悲しいが、そういうものなのだ。

才能といえば、マーラーの《亡き子をしのぶ歌》を歌ったコントラルトのナタリー・シュトゥッツマンは、良かったねえ。特に最後の第5曲なんか、声が空中で渦を巻くように聴こえたもの。いやー、感心、感心。
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