ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

クライマックスはどこに?

2004-06-10 22:35:41 | 音楽あれこれ
たいしたネタがないので、本日の演奏会を肴に。

今日は、東京文化会館小ホールでフォーレ協会の定期演奏会を聴く。この会は、もちろんフランスの作曲家ガブリエル・フォーレ(1845-1924)の作品だけが演奏される。フォーレ・ファンであれば垂涎ものだろう。ワシは別にフォーレ・フリークではない。以前批評をした関係で、ちょくちょく招待券が送られてきたというだけの話。

それはさておき。今回は初期の歌曲、《ヴァイオリン・ソナタ第1番》、休憩を挟んで、後期の歌曲、そして最後の作品となった《弦楽四重奏曲》というプログラム。それぞれの演奏云々については言及しない。ここでは、楽曲構造の解釈ということについて感じたことを記しておきたい。

フォーレといえば、フランス近代の作曲家であるが、同時に後期ロマン派の要素も多分にもちあわせている。1920年代半ばに書かれた《弦楽四重奏曲》ですら、そうだ。問題なのは、そうした形式で作曲された作品であれば、当然、形式の構造を意識した演奏でなければおかしなことになるということ。

いや、おかしいというよりも、作品のポイントが曖昧になるということだ。特にフランス近代の作品などは、同時代のドイツの作品などと比べ、形式が明確でない場合が多い。だからこそ、作品を面白く聴かせるために、音色を変化させたり、聴かせるポイントを決めておかないと「ぼやーん」とした印象しか残らない。

特に、《弦楽四重奏曲》などは同系の楽器によるアンサンブルであるから、奏者本人たちが思う以上にデフォルメするぐらいが、演奏としてはちょうどよく聴こえるものだ。しかし、こういった種類の音楽の場合、漫然と音符を再現するだけでは何が何だか解らないまま終わってしまう。そのことを奏者がわかっていないと、本当に聴いていてツマラない。

したがって、作品の構造がどうなっているのかを理解しておくのは当然として、奏者は聴き手の立場になることも必要となる。そのためには、楽曲構造上のピークはどこにあるのか、また、そこへ至るプロセスをどのようにもっていけば効果的なのか、ということまで考えなければ、その作品の良さは出ない。

もっとも、一流の奏者であれば、そんな面倒くさいことを考えなくても、本能的にクライマックスの部分を把握できるのかもしれない。だから聴き手は、深く感銘するのだ。でも、凡庸な奏者であればあるほど、演奏効果を計算するぐらいでないと、そこそこの効果は得られない。才能の有無…それは、どうしようもなく越えられない壁なのだ。
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2 コメント

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Unknown (みょ?)
2004-06-11 22:44:52
協会会員なのに、行きませんでした(爆:だってゼミ発表前だし・・・と言い訳)。



フォーレは大好きだけれど、オール・フォーレ・プログラムはお腹一杯になってちょと辛いです。パスタとピザとティラミス食べたみたいな。



あの弦楽四重奏曲は音が少ないので(ってゆうか未完だし)おっしゃるとおり効果を良く考えないと別の意味の辛さが・・・
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そうですねえ (べすと)
2004-06-11 22:53:49
パスタとピザとティラミス…

うまそーですね。腹が減ってきました。(笑)

(ポイントは、そこじゃないですね)
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