ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

書き手との相性

2004-06-05 13:30:05 | 脳みその日常
読みやすい文章ってなんだろう。

ひとつには、専門性の低い文章ではないか。もちろん、それは内容のない駄文という意味ではない。ここでいう「専門性の低い文章」とは、むやみに専門用語を羅列しない文章という意味。ワシの場合でいえば、難解な音楽用語を多用しない文章ということになる。

だが、特殊な事例を説明する場合、専門用語抜きに語るのは難しい。なんとなれば、その用語の厳密な意味を認識していなければならないからだ。だから安易な書き手はバシバシと専門用語を並べ立てる。

もっとも、そういった書き手による文章に論理的矛盾はないかもしれない。けれども、読まされているほうは、たまったもんじゃない。読み進めていく上で、常に専門用語のところで目が止まってしまうからだ。「えーっと、これはどういう意味だっけ?」と。だから、できるだけ専門用語を使わないで、つまりはそれを噛み砕いた説明をすれば、読みやすい文章になる。当然の話だ。

もうひとつは、一文の長さの問題であろう。わかりやすい例でいえば、新聞記事のような文章だと多くの読者にわかるといわれている。これはどういうことか。つまり、一文の長さが短いというだけのこと。そのほとんどは、長くてせいぜい40字程度となっているはずだ。それぐらいだと、読み手の理解力を妨げないらしい。確かに、一文が長すぎると主語と述語が何であるかわからなくなる。そうなると、読み手は、再び文の最初に戻らざるを得なくなる。

昭和初期の哲学者に三木清という人がいた。ワシがまだ10代半ばの頃、その著書『哲学入門』(岩波新書)には苦い思い出がある。内容はもちろん哲学のことなので、難しいのは覚悟していた。しかし、入門と銘打ってはいるが、その文章の内容がちーとも頭に入ってこない。

「いやー、哲学は何と難しいものなのか」その時はそう思った。しかし、後になって読み返してみて気づいた。一文が長過ぎるのである。ワシの理解力の云々よりも、難解な理由はココにあったのだ。要は、短文だったら、まだわかりやすかったということなのである。

そのほかにも、読みやすくするコツはいろいろある。段落を短めにするとか、漢字を多用しないとか。あとは、書店に行って参考図書を探してください(笑)

読み手を想定して書くこと。これが読みやすい文章のコツではあるが、それでも越えられない壁がある。読み手と書き手との相性だ。

人間同士であっても、相性のいい人と悪い人がいる。それと同様に、読む文章との相性も存在するのである。ワシの経験からすると、自分が読みやすいなと感じる書き手とは、後に実際に会って話してみると、人間的にも相性がよい場合が多い。逆に、何だか読みにくいなと感じる書き手とは、実際に話しても相性がよろしくない。きっと思考プロセスが文章に表れるゆえに、書き手との相性もわかってしまうのだろう。価値観が違っていたり、主義主張が異なる人とうまくいかないのと同じ理由だ。

「文は人なり」とは、よくいったものである。
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