湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

7/30 月末の雑記メモです、すみません

2012-07-31 06:09:15 | 引きこもり
2012/07/30 記
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前期夏期講習が終わり、支払いの用件もあり、帰りに父の入所している老健にたちよった。茅ヶ崎に一度戻ったので、ハーフサイズの鉄火丼を買って、温まらないうちにと、急ぎ老健にたどりついた。最近父はベッドで寝ていることが多くなった。今回も部屋で寝ていたのがちょっと気になる。

しかし恐ろしいものだと思う。糖尿病性脳梗塞から半身不随に陥って6年目(?)になるが、動かなくなった腕が細くなって、硬縮が目立つようになってきた。老健なので多少は動かしてくれると思っていたが、立位保持訓練を繰り返すだけようだ。車椅子からの立ち上がり練習である。腕まで指導が回らないようだ。

9月のはじめ、避難訓練のあと、中庭で夕涼みの会があるという。困った。前回の七夕のときは天気が悪くて、そっと抜け出して屋台でビールという約束が守れなかった。今回は後期夏期講習を休んで、陸前高田に出かける予定だったからだ。この日は朝、池袋に戻る日だ。夜行バス内2泊なので、地元医療関係者と面会できたら、大船渡か広田町に中1泊し、翌日に帰る予定でいた。バスの空きの関係でもある。

父はビールだけ、しっかりと覚えていた。出発をもう数日早くできればいいのだが。車椅子が乗る車があれば、家族責任で外出することが可能だが、タクシーや一般車では車椅子と車座席との間の移動が、私には上手くできなかった。これは在宅介護していた数年前、父が私を信用しないために余分な動きをするために起きた現象だった。要は私が下手なのだ。介護タクシーを予約して、施設と店を往復することは可能だが、これをした場合、今の父は家に戻ることを主張するだろう。だから、施設が提案している夕涼みの会は、私が参加しなくてはまずい状態だった。

生業の店舗の修繕も8月下旬。金欠なので、倍額かかる東北新幹線など使えない。どうしたものかと、老健のエレベータ脇に貼られていた父の七夕スナップをながめていて、発見。仙人のようにもじゃもじゃの白髪が車椅子を押していた。我ながら、どちらが入所者かわからない風体にがっくりきた。父の方が見かけが、若いのだ。しかし父のこだわるビールの約束は守らなくてはならない。

ある議員さんの被災地見学のさそいが、やはり同じ日程で、交通費3万円予算だった。とんでもない。夜行バスなら半額。その余裕が有るなら、現地に1泊する。

父は鉄火丼を猛スピードで平らげてしまった。まだ体力はある。寿司折りの箱を私が持ち、父は片手で箸を操って、丼を米一粒残さず食べた。その様子を見ていて、やはり夕涼みの会は参加すると事務員に伝えて父と別れた。

陸前高田行、日程の変更をすることに。

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明日(今日)は、橋本3君が職場訓練を受けることをなんとか承諾してくれたので、自宅からの通勤補佐。起床時刻までは私はあわせられないので、親御さんが訓練中は連れ添うが、ともあれ橋本駅までのバスと、横浜線の乗り換えをチェックする。JR相模原まで来ていたのだから、大きな問題にならないことを願っている。

朝の出勤時間では、私が先方に泊まらないといけないので、時間帯だけは私の都合に合わせてもらった。主な仕事はラベル貼りと、店舗内に貼る定型広告作り、バックヤードの清掃だが、まずはラベル貼りを覚えてもらう。誰の指導に従うか、作業の流れをチャート化してあるので、見比べて対応付けをする。トイレの意思表示やトイレ・沸騰室の位置などの確認。出勤カードの自己管理などさまざま。職場の同僚さんとのマッチングは、社長さんが行なったが、私からは初めてとなる。食品関連なのでつまみ食い厳禁。身だしなみや白衣の衛生管理もある。昔、白衣を医者を連想して暴れて困ったことを思い出した。彼にはそれはないが、お節介をやきそうだ。

見通しがたてば、ジョブコーチさんを正式に依頼するかどうかを話し合う。

アパレル関係ではないところが救い。私がパンクしてしまう。

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仮設にいよいよ本が配本される。小規模仮設の自主巡回文庫の親仮設宛に配本する。協業の契機になってくれれば幸い。セカンドブックアーチの活動には感謝する。

さて三井君のSET。いい出会いになるといいのだが。彼、転居して忙しそうなのが気になる。

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事務長と北里大のサークルと会うことに。橋本3君の日ははずしてある。

障害者の逗留施設をつくることで、地元障害者の職場作りを行なった事例が見つかった。資料の読み込みを始めている。

今回は、教材屋作業中なので、これで。


夜間傾聴:橋本3君の訓練先の庶務課長さん(しんどい話)
     **子君(仮名・定時電話のようで…)


(校正1回目済み)

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7/29 ちがさき災害ボランティア交流会に参加して

2012-07-30 06:23:43 | 引きこもり
2012/07/29 記
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本箱が着いたと陸前高田の仮設から電話が入ってきた。「これほど待たせてしまったのに、申し訳ない」と伝えたが、笑って受け止めてくれた。陸前高田・小友町仮設は、あちこちの文庫から書籍が送られてくる。だから初回は、遅れた分、私が現地に行って謝罪した上で、受け渡した方がいいと判断した。

皆が被災地訪問を活発化させる夏休み期間、私は夏期講習だ、高認だと普段よりも忙しくなってしまう。契約講師だから無給だが、お盆期間は休める。専任は交代で休んでいる。自習の学習相談屋がいる。

私が休める間、皆さんもお休み。休んでも効率が上らず空転する。お盆明けは後期の夏期講習が始まってしまう。しかし後期講習の8月末に休みを取ることにした。広田町は不便だ。「広田半島通信」を実現するには、どうしても現地滞在ボランティアにスナップ写真と記事提供をお願いしなくてはならない。

今日は、災害ボラの交流会開始時刻が13時だった。午前中の授業や巡回を入れても間に合う時間ではないので、橋本2君には海老名まで出てきて欲しいと頼んだ。彼は入試。高認とは関係ないので、時間を早く切り上げさせてもらった。チラシはB4に2枚つながっていたので、サポセンのカッターで切ってから会場に持ち込む必要があった。時刻はぎりぎり。決意して茅ヶ崎駅からタクシーに乗って、サポセンに向かった。急ぎカッターで切断し、チラシを抱えて早足で市役所分庁舎のコミュニティホールに飛び込んだ。

間に合ったことは間に合ったのだが、チラシの配布の許可をとらねばならなかった。受付の女性(市の職員だったか?)がチラシを受け付けてくれた。女性は、さっさとチラシ100枚を持っていった。その場で私は別のことに気を取られていた。私の胸に、市販の粘着ラベルに名を書き込んで、そのラベルを胸にはりつけるのだが、困った。机の盤面が白、ラベル紙が白で、マジックインキペンで名前を書くのだが、机と紙、ラベルとラベルの境界線が見えないのだ。名前を書く枠が全く見えないのだった。

事情説明が困った。通じない。椅子がオレンジ色の座面なので、ラベル紙を椅子の座面に置いたが、ラベルとラベルの境界が見えない。名前を書いてくれと大きな声をあげ、書いてもらった。とにかく話が通じない。境目が見えないということが、受付の方の理解のキャパを越えているのだった。

飛行機の「飛」、田んぼの「田」というが、さあ「飛」の漢字が係の方にはすぐに書けない。大混乱を起こしているうち、チラシを持っていった女性が帰ってきた。チラシがないので私が安心したのが間違いだった。

チラシは会場左奥の机に、他のチラシといっしょに並べてあった。チラシの存在自身が、参加者にはわからない位置だった。「いかん、わからんちんだ」とつぶやいていた。こういう行政交じりの会には、天敵のようなセンスの悪い事務的な子がいるのだ。言われたとおりのことをして、完璧に機転がきかない。

会場の出入りの動線から完全にはずれた位置のコーナーに、チラシが置かれてしまった。ずっと気になって会が終るまでコーナーに視線を向けていたが、チラシは会場関係者が3枚持ち去っただけで97枚は残ってしまった。会の終了のとき、彼女は「チラシが余りました」と97枚を持ってきたのだった。急いで、「会場内で撒くよ」と通告し、片っ端にチラシを手渡した。17枚。合計20枚。頭痛がした。参加者は60名ほどだったから、3分の1撒いたには違いないのだが。

一斉のQ&Aを行なう形ではなく、8つのテーブルに分けて、そこで議論するWS・バズセッション型。これは異業種接触による創造性を触発するシステムとされている形だが、付箋紙と模造紙が回ってきた時点で、帰りたくなった。

京大カードから発祥し、マインドマップへと連なる「新たな文脈の発見」のルーツから分岐した、異質な意見のずれから新規の発見をチャート式に組み込むことで、奥に隠れた新規の論の誕生を可視化する方法なのだが、これは、操作に経験が要る。加えてたっぷりと時間が与えられなくてはならない。テーブルごとに自己紹介をして一巡したあと、付箋紙にアイデアや主張を書いて模造紙に貼り付けていく。

付箋紙に書くのはテーマを明確にしたことについて書くという縛りをかけないと、何を書いていいかわからない。だから、これが出てきたときは、話が浅くなり、方法ばかりが浮き上げる結果に終る。これが成功した事例を私は見たことがない。時間不足が致命的、方法から新たな発見が出ることはまずない。だから帰りたくなった。

いっそ輪座して口頭の討議をした方がましなのだ。(勿論これも、論の達者の者が内容の価値とは別に場を仕切るというバイアスがかかることが欠点であるのだが。)

とにかくひどかった。カテゴリー分けのための操作、その分類の結果をテーブルごとに報告するのだ。報告は追われるようにして、対立と展開・相乗と添加というような論のすり合わせの核心が全く抜かして羅列するだけ。ワークショップ(WS)の試みは流行を追っているだけなのだ。

これは南三陸町から招待したゲストへの依頼の件も的をはずしていた。私たちが今、交流を通して「今後の支援を見通していくため」に、被災後の被災者からみた復興再建活動を検討していく場と、テーマの「1年4ヶ月を振り返り茅ヶ崎へ伝えたいこと」という設定から解釈していたが、招待された被災者の方は、災害のひどさを伝えるために、被災当日の体験をできるだけ詳しく語ろうとしはじめたのだった。これは強烈な体験をした方に語りをさせると、「だからどのように立ち直りの道を歩いているのか」というその後のことに心がうごいていかない。どれほどに凄まじい体験であったかを伝えたいという方向に語りの目的が戻ってしまうのだ。だから話すことに慣れている方以外は、対談形式にして、論点を引き出していった方が実があるのだ。

またタージ(主催者)のまとめ役の方が同じテーブルだったので、予備に取っておいたチラシを配った。その上で、話題となった現在自分が持っている考えの書き込みのなかの「被災地訪問(滞在)ボランティアだけにしか、関心が無いことへの危機感」、被災地に行けない方の活動参加の道が霞んできているという、現地ボラのすそ野への働きかけを問いかけたが、「自分は別に仕事を持っているから、それ以上はできない」と遮断されてしまった。「今回の会のように(地元でも)やっているではないか」という話だった。ところがなんとも市行政と市社協関係者、議員関係者の数の多いこと。顔を知っている方が3分の1近くいるということは、一般参加まで会の開催が伝わっていないように思うのだ。

ならば、今後の活動について、支援者が自分の見通しを互いに語りあったほうがいいと思うのだが、支援者向けとも言い切れない半端さが残った。ワークショップのテーマは、なぜか「茅ヶ崎の防災」に絞られていた。「長期化する東北の被災者の支援」ということは、ワークショップからはずれていたことになる。WSのテーマ「ここ茅ヶ崎での災害へのそなえとは」というテーマだてが、準備段階で出てきた問題意識の事前紹介もなく、そのテーマの説明もなく「何でもいいから自分の関心を書いて」という形になっていたのだ。なんとも勿体無い。

というわけで、結局は8月下旬の市防災対策課・保健福祉課との意見交換会のために、休憩中、課長に挨拶したことのみで終ってしまった。状況を拓く提案ということへのこだわりが、同じテーブルの一部の方の反感をかい、まとめも従来はなされていることをなぞって終わって行った。

そういえば、岩手勢の顔見知りの方は参加されていなかった。私たちのテーブルも開成町をはじめとした市外の方の見学参加者が2名おり、特に分布が偏重しているわけでもないようなので、それだけでも一般参加者の数の少なさを表しているようだった。

秋の講演会との関係では、10月25日に避難訓練をするとのこと。南三陸の本間さんの資料を主催者に手渡したことも、意味をなさなかったようだ。重なりを避け、別途生活支援の講演・交流会を、こちらで企画する以外ないだろう。質のいい状況打開の提案を打ち出す努力は勿論、市内の被災地に行けない方々の参加の道を見出していかねばと思う。社会運動は、その人が何をするかということではなく、一緒に問題を打開する道筋を確実に敷くという仕掛人の営みがある。しかし、それは人とともに動くことを志しているというところに根幹がある。同好会的な志向は避けるべきなのだ。

しかし、秋の講演・交流会はますます難しくなった。私は組織を背景に持たないし依存しないから、とにかく、招待講演者と私だけという会にだけはしたくない。東北の被災者を決して忘れない、防災は経験交流を通してということは押さえて行きたい。

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これから三井君にメールを出す。まずは1箇所の巡回文庫配本からお願いしようと思う。とにかくスケジュールだらけだが、巡回文庫が価値のない余芸ではないので、早期の配達を頼むことにした。


母は東京の主治医のところへ出かけていった。日曜日に医療講演会があるというのだ。おそらく知っていることばかりで、がっかりして帰って来るぞと忠告しておいた。浜見平の友人が付き合ってくれることになっているので、めまい・熱中症対策は大丈夫と思うのだが。

帰りに清算。コピーが1520円、タクシーが880円(ぼられている)これがチラシ20枚分の値段なり。

夜間傾聴:**子から何度も電話が入っていた。話が「短くて1時間なので、堪忍とメールを書いたら、即刻深夜電話が鳴った。堪忍だってば。


p.s. 「シニアによる協同住宅とコミュニティづくり―日本とデンマークにおけるコ・ハウジングの実践」を注文。


(校正3回目済み)

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7/28 暑さ負けと、いじめの授業/(大切)ストレングスモデル、南三陸の見守り巡回(毎日新聞)

2012-07-29 05:25:40 | 引きこもり
2012/07/28 記
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気が遠くなるほど暑い。私は汗かきなので、目に汗が入ってハンカチがないと外出できない。いつものように相模大野校の授業が終ると、物置き兼会議室で、エアコンを強い通風にして1時間ほど仮眠を取るが、先客がソファーを占領しているし、今日は全然だめ。暑い。

町田に出て遅い昼食を済ませ、夕方からの相模原の授業の間、少し休めるところを考えた。インターネット普及以前のパソコン通信時代の町田に有ったMLの友人が、寺の住職しているのがいて、寺は駅から遠いが町田市内にあった。年賀状ではないが、オフラインでは年1回位しか会っていないが、彼の寺に逃げ込んだ。音沙汰無しを叱られて悪口三昧、さんざん叩かれたが、お盆前だというのに仮眠の場所を提供してくれた。この時期、病院外来は熱中症を予測して、看護師職員が放置してくれない。だから助かった。しかし蚊がいる。蚊は糖尿病の汗かきのところに来る。

落ちるように眠って30分ちょっとのところで、不眠症の塾長から電話が入った。相模原は集団いじめ問題が起きたばかり。相談コーナーを作るから、担当よろしくとのこと。「もうさんざん相談をやってきたじゃないですか。なぜあえて?」と問うが、「貼り紙するからキャッチコピーと紹介チラシ,来る時までに作ってきて」との業務命令。加えて、今日塾生に臨時授業15分。塾長がやればいいのに。

結局、宿坊(なのかな)でPCを打っていた。住職はお出かけ。息子さんが、冷たいウーロン茶を持ってきてくれた。「緊急避難先にしてすみません」と話しかけると、「いじめの話ですか」とポメラ(PC)の小さな画面を覘き込んできた。

不登校の話は檀家さんから相談を受けることもあるのだとか。「厄介な話だったら連絡下さい」と、名刺を渡す。恥かしいかな災害ボランティア団体の名刺だ。私は契約講師だから、勝手に名刺を作れない。以前は外勤講師という聞きなれない訪問指導をしていた。ところが無理矢理、外勤定年ということで、相模大野校の外回りが終ったので名刺がなくなった。だからJR相模原の方の塾の個別巡回のみ行なっている。

土曜日なので専門学校周りも出来ず、ロンドンオリンピック開会式も無縁な寺にいて、日差しが蔭るのを待っていた。と、相模大野校のほうから、中学生君(仮名)に至急連絡を取ってくれとの話が入ってきた。彼は特例として私に押し付けられた、ハードな悩みを抱える子だった。学校からいじめの詳しい話をききたいから本人を連れてきてくれという電話が入って、親としては怒り心頭に達しているという。

彼は校門をくぐれない。さんざん教員に伝えたのに、そんな状況すら学校側は理解していない。「夏休みだから、いじめるような子はきていないから」という言い方。教員自身も抑圧の源である自覚のかけらもないから、言っても無駄だとは思うが、夫婦で抗議しにいくという。そのことを本人に言ったのかと私が問うと、言ったら部屋にこもってしまったという。

夫婦もまた、引きこもりの悩みの綾をこじらせている。私は「今夜、話ましょう」と言って電話を切った。「市教委の通達だな」と無神経な学校の対応が何十年たっても変わらないことに腹立たしくもなる。

「休めないようですね。時間まで、まあ、ごゆっくり」と息子さんが部屋を出て行った。「ありがとう」と、私は頭をさげた。

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町田駅からはちょっと距離がある。横浜線で相模原に出るはいいが、早く行けばその分、雑用分担がある。汗で目を開いていられない状況なので、ジュンク堂に寄って時間調整してから、相模原に出た。模造紙を買い込んで、教室に持ち込んだ。事務の++さんがすでに案をいくつか書いていた。これ幸いと模造紙を渡して沸騰室でさぼっていると、塾長が15分のいじめ事例を話してくれと、あっさり言って、父母対応に会議室用教室にこもってしまった。

偉そうに、人間かくあるべきと言うのは嫌だし、私の声はくぐもっていて通りにくいので、ラジカセアンプにマイクをつなげた。たかだか二十数人の塾生に大げさだが、彼ら私語中毒なので、どこかで話に引っ張り込まなくてはならなかった。震災といじめの話ということで、家と祖父母を失った中学生の話をした。大船渡の避難所に到着して、自分が目の前の親のように泣けないあっけらかんとした気持ちになったという話と、全く面識もない避難所の隣人の子が、母親を失って号泣しているのをみて、どうしても涙が止まらなくなった。どうしてかわからないが、我慢できなくなった。ところがその他人の悲しみに引きこまれた子は、震災前はいじめのグループにいたという話。それからは、底が抜けたようになって、いじめをする気になれなくなったと、私に避難している不思議な体験をした中学生が話してくれたという体験談をした。「他所事だろう?なぜか考えてみ。」それだけで私の話は終えた。

「何じゃそりゃ」という顔をして、「飛田の禅問答は飽きた」といわんばかりに、さっさと散っていくのもいれば、「深いですねえ」と、擦り寄ってくる若い講師もいた。岩波の社印風にミレーだよと、さっと手を振るが、これがわかったのはひとりもいない。自分の脳裏には「ドジョウすくい」とささやいているもうひとりの自分がいたのだが。

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待てば甘露の日和とか、毎日新聞に私と同じような(いや、地元の方を組織する分、数歩も進んでいる)孤独死防止を兼ねた高齢者評価組み込みの南三陸の実践が紹介された。

私の論は、仮設コミュニティからも疎外された外出困難者の活力復活を目指したもので、支援者が家族の底に潜ませている介護の課題をどう取り組むかということに、力点がおかれている。地元の地域福祉医療のネットワーキングに対応できる活動の形に腐心していた。

ところが今回の記事に紹介される活動は、高齢者が地域社会の役割を持つことで、復活していく道を仕掛けていた。これは一理ある。ストレングスモデルが背景にあるが、面白い。巡回を受ける側の気持ちの掘り下げが不足しているが、見学したい活動だ。広田半島とその周辺地域のネットワーキングを考えるとき、地縁・血縁の強い地域の在宅看護・介護と外出困難者の立場が、都市型に多い、見知らぬ隣人と地域を背景にした孤独死の網を被せるのにふさわしい地域であるかどうかは、私の掘り下げが足らないのは事実だ。しかし、健常者の社会になっているこの地域の影をも支える活動が必要なのは、経験的に感じている。

ともあれ、以下の記事を熟読していただきたい。やっと同志に出会えた気がする。甘いかな。

●「東日本大震災:仮設の「孤独死」防止へ、高齢者自身が見守り 宮城・南三陸の「滞在型支援員」最高齢は89歳」
●「みやぎ・この人に聞きたい:南三陸町福祉アドバイザー・本間照雄さん/宮城」


夜間傾聴:中学生君(仮名・母親と)
     A子君(仮名・イチローの話ばかり)

p.s. 29日13時から、災害ボランティア交流会あり。秋の講演・交流会への結束呼びかけチラシ配布をする。大船渡の大関さんとか、今回の宮城の本間さんとかが講師。広田町から仮設生活している地元活動している方等が別途候補。


(校正2回目済み)



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7/27 茅ヶ崎市との意見交換会申込/29日災害ボラ交流会配布用チラシ完成

2012-07-28 04:42:32 | 引きこもり
2012/07/27 記
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QRコードの医療情報カードについて、茅ヶ崎市との協働の提案は、既に関係課、アイデア募集企画に応募と、今回の関係課との意見交換会の申し込みで3回目だ。とにかく行政の計画は悠長だ。災害関係活動の提案もどんどん有効期限が過ぎていく。応答がないので、こちらから、再度問いかけた形だ。内容は添付資料のとおり。

また日曜日の災害ボラ交流会は、200名規模か。「**岩手・気仙地方の生活支援関係のボランティアの皆さんに**」というチラシを撒く。「10・11月の茅ヶ崎市内の講演・交流会」の世話人会設立要請チラシだ、

まだ配布許可をもらっていないから、土曜日に社協に寄って、先方が許可しないときはボツになる。対策は、打診やり直し以外ない。

----- ここから -----

「**岩手・気仙地方の生活支援関係のボランティアの皆さんに**」

2012/07/27
「わーく」編集部 飛田

3.11の震災から2年目の夏を迎えています。長期にわたる先の見えない不安の中で、広い家に住みなれた被災者の方々が、狭い仮設で気丈に生活している、そのストレスを考えると、特に体力のない高齢者・障害者の方々の体調が心配です。

今年に入ってから、「わーく」編集部は、大船渡(三陸・赤崎を除く。)・陸前高田東部の仮設巡回調査と医療関係者面会、陸前高田東部の外出支援と重ねた巡回文庫作りを進めてきました。市内の災害ボランティアの方から中古車を提供していただき、6月に広田町SET代表への中古車仲介を行い、次の活動へと踏み出したいと考えています。

活動を進めながら、いつもぶつかる壁は、目に見えない壁でした。災害ボランティアは、被災地訪問(滞在)ボランティアのことであるという実態です。参加者は被災地に行くか行かないかという自由意志に基づきますが、それは受け皿が整っていてのこと。救援期の物資・資金カンパがリアルだった時期を過ぎて、生活再建の時期になると現地にいかなければ、なすべきことが発想できないほどに非被災地の落差が放置されています。この支援のすそ野を再度掘り起こす企画を行いたいと思っています。キーワードは「民間交流」です。

私たちは、陸前高田の米崎・小友・広田、大船渡の末崎の広田半島とその周辺の「広田半島通信」を準備しています。主眼は環境整備と産業復興のみならず、生活と地域医療福祉と生活状況のニーズを湘南に紹介していく活動をしたいと考えています。支援活動や地元活動を紹介していくのです。この地域で支援を行っている方と連絡を取りたいのです。

もうひとつは今秋、この地域の地元活動をしている方を湘南に招待し、地元医療保健福祉関連の方に今後の展望を語っていただこうと思っています。この講演・交流会を立ち上げる協力を、特に岩手県の生活支援・見守り支援を行っている方にお願いしたいと思います。今からだと開催は10・11月になると思いますが、会の世話人会を作りませんか。予算捻出も含んで、相談しましょう。連絡を下さい。


連絡先:本ブログのコメント(コメント入力は、一時預かり型なので、コメントは即公開されません。)

以上

----- ここまで ------

夏期講習は個人面談。この時期は、高認受験者優先。ひとり相談者、妻子がいる者がいる。受験は、二度目がないと感じている。社会人出戻り組。理事長の許可の下、一度、彼の家のある町田の某所で話すことに。彼は今回、別格だ。

帰りに橋本3君の体験就労先の庶務の**さんと話す。帰りにサポセンに寄る。茅ヶ崎市との協働の意見交換会申込を行なう、締め切り間際セーフ。

母が夏ばてを起こしている。土用の丑の日としたいところだが、金がない。穴子すらもう売り切れていていた。素麺と鶏肉のから揚げメニューをしぶしぶ決めた。ケンタッキー・フライド・チキンと惣菜をたす。ところが、私が留守のとき母は素麺を食べていた。食事拒絶。こうしてまた、私のA1C値が、また上ってしまう。いつも、これが困ってしまう。相手は気まま。

仮設の集会場に本棚を置かせてもらう。再確認メールを朝出し、先ほど北茅ヶ崎駅で降りて、島忠で本箱を買って仮設に送った。さて三井君の日程と会うか。組み立てをするかどうか、信用テストするような相手なので心配。セカンドブックアーチには、これからメールをだして、本を送る中身の吟味。

北里大サークルとの会う件、夏期講習の私の分が終る翌日の31日で調整中。

夜間傾聴:相模原の塾長(邪魔なんですけど)
     南橋本君(仮名)


(校正2回目済み)
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7/26 茅ヶ崎市との協働、意見交換会提案者参加申込をすることに

2012-07-27 05:25:27 | 引きこもり
2012/07/26 記
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夏期講習中学生一斉授業、久しぶり。テストプリントに「白髪爺・はげ」の文字ふたり。ありがとうと応答を書いて返した。よく知っている奴がそのうちのひとり。

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悩んだが特攻対策と思いつつ、医療個人情報QRカード実施提案をテーマに、茅ヶ崎市防災対策課・保健福祉課のふたつの課の担当者と意見交換会で話し合うことにした。8月中旬に話す。被災地医療ネットワークのNPO参加の形と絡ませ論じるので、被災地生情報を還元したい。関係者と連絡を取りたいので、休みを前に、さらにあがいている。

申請書を書き上げたので、今回はこれで終わり。今日申請を出す。縦割り行政を横断するので、秘書課入れたほうが政治判断が入って面白いかも。

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大船渡の保健師さんのネットにアプローチ中。

陸前高田と大船渡に私用の中古自転車を置かせてくれないかなと思う。フットワークをもっと軽くしたい。


夜間傾聴:中学生君(仮名)
      ・ひとはなぜ生きるのか>ひさびさにコペル君登場
       クラシック、くそ古い話。


(校正2回目済み)

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7/25 夏期講習が邪魔な講師とは

2012-07-26 04:32:03 | 引きこもり
2012/07/25 記
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夏期講習の合間、携帯のメールを見ながら心は、地域医療福祉のネットワーク下の社会的弱者の孤立化防止活動の迷路をたどりなおしている。ひとつは、非被災地の被災者生活支援活動の立ち上げの段取りのこと。まずは巡回文庫を広田半島に根付かせ、外出支援の協力者探しを行なうこと。どうする。この言葉だけが、口元に滞留している。

この活動に本腰を入れる時期が難しい。8月のお盆空転に耐えなければならない。ボヤ騒ぎで、8月末に修繕費がのしかかる。応急措置としては蛍光灯を交換すればいい。しかし、次回の消防署の検査に改修を要求されるだろう。おそらくは防災がらみで9月初め。後期の夏期講習の調整は済んでいるが、金策が残る。8月月中では、被災地の方も空転するだろうが、なにより移動する夜行バスの空席が保障されない。被災地の宿泊は無理だから、効率よい巡回を済ませていかねばならない。米崎町仮設・小友町仮設・広田町JA・広田町診療所・広田町コミセン・広田町営農組合・高田病院・(希望が丘病院)は回りたいが、すべてまわると歩きでは数日かかる。車でも交渉があるから現地1泊は最低条件。

基本計画の骨格が整わないと、あらゆるものが賭けになってしまう。現地のその手がかりが欲しい。賭けはもううんざりだ。湘南で被災者との懇親会や講演会を企画しても、気仙地方勢が散っているので、招待者に失礼な状態になりかねない。継続的な計画がないと、結局は南三陸の支援に化けてしまう。地域医療福祉のネットワーク下の社会的弱者の孤立化防止活動を気仙地方に育て、モデル化したい。これは被災地常駐型ボランティア以外には作れないものなのか。有志を求めるためには、市外に出ざるを得ない。しかも医療福祉関係者と組みたい。

ぼんやりと窓の外を眺めていると、熱い側にいることはないだろうと、卓上扇風機を同僚が貸してくれた。郷里は東北かと問いかけてくるので、まあそんなものだと応答したが、帰省するのかと聞かれる。誰も我が家が実家だと言っても、信用しない。

的を絞り、内容がストレートなものがいい。まずは「外出困難な高齢者・障害者の外出支援」、医療福祉系学生と生活支援経験学生に「車に乗って被災地高齢者外出支援に出かけよう」である。またこの参加経験は「広田半島通信」を通じ「民間交流」の手がかりにする。

昨日、相模原市役所に行って、半年前とは比べものにならないほどの空転を感じていた。横浜の在宅看護学会関係者や、「舫(もやい)」と話した方が、手がかりが得られるように思っている。夏期講習が実は邪魔だ。全くしようもない講師だなと思う。

帰りに橋本3君の親御さんと橋本で会う。町田経由で横浜線に乗るが、相模原市は大きい。決行時間がかかるのだ。彼は親御さんと車で旅行に行くのだと言う。彼は乗り気ではない。無理にはしゃぐのは親なのだ。それを早く言い過ぎたのかも知れないと母親。一緒に行きますかといわれて、瞬間、陸前高田まで行けるかと発想した自分のさもしさが恥かしい。橋本3君は関西に行くのだ。

借りてきた「0泊3日の支援からの出発」を読む。なるほど、しかし「湘南」というキーワードが出てこない。迷いつつ、8月に関係者に会える手立てを試みる。

27日に湘南の災害ボランティア交流会がある。「広田半島通信」発行の呼びかけだけはしておこうと思う。南三陸高校生交流会の話も聞けるが、虚しい。

個人医療情報QRコードの提案だけでは、なんとも単発で浅いが、茅ヶ崎市との意見交換会、臓器提供・検体意思表示の項目追加の話も入れて提案しておこうかと思う。本来なら、被災地との長期提携例や障碍者・高齢者の防災の話などで参加したかった。つながれない悔しさは、それはそれ。駒を打たねば状況は打開できない。カリカリの乾き。ドンキホーテなりとうそぶいてみる。

夜間傾聴:橋本3君(仮名・一生懸命だけにしんどかった)
     東京会場受験組1号君(仮名・母親<情けないなあ)


(校正1回目済み)

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7/24 気仙地域の医療介護の保健ネットワークに連なるために/発達障害児者の防災ハンドブック

2012-07-25 04:51:14 | 引きこもり
2012/07/24 記
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夏期講習が続いている。今年は拘束時間が長め。それは中学生の時間と高校生の時間のずれが大きく、その間待機や個別相談になってしまうからだ。今年の高認は背伸びに無理がある子は担当していないので、進学受験の方にウェイトを置ける。帰りに相模原市役所に寄ってきた。相模原市は大船渡市と交流がある。そんな関係で、被災地の地域医療看護・介護福祉のネットワーク作りの支援を非被災地から応援する試みが続いているのか、また被災地のネットワークへの人脈仲介をお願いできないか、北里大のボランティア情報が入らないか打診していたのだ。勿論、守秘義務の範囲内の話だ。しかし、もし北里大サークルと接点が取れたとして、被災地の活動はともあれ、茅ヶ崎・湘南の活動とどう関係付けたらいいのか。東海大の場合は独自のプロジェクトが動いている。しかし医療系の動きの話は聞こえてこない。

今度陸前高田を訪問したときは、NPOの介護サービス事業所や、障がいフォーラム、広田町診療所、JA広田出張所を回りたい。時間がとれれば大関輝一さんに会いたい。しかし、私は何者なのだろう。湘南の根無し草である。今、ここで私がなしうることを、手がけねば。

帰りに薄暗くなった寒川に立ち寄り、書籍の更新をした。寒川は発達障害関連の書籍の入荷が早い。Nさんかなと思いつつ、茅ヶ崎入荷の遅さにやきもきしたりする。私がリクエストに入れていた書籍が、早々と入っていたので感心した。

障碍者が避難所に、入所者の迷惑を理由に入れなかったり、預けられるところがなくなっていて、生活再建に手がつけられない今回の避難をめぐる問題を整理した書籍で、ピントが鈍いので、私はあまり「クリエイツかもがわ」の書籍は買わないのだが、今回はじっくり読みたい…というより購入するだろう。このあたりは施設にお邪魔しても、厳重な守秘義務の壁にぶつかるだろう。だから病院筋課障がいネットワークから様子の概要をつかんでみたい。

まずは以下をごらんください。

●「発達障害児者の防災ハンドブック―いのちと生活を守る福祉避難所を」

第1章 避難所に入れない障害児者の苦悩と福祉避難所の開設
第2章 大規模災害時における発達障害児家族のニーズ
第3章 発達障害児者家族の避難の実際と避難所に対する要望
第4章 大震災後に避難所となった特別支援学校の状況
第5章 在校・入所していた障害児者はどのように避難したか
第6章 要援護者支援マニュアルと福祉避難所設置の方法
第7章 福祉避難所となるにはどのような備えが必要か
第8章 大災害を想定した福祉避難所設置の防災訓練
第9章 東日本大震災からの教訓―私たちにできること


以上

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27日までに、茅ヶ崎市担当課とNPOの意見交流会がある。今回、私は「QRコードを使った医療情報を中心とした個人情報の健康保険証貼り付け」のアイデア提案をしているが、活動として地元で展開しかねているので、今回は見送ろうと思っていた。しかし、昨日市役所から「臓器提供と検体の意思表示シール」と「ジェネリック薬品希望カード」が送られてきて、少々腹がたってきている。後期高齢者保険証に、シール貼り付けの欄がつくられ、大きなシールがついてきたのだった。貼り付けは任意なのだが、保険証注意事項欄の面を利用して、災害時の医療迅速化を目的にしたQRコードシールをと提案したとき、既存の保険証に手を加えるのはどうもという、やわらかな拒絶があったからだった。

それが「臓器提供・検体意思表示シール」に先をこされてしまったというところなのだが、それを排除しようというものではないが、行政が無神経だと思うのだ。この「臓器提供・検体意思表示」は、QRコードに書き込む項目として統合すればいいのだ。

防災の具体提案であるのだが、組織実体を持たない状態に歯噛みをしている。消防署の冷蔵庫保存カードもそうだが、どうしてこうも野暮ったいのだろう。

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A子から泣き声で電話あり。ADHDの子と作業現場が隣合ったらしい。傍若無人のふるまいと、思うようにならずに電話で訴える。彼女にADHDの知識はない。事業所の室長とも話し合っていた。彼女は知的障碍の作業所には合わない。むしろ精神障碍の生活支援の場で、人間関係の再編をしたほうがいいように思う。その未知の事業所への不安が強く、切換に躊躇しているのだが、このままでは、問題が出てくる。明日室長と電話で話すつもりだ。しかし東京は遠い。すぐに相談に乗れる状態ではない。

橋本3君が就労体験を拒否し始めた。親が口に出しすぎのように思える。作業所にカスタマイズされたオーダーメイドのソフトを使うが、私もそのソフトは使ったことがない。今月いっぱいに一回、私の操作体験に職場にいかなくてはならなくなったが、彼の拒絶には警戒している。全くしようもないと言ってもしょうもないのだが。はじめは分類作業と言っていたのに、どんどん私の時間も目減りしていく。

p.s.(参考)
●「自閉症の人たちのための 防災ハンドブック/本人・家族用」(平24・日本自閉症協会)
●「自閉症の人たちのための 防災ハンドブック/支援者用」(平24・日本自閉症協会)


夜間傾聴:なし


(校正2回目済み)

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7/23 広田町朝市開始の情報のショック

2012-07-24 05:01:59 | 引きこもり
2012/07/23 記
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夏期講習相模大野校は、高認・東京会場受験者と学習相談希望者を担当することに。今年は新規採用の時間講師の指導を分担している。定年間際爺ぃの役だ。それでも訪問指導が積まれない分、例年と様相が違う。蒸し暑さがぶり返したから、外勤のない分、楽。

東海新報に広田町の記事が載った。いい話なのに、私の情報ルートから誰もその経過情報を提供してくれなかったことにショックを喰らっている。結局は支援は現地に出向き、状況を共有してこなければ、肝心な情報ひとつも入手出来ないという虚しさである。(東海新報は直接リンクできないので、見出しで検索をして欲しい。)

●「広田町に仮設野菜直売所オープン 日本一の安さ目指す」7/22

JAの盆市のことは、月一回の企画として話はつかんでいた。それが週2回の朝市になるという。外出支援のひとつ、買物支援の必要性がひとつ霞んでくる。私が衝撃を喰らったのは、広田町の方や、支援者の情報から、回復状況が入ってこなかったこと。その内容の質問をしていたのだが、応答がなかったことだ。数ヶ月に一回足を運ぶような状態では、「回復状況が入ってこない。ここをどうするか」これが大きな問題なのだ。

巡回文庫は、その回復状況をつかみ、仮設や被災した家庭の外出困難者のニーズをつかむ契機にしてもらうということで、巡回を定期的に提供することを要としてきた。しかし、SETの三井君のように定住すると腹を決めたものには、そこを通さなくても、話は入ってくる。私の活動計画自身が、被災者の孤立と心身を蝕む状況に対し、緩やかな見守りの眼を日常活動の形で支援し、地域保健福祉のネットワークにつないでいくことにある。このスタンスの接点をどう形作っていくか。「被災者の孤立と心身を蝕む状況」は世間向けの顔でつながる活動からでは、隠されて見えてこないだろう。

ここは医療と行政の専門職の独自活動を根幹とし、支援者たちはサロンと手作業の場作りを通じてつながっていく道をセオリーとしてきた。ところが家族の介護がとくに田舎の場合、老老介護を地縁・血縁で補っていくという形になっており、それが災害という事態の中で、無理と歪みが介護者としての高齢主婦と外出困難なその親の世代に、介護・被介護それぞれの形でのしかかっていること。「よそ者には」という壁のある課題だ。しかし、介護度基準でいえば、「要支援」の方が避難所生活の結果として増えていながら、「外出サポート」が「訪問介護事業者」のサポートやデイサービスの形で接点を再建しようという動きがある段階でも、生活復旧の今は、とても日常生活の不自由さをカバーできるような状態ではないことなのである。

私の母は要支援2だが、週に1回の通所トレーニングに行くだけで点数に、なってしまう。ところがこの歩行の不自由さが、仮設サロンの主役にはなっていない状況がある。家事・家計と農漁業の働き手と介護と孫の世話の中心に、一手に引き受けている中高年・熟年主婦の慰労のためのサロンになっている。それはそれとして意味を持つが、親の世代が在宅孤立していたり、介護度の高い方優先の相談員巡回では目の届きにくい層が私の提唱する外出支援の対象者だ。また、特記の形で保障している認知症発症や徘徊がある方も介護度は低く目に出る。

●「認知症、被災地で深刻化=震災後の環境変化が要因」7/14

ここに入っていく前に、外出支援(通院・入湯・友人訪問・買物etc.)の補助によって、孤立化しがちな方のQOLを上げていく支援を、ローテーションを組みながら支援していくことはできないのかという問題意識があった。ところが被災地を歩いて感じたことは、この「要支援」の方を引きこんだ様々な慰安行事、とくに芸能関連の企画には連れて行かれているから「飽きないから平気」とか、「皆苦しい思いをしているのだから、不自由は我慢してもらわねば」という話を聞くことが多かった。自己選択の乏しい芸能行事への観客参加や、TV視聴で時を過ごすことは、認知症の防止にはならない。

孤立死(高齢者は、自殺よりも病死・入浴溺死のような屋内事故死・アルコール中毒死が多い)は都市型災害ではないかという奈良**MLからの指摘もあったが、地域を解体した知らぬ隣人集団の仮設では起こりうる。また、怖い穴だが仮設コミュニティ活動の活発なそのただなかが、案外死亡者が出る。これはお互いがお互いを見守っていると思い込んでる穴だ。地縁の残っている仮設では、これが起こりうる。

ところが、ここは専門職との協働による活動が必要であったり、短期来訪者の参加をするシステムが立ち上がってこないと、その価値が伝わっていかない。だから地元のケアの専門職の方と連絡を取る必要があるし、ローテーションを組むために、支援者ネットワークを地元・非被災地をつないだ活動を作る意味で、医療ケアの専門職との支援モデル作り常に更新される活動が必要だ。

そのために問題が山積している広田町という定点を作ったのだが、地元手配師というか、コーディネーターと組まないと、話は進まない。訪問時の移動効率化のための私自身の足が欲しい。陸前高田市役所あたりに中古自転車を置かせてもらえまいか。いわばボトルキープならぬ自転車キープである。加えて地元の復旧状況のレポーターが欲しい。そう思うのだ。三井君の場合は、生活支援の上になりたつ就労や援農・援漁・環境整備支援にウェイトがあるので、大きなところで関心がずれている。三井さんは地元訪問者の仲介屋をお願いして、見守り支援を地元熟年主婦の方たちと私が組めないかと思うのだ。一般学生さんの場合は、外出支援の形をもっと定型化してからでないとまだ無理がある。

ともあれ8月広田訪問は急がねばと思う。8月初めは、橋本3君の体験就労へのジョブコーチもどきをやることになっている。お盆前に、湘南から打てる手は打っておきたいのだが。8月下旬でなければ無理か。

夜間傾聴:中学生君(仮名)
     南橋本君(仮名)

(校正2回目済み)


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7/22 県青少年センターから電話が入り/非被災地の支援活動にこだわりつつ現地訪問活動へ

2012-07-23 06:24:48 | 引きこもり
2012/07/22 記
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A子がシアトルに帰って行った。会うたびに彼女は一皮向けて自由になっていくように感じる。A子は華僑の娘だ。台湾語+英語訛りの日本語が日本では差別の対象になって日本では長期間いじめられた。日本に寄るたびに、不登校・引きこもりの痛みは過去のものになっていく。自分の居場所がいかに大切かを感じさせられる。

朝、県青少年センターから電話が入り、「湘南子どもフォーラム懇談会(SCF)」の名簿記載更新の確認が入った。当事者活動の「『わーく』編集部」と、親御さんと支援者、当事者の茶話会、戸別訪問活動」をあわせたものが「SCF」だ。しかし、茶話会は最近成り立たず、「当事者活動+戸別訪問活動」だけとなり、3.11以降は、「社会参加活動としての就労・進学」としての面を強めた。だから「『わーく』編集部」活動に、戸別訪問活動を割り込ませて「『わーく』編集部」とした方が、現状に即している。だから、「SCF」は、今年度いっぱいで「『わーく』編集部」にしていこうと思っているという内容で話を伝えた。A子のはつらつとした後姿を見た後だと、少々寂しいものがある。

「社会参加」というところでいえば、「アンガージュマンよこすか」は商店街の祭りを企画する形で2万人の祭りを行なった。引きこもり青年の力を見る思いがある。居場所と役割が馴染んだとき、その子は脱皮していく。大事なことだ。職員の方とは、私が時間だけは古株であることを理解していないのか、キーワードを投げても、事務的な話に終始。県から通知が来なくなるのかなと少々不安。

セレスタン・フレネが子どもに新聞作りを任せ、取材を通して成長させたという教育学上のフリースクールの潮流は、記者という外部から社会を見る目を育てるという微妙なスタンスを経験的に定式化したが、私がオンラインフレネで提唱してきたのは、当事者の学び、当事者の居場所作りだった。この辺が今の災害ボランティアへの参加や、地元活動として被災ペットの「新しい飼い主さん」への仲介支援通信活動となっている。しかしオンライン上の交流が主となって、実社会への登場は正直言って活発ではない。私の生業が相模原と隣接地域、東京となっている関係もあるが、湘南の活動は戸別訪問活動しか動いていない。

だから整理の意味をこめて、「SCF」から「『わーく』編集部(旧SCF)」へとした方がいいということになった。今、オンラインフレネは私の個人ブログになっているが、位置づけとしては関連企画の研究交流、「『わーく』編集部」は、「社会参加的な当事者活動」としている。

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夏期講習が始まって、午前中、JR相模原の塾の方の中高生を担当した。相模線では大いびきをかいていたらしい。上溝から通っている奴が、私の寝顔を撮影して送ってきた。終点が茅ヶ崎なので安心するせいか、すぐに寝てしまう。

いまごろ、南三陸では高校生の交流会が行われているだろう。しかし、なぜにこの湘南の地で、現地訪問活動と取り結んだ活動が伸びてこないのだろう。「やる気」は個人の意志として「現地で成果を上げていく」。しかし、寄付の形でしか参加できなかった湘南の人々は、参加の仕方も見えなくなって、このまま切り離されてしまうのだろうか。この現地活動のすそ野を耕す活動と現地活動とを取り結ぶ「民間交流」を作っていかなくては、「現地活動」もジリ貧、質も深まらないだろう。

この連携のデザインを描きたいと思う。そのために三井君ではないが、東日本グローバルな被災救援から、一定地域に根を張った支援を形作りたいと思うのだ。

しかし、本当にナース、CCW、CSW、OT、PSWというような医療とケアの関係者の方やその卵の方との連携活動を作りたいと願う。今の生活支援・見守り支援が時期的に大事な意味を持ってきており、そこは眼差しがない方には本当にとことん見えない領域だからだ。明快な交流型支援企画を作りたい。専門職の専門性を求めるというより、それ以前の地域医療看護と地域福祉介護の世界、ケアの世界を感じ取ってくれる方と連携したいのだ。

現地情報が欲しいと何箇所かにメールした。しかし、企画チラシを写したような応答ばかりで、欲求不満が私の中に高まっている。

巡回文庫に話が変わるが、セカンドブックアーチのYさんの言うとおり、本箱を仮設に贈るのではなく、ブックレストの邪魔にならない大きさのものを贈るように、予約発送を切り替えた。

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夕方、眠ろうと思ったら、「暑くならないうちに、庭の雑草を取れ」と指令を受けて、渋々ビニシートに座り込んで雑草取りをした。骨折した膝の関係で、膝が曲がらず中腰ができない。だから座っての作業なのだが、全身虫刺されになってしまった。夕食のあと、虫刺されだらけの四肢を投げ出して、気付かぬうちに畳の上で大いびきをかいていたらしい。無呼吸症候群かなと、ひやりとしている。


夜間傾聴:なし


(校正2回目済み)


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7/21 故・伯母の百ヶ日に参列しつつ/高齢者の坂道と孤独死は特別なことか?

2012-07-22 06:43:18 | 引きこもり
2012/07/21 記
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7月と言うのに,4月下旬の陽気。伯母の百ヶ日だった。母のお供で出かける。伯父・伯母は娘達が交代で実家を支えていた。その伯母が亡くなり、要介護2の伯父ひとり、娘の家庭に同居することを拒否して生活している。心臓にペースメーカーが入っている。夜は緊急電話を枕元に、ひとりで寝ている。娘(私の従姉妹)たちはそれぞれの家の事情を抱えているので、実家に宿泊は出来ない。

四十九日のとき、私には空元気を装っている伯父が痛ましかった。法事の後の食事の輪の端で、話し相手を失ったときにふと見せる眼差しが、実は昨年七月、大船渡市を訪問したとき、男ひとり残された悲しみを隠しきれない方に会った。それは隠し切れない痛々しさを感じさせたのだった。その方は葬儀屋さんだった。ひとの死を目の当たりにする仕事だが、自分の家族となると話は別。この4ヶ月、仕事は全く手がつけられなかったと、私に話してくれた。抜け殻のような身のふるまいが、私の心に焼き付いていた。伯父の表情もそれに似ていた。

虚しさも癒えたか、言葉はしっかりしていたが、墓のある坂の上までは、一緒に上っていけなかった。寺の控え室に、母とふたり、残った。連れ合いをなくしたとき、目に見えるほどに老いることがある。中には後を追うかのような方もいる。予約していた中華料理屋にタクシーで分乗する配車係を手伝って、先に墓から降りてきたのだが、雑然とした控え室に力なく座っている伯父と母を見たとき,この光景は避難所のようだと感じていた。伯父は娘達の家に住む事を頑として拒否し続けた。それは家族と引き換えに、近所の知り合いを失うことだった。家族を失い、見ず知らずの隣人の谷間の仮設に生きていかねばならない。男は不器用だから、家事のみならず、パチンコか酒に身を委ねてしまう。田舎はそれでも年配者でも現役で働いている方が多いが、足腰が弱まると一気に孤立化する。

まだ元気だった頃の父は、留守番を頼まれたとき、昼食用と出された弁当に添えるインスタント味噌汁の具と味噌の始末がわからなかった。具の袋だけ開けて、湯を注ぎ、首を傾げていたが、味噌汁を捨ててしまった。隣人がくれた桃を冷凍室にいれてしまうなど朝飯前だった。伯父もまた伯母に頼っていた人なので、ひとりにしておくのが怖いという。洋式O型便座を降ろしたまま小便をして、便座を濡らして、慌てて周囲に撒き散らしてしまったという。

一見なんでもないことのような物事の累積が、じわりと独居の高齢者を追い詰めていく。広田町仮設は地元人で占められていると聞くが、あちこちの方が集められた仮設とか、みなし仮設の独居の男性は、この孤独に耐えなければならない。伯父とて心筋梗塞があれば、孤独死という事になってしまう。人をつなぎ、人を人の輪の中に置くという事の大切さを感じてしまう。

これは私が以前係わった自閉症スペクトラムの少年を抱える老夫婦の事例だが、TVの中継が近所でやっているというので少年が飛び出して行った夜、心配して探しに出た祖母が帰ってこない、祖父が不安をぶつけるように私に電話してきた。お宅に駆けつけると,ヤカンが焼けている、醤油の瓶が倒れているという状態だった。すぐに交番に連絡を取り、捜査をしてもらったが、自閉症の青年は知り合いのご近所の御宅でTVを見ていたという。ただ祖母が見つからないので、市の緊急連絡放送騒ぎになったのだが、病院に保護されていた。青年を見つけた祖母が青年を連れ戻そうとしたとき、TV収録の場面で青年は出演者ではなく、TVのブーム付きのマイクや、TVカメラに夢中になって、祖母を払いのけたらしい。その力で飛ばされて、倒れたところを見物人に保護された経過だった。

しかし、私は全員が無事でよかったと思う反面、危うく火事になる寸前の御宅、雑巾の場所がわからず、醤油瓶を倒れたままにしていた。幸い怪我は軽くて済んだが、青年も彼の祖父も、全く家事ができなかったから、無理して彼の祖母は打ち身をこじらせて寝たきり状態となり、翌年、骨粗しょう症で入院となってしまった。

高齢者の場合、ちょっとした契機で、転がるように体調が悪化してしまうことがある。被災して、大きな田舎屋に住んでいた方が、狭い仮設に移り、目の前に心配が耐えない。事情があって失踪した青年の父親と、病死の母親から青年の養育を引きついだ老夫婦の奮戦と老衰の駆け抜けるようなケアの結末が、家族の分解と早い老衰という状況を生んでいた。

被災地で子を失い、孫を失う悲惨は、その方の胸の内にしまいこまれたままだが、それを抱えて、人生の最後を駆け抜けている方は、被災地で珍しくないのだから、この老夫婦のように、孤独死といわれることが、特別なことというよりすぐそばにあることのように思えてならない。だから巡回やひととひと・生活をつなぐ外出支援をやるべきだと思う。極端な話を私はしているとは思えない。足腰の弱った高齢者の生活は丸太橋を渡っているようだ。

前を向き前進を旨とする支援もあるが、ゆっくりと連れ添って伴走しつづける支援もある。子育ての時間、高齢者、心身にハンデの有る方のそれぞれの時間に寄り添う支援もまた描かねばならない支援なのだと思う。

今日も、医療関係専門学校をまわれなかったが、被災地に出向かなければ、見守り支援は成り立たないのだろうかと思う。関係者に会いたい。そう思うのだ。


夜間傾聴:なし

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7/20 陸前高田に8/29~8/31に行くと書き込み招待状を作り直した…が

2012-07-21 05:20:58 | 引きこもり
2012/07/20 記
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気温が急に下がり、昨日の蒸し暑さと打って変わって過ごしやすくなった。ただ雨だけが困ったことに、昔のインクジェット印刷の文字をにじませて、急がば回れという事態に。印刷をセブンイレブンのコピー機に頼っているのだが、USBメモリから直接印字ができるのは助かるのだが、コンビニは、コピー原本や取り出したコピーを置いておくスペースがない。下手に置くと濡れてしまう。

事務長がセットした北里大サークルとの待ち合わせは、みごと的外れ。直接面識のある看護学部の女性の某准教授が来ており、この方の情報で医療衛生学部中心の某サークルの関係者は現れなかった。事務長が話の経過をうわの空で聞いていた結果だった。夏期講習が絡んでしまうじゃないですかという私の抗議に、平謝りで、結局、お時間をいただいた、この方と少し学部生にアクセスする方法について教えてもらった。

笑えるのは、教官を通じないことというくだりだった。やはり個人的には何人か東北の被災地に出かけていた。しかし、夏場の実習の件を気にされており、実質何日も被災地滞在するのは難しいという。被災地の受け入れ態勢が整っていないと、自主的にネットワークに入り込めないのではないかという。地元のネットワークと学生をつなぐ、コーディネータが必要という。

休みに入ってしまったが、先方の教官の方のアドレスを紹介してくださったので、私の準備した資料を渡そうとして、ショルダーバッグに手を入れてみて、焦った。中が濡れているのだ。

コンビニのコピーの方は用紙が濡れ、原本の方がインクがにじんでしまった。謝りながら、災害ボランティア活動の「局面」の存在のことが新鮮に響いたようだった。「いまたちはだかっている障壁とはなにか」「いまここで必要な活動は何か」という問いかけのことだった。ボランティア活動は、お決まり・お仕着せの方法があって、それをこなして終わりという、丁度署名活動の名簿に署名するような便乗型、つまり活動の枠がもともとあって、それに乗るか否かというところに自主性があるという限界を持つものだった。

その枠組みを問い、現状打開の方策を考え、実現していくこと、ここのところに専門職の卵がどう係われるか見通しを持つこと、ここが決行ハードルが高い。学園祭のときに、よびかけてみたらいいのではと、例年の段取りを教えてくれた。
企画の際、祭実行委への紹介はしてくださることに。

事務長はまっすぐ相模大野にもどると、先に帰ってしまった。私は「お預け」を喰らった犬のような悔しさを抱いて、ファミレスをでた。

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帰りに茅ヶ崎の社協に行って、ビッグイシューを置いてきた。そういえば、今日はユース・ボランティアの集まりをサポセンでやっているはず、南三陸の高校生交流会に向かうために、今夜ボラバスが出る。岩手の活動をどう結びつけたらいいのかわからない。逆に陸前高田の地域医療介護・見守り福祉にどう協力してくれるのか、いや、甘いなと思いつつ、ただ呼びかけを投函するだけになってしまうが、平塚・立野町の神奈川社会福祉専門学校に行き、警備員の方に取り次いでもらい、残っていた教官の方にお願いして、つき返されてしまった。

休み期間中は、この拒絶や空振りが増えるだろう。覚悟して係わらねばと思う。

陸前高田に行きたい。現状打開の手を打ちたいと思いつつ、家に戻った。今、やれることは何だろう。ともあれ、メールで糸口がつかめるところは、打診を続けよう。

-------

橋本3君から連絡が来た。就労研修にかなり不安定になっていた。今夜、話そうと言って携帯を切ったが、夜通し待っていたが、電話は無かった。

夏期講習と取り出し指導か、まあ頑張りますって。

A子、明日帰国する。

夜間傾聴:なし


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7/19 セカンドブックアーチのYさんと、仮設に贈る本の打ち合わせを/ちとスランプ

2012-07-20 05:42:27 | 引きこもり
2012/07/19 記
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事務長から、北里大のサークルとの日程はいつなのかと聞かれて、愕然とした。最終調整は事務長の空き日程に調整していたからだ。先方に確認メールを出して、事務長が欠席しても会うことにした。

サポセンには13時半からセカンドブックアーチから、巡回文庫用の書籍の具体的な中身の確認をする予定でいたが、このまま事情も伝わらないまま、書籍を渡していいのだろうかと迷った。3月の約束である。片方の仮設は電話連絡がとれるが、モビリアの方は仲介者が消えている状況下、しっかり責任者に挨拶を踏まえておかないと、信用問題が起きそうな嫌な予感が払拭できなかったからだ。

書籍の選択も絞り込まれていなかった。もう一方の仮設にも挨拶がいると思われた。とにかく数ヶ月に1回ほどのピッチでしか被災地に行けない悩みがあった。高田病院にも湘南の受け皿の芽が育たない状況では、面白そうだったら参加するというような講演会では、失礼だ。と考えると、陸前高田にいけるのは、8月下旬に、現地泊なしのバス2泊で往復するスケジュールの中で組む以外なかった。巡回文庫も結局、電話で話せる方だけで、モビリアの方は8月末まで待つことにすると、セカンドブックアーチのYさんに話をした。

ねっとりと時間の拘束が効いている。現地にとって私は何者なのかということのかけらも証明できない屈辱のようなものが湧き上がっては沈んでいく。

茅ヶ崎市のYさんとの話を終えてすぐ、茅ヶ崎市職員の**さんに、茅ヶ崎市の防災議論の中の地域医療の件と、気仙地方の地域医療との比較話をぶつけた。いわゆる都市型の亜種のような地域と、高齢者比率の高い自営産業の主導するローカルな町の地域医療の比較の話だ。参考になることは何かということだ。その話で気がついたことは、段取りや地域医療を育てる基幹活動の進め方のような、行政職員の立場からの関心が強いことだった。ネットワーキングの戦略論的な関心や、例えば大船渡市と陸前高田市との復興についての行政枠を超えた連携などへの関心が薄いとも感じ取れた。市の職員のバイアスだろう。

在宅看護学会の方に依頼をかける場合も、下手に防災をからめて茅ヶ崎市との関連を話すよりも、高齢化社会の典型のような地域の医療に成しうることを焦点化するようなテーマの取り方の方が実があるように思えた。言い方を変えると、共通の課題を具体的に語るほどに、活動が熟していないのだ。今、困難を抱えている被災地の方に、ともあれ助力となる支援(外出支援がそのひとつ)を行いそのでは激励言辞を超えた「持続する民間交流」の実を育てることを通じて、茅ヶ崎に収穫を戻す、いわば仕掛人の裏方ネットを育てていくことだ。

サポセンに戻って、「広田半島通信」の名刺と、「広田町・小友町と周辺の地域支援活動をしている皆様へ」という「活動紹介を送って欲しい」という内容の依頼状Ver.01を作った。このいわば写真版壁新聞(フォトニュース)は、湘南と県の公共施設や、関係組織の事務所に貼ってもらおうと思う。

結局、市内今宿のふれあい系看護学校に立ち寄ることは出来なかった。モビリア仮設にはとにかく電話を確認をする。

保健師ジャーナルは、レポート自身は平板で概括主義だが、テーマ記事は、つまみ食いが出来る。

●「同J/2012.3/ 保健師の質を保証する 地域看護学実習もデルの構築:4単位実習モデル p.226~234)
●「同J/2012.3/ 有事に備える準備力と組織力を p.172~176」
●「同J/2012.3/ 被災地支援覚え書 災害支援のための視座 p.191~197」



<気になる記事>

●「女子生徒に集団暴力 男女7人自宅謹慎 仙塩地区高校」
●「被災児童地域で支える 石巻と東松島に「里親ホーム」新設」

●「2012年、夏/陸前高田・高田病院(上)友のために/彼と最後までいるよ」
●「2012年、夏/陸前高田・高田病院(中)触れ合いの畑/共に耕し、育て見守る」
●「2012年、夏/陸前高田・高田病院(下)タケちゃんマン/瞳の輝き見つめ続け」
●「2012年、春/陸前高田・高田病院(上)父と娘/二人三脚地域支える」
●「2012年、春/陸前高田・高田病院(中)地域とともに/一人一人が運営担う」
●「2012年、春/陸前高田・高田病院(下)新たな芽/「健康外来」地域守る」

奈良**MLからCCW情報あり。夏休みが邪魔。


夜間傾聴:%%%君(仮名:多重債務の怖さを伝える。社会人Uターン組、歯止め)
     橋本3君(仮名:自動販売機が札を受け付けないときは)


(校正1回目済み)

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7/18 地元消防署に罹災申告書等の手続きに行きつつ/在宅看護学会の方との接点が開くか

2012-07-19 05:05:29 | 引きこもり
2012/07/18 記
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地元の消防署に行ってきた。とんでもないところで「罹災証明書」の実物と対面することになった。修繕・改築・増築の記録を問われることになって、困った。歴史が古ければ古いほど、戦前からのことを問われても戦災を挟むと記録が残っていない。戦後とて戦災の余波を受け続けていく。

実際、事故が起きた箇所は天井取り付け型の蛍光灯の安定器の過熱だった。私は真空管時代からの電子工作経験があったので、古いトランスの過熱と白煙は馴染みのものだった。絶縁と熱の分散を兼ねた鉱物油が焦げるときの煙だ。発煙量が多いと肝を冷やす。蛍光灯は消防署が回収。事情聴取のような話だが、応対はソフトだ。

説明書の中でショッキングなのは「仮住まいの手配」という項目だ。市町村の行政、地域振興課・市(区)民課・福祉事務所に相談すると宿泊施設を斡旋してくれる場合があると紹介されていた。大規模災害のとき、この項目は結局避難所ということになる。しかし、あえて問われると、記憶に頼ってきた分、明確な回答が出せないことに焦った。

天井の屋内配線に異常はなく、蛍光灯のみの事故だったので、修繕金額が小さく、保険申請の面倒の方が大きいと判断された。消防署の担当者に災害がおきたとき、被災者にも、これ(罹災申告書)を書かせるのかと質問をした。そのときは、申請があった方に渡すとのこと。保険の天災条項と調査項目から、ハードルが高いと感じた。

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消防車が道を塞いだための営業妨害になったと判断。ご近所さんを回って店長さんや所長さんに謝った。お互いだからと問題化はしなかったが、失火が隣人に被害を与えたら大事になっていた。

今回は罹災証明を使わないが、これが保険を使うことになると申請後、審査が入り、保険が適用されるまで、時間がかかる。天災のとき、被害を受ける人数が違う。その厳しさを改めて感じた。被災地の場合二重ローンがのしかかる方もいらっしゃるわけだが、そういう事情を家庭に抱えている方に、頑張れとはとてもいえない。自営だった中高年の方が再出発出来ない状態になり、職を探した。その結果、未体験の職種に就いたとしても、それを「幸運」と呼んだり、みなし仮設に入居した後、失業保険が切れた段階で、身辺整理がついて職探しを始めたところ、つなぎに生活保護を受けたことが隣人に発覚した時点で、心ない噂を立てられたりするというような、0.4%の不正受給者のために、被災者という重い立場であるにも係わらず、「税金泥棒」というような心ない陰口が拡がってしまったという話も聞いた。


今回思わぬ綱渡りを経験したが、ここに親御さんや、就労不能な家族を扶養しているとしたらと考えると背筋が寒くなった。シビアな問題だから、当事者が巡回相談員の訪問相談を拒否されるのもわかるが、支援者として、もう一歩、被災者に寄り添った支援が出来ないのだろうか。生活支援は就労の土台に係わる支援。だから短期訪問者にも成しうることが、直接支援と間接支援の中間の活動を形にし、新たにモデルを生み出す時期だろう。

私が考えたひとつが「個別支援ベースの外出支援」もうひとつが健常者と連れ添って働く「ソーシャル・ファームとしての地域起業」の具体化だ。

「ソーシャル・ビジネス」との違いは、「ソーシャル・ファーム」は、もともと障がい者の就労支援から生まれた構想だが、ここには明快な社会的ミッションがあり、解決のために実行される社会的意味を持たせた活動が既存企業への就労を超える。

これに対し「ソーシャル・ビジネス(カンパニー)」の場合は、思いつきを含んで、その活動が結果的に、社会的に有益である仕事となる場合も含んで「ソーシャル・ビジネス(カンパニー)」という。そこに目の前の解決すべき課題を抱える必然性はない。しかも本来から、企業活動は社会的な貢献の意味合いを持つ側面があるため、営業として社会的課題を利用する場合とも「ソーシャル・ビジネス」と呼んでしまう。だから私は「ソーシャル・ファーム」とあえて言う。

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挨拶を終えて、私は戸山町に急いだ。岩手県のJDF(障碍フォーラム)との接点作りのための参考資料が欲しかったからだ。結局こちらは連絡先と、陸前高田を訪問する際に、(推薦は出来ないが)紹介してくださるということになった。

もうひとつ、別ルートから、日本在宅看護学会の評議員の方のひとりの連絡先がわかった。こちらは、秋の講演会のために、早急にアポをとることにした。陸前高田市の広田半島復興に関連した構想をつかんでおく必要がある。

**子の通院する++病院は脳外科・神経科の有名な病院で、病棟は、すでに夕食の時間だったが、内科病棟に知り合いの看護師を訪ねた。日勤が終っていたが、JDF関係の医療関係者がこの病院にいらっしゃるので情報を得つつ、仲介をお願いできないか頼んだ。仲介は無理だが、接点の持ち方は知ることができた。医療講演会だった。担当関連障碍としては身体障碍なので、私の係わってきた障碍区分とは別の方だが、講演会に参加するために、日程調整をすることにした、しかし、9月なのだ。時間が浪費されていくことに、知人の後姿を背に両手を合わせて、祈るでもない掌に力をこめていた。これは伏線の一本なのだと、自分に言い聞かせていた。

手がかりが少し開けたのに、ちっとも気が晴れなかった。

相模大野校の「有料の」コピーを使いながら「私たちの活動履歴」という「広田半島周辺地域の医療看護と介護福祉への参加」招待文に添える文書を作った。「こいつは何者だ」という疑問についての自己表明になると思っている。

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ビッグイシュー誌、届く。

明日、昼間、セカンドブックアーチのY君と会う。その後、看護学校1ヶ所巡回予定。

橋本3君の訪問学習あり。


夜間傾聴:**子君(仮名・傾聴1時間、少々疲れた)
     A子君(仮名・土曜日に帰国とのこと)


(校正2回目済み)

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7/17 消防署の電話に起こされて/医学書院と障害フォーラム

2012-07-18 05:11:12 | 引きこもり
2012/07/17 記
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午前9時、母の携帯が突然鳴った。東京の消防署からだった。我が家の生業の事務所がボヤとの連絡。母が慌てて私を起こした。それと間もなく、事務所の社員から私の携帯に電話が入った。双方の話をあわせて見ると、入口からすぐの天井の蛍光灯から煙が出たので、119通報して、現在は鎮火してその部分のみの被害で済んだとのことだった。ともあれ来て欲しいとのことで、状態が急場を凌いだことがわかった以上、訪問指導が済んでから事務所にいくと連絡し、事務所には夕方着いたのだった。

建物が古い。内線が漏電していると工事費が高い。冷や汗をかきながら、天井を眺めた。蛍光灯が本体全部はずされていた。消防署に連絡すると、火元は蛍光灯の中のトランス(安定器)の劣化とのこと。助かった。しかし明日、罹災証明書や聞き取りがあるとのことで、消防署に出向かなくてはならなくなった。

しかし立て込んでいる地域の1軒である。燃え広がったら大事だった。定期点検が秋に控えていた。

今日は訪問指導が終わったら、小田原を歩く予定だった。すでに17時を回っていたので、方針転換して、本郷三丁目からすぐの医学書院に連絡をしてみた。営業時間が過ぎていてだめだったが、神保町の特約店を教えてもらって、

●「保健師ジャーナル 2011/09 初動 東日本大震災の被災地支援」
●「保健師ジャーナル 2012/03 東日本大震災から1年」
●「訪問看護と介護 2011/09 災害と地域ケア」

を仕込んだ。日本障害フォーラム(JDF)のいわて支援センター(陸前高田市竹駒)の方は、直接講師探しをすることに、障碍者の被災の件である。

こちらは、湘南の見守り支援活動の定点を作るための活動。JDFは共作連から生まれたネットワーク。講演会講師要請と同時に、被災地と連携した地域活動の芽をさぐる意味を持っている。

YMCA情報を探ったが、時間切れに終わった。

明日は午後、消防署で油を絞られる。119通報の状態連絡が上手く行っていなかったのか、消防車が4~5台来たために、通りに面した商店の販売が妨害されたとのことで、ともあれご近所さんに謝罪巡回する。時間が間に合えば、本郷三丁目か春日の医学書院か、戸山町のJDFを回ってくる。

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帰りに相模大野校に立ち寄った。明日は午後に夏期講習関連の会議があった。どのみち休む予定だったが、専任から「おや?外勤ですか」と聞かれた。相模原の塾とのふたまたは、すでに庶務に届けてあるので大丈夫なのだが、講師レベルでは「外勤廃止」とのお達しがあるので、面倒になりかねぬ話だった。こちらにも火をつけられては、かなわないので、消火活動をしてきた。

夜間傾聴:中学生君(仮名・母親)


(校正1回目済み)

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7/16 いじめと傍観者/「絆」という情緒一致の虚しさ/はて面妖な

2012-07-17 05:44:22 | 引きこもり
2012/07/16 記
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A子は、今週一杯、日本にいてシアトルに帰る。アジア系在日の関係の支援をしてきた塾長たちのルートの関係者のところをまわっている。私はこの関係の支援活動は、したことがないのだが、A子のように日本語の壁からいじめ・不登校の道に入り込んだ子や、帰国子女の関係で、やはりいじめ・不登校になった子の学習指導は、してきたことがある。最近大津中のいじめ殺人(自殺とあえて言わない)がクローズアップされて、「いじめ」の残酷さが語られているが、ひとの差異を理由に、ひとをさらし者にする苦痛は、不登校・引きこもり当事者にはその痛みが生に感じられることだろうと思う。

いじめは重層的で、正義が悪を裁く視点で切ると、表層的になってしまう。学習指導という「無念を受け止め、そこから再出発する道を探っていく作業」をしながら、臨床心理屋が抱える同じ矛盾を歯噛みしている。いじめといじめを容認している社会へのごまめの歯ぎしりのようなことである。

A子との話でも語ったのだが、災害ボランティアをはじめたのは、圧倒的な津波の破壊力の前に、あらゆる庶民の生活のすべてが無残に無に返されてしまったことへの憤りであり、生きていく事の厳粛な価値のことだった。家や車が流され、流れの木の葉に翻弄される蟻のような人の断末魔の映像だった。

ここに帰ると、それでも生きていかなくてはということに出会う。よりひどいことがあるから我慢せよというのではない。「苦しみの中で、今自分が手放そうとしているもの」の「価値」の話なのだ。放射能汚染及ばず福島原発事故以前と観測値は同等であるのに、がれきは、永久処分場予定地の住民に拒否される。沖縄の基地の撤去の議論のときに、軍備必要という方も含んで、本土分散はどこも受け入れを拒否していた。だからなおさらに、「絆」という情緒的な言葉に踊ることは虚しいと私は感じている。そこによこたわる閉じた心のばらばらの合唱が聞こえてくるように思うから、ひとりひとりが自分の声と言葉で意思表示していくことの大切さを感じているのだとA子に言った。

しかし実は、こういう思いを胸に、言葉を発している方となかなか出会えない。あえば政治団体であったり、社会階層・業界の利益代表であったりして、底に属さない私はなかなかつながれる相手と出会うことが出来ないでいる。そこは政策協定のような発想で、約束で結びつくということが現実的なのだろう。ところがそこには、提携することのメリットがなければ、お互いが結ばれないという壁がそびえている。私は自分の塾という砦を壊した。それ以降は結ばれては消えるような関係のなかにいる。出会った人は貴重だということをA子に伝えようとしていってもA子の心の辞書に無い言葉を発しても無駄という、脳裏の言葉に制止された。

昨日から、医療看護・介護福祉関連の専門職の出版関係から、専門職の方にアプローチ出来、ふたりにメールをだした。おそらくは応答がないだろう。しかし、広田半島を中心にした生活支援について、既に入っている現地訪問支援の大学関係者以外にも、「外出の個別支援」というキーワードと、中長期地域保健医療と福祉の構想を作り上げる意志の存在は伝わると思う。その程度までは言葉の力を信じている。

この複数の専門誌の編集委員への面会依頼を専門学校巡回と平行して行って行こうと思っている。夏期講習の空きを使った活動になるが、そこをはじめていく。また茅ヶ崎市との関係課との懇談の申し込みは、今回参加をしなかった。私の声は、ある活動の代表的な語りではなく、実質個人の語りだからだ。

私の呼びかけの弱点は、非被災地において展開し、被災地と連携できるプログラムの具体性が弱いからだ。また、被災地に展開するモデル地域の構想がラフスケッチでしかないからだ。私には刻々と変化している被災地の支援活動の局面が見えないために、行政や支援団体のレポートと、数ヶ月に一度の現地訪問体験から考えていくために、もう一歩具体性を帯びた提案を書ききれないでいるのだ。

私の次の訪問は8月下旬になるだろう。3月に被災地の方と約束してきた巡回文庫などの約束も、車の譲渡で6月に延び、文庫はもつれ込んで8月に入り込もうとしている。様々な協力者の事情のずれから起きた結果だが、約束から半年近くの時が流れてしまう。下手をすれば契約が無効になってしまうかもしれない、綱渡りに入ってきている。

また文庫が実現しなければ、私は何者であるかを明かす際、現地活動に何も言えないのだ。次の活動へのステップが踏み出せないでいる。それに半年が浪費されているのだ。こういう状態で、活動が実を結び始めるころには数年が軽く過ぎてしまうだろう。

私の提案している社会的弱者の孤立化の防止と、生活支援の諸活動は、自殺を含む孤独死や、高齢者の生活と医療の状態の悪化が、被災後2年目あたりから極端に目立つようになっていくという意味で、対策はまだ遅くはないのだが、フットワークの軽い現地滞在連携者と、非被災地の、活動の価値を共有できる同士を早急に得なければならない。それには労を惜しんではならないのだ。

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故伯母の葬儀の後、伯父が独居になっている関係で、子どもつまり私の従妹から相談を受けていたのだが、今入っている電話に非常連絡装置を付けている形から、胸にぶら下げている非常ボタンのサービスを紹介していた。

ところが伯父はペースメーカーを付けているので、その装置は危険だという話となり、私がペースメーカーとの距離をとれる足首のバンド装着や、腰のベルトアタッチメントがあると説明してきた。しかし一度嫌と言ったら、後は何も聴かないという昔からの態度がまたあらわれたことに、少々うんざりしている。私がパソコンを扱う時間が長いというと、年甲斐ない、やめなさいといわれて面食らったことがある。伯父・伯母にはパソコンはゲームなのだと後で知った。こういうずれが起こした拒絶と思ったが、最近、別の利用者の話を聴いた。(消しゴム2つくらいの大きさなのだが)こんな小さな機械では電波の通りが悪いからやめておけという隣人の忠言があったとの話を聞き、笑うに笑えなかった。伯父もまたそんな調子なのだろうと思い、従妹にその迷言のおかしさを告げ、私は手を引くことにした。申込用紙を従妹宛に送った。

高齢者の支援をするとき、この手の話が頻繁に出るので、今まで家族の介護以外の高齢者支援は、特養の手伝い程度だったが、この手の話には、慣れがいる。

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連休最後の日、平塚図書館に書籍更新手続きに行って、茅ヶ崎駅のホームで平塚図書館の開館カレンダーを見て愕然とした。休館なのだった。他館では連休の際、休みの月曜日は開館し、翌日の火曜日が休みになっている。そのつもりでPCと借りていた書籍をかついで出かけたのだが、平塚市立図書館が断固月曜日が休みなのだ。駅から遠い図書館なので、ホームでHPを覘いてよかったのだ。

本を抱えたまま、辻堂駅に移動し、テラスで買物をしてきた。本来なら北里大サークルのメンバーと会うための第二候補日だったのだ。浜降祭の雰囲気は、辻堂駅南口のお囃子だけで、何をやっているのかわからない内輪の祭だなと感じていたが、北口に出てみるとえらい人だかり。駅前広場でライブがあるらしい。携帯を出しているわけでもなく関係ないのに、会場整理係から撮影禁止を言い渡されたり、ロープで大回りさせられたり、不愉快な目に遭って買物を済ませた。

母に連絡を取ると、「てんや」で天ぷらを食べて夕食を済ませようと提案があり、その店内では2人席がいいので待つと言ったら、たちどころに忘れ去られてしまった。30分も過ぎた頃、老夫婦が2人席に案内されて限界に来て、私たちが忘れられていると告げた。既に座った老夫婦を立たせようとするので、非常識なことをするなと怒って、老夫婦に先を譲った。それから15分、私たちは待たされて食事を下が、気分が悪かった。担当のアルバイトの子が、知らん振りをして店長が謝っているからだった。案の定、食事後のお茶のおかわりは至難の業、誰も私たちの方を見ないし、近づかないのだった。声をあげ店長が飛び出してお茶を持ってきた。レジはその女の子だった。さすがに、失礼しましたと謝ったが、母からお前が嫌なのだよといわれて、そういえば何回もこの手の無視で、注文をせずに店をでてきたことがあったなと思い当たり、なんとも胃の腑の悪い気分で帰宅したのだった。1時間が最長記録だ。笑えない、しょうもない話だ。

明日は、母の担当のケアマネさんと施設担当者同席で、スポーツジム的な施設と利用契約を結ぶ。その後、専門学校周りを再開する。だから近場をまわるつもりだ。

**子から電話が来なくなった。親御さんにレポートをだしたからだが、彼女の嘘がばれたことも大きいのだと思う。しかたがないなあと思いつつ、少し黙っていることにした。この手のことは、**子、細かいのだが。

約束違いで、家事援助の++さんが突然やってきた。私の苦手な裁縫など、母のことを介護度とは関係なくお願いしている。母は以前自転車事故を起こしており、手首を骨折してから細かいことが出来なくなった。書道の師範も小遣い稼ぎもできなくなった。お弟子さんのネットワークは健在だが、プライドが許さないのか、疎遠にしている。そんな関係で必要が生じたときに、家事援助を頼んでいる。しかしこの蒸し暑さ、私の部屋の襖もあけたので、++さん絶句してしまった。本のケルンと、チラシや新聞の山が見えてしまったからだった。鶴女房男版ではないが「見たな」である。今回の車の譲渡で山はだいぶ減ったのだが、遭難しそうなのは変わらない。

++さん、以前私と同業者の身辺介護をしたことがあって、そこでもこうだったという。無駄な紙ごみはない。私にとっては、分類にもかけているのだが、書籍やらファイルやらの書斎は、ゴミ屋敷に見えるらしい。雑誌が一冊もないことに気がつかないだろうなと思いつつ、とんでもない連休は過ぎていった。

夜間傾聴:橋本2君(仮名)
     中学生君(仮名・質問のみ)


(校正2回目済み)

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