湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

ビッグイシューカップ麺600食到着/新潟伴走舎Sさんからお便りがありました

2010-01-30 05:35:52 | 引きこもり
ここ数日、糞尿まみれまでにはならないが、夜間の父の転倒が激しくなって困っている。生活が昼夜逆転しているので、午前中と夜間の2回パターンで恐ろしい転倒が繰返されている。父は朝食をとってしまえば、昼食でもう一度起きるが、午後はぐっすり眠っているために、転倒を免れている。階段下にバリケードを作っておけば、階段最上段に出てくることも、まずなくなった。階段はむしろ夜間早朝の勝負となった。

入所予約のために、以前申し込んである市内の施設のダメ押しをした。1ヶ所は、認知症はOKだが、暴力は困るというところで、父はボーダーの状態。もう1ヶ所は、認知症の重症者受け入れの場所で、父のようないわゆるまだら惚けの状態では、本人の落胆から暴発しそうな施設。もうひとつは、職員が若いため、若手をなめる父の性格からショートステイのときも、指示に従わないとイエローカードを振られているところだ。いずれも身体の困難と認知症の困難とが総合的に把握されておらず、困難の実像がお互いにずれており、その溝が埋まらないという歯がゆさがある。

市外の2ヶ所はこれから回るのだが、とにかく行動の自由時間が数時間に細切れにされるために、父の転倒対策の応援者を事前に組んでおかないと、対応が出来ない。昨日は、やっと留守番を頼めたのだが、そこに月末というのでケアマネさんが昼過ぎに現れた。巡回と県庁に用事があったので、市外入所相談訪問は流れてしまった。

来月はショートステイ2泊3日が2回組まれることになったが、父の転倒について新たなサポート案は、何も出なかった。むしろ現行のサポートに問題が起きていないかということに訪問の目的が置かれているようだった。父との裸の格闘も「エプロンつければ」という笑い話になってしまう。爺ぃが裸でエプロンつけたら、「隣の工事職人、転落事故だよ」と応じたもののうんざりが正直なところだ。祖母の介護の代からのお付き合いの方である。しょうもない話になるのだ。

------

特養ホームから、職員の車に便乗して辻堂駅に出た。不便な場所にあるので、これは助かった。横浜に出た。雑用を済ませて「わーく」の講演会の候補に県庁を回った。ついでに横浜職安に立ち寄り目的の人物に会うことができないまま、北村年子さんと会う場所を覗いて見た。案の定、私の柄に似合わないフランス料理のコースの店だった。帰りに寿町に回ろうというのに、これは嫌だ。私の知っているデピスという自然野菜レストランがあるので、そこを狙ったが、店を訪ねてみて、会う時間が休憩時間で、店が空いていないことがわかった。品よく、かつ私のユニフォームでも大丈夫な場所はないかと回ったが、軽食が食べられる場所という条件が付くと日本大通り周辺は店がなかった。

結局食事の方は堪忍してもらい近くのカフェを頼むことにした。

-------

水曜日の湘南あすなろ会は年間予定表が登場した。フリマや行事に出来るだけ参加販売していこうという思いから作ったのだが、それには実行委参加が必要になる。難しいかなと思いつつ。

ビッグイシュー・カップ麺600食が木曜日に、ホームレスへの炊き出しなどの支援をしている茅ヶ崎カトリック教会のHL支援の会に到着した。箱にして50箱。ビッグイシュー東京事務所から木曜日に企業が発送すると聞いていたのでびっくり。なかなかの量だと、HLの会の方からの電話が入った。一平ちゃん焼きそばは、ポルト湘南(グループホーム)へ、一平ちゃんカップ麺は教会保管となったとか。あすなろ会は仲介しただけだが、ちょっと嬉しい。「便り」に、「仲介しました」と記念写真を載せようと目論んでいたので、肩透かしにがっかり。

------

サポセンのベンチ修理の仕事も無事終わった。(写真:完成品。撮影益永さん)この手の仕事が、あすなろ会が請負えるようになれば、活動がひろがるのにと思う。しかしビッグイシューの購入者の投稿が朝日新聞に出たり、関係解説記事が出たりした影響も出て、なかなかすごい。一日で50部をふたりで売り上げた。当事者のおふたりさんは、いまのところ順調である。よければよいなりの悩み、どうか酒が誘惑しませんように。親父年齢の活動ゆえにの悩みではある。

-------

新潟の伴走舎のSさんからメールが届いた。ブログを読んで下さったようだ。恥かしいが、思いを伝えたい。Sさんに2通もメールを送ってしまった。Sさんに仲介していただき、以前、歯科技工士の高橋さんを発達障がいを越える就労紹介の懇談会に招いたことがあった。そんなことでご厄介になった方である。

私の語る引きこもり青年の活躍の様子が見事な映像(ニュース)となって紹介されている。ご連絡感謝。このニュースを、皆様にも紹介したい。


●沼垂よりどころ2(新潟・伴走舎の活動紹介)


夜間傾聴:橋本2君(仮名)

(校正2回目済み)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時間細切れのまま、用事も断片的に進んでいく

2010-01-27 15:20:01 | 引きこもり
北村年子さんから電話連絡が入った。前回と異なり、静かな落着いた語りに普段の北村さんのお人柄を感じ取った。前は私の主導癖がいけないのである。著書を読み終えて、場数を踏んだひとの視点にルポライターの骨頂を見たのだが、子ども夜回りの子どもを見る路上の方々のせつなさの眼差しが、なぜか出てこないことに気がついた。子どもに寄り添い、子育ての親に寄りそう視座が明快ではあるが、夜回りされる側の当事者と生活支援をしている方との連携の道が見えてこなかった。DVDでは、当事者川口猛さんの人生を聴く場面が設定されているが、路上に押し出されているが、彼らは今も生きているわけで、どのような絆を結んでいくのか、私は知りたくなった。

勿論、電話ではそこまでの話は無理である。横浜で軽いお食事をということになった。父の緊急呼び出しが入ったら、おじゃんである。母に柏手(かしわで)を打って父のフォローを頼んだ。

-----

ビッグイシュー東京事務所では、近々当事者さんと千葉の旅行企画をたてているという。当事者さんの国際サッカー大会があったり、路上パフォーマンスや写真展があったり、余暇活動も活発である。なかなか、そこまでは湘南あすなろ会の活動が膨らんでいない。すごいなと感心しっぱなし。

ビッグイシュー・カップ麺計600食50箱を茅ヶ崎カトリック教会のHLの会とポルト湘南(グループホーム)に仲介した。その麺を賛助企業が今日発送するという連絡が入った。明日か明後日到着する。HLの会の関係者に連絡をまわした。

昨日、東京事務所の本誌管理担当の**さんから電話が入った。携帯電話でバックがなんとも騒々しい。私の声は教員だと言うのに鼻声なので、騒音下では掻き消えてしまう。授業のとき生徒さんをいつも困らせている。行き違いが怖いのだが、第1回目の135号追加分発送確認と、それにかぶって追うようにまた追加分を同数頼んでいる。この辺の確認だったのだが、さあ伝わらない。大声(のつもり)を出して伝えるが、むせてしまう。さあ、相手は混乱…。携帯をかけるときは、静かなところに移動してかけてくださいな。

今日、追加分第一号到着。Tさん、サポセンベンチ修理請負中のところで分担。販売よろしく。

販売員紹介のコラムに、あすなろ会の当事者さんが載る可能性あり。

-------

父の検査の結果が出て驚いている。A1Cが劇的に下がっている。私の食事療法以外の母の横槍の間食が、母の外出や、不調などで2ヶ月弱、間食が減った。その効果と読んでいる。

しかしその検査結果が実際の父の状態とは、実感がかなりずれている。そのひとつが足の麻痺と歩行困難の悪化であり、まだらに明るくなった意識の背後で加速する短期記憶の喪失だ。

母と話した。奇妙なものだ。転倒や糞尿まみれの対策をしている身にしてみれば、その状態が軽くなるのは結構なことなのだが、完治しないことがわかっているので、長期戦になるという憂鬱がのしかかる。検査で「劇的」に改善といわれると、馬鹿野郎とどなりたくなる。屈折してるなあと思う。

とにかく立小便をするときにズボンを濡らしてしまう。それを脱ごうとして転倒する。加えて今までは起こらなかった事態、寝小便が頻繁に起き、その都度ベッド内で下半身を脱いでしまう。トイレに早く出たいがために男性器を紙パンツから出しておく習慣が始まり、その結果ベッドとトイレへの通路周りは漏れた尿で水浸し状態になってしまう。悪臭は階段の煙突を降り、玄関先から庭先、家中に広がってしまう。当人にはその匂いが分からない。とにかくトイレに排泄し、紙パンツは応急のものと考えを変えない。トイレのバケツの中に尿取りパッドを入れてしまうために、下水道に流せなくなり、取り出し処理に悪戦苦闘しなければならない。そのことを説明しても通じない。介護者にしてみれば、そのくらいの協力はできるだろうとなってしまう。お盆の上に汚れた尿取りパッドを乗せるひとなので、伝わるはずもないのだが。

昨夜は2時44分に転倒騒ぎを起こした。以前元気だった頃、父はベランダから汚物を投げた。その習慣か緩い便が溜まった尿取りパッドを紙パンツから引き出し、ベランダに向かって投げた。室内は糞尿の一列の跡が残り、拭けば黄色いシミが残る。キッチンペーパーをそっとかぶせ、水分を吸い取った。父は立ち上がれずにあがいた。背面から父を抱え込んで抑制するが衣類自身が尿にじっとりと湿っているので、私の胸に尿がついてしまう。椅子に座らせるまで、父の体重と抵抗の力に汗をかき、それが眼に入り眼鏡を落としそうになる。大声で傍らの母に眼鏡を治させる。

椅子から父は投げた尿取りパッドを外に投げなおすために、前かがみの突進をして、糞が飛び散った紙を踏み散らしては、糞の上に倒れてしまった。また起こす戦争が入る。こうして4時ごろまで悪夢のような戦いが続いた。

朝8時には朝食を出し、8時半には階段介助のヘルパーさんがやってくる。9時前には、デイサービスの迎えの車が回ってくる。母は東京の主治医が11時診察というので、父が出て行くとすぐに出かけて行った。私は部屋の清掃を行い、とにかく仮眠を取ろうと横になって、隣の家の8時前からの工事の騒音に悩まされつつ横になった。

ビッグイシューカップ麺到着準備の電話が入り、連絡をまわさねばならず、結局、来月の父のショートステイ日程調整やら何やらで眠ることが出来なかった。これが最低週2回は続く。検査の結果が良かったという言葉ほど、協力につながらない医療の現状を表している。

深夜のシャワーは窓をぴしゃりと閉める隣人の抗議があるので清拭し、6時を待ってシャワーを浴びる。全身が脈打ち、四肢がつってしまう。芍薬甘草湯という鎮痛解熱薬を使って弛緩をはかり、ぬるいシャワーを浴びる。父は疲れていびきをかいて寝ている。母も無言のまま床に入ってうづくまっている。

父と母を送り出して、山のような洗濯物を洗って仮眠に失敗。中央林間君(仮名)の傾聴は明け方、四肢のつりを緩和する最中にかかってきていた。私の仕事がこわされていくのを体感して無事に乗り切ったが、これが本当に先方の危険なときだったら、どうなっていただろうと思う。

-------

とにかく時間が細切れにされてしまうので、事務的な用事が成り立たない。加えて気持ちにゆとりがなくなる。

女性センター会議室の解約をしに行ったときだった。珍しくブレザーを着ずに、茶色いセーターにコートをはおって出かけた。トレードマークのフランケンシュタインの白髪爺が解約にきたので、さて先方が焦った。解約は経験しているが使用料還付手続きをやったことがないメンバーなのである。待たせる最中、ここに「企画中止のため」と書き込んでください「ね」といわれる。「わかりますか」といわれる。その都度、かちんとくる。右目が全く見えないので、眼鏡を交換したのがいけなかった。「無理なら書きますよ」である。父ではないが尿取りパッドを投げたくなった。

還付金は8割になってしまうので、口座に届くのは遅くなりますが「大丈夫ですか」である。5~600円の金額で「大丈夫ですか」はない。もうひとり目の大きな若い男性は、緊張して私をにらみつけている。しっかり名前を確認してセンターを出た。

山のような買い物袋を担いでバスに飛び乗った。「足元ご注意ください『ね』」のアナウンス。悟り開いていないなあと思いつつ、戦場の我が家に帰ったのだった。

とにかく父を迎えたら、母が1時間後に帰って来る。階段下にバリケードを作って、あすなろ会の定例会に出て行く。


夜間傾聴:中央林間君(仮名)



(校正1回目済み)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

後始末続く

2010-01-26 14:38:22 | 引きこもり
母は本調子ではないから、藤沢から帰ったあと布団に潜り込んで寝てしまった。家事の応援に母の知人親子が、様々な支援をしてくれている。母が衣類のサイズ調整の縫い仕事を頼んでいたらしい。さすがにそこまでは私も中身が分からない。電話の応答に困っていると、庭にばさりと大きなものが落ちる音がした。

急いで電話を切って庭に飛び出した。以前、父が濡らした毛布をベランダに干そうとして、危なかったからだ。しかし今回落ちたのは、風に飛ばされた断熱シート。隣の家の工事の壁材だった。困ると工務店現場監督に文句を言って玄関の扉を開けたら、母が焦って私に2階へ言ってくれという。父の呼ぶ声がする。部屋に駆け上がってみると、ポータブルトイレバケツに手を突っ込んで、今まさに倒れる寸前の父が、身体を屈してもがいていた。

上着とズボンを急いで脱ぎ捨てた、父は倒れそうである。

間一髪、私の身体の上に父が倒れてきた。生臭い吐息と糞尿まみれの手が私をまさぐっている。硬く眼を閉じて、父を全力で押し上げた。

還暦男の仕事かいと自嘲しながら、父を椅子に座らせて、アルコール紙タオルで応急の清拭。下着一丁のまま、汚れた父の衣類を風呂場に持ち込んだ。タオルをしぼって電子レンジで暖めて、さて持って上ろうとすると、また父が私を呼んだ。何かまたやったらしい。そこに母を訪ねて玄関先に稽古事の友人が訪ねてきた。私はパンツ1枚状態である。

父の呼び声が大きくなったので、ええいままよと裸のまま、客人の前を駆け抜け2階にあがった。客人の小さな悲鳴が聞こえた。

父はベッドに腕を挟まれて、下に倒れていた。足元にTVのリモコン。足がリモコンボタンを押していた。私の指示を聞かず、ベッドに戻ろうとして倒れたのだった。リモコンは危ないので、父の見えないところに隠しておいた。それがいつの間にか引き出され、父の操作しやすい位置に置き換えられていた。先日の父が怪我をさせた母の知人のしたこと。扱いやすいようにと、リモコンを引き出してしまったのだった。

背もたれを上下させるスイッチが入り、くの字に曲がる部分の指ガードを押しのけて手首奥まで手が挟まっていた。立とうとして手を押し込んだのだ。冷や汗をかいて位置復旧し、焦る父を制止して腕を引き抜いた。父もそうだろうが気持ちはぼろぼろだった。利き手の手首である。ここをやられたら、父はダルマ状態になる。手首では入院させまい。

清拭を済ませ、湿布薬を塗り、今着替えさせた衣類がまた濡れてしまったので着替えなおさせた。布団をかけて休ませたが、私はパンツ1丁のまま、風呂場でシャワーを浴びて着替えたところで、先ほどの訪問客のことを思い出した。近所の方だと母が言う。困ったねえ、誤解しているよと母。私の頭がおかしくなったのだと思い込んでいるらしい。慌てて帰ったから、お詫びに行って来ると母。かまわない、どうせ私は頭がおかしいのだから、噂で勝手に炎上すればいいと押し留めた。祖母の末期のとき、父の異教の祟りと触れ歩いた御仁である。母が何を言おうとそれがまた噂の種になる。人権意識の低いひとには、何を言ってもだめなのである。

これでは、母が復帰しても、先がやられるのである。

父は尿瓶の用意をしてくれと、一見まともな意見を出してきた。尿瓶はもっと足がしっかりしていた一昨年、試してみたが、萎縮した亀頭が始末つかず周囲に大半をこぼし、また尿の溜まった尿瓶を、肢体の向きを変えること事態が潤滑ではないためにこぼし、ベッド上はびっしょりと濡れてしまった。何回やってもグリップの衰えた片手を使わざるを得ず、最終的に無理と判断していた。父はことあるごとに尿瓶というが、その経過の最終確認まで本人が結論付けたことなのだった。それを忘れて初提案に戻ってしまうのだ。認知症の仕業である。

私も溜まった巡回仕事と、県立図書館への返却があって、相鉄線経由で巡回先を回った。本田由紀氏の著書を借りた。つまみ食いである。ハローワーク藤沢に立ち寄ることが出来なかった。講師依頼の訪問も積み残されている。それは、今日これからの3時間勝負。階段下にバリケードを作って、出かける。


夜間傾聴:多摩センター君(仮名)から連絡あり。私が続けられない説明。規則の話をする。気が重い。
     ******君(仮名)


(校正1回目済み)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1週間の地獄でした

2010-01-25 10:56:37 | 引きこもり
一昨日の父の爆発事故の余波は、丸一日続いていた。防水シーツは乾きようがない、お盆の縁にへばりついた便には、さすがに参った。お盆を2枚捨てることにした。高齢者の腸の活動は弱まる分、便秘をしやすい。その結果、宿便化した肛門に近い部分の便は、丁度栓をかうような状態となるために、栓がはずれた後は爆発が待っている。この状態を先読みした行動が、知力の衰えた父には出来ない。息苦しさに荒れ、爆発自体に焦る、この結果が最悪の寝室汚染を生み出す。時間構わず漏れた紙パンツを脱ぎ捨て、噴き出した便で周囲を復旧不可能なほどに汚してしまう。制止すれば汚れた手でつかみかかってくる。落着くのを、ただ、見ているような状況が繰返されている。

すでに状態は、紙パンツではなく、おしめの状態なのだが、おしめにすれば、ポータブルトイレの排泄が出来ないから、引きちぎってしまう。入院中は、某病院では小花柄の拘禁衣(つなぎ)を着せられていた。身体抑制は本来禁止なのだが、父のパワーでは看護師が怪我をする。知らぬ者にはそれが拘禁衣であることがわからない。小花柄のカモフラージュ、よく観るとチャックに鍵がかかっている。手足の拘束はない。

幸い母が回復して、この1週間にたまっていた用事を済ませるために、藤沢駅前に出て行った。母が前後一日の休息を含んで7日間寝込んだ影響は大きかった。精神的なダメージというより、長期戦の身体的な疲労がのしかかってくる。生活が簡単に吹き飛んでしまう。加えて父の緊急避難がうまく行かなかったことが重なった。我が家の出来事はデイサービスの繰り返しでは、解決しない事態なのだ。母を入院させれば救急枠が使える、という最後の一手が残っていたが、母がそれを拒んだ。後遺症治療が三箇所に散ることが嫌だったことや、近隣の病院の病棟の実態を知っているからだった。

我が家に隣接した土地では新築工事が2軒始まっており、午前中の騒音が昼夜逆転生活の眠りを妨害した。これも泣きっ面に蜂の状況を生んでいた。庭の大半を日陰にしてしまったが、家屋の距離から日照権主張は無理とのことで、既に庭師から松が枯れると宣告されていた。

ともあれ母の回復で、一応の休戦状態に戻った。

巡回予定がたまっているが、まずは母優先ということで、日没前に帰ることを約束させて、家事分担を行った。勿論約束は見事に反故にされたのだが。

昼夜逆転で父はぐっすり眠っているので、私は洗濯物の山を足蹴にして、TV音など聞こえないほどの騒音を聴きながら、玄関脇の茶の間の食卓にうつ伏せになって仮眠をとった。父の部屋への緊急出動のためである。

あすなろ会の当事者Eさんが、東京事務所の定例会に参加している。食事会がついているが、ビッグイシューのほうで、交通費をもってくれる。彼から土産話が出るかもしれない。

父の失禁、昨夜から2時、7時の2回。事前に呼ぶ約束は守られていないが、紙パンツを脱ぐ前に呼ぶことは守られた。大事に至らず、今のところ無事。問題は何日続くかなのだ。いつも翌日には元にもどってしまうからだ。

------

2/20の部屋のキャンセル。これから行う。気分が浮かない。


夜間傾聴:□□君(仮名)
     小田急相模原君(仮名)
     大森海岸君(仮名・通信端末改造の件で)

p.s. 大阪のエルチャレンジ関係者と連絡を取っている。これも「わーく」の取材源。"Yes,We Can!"とは、驚いた。使うかなと。

●「エルチャレンジHP/Yes,We Can!」


(校正2回目済み)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翔の会就労支援講演会に参加してきました/案の定、父の大爆発があって

2010-01-24 07:31:27 | 引きこもり
朝4時、父の呼ぶ声にうたた寝を起こされた。ワンタイミング遅れて、母が私を起こしに出てきた。昨日は22時過ぎに爆発事件があって、部屋の現状復帰と洗濯物の山を片付けた後だった。

2回目かと階段を上ると悪臭。父はポータブルトイレにしゃがみ用を済ませていた。大便のときは呼ぶようにと言ったことが効いた。汚した紙パンツを交換し、陰部の清拭を済ませてベッドに誘導した。

生まれて土に返るひとの生死の両はしは、どんな人でも清算されてしまうかのようだ。十全なる生の保証ということは、その「十全」を生涯に均等に割り振っているのだろうかと考えた。これからまだ十数年は父とのこの関係が続くのかもしれない。明日、関係が絶たれるのかもしれない。ただ、この糞尿まみれの時間が「十全」の中身であろうはずがない。その+αは何なのだろうか。家族にその保証のゆとりはない。しかしこの問いは、父の生涯への問いに閉じてはいないはずだ。

階段を降りると母が茶を飲んでいた。私と視線を合わせるでもなく、寝室に戻っていった。テーブルには、私のお茶が準備されていた。

------

翔の会主催の就労支援講演会があった。お馴染みの面々が揃った。松為講演の懐の深さは、ひとを生涯のスパンで眺めていることにある。ただそれは誰と出会い誰とともに歩むかという社会生活の質に踏み込んでいないところに、医療モデルの視座からの脱却の課題が残っているように思う。就労がとことん個人の営為であり、家族や社会関係はその「支え」として意味が与えられている視座の限界。

膨大な就労の位置づけ情報の激流の中に、松為講演は提案を植え込んでいく。今回は生涯を送るフィールドとしての「地域」の再評価にあった。しかし、地元実践はその質を孕んでいるものすら未だ種のまま芽を出していない。その論との隙間には地元に合った提言を向けようのない、寄る辺なさが潜んでいた。

印象に残るのは、すべての社会保障事業を丸抱えした組織が、その結束によって、内と外という壁を結果として生み出し、その影響で活動の精気を失ってしまうのは、まずいのだという警句が3回出てきたこと。差異との出会いに活力の源泉があるというポストモダン的な発想がきちんと提案されていた、これが一点目。もう一点は、お馴染みの縦に置かれたホイール・円盤図である。人は出会いやがて人と別れていく、その人間観関係の円径の伸縮。これがネットワーキングの網の目と重ねて語るときが来たとき、実践の双葉が開くのだなと思って聴いていた、これが二点目だ。

障がい者の企業採用の現状が、特例子会社就労の中で、ひとつは年齢を重ねる障がい者社員の行く末を、自分の系列福祉施設に再吸収する体制が整えられていく、退職後に対する行政や地域包摂力の肩代わりが進行していること。もうひとつは、特例子会社が身体・知的障がいの方の就労可能者の粗方を雇用し、今後は精神・発達障がい者の就労へと力点がシフトしてきているのだということ、ここが指摘されていた。

このあとの地元実践紹介として、ハピネス湘南・とれいん・茅ヶ崎市障害福祉課・寒川町福祉課の四者の自己紹介中心の就労支援の現状報告があった。しかし、ハピネス湘南の事例報告を除いて、具体例に踏み込んでいない。現在進行中の構想を紹介するが、何年も同じ地域に活動している者にとってそれらは、共通の構想を生みだすことなく、それぞれがそれぞれの活動をしていると見える。

松為氏の講演が地域の自立支援協がその共通提案をさぐるナショナルセンターであるかのような語りがあり、Q&Aの際、押さえて欲しいことを発言させてもらった。統合失調症当事者の施設の選択肢のなさを指摘する意見の次に私が発言した。引きこもり青年など社会的困難を抱えている地域潜在化している方の声や、軽度の方など手帳を持たない方の声を協議会に反映させて欲しいこと。実際には、某心理カウンセリング団体とともに、自立支援協の傍聴すら許可にならない現状では、そこをナショナルセンターと呼ばれては、結果的に松為氏の仲間内批判論に反して、未参加境界線活動が排除されてしまう。そろそろ禁止解除してくれないかと発言。

応答は従来の立場を踏襲するだけで終わった。寒川町ではもともと傍聴公開であるとの発言も。ここは登録会員のみの会議ではなく、傍聴に留まらない発言参加も道を開かないと、ナショナルセンターにはなり得ないだろうと思う。

何はともあれ、顔合わせの参加者どおしの挨拶をして、さっさと会場を出た。母からの呼び出しメールが既に2通飛び込んでいた。

夜間傾聴:******君(仮名・内定おめでとうと言っていいのかな?)


(校正2回目済み)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母ようやく復帰し

2010-01-23 12:36:32 | 引きこもり
前に父の転倒に巻き込まれて1日入院の被害にあった母の友人が、突然応援にきてくれた。母に電話があり、身動きできない状態を話したらしい。しかし、とんでもない迷惑をかけてしまったものだ。申し訳ない。

この方の訪問の緊張のせいか、母もパジャマを着替えて茶の間に出てきていた。私の階段落下の話から、巨体に巻き込まれる恐ろしさの話となった。その方は母とふたりで父に面会と、父の部屋に上っていったが、父はその方を全く覚えておらず、気分を害すというより、その奇異なほど徹底した認知症の物忘れに驚いて1階の茶の間に降りてこられた。父は最大限の笑顔で「初対面」の客への挨拶をした。定形の対話、それだけを聞いていれば、認知症だとは誰も思わない。母は近所の医師の診察で、風邪ではなく喉のアレルギーと言われたので、久々に父のそばに行ったのだが、妻の病状に何も問いがないので、父を小突きたくなったのだと、その方に説明し笑った。私は医者の薬が効いたなと、ひとり介護状態から救われた気になっていた。

この方が、20時頃までいてくれるとのご厚意に甘えて、湘南あそなろ会の連絡メモと、「わーく」、画像ネットワークの就労支援の関連資料を作りに行った。中邑賢龍氏(東大先端技術研)の、携帯電話副次機能の利用価値を紹介した日経パソコンの記事などだ。ネットワーク実現の可能性と就労底上げの話である。インフラを整え触媒のようにつなぐ黒子集団作り。その賽を振りたい。思いだけが募っていく。

湘南あすなろ会の配布資料も作った。ワンコイン基金の構想の効果をいかに開放していくか、その現実味をマイクロファイナンスの信頼構築の鍵を資料化したもの。ホームレスへの捨て銭という批判に応える資料だが、まだ説得力に欠く。こちらも、ビッグイシュー販売員のおふたりさんを支援する枠を超えていることから、内容はHLの会などの実績のある会と話す以外ない。構想の裏づけのない基金は成功しないからだ。

ともあれ、ふたつの資料を仕上げて、私信をつけて関連団体のレターケースに入れてきた。やっと母が復帰しつつあるが、いつ私が身動きできなくなるか不安を抱えたままの、そういう意味で無責任な提案である。

およそ2時間。まもなく若松町では会議が始まる直前の19時、残りの資料を抱えてサポセンを出た。

弁当を抱えて家に戻ると、母の知り合いの方は帰った後だった。救急入院した日、先方の家族は大変だったらしい。先方も歩行困難な親御さんを抱えており、お世話は、この方のいうことしか聞かないため、入院の知らせに、「病院に様子を見に行く」とタクシーを呼んでしまったのを治めるのに、家族中大騒ぎだったらしい。父の件で「入院した私のことは忘れられていた」と、訪ねてくださった方は苦笑いされていたとか。「検査だけだったので、翌朝退院となった」というのだが、これが重症を負わせていたらと考えると肝が冷える。

お茶をつけて、父の部屋に弁当を持って行くと、下半身裸のまま、足が片方ベッド下にずり落ちていびきをかいていた。「食事だ」と、私が父の焼き物のタヌキのような腹を叩くと、無言で私の手を払ったかと思うと突然起き上がり、転がるようにベッド下に落ちてしまった。これでは出かけることができない。

力技で椅子に座らせ、紙パンツ交換している最中、私の頭上では、割り箸が行き来していた。「交換の最中だけでも、食事を待ってくれ」というと立ち上がってトイレにつかまり歩きというか、足を引きずって、食器を引っ掛けそうになって移動が始まった。口の中には食べかけの惣菜が入ったままだ。

「この人はどうしてこう落ちつかないのだろうか」と考える。昔から、てきぱきと事をやりたいタイプだった。その気の焦りが表れているのだろうか。椅子に足を引っ掛け、椅子を倒してしまった。反対側の手は、危うく味噌汁の椀に手を入れるところだった。何か事がおきたとき、私はすべての意識をそこに持っていかない習性が身に付いている。父は、叔父・曾祖母・祖父・祖母に継ぐ5人目の介護、父が役割放棄したための代理として、20年近くの介護経験が生んだ悲しい習慣である。

椅子を直している私の背後で、父は汚れた手のまま、弁当の魚をつまんでいた。悲しみをかみ殺して椅子に座らせ、部屋を出た。

母は何も食べたくないという。即興で鶏のササミを湯がいて裂き、塩昆布短冊に切って混ぜ込み、ポリ袋に入れて流水で冷やし、味が滲みないうちに出した。塩気が欲しい病人食である。不細工だが小ぶりの握り飯を作って、弁当惣菜を皿に並べなおした。こうして食事忌避を越えたのだが、母は、おかき(かき餅)を作れと言った。すぐにやめてしまったが和菓子の専門学校に爺のくせに飛び込んだことがあった。煎餅試作品を作ったうちの、初期の成功例だった。しかしこれは、胃切除した母が食べられるはずもなく、私にちょっかいをかける遊び言葉だった。「そこの千円札の天ぷらでもやるか」と応酬して、なんとか母の食事が終わった。「千円ではなく一万円札といいたいよな」と笑った。

冷めたお茶を傍らに、弁当をつついた。片手に北村さんの著書を持っていた。まもなく読み終わる。増刷部分は初めてだが、道頓堀の事件の書は昔読んでいた。感情に深入りせずに、腕力のある表現で情感漏らさず核心に迫っていくルポは、太郎次郎社好みの力作である。ソーシャルインクルージョン推進機構の阿部さんと話したときも、擦り切れた言い回しだが「言霊」を信じるかという話、深く響く言葉を失った生き方を私たちはあまりにも見すぎている。感動に流されないということと、感動しないといことは違う。私は情緒的な言葉は、裏返してみる習性がある。しかし表に戻したときの感動は煤けさせない。情緒を行動基準にするのは大嫌いだが、感じない相手と組むのもいやだ。

何を熱くなっているんだろうと、北村さんの書を置いて、冷たい弁当をかき込んだ。

集団の中には毒草のような人物がかならずいる。ひとをいがみ合わせる言動を入れ込む。しかしその人は、別の視角を覚醒させる役割を持っている。私は自分の目と耳で収集したもの以外は生では信じない。平板沈静化した集団こそ動くのが難しい集団である。だから差異を生み出す力動の根源なのである。北村さんが授業作りで取り組んだ、子ども夜回りの映像は、いじめと差別というひとの根源に関わるものだから、真と偽、取り混ぜた意見が出てくる可能性がある。あれこれ反響を想像して炊事を片付けた。

本業は今月がた減りに安くなる。時間制も含んでいるからだ。首にならないだけいいのかもしれないが、ひとり夜間傾聴の準備しているとのしかかってくるものがある。

今日は翔の会主催、障がい者就労支援の松為信雄氏の講演会だ。IPSの紹介書の翻訳者でもある。引きこもり青年を支える場合、IPS的な発想を支えるチームの姿のヒントが得られないかと思っている。今回はコミュニティショップ型からの発展の語りが出ると思っている。といっても、今回、母からの緊急呼び出しがないことを祈るのみなのだ。

女性センターのキャンセル、時間切れか。土日休みが本当に邪魔になる。銀行入金も出来ない。ともあれ出かける。

父のベッドの出入り口をレバーでロックしつつ。…無駄だなと。


夜間傾聴:□□君(仮名)
     相模大野3君(仮名・初)


(校正2回目済み)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の階段介助失敗と今後の活動にこぶしを握る

2010-01-22 14:44:58 | 引きこもり
明日土曜日にある、翔の会主催の障がい者就労支援講演会を前にして、「わーく」の発行を準備していた段階で、再出発を切れない阻まれるような事態に苦戦している。介護をめぐる「時間との戦い」だ。

父の転倒と事故が1日2回を超えると、父の身体の危険からの回避優先という事もあるが、「連続した作業時間」と「外出時間」を、それぞれ1時間以上連続することすら難しくなるという事態に直面する。後始末が加わるからだ。苦肉の策の睡眠時間分割、小刻み5時間睡眠が得られなくなってくるのだ。

月曜日に母が体の不調を訴えていた。火曜日に発熱、水曜日に無理を押して東京の主治医の定期通院と稽古事を済ませて夜帰宅後、胃切除後遺症のダンピングの嘔吐と風邪らしい発熱と悪寒で寝込んでしまった。水曜日、Oさんが風邪であすなろ会を欠席されていたのだが、流感だろうか。母から父にうつさない様にと、母を休ませた。

父の世話は母とのふたりの体制で支えてきた。その母の援助の中断で、その大きさを改めて感じている。母も高齢だから父の入所を前提にしなければと思いつつ、昨年秋の某病院への父の検査入院の際、入院当日、病室のカーテンを破り、看護師に危害を加えて即刻退院となったことがあった。そのトラウマのようなものがあって、入所申込巡回に積極的になれず、何となく気後れしていた。しかし、意識的なものと断じはしないが、この指示受け入れ拒否を続ける父の介護をこのまま在宅で続ければ、破綻は間近と身を持って感じている。

家事と介護の量ということもあるが、3回の食事と頻繁な排泄介助・転倒事故処理がここ10日ほど、転倒事故が1日2回以上に増えて、その後始末に追われている。父の清拭と着替え、ベッドメイクと誘導、部屋の清掃とポータブルトイレの復旧、それに洗濯と、一回に2時間弱が奪われていく。一日がこの作業のために、細切れに強制されて身動きが出来なくなってしまう事態。このことが本業や活動の約束事が守れない事態となってしまったことだ。転倒すれば母だけでは起こせない。呼び出しがかかれば用を中断して帰宅しなければならない。

頻尿だからその都度紙パンツは所構わず下げられて、ベッドは尿に濡れて、つかまり歩行で家具やポータブルトイレを引き倒して、部屋中が汚染される。私は仕事上昼夜逆転しているが、父の事故も昼夜を問わない。その分対応が出来るともいえるが、私が細切れに父の介護に拘束されることで、私にとっては仕事と活動が破壊されてしまうことになる。これを防御するには、施設の協力がなければ、もはや続かない。

1月の介護計画は上旬に2泊3日のショートステイが2回入ったが、下旬はデイサービス以外は予定がない。週2回のデイサービスは、9時に父を送り出し、16時半には帰宅待機しなくてはならない。帰宅待機には、バスの関係で16時にには私がバスに乗らねばならず、この間、走り回って用事をこなして家に駆け込むのが実態。父の入浴と体調認識共有以外は全くメリットがない。8時の朝食と排泄介助、8時半の「階段移動と身辺介護支援」のヘルパー到着となると、6時就寝の私の生活は2時間仮眠がせいぜいで、実質週2日は徹夜になる。こうした1月下旬の偏った年始予定が重なったため、ショートステイ無しの変則事態と、父の状態悪化と母の不調が見事に重なった。しかも、こういう事態は今後、頻繁に起こりうるのだ。

「紙パンツの中に排泄し、ポータブルトイレを諦めてくれ」というひとつのことが通じない。

水曜日、いつもより20分早くデイサービスを終えて、父が帰宅してしまった。水曜の階段介助は、父の宗教の信者さんのボランティア担当である。階段介助担当者から事前の電話で「代わりの人間が来る」と連絡があり、すぐにその方から「最大10分程度遅れる」との電話があった。ブランクは合計30分。この間、父を階段下に待たせなくてはならなかった。

父は床に座ると立てない。紙の襖を握りしめ、サイドボードを倒し、座卓を見事に転がしてしまう。ふたりがかりで持ち上げるも、壁や柱も傷だらけになる。だから椅子に座らせるが、私が背を見せれば立ち上がってしまうのだ。意識的なものではない。欲求を抑えられない、説得が理解できないのだ。それを制止すれば暴れ、直前の説得は見事に反故にされる。認知症のいわゆる短期記憶の低下を伴う「まだらボケ」である。転倒する寸前に私が飛び込み支えに入る際どい事態、それが30分続くのだ。今回は便が出たいらしく、その傾向が指示無視を一層激しいものにしていた。

経験上、足がもつれようが、2階のトイレが閉鎖されれば、1階のトイレに行こうとするために、父に解離傾向が出たときは、妄想の中、階段に壁に手を突いて現れてしまう。1階のトイレに誘導することは、通路を糞尿だらけにするのみならず、1階トイレの使用願望を焚き付けることになりかねないと判断。玄関先で下半身の衣類を脱ごうとする父を制止し、限界を感じ、階段をひとりで上げる決意をした。

嫌がる父を対面誘導し、階段を1段昇ったときだった。立てかけた戸が倒れるように、直立したまま父が背面に倒れ、襖の縁に頭が激突、私も巻き込まれて床に投げ跳ばされた。痛めていた左肩を嫌というほど床にうちつけた。幸い父の上に落下は免れたが、しばらくは起き上がれない状態になっていた。父は座り直し、立ち上がろうと襖に腕を伸ばしていた。襖がはずれ破れ落ちてくるので父を蹴って制止。父の背後を抱きかかえるようにして、肩の痛みの治まるのを待ち、なんとか椅子に戻した。

これが階段上段の転倒だったら、父は死んでいたかもしれない。その戦慄する状況の危機認識、想像力が父には無くなっていた。認知症の恐ろしさである。

数分後、応援が到着した。ところが彼は介護未経験者、父の階段誘導に、父の胸倉のセーターを引っ張っていて、接触を避けようとしていた。強い指示を出したが、要領を得ない介助のまま、何とか父をベッドまで誘導した。排泄処理は彼には出来ないと判断された。水曜日は父の宗教の信者さんが応援に入り、本業のヘルパーさんではない。やっと慣れてきた方が休みとなったことは破滅的、まさに綱渡り状態だった。

母の帰り30分前に、階段下に車椅子とテーブル用の椅子でバリケードを作り、左の肩と膝に湿布を貼って、あすなろ会の定例会に向かった。幸い父も緊張が解けたか、ぐっすり眠り始めたので、玄関の鍵を閉め、門を出た。張り裂けそうな気分のガス抜きをしていた。毎週水曜日、階段介助は素人さんとの綱渡りとなる。ケアマネさんにヘルパーさんへの切り替え依頼をしているが、今だ埋まらないままだ。

初めて父の階段落下を経験した。対面誘導のままの前面引き上げの補助は全く無力だと実感した。背面から支持する以外ないのだ。これとて即剤に座らせることができるかどうか。ひとりで事態収拾を図ることは、もはや限界だった。

------

「わーく」発刊は、こうして踏み出す機会をまた失いつつある。たとえ年数回、紙メディアのみ発刊としても、取材と配布は信頼が支えるものだ。その信頼を壊せば、今の空転事態は更に深刻化する。地域潜在化する社会的困難者への関わりへの無理解の中、彼らに働きかける活動の絵を描くことは、「医療と居場所というセオリーを超えれば、組織化は無理」という常識にぶつかっていく仕事である。足腰が整わねば再出発は出来ない。

差別と貧困、社会的排除に抗する活動にも私は関わってきた。生きる喜びを生み出す、畑を耕すような教育活動も行ってきた。それがまた一から作り直しかと問う。活動に執念がこもれば、人は離れていく。そういうバランスの舵取りの中に私がいる。

夜間傾聴:□□君・******君は、水・木
     小田急相模原君は、木

     大森海岸君は傾聴ではないが火曜日。
     (フォトフレームのプログラム開発の件。)

(校正2回目済み)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ETV特集1/17 なまえをかいた~吉田一子・84歳~」の話から

2010-01-20 07:52:28 | 引きこもり
17日の日曜日、NHKのETV特集で識字学級のドキュメントが放送された。番組をビデオ収録しておいてくれと母に頼んでおいた。しかし母がTVを譲らないため、昨夜やっと見ることができた。戦争や差別、貧困など社会的事情で、学ぶ機会を奪われた方が、空白を埋めるように、現在も、改めて学んでいる。そういう様々な事情を抱える方の夜間中学や公民館などの識字学級のドキュメントだったのだが、識字の話は久々だった。

山田洋次監督の映画『学校』シリーズの第1作に登場したのが夜間中学。私は昔、短期だが小田原で算数を教えていたことがある。その後、総武線「平井」からすぐの、江戸川区立小松川第二中学校にお邪魔していた。学ぶということが、ひとの本源的な情熱に支えられた営みであることや、社会には常に切り捨てられたり、チャレンジの機会を流され、アクセスを阻まれているひとがいるという、まさに埋もれた現実がある。

私の副業の職場は,進学受験の歪んだ教育の激戦地であったので、学び一般を「善いこと」とする立場にはいないが、同じ世代間の競争ということだけでなく、生涯という個的な出来事が、無理解のため社会の少数派に押しやられるとき、つぎつぎにひとの絆が断ち切られていく。暗黙の社会の生存競争が、目に見えぬようにカモフラージュされて行われており、その重圧を撥ね退ける力が、反語のようだが学ぶという情熱なのだ。

しかしそこを無制限に外延し「権利があるから学びの保証を」と言ったとき、その学びはコースパッケージ化した「基礎知識」なっている。痩せた学びとその「習得の度合い」になってしまうのだ。この辺の頑迷な学び観が支援者や教員側にあり、断ち切られた学びが復活するとき、人生を送ってきた分、子どもとも様相の異なる多様な知識の「網」を引き上げるような、関連を丸ごと取り出した当人の学びの艶やかな生命を殺してしまうことも現場の中では起きていた。学びはその人の人生に寄りそうものであって、その中で生成する「関係や見通し」と絡まるようにして膨らんでいく。専門性はその膨らみの横断の距離と広がりとして登場する。

ノートを開き、ひらがなのなぞりを行うときにすら、眼差しに社会と自己史を凝縮している。だからこそその姿は感動的なのだ。論理の世界はその切り口において存在し、系統性を持っているが、それは知識の有効な取り出し方として位置づけていく。この学びの実態をめぐって、知識が鋳型や抑圧となるかという際の場面のカンファが、識字学級では行われていた。だからこそ現行の公教育や受験教育の競争礼賛の前提が「おかしい」といえるのであって、学習支援は周回遅れのランナーへの激励ではない。その方との取り結び、伴走が学びの営みなのだ。こんなことを言っては同僚のステレオタイプの顰蹙をかっていたことを思い出した。度や率の質の世界では、単純に足し算できないでしょ、1+1だって場面選択に経験が割り込むじゃない、いやそれは詭弁だという議論に、私が担当していた当事者の方が、まあお茶にしようやと割り込んだ。そのことがとても知の現状として、象徴的に思えるのだ。

吉田一子さんの落書き=文字侮辱論はちょっといただけなかったけれど、某非文字文化民族が表音文字ハングルを受け入れたという最近のニュースで、それは民族を失わせるほどの危険を伴っていると、あるMLに私がメールに書いた応答が、飛躍だよそれと多数の応答があった。それと比較すれば、文字侮辱論は、ハングル話ほどではないかとも思った。

《参考》
--------
「ETV特集1/17 なまえをかいた~吉田一子・84歳~」

「全国の夜間中学校」

「(都内の)公立中学校の夜間学級」
「」
第55回全国夜間中学校研究大会第55回全国夜間中学校研究大会

(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の緊急対応と食事の制約の中を

2010-01-18 12:54:04 | 引きこもり
父の一日3回の食事の制約は大きい。母の手の症状もあるので、食事の大半は私が作っている。だから外出時には事前の準備が要る。母と段取りの確認をしないと、父は空腹のために、ふらりと階段を降りたり、室内で転倒巻き込み事件を起こす。糖尿病が空腹感を生み出している。

もうひとつは、介護経験者の多くが感じている「出にくさ」の問題がある。介護者がふたりとも外出するときは、SECOM の非常用ボタンを首から下げさせる。父にしてみれば、ボタンを下げさせられるときは、誰もいなくなるときだから、この際、やってもらいたいことをしてもらおうとする。介護者には、なぜ今、用事を増やすのかと気がもめる。予定時間が迫っているからだ。このやりとりが事故を生む。そのために外出が阻まれる。たとえ、ボタンを早めに下げさせても、父は聞き耳をたて、玄関を出ようとすると立ち上がり、転倒したり私を呼ぶ。結果は同じことになる。

昨日は昼食後、すぐにボタンを首から下げさせた。そのあと食器を洗って外出の準備をしていると、大音響が2階に響いた。ポータブルトイレを弾き飛ばし、尿バケツの中身は周囲に飛び散り、転倒した父は、そのトイレの木枠に、またつかまろうとしていた。次に起こることは父の腕の上に木枠が倒れてくることだった。制止が間に合った。

父に怪我は無いようだ。しかしこの後始末には段取りがいる。まず私が自分の衣類を脱がなくては、私が糞尿まみれになってしまう。ゴミ袋を拡げ、雑巾とペーパータオルを父の見えない位置に置く。タオルを見せると、ひとりのとき、、清拭にペーパータオルを使って、それを尿バケツに入れてしまうので、排泄物の始末のとき、分離にひどい手間がかかる。そのまま便器に流すとトイレが詰まってしまう。だから父の身近なところには、ティッシュペーパーや新聞紙も置かない。(ティッシュペーパーは繊維が長いのだ。)この紙の区別は、ティッシュの場合などは認知症発症前から、説明しても全く通じない。最後に介護用手袋をつけて、アルコールの滲みたクリンペーパーを持って、出陣となる。

この間、父の「物につかまる」身体引き寄せ行動を阻止し続けなくてはならない。ここは猛烈な戦いとなる。言葉で制止しても一切聴かないからだ。父を背後から羽交い絞め、それを振りほどこうとし、汚れている私の手に噛み付くほどの、壮絶な糞まみれの戦いである。怒りを納めるまで息を整えていく。帰りに食器の盆が震えて持てなくなるほどの消耗戦なのだ。これは母には無理だ。

父の清拭と着替え、原状回復を終えると1時間半が経っていた。会議も巡回も、今回のような企画も、一瞬にして消し飛んでしまう。しかし先方に介護の遅刻としか言いようがない。だから諸企画には、遅刻する可能性を読み込んだ選択肢を常に作っておく。しかし1時間半はカバーできない。無理だ。

茅ヶ崎市民文化会館小ホールの上映会会場にたどり着いたのは、終了10分前だった。網膜色素変性症の私の目には、暗い場内の様子はよく分からないが、前方にやや空席を感じるので約7~8割の入りと見えた。

この映画は知的障碍のサッカーチームの物語だが、画面では既に試合が終わり、個々の選手が自分の今後の希望を語る場面になっていた。しかしそのとき、選手のひとりが、子ども車椅子サッカーのコーチをしている映像が飛び込んできた。私が言う「ひとに関わることが情熱を生み出す」「ケア・パートナー」の場面だった。このやや非対象の相互関係が、挫折や迷いからの離脱に有効なのだ。これはひとの本源的な能動性なのだ。関わることによって自己変革をも遂げていくインタラクティブな動的過程である。

受付と数名のスタッフの方に呆れられながら、映画の終了のテロップが流れる中、次は15分遅れの、携帯を持たない藤沢のBさんの待つ茅ヶ崎サポセンへと飛び出した。こちらもBさんは帰ったあとだった。レターケースにメモ書きがあった。水曜日午後、藤沢のセンターにてとの指定。この時間は父がホームから帰宅する時間の30分前。設定が無理と応答したいが先方からの連絡を待つ以外、連絡が取れない。ともあれ、もうひとつの用事のビッグイシュー誌の在庫確認を済ませた。翌日の月曜日が支払日なのである。あすなろ会のTさんの書き置きがないかチェック。これも空転。帰路、中央公園を見てから帰ろうと顔を上げると、歩道の先にサポセンのMさんが見えた。私同様、上映会からの帰りだった。

中央公園では、あすなろ会のHさんとも出あった。Tさんが捕まらないと告げる。海老名巡回までは少し間があるので、とにかく駅ビルで夕食の食材を買い込み、コインロッカーに入れておこうと先を急いだ。Hさんには失礼したが、新年号が150部しか売れておらず、増部仕入れした250部の100部がそのまま残っている状態は異常だった。この件は次回の定例会に出すが、就職の研修があったEさんと、三賀日販売休止以降の再開が止まっているTさんのふたりの結果であり、見通しの甘さがあることは明瞭だった。次の号が送られている現状で、これを解消していく必要がある。返本を含んで調整することに。

海老名巡回はなんとか間に合った。しかし、センター試験でもめている彼の情報が忙しくメールに届き、海老名から相模大野に立ち寄るようにとの話はすべて断った。夕食の約束が母との間に出来ていないからだった。果たして夕食の準備があるからと言って職場の要請を断れるだろうか。この通じなさに家事介護の矛盾がある。センター試験君(仮名)のフォローの最中、父は階段をジャンプすることすらありうるのだ。

相模線読書とばかり、北村さんの著書の読み直しに開いた誌面の文字が恐ろしいことに何も読めないのだった。右目の視力低下の結果、同じ網膜変性症を発症している左目は注視の意志を続けないと読み取りの開始ができない状態だ。読みの惰性がつくまでの集中ができない。諦め観念して目を閉じた。

------

求人情報の依頼話のひとつが帰ってきていた。某精神科病院の配膳係の仕事だった。Eさんの年齢は。やや希望年齢を超過していたが、Eさんには、これは先がないと思われた。同じ介護職なら、ヘルパー2級取得へと準備できそうな雑務清掃係からの方が職が有れば、先の道があるだろう。知人筋の打診を始めているが、これは今だ応答がない。父が帰って来る時刻まで、支払いが済んだら、入所の件でホームを1件まわる。そのときに聞いてみようと思っている。

父の引きずる足音が聞こえ、ポータブルトイレの蓋が大きな音をたてて閉まった。午前3時40分。あと1時間半ほどで夜間傾聴の待機時間が終わる。□□君から、もうひとりの彼の情報が入る。東京シューレと重なっている方だが、□□君は自宅からの通いの不便さから、シューレには行っていない。先方から手伝えと誘われているというので、やってみたいと思うのなら、やってみるとよいとこたえつつも、彼も自覚している通り進学への意志のぐらつきは、私も分かっていると告げた。改めて話そうということになったが、この時期、彼らの意思は常に揺れている。「□□君、トビタ、股裂きじゃん」は2つ、私は4つ裂きだ。残念でした。

夜間傾聴:□□君(仮名・傾聴ではない。)
     中央林間君(仮名・眠りの東林間、通過しないで済む方法は?)

p.s. iphone 3gs 用のDAISY が出来る。今夜は情報収集する。
   母に頼んでおいたETV、識字学級吉田一子さんのインタビュー番組、今夜観る予定。


(校正2回目済み)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

センター試験始まり/暗転

2010-01-17 09:03:24 | 引きこもり
センター試験が始まった。しかし、私と私の担当は今年、試験の重圧を心の板ばさみの中で試験を迎える青年たちの例年のサポート巡回というより、今年はあるひとりの青年の無茶に立会い、彼の主張を支援する立場に立てないでいた。担任と私の担当が受持っていた青年だが、教員の相談の場には私も同席していることが多かった。演習巡回しているとき、何回か彼の解答添削相談をしたことがあった。

今回、受験をするにせよ、降りるにせよ彼は傷つく。私たちの方針は比較的早い時期に決まっていたが、その軋轢の崖っぷちがやってきた。

私が担当する青年たちは、就労体験の挫折のなかで自分の立て直しの延長に再進学を据えた青年や、引きこもりという中断を経て進学を選んだ青年がおり、更には心身や家庭などの困難な事情により、定時・通信制という選択肢を選んでは中断を繰返した青年が、もうひとつのつなぎを求めて来ている場合もあった。私はその中で、特にいわゆる知的・精神障がいが重なっていると思われる学習困難者の担当をしてきた。残念なことに、彼らのサポートは経営者の理念の中には入っていない。少子化から足きり困難な状況を使って、私の担任たちが私を応援に引き寄せ、放任という経営者の協力の中で運営している。

もうひとつの塾の方は、もとの塾生の面倒という形だから、万年浪人のような形が多い。手ごたえのない粘液のような透明な沼のなかでもがいている。こちらも境界線の困難を抱える青年がいる。

今回は前者の予備校の青年だった。私は現場担当者からの電話やメールで、あたかも彼らのサポートをするような錯覚に陥る「結果相談」に参加していた。その只中、私は彼の傍らにいるのではない、我が家にいる引け目というより、靴の上から足を掻くもどかしさを感じていた。この部外者の周辺スタンス、交通事故から10年、中心に入れぬ苦渋は、古漬けになりつつあった。

-------

父がショートステイから帰ってきたとき(金曜日)、父は笑顔で帰宅し、階段サポートしたヘルパーさんを平気だと帰してから、小便を爆発させた。針鼠のように棘を逆立て、着替えに抵抗し続けた。しかし、私はそれよりも、帰宅早々小便が出掛かっている、危ういポータブルトイレへの移動の最中、サイドテーブルに剥いておいたミカンを、突然わしづかみにして食べていたその姿だった。転導性の異様な関心の転換は緊張下で起こる。しかし今回はその異様さのことでもなく、気がついたのは、父の口内炎の様子だった。数日間父の活動を押さえ込んだ炎症が治まり、また介護戦争が再開されたことがわかったのだった。

しかしそれは、徘徊を伴う以前の転倒騒動とは違っていた。

足がもつれてベッドから転落したり、睡眠中の尿失禁を見せるのが嫌で、下半身裸状態で脱ぎ捨てた濡れている衣類や紙パンツを布団の中に隠したりというような、勢いを伴わないが目を離せないという事態になっていた。一番困るのは、ポータブルトイレの立小便の際、尿をこぼさないようにと作ったサラダ油用ポリ容器製排尿樋(とい)を、利用時、片手に持つゆとりがなくなったことだ。両手で身体のバランスを支えて、トイレの肘掛にしがみついていないと、ぐらりとしゃがみこんでしまったり、横に転倒してしまうことだった。排尿中だから身体は勿論、周辺も尿洪水になってしまうのだった。

注意しても決してやめない立小便の騒動は、第二ラウンドに入っていた。転倒や落下による命の危険は減ったというものの、放置をすれば階段昇降が出来なくなることから、最悪の1階の鬼ごっこを通過しなくてはならない、先祖がえりの抗争に私たちがさらされることになることだった。父は這うことは苦手だが、それでも一度思ったら必ずやるという性格である。以前、茶の間の一角に根がはえたように父が座り続けていた頃、父は厨房のレンジをいじって、ボヤ騒ぎを2回、やかんを3回焼いた。火の点けっぱなしは毎日と言ってよかった。熱湯を浴びそうになったり、いつの間にか入った風呂場で転倒、栓を抜いたままのお湯張りで、屋外機のコードが焼けたり、着替え時に硬いテーブルの角、その寸前を通った棒状の大転倒を起こして、その振動で食器が落ちて周辺破片だらけになって、父が血まみれになったり、いつの間にか庭に倒れていたりと凄まじい状態があった。父を弾力のある床にした、もともとの父の書斎(20畳)に決意して閉じ込めたという経過がある。その古戦場に戻るのである。失禁がある以上、今度は私たちの衛生面にも問題が起きる。

神奈川県は2万8千人の特養入所待機者がいる。全国上位3位以内に入っている。有料の医療老人ホームを選べる経済状態ではないことから、逆に介護度があがってくれないと入所優先順があがらないという困った状態にいる。

曾祖母の介護のとき、認知症の進んだ曾祖母は失禁した衣類を所構わず隠す癖があった。父も類似のことが予想される。怖いのはおむつをトイレに流す癖があることだ。2階のトイレは大洪水を起こし、厨房は汚水びたしとなり、復旧に半年かかり、2階のトイレは配管が古いこともあって閉鎖となった。交換には改築しなければならない状態だったからだ。これを父は自分のしたことと認めないので、1階のトイレが今度は風前の灯となる。

通所を諦めて訪問重点の介護計画を立て、入所先の空きを待つとしても、それでは入浴が出来ない。清拭だけでは治まらないだろう。切り替えのタイムリミットが迫ってきた。

------

ビッグイシュー販売員さんたちの身も転機に来ていた。就職が決まっていたEさんは、紹介で入ったことが仇になり、販売員であったことが政治的偏向と疑われて不採用になる不合理な事態が起きていた。労働協約に準ずるメモすらない状況に、泣き寝入りなのかと支援者も臍(ほぞ)を噛む思いでいる。

一方Tさんは、支援者の勧誘もあって年末年始、ギャンブルと酒に巻き込まれ、裸状態にあって、同誌を買う金がない状況に落ち込んだ。意志の弱さを指摘するのはそれはそうなのだが、路上生活者の活動は、この誘惑との戦いの側面があって、一方では求道者の禁欲の道を求めることはできない状況がある。Tさんは資金を作っているのか姿を見せない。Eさんはすぐに家賃が問題になる。求人探し活動を私も手伝い始めた。

私のボラ担当の引きこもり青年のひとりは、採用しなかった企業への怒鳴り込みなどの警察沙汰が起きており、母子家庭の彼の母親が心労につぶれて入院してしまった。彼自身のほうは、保健福祉事務所がサポートに入った。私は警察との調整や、入院先のカウンセラーへのつなぎ協力、保険福祉事務所への仲介などの援護射撃を行った。アスペルガー症候群の方は、熱血型の方も多い。彼もそのタイプだった。

活動が四面楚歌のような新年となっている。PJの年度末講演会、あすなろ会の上映講演会のふたつは、なんとしてでも実現したいと思っている。

今日はスペアちがさきの「プライドinブルー」の上映会がある。知的障がい者のサッカーチームの活躍の話である。なぜ・今?という問いが頭を離れないが、上映の応援参加をしてくる。求人話で一件サポセンで打診後、海老名巡回を済ませる。

父の件は母にまかせきりになってしまう。上映会から海老名巡回まで、無事にすむようにと念じている。

夜間傾聴:橋本2君(仮名)
     ******君(仮名)
     中央林間君(仮名・こちらから)


p.s. BI支払い迫る。北村さんの著書読み直しやっと第二部へ。判決を放置する社会の不合理さ、無視という差別の重さ。

(校正2回目済み)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

急がば回れ…ですか

2010-01-15 15:40:57 | 引きこもり
寒い。明け方、足がつって目が覚めた。ゴミ出しの日なのでまだ明けぬ空をながめて、帰りに朝刊を抜いた。5時ちょっと前。3時ごろまでの記憶はあるが、PC前にストーブを抱いて寝ていた。灯油が切れて、寒さで目が覚めたらしい。こんな日、路上で凍死者が出ねばいいがと思う。夜間傾聴は1時過ぎごろ、レギュラーの小田急相模原君(仮名)から傾聴というより学習相談が1件あっただけで、後は火曜の夜、無断外泊した奴が連絡をしたとかしないとか、友人宅で見つかって、もめていた程度だ。歳の離れた姉に伝言を頼んで、姉が忘れたといことらしいが、北村年子さんが描く戎橋に集う若者のように、路上で過ごす若者の中にも凍死の危険は迫っている。

友人宅に無断外泊という「無断」をめぐってもめることが多いが、私が東京南部で塾を手伝っていた頃は、その地域では中高生の外泊は日常茶飯事だった。話してみると、両親が帰ってこない。親が飲み歩いている場合もあるし、片親で母親が夜働いている場合もある。これは無断というより、彼らの生活の知恵のようなものだろう。連絡がどうという論議になるのだが、それよりも彼らのことを見守っている大人がいるかということが問題になる。

灯明け方の闇も渦を巻いていた。目を閉じれば治まるのが網膜の症状の証拠だった。昨日は眼科のワンパターンの検査を受けて、異常なしと妙な診断を受けて、担当医と口喧嘩の手前になった。おかしいから臨時に受診した。なのに異常なしはないだろうと。網膜色素変性症は網膜の視神経が死んでいく病。死んだ神経は戻らない。遺伝子治療はまだ数十年かかる。進行の危険がなければ、異常なしだと逆襲されて、言葉を失った。汚れたガラスから世界を見るような視野の異変は、特に右目で進行しているのを感じるからだ。くやしくてヒアルロン酸点眼液を渇きを感じたとき、使っていいかを確認。緑内障治療薬点眼時と時間をずらせば構わないが、意味がないと無愛想にカルテ書きこみ(ここではメモ。電子カルテに書き換えている。)の筆先をトンと落として、私を追い出した。父の体験があるせいか、私はこの手の人間が大嫌いなのだが、神経眼科系の一人者なので、深々と頭を下げて出てきた。焦っているのがわかった。下らぬ勝負、とりあえず勝ちである。

ストーブの油を補充してもう一度PC前に座りなおし、メールの応答を書いているうち、温まったのだろう、再び眠ってしまった。いつもの眠る時刻だった。朝刊をどこへやったのかと母に起こされたのが9時。私の日常は8時に父の朝食と紙パンツ交換で一度眠りを中断し、11時前まで再び眠る。ただそれが成功するのは、週に数回。あとは電話・来訪者に起こされる。そのツケをはらったようなものだった。

ヒューマンスタジオの丸山さんから青少年支援メッセ(3月下旬)の連絡が届いていた。3月参加の意思確認のアンケートだった。長いお付き合いである。3月13日のサポセンのワイワイまつりとその準備に、皆が追われる上旬ではないことはいいが、このとき地域就労支援PJもまた、年度末講演会をやるので、日程が重ならなければいいがと思っている。昨夜お仕事中に電話したため、今朝かけなおして通じた。無口な方だから、つい私の一方的な話をさせてもらうことになってしまうが、2/20に「わーく」編集部企画が挟めないか協力を求めた。まだ引きこもり関連就労支援の講師の日程が定まっていないので、空手形のようなものなのだが。

今日は平塚保健福祉事務所の主催で14時から、アンガージュマンよこすかの滝田衛氏が「若者が一歩ふみだすためには」という講演会が企画されている。私は14時半前後の父のショートステイからの帰宅の階段介助で参加できない。排泄と紙パンツ交換、おやつを出し、ベッドに寝かせる30分がもどかしいが、やむをえない。

15時半にビッグイシュー135号の受け渡しをしてから、茅ヶ崎のコインロッカーに買出し食材を詰め込んで、小田急相模原の巡回を済ませ、食材を家に届けてから、またこのままだと相模大野の面談である。交通費保証があるとはいえ、何とも無駄が多い。こういう企画開催時間との重なりや、手間の虚しさがじわりと心を蝕んでいくのがわかる。ひとつひとつの活動の手ごたえのようなものを奪われるような空転の出来事があるとき、心のキャパが減っていることに気付く。熱くなる前にガス抜きを入れるが、それは諦めを伴っている悲しさ。世界は閉じていることからしか始まらないそういう当たり前のことへの悲しさである。北村さんあたりにすれば、蹴飛ばされそうなところではある。


《気になる記事》
●「貧困ビジネス経営者らを告発 2億円脱税容疑で国税局」
●「大学生の就職内定率、過去最低73.1% 下げ幅も最大」
●「障害者が取材・執筆 生活・求人の情報誌/愛知」

夜間傾聴:*******君(仮名・こちらから)

p.s. 父が1時間ちょっと遅れて帰宅。予定、混乱中。


(校正1回目済み)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(湘南)あすなろ会例会と/障害者雇用部会参加

2010-01-14 15:50:43 | 引きこもり
父をショートステイに追い出して、室内の清掃とベッドメイク、洗濯を済ませたら午前中が終わってしまった。母は都内のかかりつけの病院と帰りの趣味の稽古にさっさと出て行ってしまった。防水シーツの洗濯に悩まされていると、郵便箱に入らないからと、宅配便の書籍が届いた。辻堂楽庵さんたちが名簿に入れたのか(有)シーニュが差出人だった。「精神科セカンドオピニオン―正しい診断と処方を求めて」という本だった。挨拶文からは、精神障がいの診断治療の中の多剤・誤診に対する当事者家族・協力医療関係者の出版した書であり、難治例の中に発達障がいが見られるという知見も紹介されているという。今年春先、「No.2」が発刊されるらしい。

関心はあるものの「つん読」の書籍が山にある。火急の読破を要求されているものもあって、畳の上に積み上げられた書を迂回して、実は行き来している。だから山の脇に置くことと、ブログ紹介することで当面、許してもらおうと思う。

ビッグイシュー東京事務所の方と連絡を取り、カップ麺発送の確認を取った。地元引きこもり青年と県しごとサポーターKさんとを出会わせる段取りの電話をかけるが、青年宅もお留守、平塚デスクもお留守。冬期講習期間中の相談難題の延長戦で、訪問があったのだが、こちらもアポとろうとしたがお留守。本校担当者もお留守。なにやらはぐれた子どものような悲しさの自分が可笑しくなり、わざと時計を見て出かけることにした。引きこもり青年たちが味わっている日常と突然つながったように感じていた。昔はカメラを背負い鍾乳洞の闇の中にひとり、数日無音の世界の中にいたのに(乾いた終齢期の洞は水音もない。)、ひとの社会に戻ると、こんなものなのだ。それにしても母の脱出は早かった。おかげで古いフィルム画像を見るような視界になってしまった右目の応急治療に、私の主治医(これまた都内なのだが)の眼科クリニックに出かけるタイミングを失ってしまった。

木曜日の今日、午前中予約が取れたので行ってくるが、父の薬も切れており、母の友人の独居高齢者の方の再入院補助(母の手伝い)もあるので、今日は午後から病院周りの一日となる。母の友人はガン末期で緩和ケアに入る、お別れなのである。両者とも茅ヶ崎の病院なので、再び県北に戻る巡回の仕事は夜になる。折角父がいないというのに、うまくいかないものだ。

昨日は夕方からの集会参加が飛び込んで、(湘南)あすなろ会の定例会を、無理を御願いして15時からに繰り上げさせてもらった。Tさんは商売中、Eさんは早朝営業の休眠中の時間帯だった。

何点か決まったことがある。

1)新年度からは、BI最新号は大阪からの直送に切り替える。
 (東京事務所経由のための発刊日一日遅れを解消)

2)「便りNo.004」は、以下の内容。
    ・カップ麺仲介活動の報告
    ・2/20上映講演会の延期または他団体企画合流

3)「便りNo.005」は、以下の内容。
    ・北村年子さん講演とDVD上映予定か合流報告(現未定)

4)行政のHL調査結果の開示を求めよう(新年度)

5)冊子卸システムの改善点確認

6)Eさんの生活相談
    ・偏見と実害の話


-------

私があすなろ会の定例会開始時間を早めてもらったのは、この日、17時半から、(特非)障害者雇用部会があり、サンシティ平塚の活動紹介講演があるからだった。電機神奈川の障害者就労関係者の勉強会から生み出されたNPOで特例子会社・特別支援校・障害者就労関連事業所・地方自治体関連課などの交流の場となっている。NPO参加はわずか。

スーツ姿の熟年者の白髪頭が多いので、私はもっぱら私服で目立ってる状態。久しぶりに県商工労働課の**さんに会った。引きこもり青年の地域有効活用という話に関心を示してくれたひとりである。大阪のエル・チャレンジの活動や、公園からの起業というホームレス向け社会的「起業」の読み込み直しをしていると伝えると、面白がってくれた。彼は取得情報の懐が深い。大概のことは叩けば響いて返してくれる。プロである。

今回は新杉田駅前の杉田劇場ホールに4分の1の参加者の少なさで、私を紹介してくれる方も欠席。話もサンシティ平塚の勝田所長の講演が1本きり。新年会に皆さんの関心が行っているようで、予定より早く終わった講演の間を見て、新年会前に帰ってしまった。この日、県立福祉大附図書館にJHC板橋会のクラブハウス資料があるので、閲覧紹介状を御願いする予定でいた方が欠席。ちょっと全体に物足らない会合だった。

しかし、サンシティ平塚の活動分野は広い。軽度発達障がい系の方から、DV関連で避難先を探している方まで、仲介をしているので、ただごとではない忙しさだろうと思う。その中で当事者活動がちらりと見えた。直接の手を離れているとのお話だったが、是非ここは、伺ってみたいところだ。

某特例子会社の方と名刺交換をし、見学会の申込ルートを作った。実はここ、清掃業務ではホームレス関係にも通じる可能性があって、前からあってみたいと考えている会社だった。取り組みの内容は「わーく」編集部の方だろう、名刺も「わーく」編集部である。

------

20時前に終わったので、港南台で降りた。「お好み焼き ころんぶす」に立ち寄ろうとした。糖尿病患者としては複雑な気持ちになるところだが、以前は石川町店にお邪魔したので、今回は帰りの夕食がてら、「PJ」企画に登場させようと考えたのだった。引きこもり青年や非行系の青年が一念発起して活躍している、K2インターナショナルのお店である。しかし、無念、お客さんいっぱいなのである。これでは話すことができない。携帯で連絡すれども、地元横浜女子短大の++さんもお留守。大船で買い物をすませて、買い物荷物だらけになって帰宅した。

母が帰っていなかった。電話が入り、木曜日入院を手伝えと…。母は独居の高齢者の@@さんの御宅に行って、入院準備の世話をしていたのだった。

結局昨日も、父がいなくなればいなくなるで、やれなかった仕事をするために、のんびりしたことにはならなかった。貧乏性といえばそうなのだが。


夜間傾聴:01/13
     橋本2君(仮名)
     小田急相模原君(仮名・こちらから)
     地元**さん(仮名・こちらから/お留守)


p.s.今夜の巡回中止、本校経由情報。巡回予定、高校担任とかち合う。変更日は後日確認。
  北村年子さんの著書の読み進めをしている。片目で疲れるので小刻み。
  だが…密度の濃い文体
  眼科から戻って食事をすませて畳にころがったら、Mさんから電話が入った。資料の到着の話。お手数かけます。18日にセミナーがあるのですが、その資料です。


(校正2回目済み)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

就労支援の対象という事/カップ麺600食(50箱)カトリック教会HL支援の会へ仲介

2010-01-13 12:53:04 | 引きこもり
やっと2泊3日のショートステイに、父が出て行った。間際まで排尿騒ぎ。脱力感抑えてアップロードしている。

一昨日、この間父が異様に大人しかったのは、口内炎だった。痛みを訴えないので気付きが遅れたのだが、今回は2回目。以前と同じように入れ歯をやたらにはずすことで見当がついた。全く同じ場所だった。入れ歯に不具合が出来てきたのかもしれない。口を開けさせ、口腔をのぞくことは、段取りを踏まないとひどい抵抗にあう。枕元のラジオが飛んできたりするので、説明し納得させてから口を開けさせた。

患部が分かったので、今度は訪問歯科が休みの連休中なので、口腔消毒消炎剤を買い込んできて、うがいをさせるが、これもまた一苦労となる。歯茎ではなく喉をうがいしてしまうのだ。歯茎を濯ぐのだと説明してもダメ。うがいを自分任せにせず、私が液を多めに父の口に注ぐ。どうしても口をゆすがざるをえない状態にするためだった。甘かった。こんどは、むせて周辺にうがい薬を吐き散らし、拭き掃除のはめになるのだった。

胃が痛くなるような空転が続いた。結局、デイサービスに参加することを最優先にし、休戦となった。部屋から階段下までの対面誘導が荒れるからだ。私は予測して背後のサポートに回った。予想外に問題なく階段を降りたのだが、最後にホームの車椅子に座り、靴とマフラーなどをつける段になって、階段サポートをしたヘルパーさんを突き飛ばしてしまった。冷や汗のかきどおしである。ホームの看護師さんに治療は引き継がれた。

連休明けの今日、訪問看護師さんとタイミングが合ってしまうが、訪問歯科を頼んだ。世の中はうまくいかないもので、ショートステイ前に慢性便秘の便を出してしまうために訪問看護師さんは来ている。この看護師さんは時間を守らない。巡回順で動いているので、訪問歯科より先に来てしまったのだった。私は6時に仮眠に入っていたので、9時前の看護師到着が分からなかった。母はこの治療の順番に気付いていなかった。

事態をつかんでいない訪問看護師が先に浣腸と摘便治療をやってしまった。父の抵抗の大声に目が覚め、パジャマ姿のまま看護師さんのもとに駆けつけたが、猛烈な悪臭の中で、母が清拭を手伝っていた。9時すぎ、訪問歯科の二人連れがやってきた。巡回週以外は困るという玄関先の衛生士の小言を聞きながら、事態を伝えた。意味が通じない。結局ふたりは、看護師が帰りのメモを付けている2階の父の部屋に上っていった。

さっさと帰る看護師。その後が地獄だった。肛門の次が口腔である。従うはずがなかった。母を離れさせ、歯科のふたりの説得を術なく見ていた。父はふたりを振り払うと立ち上がり、伝い歩きで排便に急ぎ、事情の分からない歯科チームはそれを危ないと制止しようとして、振り払った父が倒れそうになったところに私が飛び込み、何とか便の撒き散らしは回避できた。

「本人に治療を受ける意志がないので治療をやめる」と言い出したので、私が切れた。事情を語り、余計な説教だったが歯科チームの柔軟性のなさを指摘、「あんたらそれでもプロか」と言ってしまった。勿論、歯科チームの態度は硬化。平常の巡回曜日以外は巡回をしていない。緊急性があるかと時間を割いてきているのに、叱られることはしていないと言い出した。母の機転の介入があって、場はつながったのだが、突然、父が下げたパジャマを足にからませたままベッドに戻り始め、事態は元の木阿弥。

結局、騒ぎが静まって、歯科チームへの私の状況説明から、案の定、入れ歯の不具合が、おそらくは歯茎の縮みから出てきたのだろうということになり、当たるところの調整に再度訪問しなおすこと、市販薬でうがい消毒して次回までつなぐことを確認して歯科チームは帰って行った。

歯科チームを返したあと、排泄便の処理に部屋を上っていくと、父はいびきをかいて熟睡していた。母が「いつまで続くんだろうねえ」とぼやく。わざと周辺の片付けを指示し、会話を中断させてポータブルトイレの排泄物バケツを提げて階段を降りた。母の問いは共感を問う予定調和の発言なのだ。言い出せば泥沼の深みが見えるだけ。私は頑張ると主張するのではないが、同意もしない。沈没する舟の水をかき出し続ける。

------

先週土曜日の午後、私は錦糸町から田原町まで移動していた。会場移動した講演会が過ぎていく事態に虚しさを噛み殺していた。HPからの申込みをせず、年末、先方の代表の茅ヶ崎講演の際、参加依頼をしていたため、名簿から漏れていたのだろう。以前HPからの申込をすると、二重申込になって、昼食がふたつでたこともあった。この辺、結構問題が起きる。飲食店のオーダーの際も、トラブルが多い。大概先方が斜に構えているアルバイトの若者が多い。オーダーを取る時、うるさそうな爺だから早く終えたいという身体表現が前に出る。先方が先入観で勝手に決めたメニューが出てきて、注文したしないのいざこざが起こる。カウンセリング設定時もこの先入観の解消に時間をかける。するりと相手の気持ちに入れる方がうらやましくもある。

会場の台東区の区民センターを地元商店に聞いてもわからない。利用していなければ知らないのだ。だから隣の金竜小学校を聞く。これは目印に使うために分かることが多い。電話に出たセンター担当者は、入谷駅からしか来たことがないからガイドできないと説明放棄。入谷駅は路線が違い、乗継ぎを大回りしないと出られないという状態で、地元の方に聞いて、やっとたどり着いたときには1時間半が経って、講演が終わっていた。しかし都内、地元の方に会うことの難しさ。みなアルバイトとか住民ではない方ばかり。地元商店自体も少ないのだ。

到着時、小休止を挟んでQ&Aに移るところだった。参加費の2千円を支払い、満席の会場の席の間に無理やり座って再開を待った。さすがに係が事情を聴いて2千円を戻してきた。笑い事のようだが、昔、会場が赤門から筑波に変更になったときは、茗荷谷ではなく、本当に筑波まで行ってしまったこともあった。院生も大学事務局も茗荷谷ではないと言い張るからだった。この日、帰りは東海道線終電一本前になってしまった。つくばエクスプレスがまだない直行バス時代だったからだ。余計なことだが、そのとき、行きに筑波の某学部でベネッセの担当者と会ったので、先方も振り回された一員だったのだろう。

トラウマ的脱線はともかく、今回の会場の特徴は世代が若いこと、アスペなどの高機能の当事者がリクルートスーツで、こちこちの業界弁を使っていたことだ。Kaienは、発達障がい当事者が作ったIT企業。2年間米国で実績を積んで日本に移ってきた。日本の関係者ネットを作る活動に入っており、職域を拡張することに挑んでいた。Q&Aの時間が長かったので、何人かの質問者の身元が分かったのだが、すでに関係業種に就職を済ませた20代当事者が、ネットワーク参加を目指して会場に来ていた。他の参加者も人材派遣関係者とか、発達障がいに関心のある医療行政関係者とか、病院医師がちらほら。後は主催者の若手ばかり。ビジネスの顔でお互いがつながっている雰囲気は、私などが行う、親の会の会合とは異質な話し合いの場なのだった。

講演者鈴木氏は経営者と私人の顔の間を揺れ動いていたが、彼の応答を聞いていていると、他の若手経営者にも共通するいつも呆然とする場面がある。

私が就労というとき、その職場は地域消費生活場面であることが多く、企業間を渡るビジネスを想定することが少ないこと。(DAISY出版の提案などは例外に近い。)また、企業というしつらえた枠に個人をはめ込んでいくのではなく、彼の適材となる仕事を作ることに重点があるからだ。加えて私は重度の方も「関係の中に置く」ので、彼らのいない健常者の仕事には、かみ合わないのだった。

鈴木氏の応答の中に、障害者の仕事というとというくだりがあって、作業所の福祉労働のような仕事はと距離を置く発言なのだった。IT産業は、構想力と腕力、経営センスが業者間比較的平等に問われる競争社会であり、参入の門戸は実力主義的な意味で、開かれている。だから発達障がい関連の、一芸に秀でているタイプの方には、あてはまる方が出てくる。しかしそれらは、就労はあくまで個人のものである。ともに生きていくために生み出される起業とは距離があり、相互の言葉は閉じている。

鈴木氏は若い。その奥の気迫のようなものを感じていたのだが、この若い経営者たちを経営のディスコースからはずれた語りをしてみたいと思うのだ。構想の差異はおそらく架橋されるだろう。私は彼らとビジネスではなく就労を語る場を作り出したいと思っている。密な対話なら「『わーく』編集部」の「取材」や「懇談会」だろうし、より大きな地域構想や、近未来の見通しを踏まえた論調を立てる提案の仕事だろう。仕事の紹介企画なら「スペアちがさき」に振るべきだろう。「就労支援PJ」なら、協働の横断ネットを踏まえた「講演会」や「見学会」、行政を巻き込んだ提案企画の推進だろう。当事者活動の登場は「『わーく』編集部」と「若松町・夢ある街ののたい焼き屋さん」だ。

鈴木氏には取材の御願いをしてきた。なかなか出せない紙メディア「わーく」のNo.02&03に、静岡の津富氏と東京の鈴木氏を勝手に予定している。鈴木氏については、職域拡張とツールの役割の話で、中邑氏の講演の現場からの構想の話をからませたい。地域起業にはIT系を地域システムとからませて構想してみたい。その形が真似できるようにスタンダード構想を作りたい。

この会場では、ある人材バンク(専門職派遣系)の方とも話をした。こちらは就労情報ネットの相談相手のひとりとして、今後連絡することに。もうひとりの派遣系のひとは求人状況の件と、今抱えている引きこもり青年の神奈川版相談で一度会うことに。最後は牛久の発達障がい担当チームの精神科医師と連絡を取った。その意味で、主催者の方には感謝せねばと思う。

遠方の方との窓口拡張は、メール交流が中心となるが、地元の方だと実際に対面し活動共有しないといけない。父のこの状況では、まだ活動拡張できる状態ではなく、その限界を感じてしまう。隙間を縫って水路は開いておきたいのだが。

------

ビッグイシュー基金の方から、無料カップ麺配布の話が飛び込み、地元カトリック教会の炊き出しに使ってもらうことで、カップ麺300食、焼きソバ300食の合計600食を仲介することになった。段ボール箱50個が届く。配達をどうするか、調整中。

夜間傾聴:1/11 □□君(仮名)
        大森海岸君(仮名・傾聴にあらず)
     1/12 □□君(仮名)
       ******君(仮名)

p.s. 右目の視野がまだらに欠けている状態がきびしくなってきた。字の形は見えるが宝だか寛だか区別がつかない。年末年始とお盆以外は休まない眼科なので、明日行ってくる。介護の限界と、本が読めなくなる危機感あり。


(校正2回目済み)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

錦糸町、幼児に用事を乱されつつ

2010-01-11 14:29:42 | 引きこもり
とにかく午前中の企画は嫌である。一昨日、朝9時からのスペアちがさきの定例会は、結局定時には間に合わなかった。早朝、おっつけ仕事で仕上げた提案書を、定例会に向かう途中、茅ヶ崎サポセンでプリントアウト。既に試写を終えた定例会に1時間遅れで飛び込んだ。「プライド・in・ブルー」という知的障碍の2006年INAS-FIDサッカー世界選手権大会に出場した日本チームの記録だ。

ひとつの夢に向かって、ひとの思いが束ねられていくときの人間模様というスタイルは、いつも応援席に座ると、外側に押しやられた人の冷え冷えとした視線を感じて、私は熱くなることができない。内ができることは外が出来ること。まあ頑張ることがいけないというのではないから、やめろとはいえないが、私の役割ではないと感じている。すねているのではなく、どんなに抑圧されてきた方たちのチームであっても、観客になれない方、観客という役割にはめられることを拒否する方がいる。その存在に自覚的でありたいと思うから、この手の呼びかけにはいつも乗り切れない。感動にはいつも作り物と排除の棘が刺さっている。

そこに、就労支援レポートの上映と講演を持ち込むのである。事前に会の代表に画像を見てもらっていたとはいうものの、なんともタイミングが悪いのである。会館のロビーの長いすを囲んで話し込んでいる方たちに、私の席を空けてくださった方がいらしたが、荷物を押しのけ、ロの字型に組まれた長いすの隅に外側を向いて腰掛けた。他の方が立っているということが許されることではなかったからだ。

身をねじって提案書を配布することが、今の自分の心境そのままだった。この団体は、年度計画をたててその中で動く。自然発生的な活動ではない組織型の活動を基本にしている。話は、やはり、新年度提案として4月以降に提案は持ち越された。私が持ち込んだ都教委のビデオの一番の見て欲しい相手が、手帳を持っている方ではなく、高機能の方、手帳を取得していない、または「しない」層の方たちだったから、この判断は、提案はしているので尊重しようと思っている。

特別支援校(旧養護学校)を経ている方たちの活動は、身体や精神などの中途発症者の方を含んでいても、子どもの頃からの「育て上げ」の延長に就労支援が出てくる。社会の課題というより、当人の課題なのである。その意味で当事者家族のハンデキャップを超える長年の関係者の結束が出来上がっている。

支援の制度枠も、福祉系の事業所か福祉枠の企業就労に向けられ助成されている。だからいわゆる地域起業のような活動は副次的に扱われる。社会参画という側面は、企業生産活動の職場の人間関係と営業上の社会性という話になっていく。

健常者とともに働き、生活圏に知人・友人として人間関係を取り結びながら生きていくという前資本主義的発想は、作業所の販売活動のような健常者とは別な、長年連れ添った仲間の結束の活動として発想されてしまう。「街の中で働く」という理想は、「ともに働く」「つなぎつながりながら働く」という線とは一線を画した、際どい純粋培養型の壁が出来てしまう。

この意味で言えば、若松町のたい焼き屋さんは、その境界を横断しつつある活動だが、店舗という、なかなか真似のできない高額な舞台を必要としたのである。その場所の目的が、使う当事者の生活拠点のような旧制度の発想を引きずってしまう。地域の方はお客さんなのである。

私の持ち込んだ企業就労紹介ビデオは、手帳を持った方の関係者には、既知の画像であり、高機能の方に偏した不満を抱えるものである。企業という社会、生産という課題、受け皿の場所という関心から観ることになる。しかし、高機能の方には、なかなか事前の就労ガイドのチャンスがない。一般就労の水準をクリアできるか否かを、健常者の事例を提供されて判断するというマイナスの見方で考えてきた。それが今回のビデオでは、これなら可能かもしれないという判断にシフトする意味合いがある。私の考える就労提案はここに仕事と人間関係、そして場のモチベーションの意義を大きく取り込むものなのだが、まずは、口火に当たる今回のビデオで、今までの就労イメージを膨らませることが出来ると思っている。今まで言われ続けてきた対人関係の弱さという制約も、実は企業ポリシーに大きく依存するものであり、実は予想しているよりは職域職種の拡がりがあるということも気付いてもらえると思う。それらの意味でこのビデオは、高機能の方向けなのである。

「わーく」編集部の日程はともかく、「サポチガ地域就労支援PJ」としても、とりあえず存続している今年度から、存在が保証されていない来年度の企画になることは、存続というバーを越えなくてはならないのだ。課題が投げ返されたという予測された宿題を抱えて定例会から席を立った。

-------

13時半からは、東京の「就労支援推進ネットワーク」主催の講演会「Kaienがめざすもの -Kaienの設立とこれからのミッション-」が予定されていた。駅の立ち食いソバ屋で慌しく食事を済ませた後、東京の自由昇降券を買って、会場のすみだ産業会館のある錦糸町駅に向かったのだった。

とにかく睡眠不足で体の節々が痛んだ。藤沢の昇降時の間に、少し強引な席確保をして、とにかく目を閉じた。闇がぐるぐると回り、気がついたときは品川を過ぎていた。

今年はどうやら厄年のようなのだ。会館は駅前の丸井の上階にある。エレベータに乗ろうとしたら、乳児をベビーカーに乗せ、3歳ほどの男の子を連れた母子が乗り込んできた。ベビーカーが入ったその後ろから乗り込んできた男の子が、エレベータの扉に挟まれそうになって、私はポケットから手を出して扉を押さえ、男の子を室内に入れたのだった。

このとき、私のポケットから切符状のものがぽろりと落ちた。次の瞬間、男の子がその紙片を拾って、ご丁寧にも、何を思ったかしゃがみこんで、床とエレベータの数ミリの隙間に差し込んでしまったのだった。男の子を危ない境目から奥に送ったところで扉が閉まった。私は左ポケットに重要なものを入れる習慣がないので、3枚の自由昇降券の注意書きが落ちたと思い込んでいた。

母親の謝罪を右ポケットの切符の存在を手探りして確認し、不要のものだったからと応答し、親子と別れた。このあと会場がないという異常に、会館事務局に問い合わせると、キャンセルになっているという。なにも指示が残されていないのだった。急いでiPhoneを使って、ネットワークのHPを確認すると、「台東区生涯学習センター」に会場変更さえているのが分かった。12月の理事長小林さんの茅ヶ崎講演の際、1月の研究会にお邪魔する旨、直接申し込んでいた。だから余計いけなかったのだ。急ぎ地図を確認。どこからも遠い会場に、浅草橋経由の浅草というコースを選び、改札口を通ろうとしたら切符がなくなっていた。エレベータの隙間である。視野の狭い幼児の関心の示し方の典型例を味わってしまったのだ。私の右ポケットにあった切符は切符の領収証だった。

ダブルパンチを食らって、パスモで改札口を通った。切符を買ったことが仇になってしまった。浅草の改札で、通過する前に駅員さんに台東区生涯学習センター隣の金竜小の場所を聞いた。それなら田原町からの方が近いというアドバイスをもらって、合羽橋の端の田原町から会場を探し出した。ところが土曜日、店の休みが多く通行人がいないのだった。センターに電話すると、入谷からしか自分が来たことがないと、話の要領を得ない。結局錦糸町を出て1時間半後、講演が終わったところに飛び込むことになった。会費2千円。私は会場で「わーく」の取材源となる方と接点を取るもうひとつの目的があったので会場費を払ってQ&Aに参加した。

さすがに主催者が事情を察し、会場費を返金したが、講演自体は全く聴くことが出来なかった。かわりにKaienの鈴木取締役に取材の約束をとることが出来た。また牛久の発達障がい外来を持つ病院の担当医の方と知り合いになって、お時間を少しいただいて、取材の基礎を作ってきた。

ここの詳細は、雰囲気がかなり違う。ただ、主催関係者や、研究会講演者がかなり今後の茅ヶ崎講演会の講師と重なるので、ここは次回の話に譲る。とにかく年齢層が若い。白髪頭は私以外はひとりだけ。問題意識の差が大きそうだ。

とりあえず、中途ご報告、どじ話なり。


(校正2回目済み)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

峠を越える

2010-01-09 07:09:06 | 引きこもり
学習相談の話で第二ラウンドは教室から訪問へと転回される例は、後日長引くことが多い。詳細は語れないが、様々な事情が背景に隠れていて、こじれていく先にに、次第に過去の事情が見えてくる。このとき、それが当人には焼きついた記憶でる場合、焦ってはいけない。しかし現実には入試のようなタイムリミットが待ち構えている場合、今回はやめておけといえるだろうか。どうしたものかなと、この仕事の初心者のように際どさに戸惑っている。

東林間の駅で猛烈な眠気に襲われた。金曜日は午前中から父の身辺介護のヘルパーさんがやってくる。○○はどこにありますかとか、確認印をくださいとかいう具合に、私の眠りがいつも中断される。5時か6時に就寝の生活パターンだから、9時10時に起こされるのは堪える。仮眠後、父の朝食を早めに作り、食べさせてからゴミ出し。床につくと1時間ほどでヘルパーさんがくる。この日、母が歯科通院で抜け出した。そのしわ寄せが来ていた。

網膜色素変性症の進む右目に、再び湧き水の影のような縞模様が猛烈に視野を明滅させたので、危険を感じてこういうとき利用している某病院の、外来の椅子に座って目を閉じていた。

どのくらいたったのだろう。私は眠っていた。携帯が鳴って目が覚めたのだが、母が帰宅時間が遅いので、様子を確認する電話を入れてきた。日が暮れていたので、慌てて帰宅した。駅ビルで買い物を大雑把にしたので、食材が足らないがなんとか惣菜を作り上げて、飯が炊けるまでTVの前で頬杖をついていた。

そこに北村年子さんから、お叱りの電話が飛び込んできた。私の手配の段取りが問題であるとのこと。確かにフライングがあり、謝罪した。しかし懐の広い方である。抗議しながら選択の余地をきちんと空けてくださっていた。なるほど若い方の心のうちを捉える方だなと、勝手に感心していた。

2/20の上映会は取りやめ延期または、他団体企画への合流という調整が次の段階に入った。北村さんの書は太郎次郎社から出ていた。この出版社は、昔、教育雑誌の「ひと」という教育運動の渦を作った出版社で、私も「私塾の会」という団体を運営していた。だから懐かしいところなのである。

そういえば北村さんの著書は、その文体の香りがする。私は「ひと塾」に物足りなさを感じて教科研究者の団体や、自分の塾の活動に集中する時期があった。やがて「ひと」は、教育運動の山場を終え、会員制の雑誌に転身していた。私の塾も、経営と我が家の高齢者軍団の介護に追われることで、副業として、前から収入のために行っていた予備校や進学塾の講師の道に軸足を完全に移したのだが、容赦のない介護と仕事の日々に枯渇を感じて、学習困難な子達の特別な指導の活動を加えていた。今日の東林間の社会から切断されたような眠気は、その頃のフィールド。当時の記憶につながっていた。

こういうときは仕事が粗くなる。予定通り市議会への遅いチラシ投函を済ませて、とにかく帰宅し、夜間傾聴は中止しようと決めていた。

以前、沼津に移住した教え子が精神科の治療を受けていたのだが、私が帰宅してすぐに、亡くなったという知人からの連絡が入った。肝硬変である。年末に内科病院に転院して亡くなっていた。平塚に実家のあるボランティアが、偶然彼の転勤先の近くであるという事で、私からケアをバトンタッチしていた。そのボランティアの方から、年始の電話によって、悲しい情報が伝えられてきた。合掌。何人引きこもりの若い方の死を見てきただろう。

この電話が実際上のボランティアの方への夜間傾聴となった。□□君(仮名)には謝って、欠かせない作業の後、とにかく眠ることにした。幸い父が大人しく助かった。5時前。

これから朝9時から、スペアちがさきの定例会である。13時半から錦糸町で、就労支援推進ネットワークの社会的「起業」、「Kaien」の話と、アスペ当事者の講演会の講師の方と連絡が取れるので、「わーく」編集部企画のほうで結び、話の芽を育ててくる。夜は町田巡回を済ませて帰る。父の面倒は18時まで母の友人親子が留守番をしてくれることになっている。Oさんの「湘南HL便り」を錦糸町に持っていく。

日曜日は全国LD親の会の会合があるが、巡回が夜にあるので、休むか…。母の状態と眠気次第なり。


p.s. 浮ヶ谷幸代さんの力作「ケアと共同性の人類学―北海道浦河赤十字病院精神科から地域へ」が届いたが、当分は「つん読」。浦河べてるの家をとりまく人間関係の社会学。

虚しさを飲み込み、西方向いて合掌。1時間ほど仮眠する。

夜間傾聴:中止

(校正2回目済み)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする