2014/01/30 記
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二宮の故**先生のお宅の遅ればせの弔問を済ませてきた。昨年10月に逝去されたのだが、元研究会の他の会員の##先生宛に喪中葉書が届いたことで、亡くなられた事がわかった。
近所に娘さんが転居してきたことで、奥さんは見守られていくことに。数十年前、私は数回お邪魔しているのだが、チャイムに応答されて玄関に現れた奥様は、そのときの印象と全く変わらない張りのあるお声で、逆に私が驚かされた。
一次資料の山が玄関・階段にずらりひしめいていたお宅は、清楚なお宅に変貌し、自筆の絵が静かに仏壇を見下ろしていた。奥様によると、心血注いだ研究書の上梓と夫婦の欧州旅行、おいしい外食という3つの約束を守って他界されたという。とにかく静かで芯の通った方だった。奥様の、悲しみを懸命にこらえている様子が読み取れて、私の雑談はつい途切れがちになってしまうのだった。私の記憶をともにしてきた方々が、次々に旅立ってしまう。それと同時に、研究会参加者の面々が歩んできた道を知るにつけ、互いの距離の広がりに呆然とされる。
しかし、他の方もそうなのだが、皆、高齢者の公共の医療・生活サポートをほとんど利用されていない、というよりご存じないということだ。「養老院」という詞を久々に聞いた。通院治療で閉じているがゆえの医療ソーシャルワーカー(MSW)さんや、リハを媒介とした地域のケアマネさんとの出会いが、システム化されていないということだ。
在宅治療を行う場合、早期の地域のケア・サポートが入っているかいないかは、介護者の残される者の心のケアにも大きな影響を与えるものだと痛感する。
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予想外に解散時刻が遅くなったので、車で送ってくれた会員さんに頼んで、大磯駅に送ってもらった。相模大野校の時刻が迫っていたからだ。
懇話会の第4回講師の小山貴さんから、3/10夜の日程をいただいた。車内からさっそく市のコミュニティホールの会議室を確保した。しかし、36名定員の部屋は大きすぎる。元女性センターでは、市役所との距離があり、行政関係者の参加が鈍るように思われた。小山さんに御願いしたのは、
1)被災時行政の個人情報開示の大切さとその効果
陸前高田の市民アンケートと訪問支援の変化
2)被災障がい者サポートと今後の防災の経験継承課題
というような、「被災障がい者の地域サポート」の課題だった。
だから、丁寧にこの課題の議論が、現在急務である背景とともに説明して回りたい。帰宅してから、懇話会の通信を書き始めた。
来年度、懇話会は「被災後、地域特性に踏まえた訪問診療の課題(プライマリ・ケア連合学会PCAT)」「福祉避難所・施設と地域サポート」の話を考えている。しかし、東北の被災者の方々への連携生活支援は、依然としてテーマ化しにくい壁が立ちはだかっている。東北太平洋沿岸部の「高齢化・過疎化・地域医療空洞化」の傾向へと突き進む状況へ、外周にいる者としてなにもできないのかという問いが脈を打って残されているのだ。
宮城県の高齢者施設の被災レポートが届いた。
●「『証言』~3.11託老所の真実~」(みやぎ託老連絡会編)
夜間傾聴>ひとり(ちとしんどかったね)
(校正1回目済み)
2014/01/29 記
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JDFの小山さんのご厚意で、旧年度内に懇話会の会合をひらくことができそうだ。なんとか3月実施で調整している。
橋本での指導を終えて、父の墓地候補の伊勢原に立ち寄った。無宗教だが、どうも特定の宗派の感じが残っている。近場に条件があった墓地が無い(大庭は藤沢市民用)という状況を知らないから、ここは母に反対されるだろう。どうしたものかと思案しつつ、路線バスで平塚に出て、図書館の書籍を更新した。
平塚の図書館は、路上生活者の防寒の場となっている。ここにきて、知った顔の路上生活者を見ると声をかけることにしている。平塚球場の周辺でお見かけする方が囲碁の本を見ていた。声をかけても、蚊の無くような声で「あぁ!」と応答するだけで話の接ぎ穂がない。結局対話にならず、「また…」と挨拶をして別れた。
買い物を済ませ、平塚の市民活動センターに立ち寄って、懇話会の話をする。**さんは長ネギの見える袋の方が気になって、懇話会の目的が通じ無いのが悲しくもある。東北の被災地から離れて、私たちの健忘症が始まっている。だからケア関係者の災害対策担当者から見通しを持っていかないと、平和ボケに飲み込まれてしまう。
明日、私の先輩旧友の弔問にいく。私の中学時代の同級生の恩師だが、私とは同級生に紹介されて、教研で異分野交流のような感じだが、交流を続けてきた経過がある。数十年前の話だ。60年安保のとき、故・樺美智子と同じゼミに通い教職の道を歩んだ方だ。私の世界は常に現在に構造的に拡がっているが、##先生たちの発想は、時間軸を骨格に持っていた。その視野の差が新鮮だった。
気分を変えるために、髪を切った。といっても、少ない白髪、合わせ鏡ですいていく。ざっと10分、洗髪すればなんとかまとまる。片目が見えなくなって、大半が手探りになったから、雑だ。
今夜は、異様に電話が鳴った。4人。過去第2位(かな?)だ。
その電話で塾長が、フィリピンから帰国したことを知った。
就労関係がふたり、発作緩和がひとり、孤独と不眠の受験生がひとり。私はひとり。
湯豆腐の作り方、卵の割り方を傾聴時に薀蓄話、話題に。なんとなく、ただなんとなく。落ち着いたからそれでいいのだ。
夜間傾聴:4名
(校正2回目済み)
2014/01/28 記
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次回、懇話会ゲスト予定の小山様からメールがあった。このブログをご覧になっているとのこと、いい爺ぃが恥ずかしい次第です。
31日、橋本巡回が夜に回せたら、東京巡回してきます。アポなしだが、JDF(日本障害フォーラム)の本部と河北新報東京支社にお邪魔してくる。**子の駆け込み寺の住職とも会えたら会って来ようと欲張っているが、時間的に無理かなと。
辰濃哲郎氏とコンタクト取るためには、出版社を経由しなくてはならないようだ。出版社は私の契約教材屋のある小川町からすぐだ。電話で教えてくれたことがないから、行くとなると31日は忙しい。辰濃氏からは、「脇役」とされる医療スタッフを含んだシステム的な視点は、被災時ネットワーキングを発揮する大事な視点。論点はもう少し整理せねば。昨日の2冊の著書はお勧めである。
今日は青色申告の準備と、受験生の愚痴聴きをしていた。母の不定愁訴が始まっており、気分変えに風呂に入ると言い出したが、ひとりで風呂に入らせるわけにはいかない、ただ隣の部屋で作業しているだけなんだが、風呂場の転倒は、高齢者には致命傷になりかねない。結局足止めのまま、母を避けつつあちこち部屋をPC担いで移動しデスクワーク。
夜間傾聴>臨時休業(体調)
(校正1回目済み)
2014/01/27 記
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懇話会の目的は、ケア関係者が震災津波災害に備えて、マニュアルを超えた実践イメージを持つことによって、様々な防災活動や東北被災者支援活動を生み出し、官民協働の地域防災ネットワークの内実を引き寄せるための初動・種まきをすることにある。
そのためには、アクチュアルな経験追体験と課題の再構成という厄介な舞台を設定することを活動の核にすえた。被災地の直面する課題に取り組む被災当事者、それも自分の置かれている状況を大局的・多面的にとらえている方をゲストに招くことによって、短い時間ではあるが、懇談の口火を切ってもらうことにした。結論を出す場ではなく、様々な活動のポテンシャルをあげる場として展開する。
黒田裕子氏の時は、阪神・淡路大震災の救急看護を生み出した方として、震災当時から19年の現場からのレポートを御願いしていた。
小野寺彦宏氏の時は、東日本大震災の被災認知症者とその家族の視点から、安全避難よりも、話が伝わってこない避難生活の困難の実態を軸に、医療・福祉サポートの状況も語っていただきたいと御願いしていた。
遠方からゲストを招くということは、実際に顔をつき合わせて企画の問題意識とゲストの意向をすり合わせていく作業が困難であること。必然的にメール交換や、SNS対話が必要だが、年配の方が多いこともあって、FAXや肉声電話に頼ることになり、懇話会の「ケア関係者の懇談」という従来の講演会とは異なる場に躊躇されており、目的を語ることが空転してしまうという問題が起き、それをなかなか修正できないという問題にぶつかった。
それぞれのゲストは、地元と全国の講演会に活躍し、黒田さんは若い看護師の育成に、小野寺さんは認知症の家族の困難改善に、岩手県や全国で講演をされている方だ。そのために、黒田さんは救急看護のセオリーを語り、小野寺さんは主張を抑えてルポライターに徹されたという経過がある。スタイルを崩すことにストレスを感じておられた。
一方、懇話会参加者は、大きく分けて「障がい者支援領域」の方と「高齢者支援領域」「防災対策領域」の方がいらしており、「障がい者支援領域」の方にも、「視覚障がい・聴覚障がい・身体運動障がい・内臓障がい」等、被災時身体的困難から被災を焦眉の課題としている方がおり、「知的障がい・発達障がい・精神障がい」のように状況把握と適切な判断に困難があり、避難後の集団生活課題に比重がある方がいらっしゃるというニーズのずれが、入り組んでいる。
「被災時要援護者」という概念は広く、妊婦と乳幼児を抱える母子や、日本語のわからない在日外国人を含んでいる。懇話会は傷病者・障がい者・高齢者を軸にした地域ネットワークの芽をアプリオリに設定しているが、被災直後、死線をわたる可能性を抱え、医療・介護支援が必要という特徴を持っている。実態としては、そのサポートは平常時、縦割り行政の支援の形でそれぞれ別物として運営されており、その軋轢は災害発生時、意思疎通が混乱する難としてあらわれる。しかし、各領域の当事者はそれぞれの事情の中で、互いを疎遠なものとして、自主課題に反映してこなかった。
更に加えて、災害というものは、明日起こるというものではなく、それゆえに、いかに発生確率が高率でも、今早急に解決すべきことという認識にならない。想像力の欠如が横たわる。懇話会は、これらの困難をだからこそ「ケア関係者」というアクティブな方から語りかけ、互いを架橋していく方法を取っているのだ。厄介なのは当たり前、そこに現場主義のリアルな感覚をいかに喚起するかが課題なのだ。企画の狙いと質を落としてはならない。
今、JDF(日本障害フォーラム)岩手県支部の小山貴さん(理事)の招待のための準備に入っているが、懇話会の仕掛人としては、この3回の懇談にある被災地現地のリアルな課題の共有を抽出する作業の傍観的な観察ではなく、ワークショップ的な現場当事者の実践的眼差しをどう引き出すかに腐心している。ここが「ケア関係者」懇談の価値になるだろう。
南相馬市と陸前高田市は、被災後、行政が関係団体に個人情報を開示し、陸前高田市ではそれに基づき、アンケートが行われ、訪問支援に活かされているという。個人情報の非開示は、被災時、支援の大きな壁となっている。そこを超えた数少ない先進事例であることから、小山さんに、ここから語ってもらうという切り口を立てた。
しかしこれは、災害対策支援の担当者としての自覚がある方にとってのリアルであり、患者と家族の会・当事者と親の会のとして、防災は未成熟な課題ゆえに、空転が予想される。
何を懇談テーマに引き込んでくるかということは、非常に難しい。実はこの後、避難生活と訪問医療と精神環境支援を医療サイドのゲストから語っていただくことや、避難所・福祉避難所運営と在宅避難者、支援者の有効活用と生活支援など今後の課題も練っては、いる。
当座は小山さんともう一度話し合いたい。ここを丁寧にすりあわせていくことから始めていく。また参加者にも中間報告を入れていくことを心がける。このため、JDFの東京本部とも話し合ってみる。またその先のプライマリ・ケア連合学会のPCAT関係者と話し合う。
これとは別に辰濃哲郎氏に会えないか動き出した。ただルポライターの方なので、懇話会ではなく「わーく」編集部呼びかけで一般向け講演会を組めないか打診をはじめる。「「脇役」たちがつないだ震災医療- ドキュメント●東日本大震災」・「海が見える病院 - 語れなかった「雄勝」の真実」の著者である。
とにかく謝金・交通費がかかる。今後15万円私費でだすことになる。一般公開型の活動ではないから、公共の助成金の対象としては難しいだろう。カンパ要請のためにも、来年度企画予定を固めていく必要がある。
夜間傾聴>ひとり
(校正2回目済み)
2014/01/26 記
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故・父の信奉していた宗教団体が、昨日父の追悼集会をした。勿論、偶像崇拝にあたる遺影などのない風変わりな集まり。しかし、私も母も出席しなかった。信者の中の何人かとは、友人付き合いはあるが、宗教は別。
キリスト教特有の父権主義の濃い家庭観を持ったところが、父が気に入ったところだったと思われる。儀式が終わったと古い付き合いの信者さんたちが、「赤い」色の入った花束を届けにきたのだった。復活があるから悲しい出来事ではないという意味らしい。その花束を水あげして花瓶にさし、骨壷の横に置いた。父との長い対立の結末だった。
しかし、母も私も終末に向かって残り時間を使いこなしていく年齢になってしまった。介護は当人と介助者の命を食い潰していく。だから介護は家族に閉じてしまってはいけない。センチメンタリズムに陥ることなく、生を全うしていきたい。それは介護に携わる他者も同じだ。そこに境は無い。つながらなければ、生の時間と機会は食いつぶされていく。「人が深く気持ちと時間を共有していく貴重な時間が介護の時間だ」と言った某キリスト教系大の社会学者がいる。ああ、このひとは在宅介護をしたことがないなと思う。愛憎渦巻くものの奇麗事ではすまない営為が介護だ。それを入れ込まない妻子を従えた介護する家族とは何なのか、親父は答えぬまま逝ってしまった。
母が断捨離をするのだと、押入れの上の袋戸棚に脚立を持ち出して、荷物を下ろし始めた。祖父母の代の衣類や、父が宗教を始める前に趣味にしていた、煙草ケースやパイプなどを下ろし始めた。私は遅れていた作業があってPCを抱えていた。母が転倒してはならないので、脚立を抑え、私が脚立に乗ったが、古物整理は、やりたくなかった。母は捨てるというが、明日は市の廃品回収日ではない。廃品回収日の前日に手伝うからと母をなだめて、やっと作業時間を作り出した。以前、浜見平の書斎を借りる話もあったが、それは、邪魔されない作業場が欲しかったのだ。しかし母は持病があるのに、目を離すと脚立ではないが危ういことをする。教室や集会の会場に行けば、母はひとりである。ひとりは、やむを得ないと思うのだが。
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昨夜、新聞記事のピックアップをリンクした。(前記事)その中の記事のひとつに
●「緊急時、自閉症の子に強い味方 携帯カードで安全・安心」
がある。私は日本ロレアルでいただいたカードを持っている。被災時、自閉症の方の安全を確保するために、「周囲の方の理解と協力を得るため」の情報を書いて持ち歩くというものだ。 A4という大きさに驚いた。しかし混乱した状況下で、その文は読まれるだろうか。
カットを入れて直感的にするのも手だが、カードには「この子のスマホの緊急アイコンをクリックしてください。」とだけ書いておく。アイコンをクリックすると、親からのメッセージと動画ファイルが動く、そういう「話を聴く」場面をつくりだした方が、混乱時の注目度は「聴く」方が強い。スマホを持たせることへの賛否が分かれるところだが、機能制約ソフトを組み込んでおけば、自宅・支援者・職場(学校)の3箇所だけタッチ・オンできるソフトと、動画ファイル支援依頼ソフト、GPSデータで自動救援依頼メールするソフト、彼の一日の予定掲示ソフトの4つが画面ランナーに組み込んであれば全く変わる。
支援要請のための症状理解促進データは
「読ませる」>「画像付スマホで聞かせる」
当人には、セットアップしたスマホを所持してもらい、カードは「この子のスマホの緊急アイコンをクリックしてください。」というメッセージと、医療個人情報QRカードを組み合わせたカードを持たせるといい。
救援依頼カード
医療情報カード(QRカード)
この2点をまとめたカードを持たせよう。そしてスマホに統制をかけた上で、スマホの多機能を利用すべきだろう。主役はスマホ&QRカードなのだ。
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宮城県自閉症協会に連絡を取ってみる。勿論カードの件だ。
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障害の種類によって、安全誘導を求める方に比重がかかる場合と、身元消息送信・医療情報に比重がかかる場合がある。視角聴覚身体障がいの自己表現出来る方と、知的・精神・発達障がいの場合である。更に内臓障がいや、認知症などの疾患を含めると、まだ研究がいる。
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被災地における「認知症カフェ」「暫定介護度」をめぐるエピソードを集めている。河北新報東京支社にまた出かける予定。(JDF日本障害フォーラム訪問と同じ日)
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今日、「たまり場主催・高岡健講演会」が川崎であった。ちょっと刺激的な人なのでいくつもりでいたが、ここ数日の疲労でいかなかった。フットワークが重くなっている。そう思う。
ブイヤベース・鳥の胸肉一口ステーキ・アンチョビソース野菜サラダ
猫なみの夕食。母2/3食、まあ良し。
夜間傾聴>怪我をした*君の母親(捻挫その後)
ひとり(受験生)
(校正2回目済み)
2014/01/25 記
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いつもより1時間前に床についた。寝不足だろうと思う。相模大野校の方は、不登校・引きこもりの若者の切捨てに舵を切ったが、JR相模原の塾は、背伸びしている子たちが何人かいる。
この時期、引きこもりの子たちは、悪い予想を先に立てて、だから無理と現在を壊してしまう。世の中はそんなに甘くないが、やらなければ0、やらなければダメなことだけは確実なのだから、未知数であれば、やるべきなのだろう。どうせだめというのが実は先にあり、すくんでしまう。わかっているのに、本番で壊れてしまう。
そういう子がセンター受験を済ませた。ところが担当の塾長がフィリピンに行っているということで,専任講師と分担して、メール相談の伴走をしていた。だからその分、しんどかった。専任講師に、ガタがきていると説明し、急な相談役は無理と身を引いた。
今日は相模大野校の日だが、事務長の送り出し会やら、新年度の新採用専任講師の研修準備の話などで、授業は取り出し指導だから欠勤した。契約講師の軽さではある。一日中、家事と本の整理をやっていた。
野田村の話をつけた。つないだだけだから、あとはレストランと野田村の方と、直接やってくれとメールして、これも始末終わり。
PCで、チェックいれているニュースが少したまった。気になっているものをランダムにあげてみる。自閉症の子に「携帯カード」の記事は、改めてコメントを書く。
●「大船渡市の行政連絡員制度 合併12年経て一本化へ」
●「緊急時、自閉症の子に強い味方 携帯カードで安全・安心」
●「仮設目的外使用拡大へ 空き住居、柔軟利用 復興相」
●「精神的サポート必要な児童生徒 岩手沿岸部横ばい13.7%」
●「かかりつけ医と高度診断機関 認知症ケア役割分担」
●「生活困窮者の就業支援 世田谷区 求人情報コーナー」
以上
夜間傾聴>臨時休業
(校正1回目済み)
QRコード医療情報カードと、マイクロFMの可能性のリーフレット化をする件で、準備していました。(実際に印刷配布は、当座しませんが。)
夕方の異様な眠気、足のつりが極端になって、休んでいます。
ごめんなさい。
2014/01/23 記
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懇話会の通信No.004 配布し残していた事業所など、巡回、全て終了した。
ある包括支援センターでは、小野寺さんの講演に評価をくださった。不思議なご縁なのだが、その包括の事業所の場所は、私が若いときに塾を立ち上げた場所。建物は3代変わっているが、私が立ち話をしている場所に、昔、私がそこに立って授業をしていた。全く関係ない話だが、不思議な感覚だった。もう40年以上昔の話。
もうひとつの包括では、対応が急変した。急に警戒して冷ややかになった。またかと思う。運営母体の主導者の方と10数年前に、対立した。それが現在も尾を引いている。活動の質を保持していく以外、信用証明の方法が無い。
ある病院系施設では、毎回担当者が違う。だからその都度、概要を一から説明しなおさなくてはならなかった。しかし、今回、偶然に、故・父が一時利用していたことがあり、そのときのケアマネさんと出会った。前回のことだ。今回は別の方なのだが、たちまち話を受け取ってくれるようになった。しかし、経営母体は、一番冷淡な対応の団体なので、組織としての協力は望むべくもなかった。しかし、前進ではあるのだ。
もうひとつの施設は、祖母や父が利用していた施設。ここはもとより話をしっかり聞いてくれるところだが、基本的な施設運営以外は、どこの団体でも参加しに出向かない。ボランティアが施設訪問することは歓迎している。
疲れて、昔から高齢者の訪問治療に熱心な開業医のところに立ち寄って、休憩しつつ挨拶してきた。事前に連絡をくれれば、診療時間外なら話を聴くと言ってくれた。
また、ある訪問看護の事業所では、二階から声が。インターホンに資料をいれたから読んでくれと伝えた。電話中だとわかったからだ。こちらは読むだけは読んでくれる。
一巡を終えて湘南台に出た。立ち食いソバで当座の腹ふさぎを済ませ、味の文句を言いつつ相模大野校へ。相談指導と月例書式をまとめ伸びをしたら、急に血の気がひいて、ソファーに横になったのがいけなかった。爆睡、大いびき。起こされたので時間は短かったが、事務長と同じくポンコツ風評蔓延の感。居直ってコーヒーをあおって帰宅した。
「野田村のなんとかさんとかから、電話あったわよ」と母。名前をはっきりきいてくれないので応答のしようがない。塾卒業生がレストランをやっている。野田村の塩を売りに出せないかと相談したことがあって、仲介していた。塩パックと塩飴だ。おそらくはその応答。陸前高田・広田町のわかめもそうだが、品質がまだ落ち着かないとのことで、店の採用まで行っていない。
こういう仲介話はいくつかあった。しかしそれは、私にとっては余芸。話がまとまっても、私の活動の進展にはつながらない。ここ数日疲れがでている。ろくなことを考えないから、あと1時間、夜間傾聴待機を済ませてとにかく寝る。あすから、JDF小山さんの3・4月講演懇談の準備を始める。
携帯電源の充電ケーブルがついに断線した。予備があるから大丈夫だが、どこが安いだろうか。補充するが、50cmで約二千円は高い。
母に紀文の具材でおでんを煮ておいた。孤食とごねずに食べた模様。
斎藤環氏の新書●「被災した時間-3.11が問いかけているもの」入手…、が、つまらん
。
夜間傾聴:ひとり
(校正2回目済み)
2014/01/22 記
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懇話会の通信No.004の巡回配布2日目、今日は仕事が橋本の訪問指導なので、国道一号線よりも北側と柳島を歩いた。この地域は次の場所を回るのに、一度茅ヶ崎駅に引き返さないと路線バスがつながらない。コミュニティバスによる補完も考えられるが,1時間に1本どころか2時間待ちの状態なので、利用しにくい。目の影響で車の運転が出来なくなったことの不自由さを改めて感じる。
包括3ヶ所、施設&訪問介護・看護事業所3ヶ所、団体役員宅1件、町役場1課、町社協1件の9ヶ所。日が暮れて最後は包括の事務所の鍵を閉める直前だった。残り6件。
今回は、団体役員宅で、なぜ一般公開型の活動にしないのかという質問がでた。今、被災地への支援は善意だけでは、ニーズに応えられなくなっている。避難生活の長期化のストレスフルな環境下の問題や、専門性を持った人材不足、安全避難だけではない避難生活を見通した防災ネットワークの立ち上げ等、要はケア関係者のアクティブな方が、新たな現状打破に動き出す時期だからだと応えた。不満そうだった。
懇話会は路線決定したり、行動提起したりしない。被災地の関係者をゲストに懇談し、被災現場の生情報に触れることで、参加者各人の活動に持ち帰り議論をしていただくという、緩やかな勉強会であり、被災時、要援護者支援の医療・生活支援の人物交流による官民連携のネットワークの芽に、勝手になればいいという公共空間に育ちたい。
私とて災害ボランティアは「わーく編集部」と「ペットレスキュー」置いており、懇話会の活動との混同は避けて行きたいと考えている。だから一般公開の企画は、「生命のことづて」等上映会や、被災地見学、個人医療情報QRカード開発などを行っていく。
懇話会は今後「ミニお食事会」で生活・医療支援に参考になる地元ゲストを囲んで4~5人限定で懇談する活動も立ち上げていく。活動の質の違いがご理解いただけるだろうか。
ある包括では、いつもながらの砂を噛むような思いをしてきた。責任者不在で、留守番の方が対応されたとき、「私には、わからない」とバリアを張られてしまうこと。それでは「担当者に渡してほしい」と告げると、「何のチラシか」と内容説明を要求されるが、説明を始めると、まだ一言しか言っていないのに「私には、わからない」の戻る問答が繰り返される。ここの包括は前回も他者が同じバリアが張られ、今回は「また来ます」と引いて、手書きメモを添えてポストに投函してきた。前回、傘を忘れて再訪問したとき、通信がゴミ箱に丸められていた経験があったからだ。
またある施設では、担当の方がいつも仕事中で、今回は不在。ところが階段を下りるとその方の姿が窓から見えているところもある。ここも門前のポストに通信を投函した。その方との政治的立場の違いが影響しているように感じられる。
だからそこに集まる関係者の方々に、情報が届いているかということは、絶望的なのかもしれない。しかし、可能性や偶然がある限り、情報提供は続ける必要がある。一般向けのチラシ投函よりは、条件はいいと思っている。
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センター試験を受けたひとりの弟がインフルエンザにかかり、兄が戦々恐々としている。東京の親戚のところに居を移して受験する騒ぎに。おかげで私の手を離れたのだが、母親からの相談がはじまってしまった。苦情処理屋再開。
日本障害フォーラム(JDF)と連絡を取った。陸前高田のアンケート報告書の残部をわけてもらうことに。次回の企画の際に配布できないか確認中。
2/2の上野千鶴子氏の講演会の入場整理券が届いた。謝金をいくらぐらいにしているのかなと気になる。来年度はじめのプライマリ・ケア連合学会PCATの講師依頼が大学付属病院の医師なので、直談判がいるかなと、金額に背筋が寒くなっているのだ。
明日は、相模大野校に夜。その前に巡回。
夜間傾聴:ひとり
風邪引いた子を抱える母親
(校正1回目済み)
2014/01/21 記
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懇話会の通信No.004 1/17認知症企画レポート号の配布を開始した。茅ヶ崎市内の全包括支援センターと、県茅ヶ崎保健福祉事務所、市社協、市役所各課と市議会、防災に熱心な訪問看護・介護事業者や、入所施設等各事業所、通信配布レギュラー障がい者団体、市医師会、地域CSW連絡会、その他を巡回する。
今日は包括支援センター3ヶ所と保健所、育成会、にりん草、市議団、市役所6課、その際であった議員二名、市社協と課長、老人クラブ連合会、民生委員一名。市サポセン、やまびこ関係者の23箇所で、残り半分を明日と明後日、相模大野行き前に配布。全100枚弱を撒ききる予定。
包括支援センターまわりの際に、訪問介護事業所の求人の話を聞いた。いわゆる電話番と雑務。トライアル雇用3ヶ月後,正社員とか。しかしここでもPC操作と最低原付免許の条件がついていた。そんなことがあって、原付免許取得にいくらかかるかをチェック。1万4千円ぐらいと判明。PCはオフィス操作だ。この間、就労支援してきた若者のことが脳裏に浮かんだ。二俣川の交通費を含んで2万円弱を彼が捻出できる方法を考え始めた。今回の求人には間に合わないだろうが、PCと原付が改めて心に引っかかっている。これが大概の求人につきまとっている。だからだ。
ついでにビッグイシュー誌を配布。山北の柚子の話、それは、いらないと思うと笑われた。携帯使い捨てカイロの件は受け入れるとか。某宿泊所。
包括支援センターでは、多少企画のレポート説明を行った。受け取りはいいが、事業所に伝わる際に、災害対策の必要性をどれだけ仲介してくれるかが問題。
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市役所の渡り廊下に、自閉症児者親の会の展示を発見。切り絵や似顔絵も味があるが、**さんの息子さんの路線図が面白かった。モンドリアンというか…。
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小野寺さんからいただいた被災スチル、一時、JR相模原の塾に掲示した。陸前高田の被災状況の3枚のスチルだ。必要があれば貸し出します。
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「生命のことづて」は3/15に平障連が平塚上映をする。ところが茅ヶ崎市内の町内会で上映の問い合わせがあり、やっと拡がってきたなと思いつつ、すでに1年を経ている画像ゆえに、特に地元施設関係の復旧など様子が変わってきている。立ち上がりが遅い、タイムリーではない。痛し痒し。
ともあれ、明日も巡回なり。
夜間傾聴>なし
(校正1回目済み)
2014/01/20 記
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懇話会のニュースNo.004を仕上げた。小野寺彦宏氏の「認知症高齢者と家族の避難生活の現状について」講演懇談のレポートを載せた。ただ、今回は現地レポートの体温と内側の目というような、被災者の生活を伝える上で、実は認識を変えるほどに大事な論議を記事に反映することを避けた。貫かれているのは、現地レポートをいわゆる「詳細」情報とする立場だ。前者は連携の結び目に関与し、後者は判断の予備情報に関与している。
今必要な、被災に対する想像性と自主判断の話なのだが、通信は、それを紹介する場面ではないと判断したからだ。以下がゲラ原稿、ご覧あれ。
----- ここから ------
東日本大震災の死者の多くの割合を占める「高齢者」は、身体的に逃げられなかったり、臨機応変な判断の鈍りから災害の直撃を受けてしまう。避難を終えた後でも、生活環境の激変や、ストレスフルな避難所生活によって、持病を悪化させたり、体調を崩して死に至る方々がおり、孤立化しやすい仮設入居後、家族生活に於いても、狭い間取りに適度な人間関係の距離感が保てずストレス神経症のような症状を抱えてしまう。
長期化する避難生活と、人手不足による訪問介護サポートの水準低下によって、健常者の影のように引きこもったり、寝たきりになる方の症状悪化が、問題になっている。そしてこのことは、首都直下型地震や南海トラフ地震が高率で起こる予測下、私たちもいつか通る道だということに気づかされる。
今回、岩手県の大被災地・陸前高田から、認知症の人と家族の会の岩手県代表の小野寺彦宏(よしひろ)氏をゲストに招いて、3年目に入る激震津波被災後の避難生活を語ってもらった。被災時の避難困難をはじめとして、仮設生活から施設入所の待機長期化にいたる、当人と家族にのしかかる事例を具体的に紹介していただき、ケアの現場に立つ者の見通し作りの一助として、懇談した。
対象を行政・民間のケア関係者としている関係もあって、毎回十数名の参加だが、今回も八名というこじんまりとした懇談となった。当初より、現場体験の共有という一般公開企画とは異なる課題をもつがゆえに、上限二十名程度が懇談が成り立つ上限なので、今回は半数以上を目指していた。
小野寺さんは、認知症の多様な現状を1)市内環境概括、2)施設入所者、3)認知症が原因の在宅被災者、4)避難所避難後、福祉避難所移動を迫られた方、5)仮設住宅入居後の困難、6)介護度認定への対応と、被災者臨時雇用による巡回調査員を含む支援体制により「暫定介護度」を導入した件、7)福祉避難所「炭の家」運営・「認知症カフェ」の実施という流れに沿って、隣人と会員さんの固有名詞を出しての経過紹介をしてくれた。
懇談では、TV番組で使われる手法の一家族の生活を内側から追うことにより、困難の進行を追う当事者の眼差しへの期待を語ったが、これは今回深められなかった。また、東北人の地域の絆の評価と得失論議、外部支援者の受け入れ例として、足湯は東北人の苦手サービスであることが語られた。初対面の方に打ち解けられず、逆にリップサービスで感謝することで、疲れてしまう話が小野寺さんから紹介された。
長期化する避難生活の現状に、訪問介護拡大と、外部支援者を含む孤立化防止対話環境の継続推進を鍵とした継続論議が必要という話で、企画を終えた。マスコミには出てこない現地当事者との語り継続を根付かせ、議論の「種まき」の場として懇話会の継続の必要性を強く感じた。この際、懇談の活性化のために、ゲストへの懇話会参加者ニーズとの事前すり合わせを丁寧に行う必要性を反省点としてあげたい。課題は広く、深くリアルに掴み取るために、議論の焦点化を進めることだ。ケア関係者対象の懇談が、地域の活動に活かされるコアな話題を企画化していきたい。
次回は、3~4月に、被災後、関係団体に情報開示を行った南相馬市と陸前高田市の効果レポートを、陸前高田の日本障害フォーラム・アンケートと、障がい者訪問支援の変化を、岩手県JDF役員の小山貴氏をゲストに懇談する予定。
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センター試験に関係する私の担当する学生は2名。電話取材とサポートを行った。その間に、また**子の騒動が重なり、近所の和尚さんの登場で一応鎮火させた。
食事後の血糖値異常あり、15分間小突いても起きなかったと母。ひどい疲労感があり、夜間傾聴を臨時休業している。
懐かしい、上野千鶴子氏の「ケアの社会学」を開いたが、数分で落ちた。今夜はこれで寝る。明日は午前中、母の検査に付き添う。
夜間傾聴>**子(和尚さんにバトンタッチ)
臨時休業
(校正2回目済み)
2014/01/19 記
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小野寺さんの講演は、小野寺さんが3.11を認知症の講演会場で迎えたことから体験談が始まった。私が小野寺さんにお願いしたことは、個別具体的であり、かつ象徴的な話であることを紹介して欲しいと、お願いしていた。現在の3.11の被災者の方との連携の道と、被災時現場に立つものとしての見通しをたてるという目的があって、粗いマスコミの出来事情報の隙間を埋めるアマルガムのような情報を抱え、感じ取る企画だったからだ。
しかし、こうして小野寺さんのお話を伺ってみると、語りなれている小野寺さんでも、実は話しにくかったようだ。事情は推測に過ぎないが、こうだ。
自分の体験してきた被災体験の追憶情報は、あふれてしまう。小野寺さんの身近で起きていった出来事は、それを語るには取捨選択し、固有名詞を用いて、私たちにイメージを伝えようとする。聴く側にとっては、それはリアルに響き、震災津波が町を破壊したということが、単なる物理現象ではなく、ともに生きてきた人を奪われ、家族と地域の日常の日々が引き裂かれていくことなのだということが、言葉の先に見えてくることだった。
しかし、私の要求は、ある水準の災害理解を持ち、被災時同じような前線に立ち会う者として、累積している者を経験を手繰り寄せることによって、現状打開の橋渡しをしていく再構成と提案を迫っていた。これは初対面の聴く側相手の話ではないだろう。こんな無理に気がついた。小野寺さんは、陸前高田の仮設住宅の現状を表す数値データを必要に応じて紹介することによって、場面を見失わず、適度な距離感を取り直せるように、個々の事例の間を調整されていたが、いつか私たちも体験するであろう事例を選び、その際の情を抑制的に語っていらした。しかしそれも、後半にはうかつにも涙ぐむという場面に、私たちも心揺すられる体験をしたのだが、それでもなおかつ、私たちは、出来事を越えてそれらを対象化した小野寺さんの言葉を要求していた。生傷を吹くような要求をしていたことに、唇を噛んだのだが。
そしてもうひとつの気づきは、小野寺さんが身の回りの「認知症の方と家族会員さん」の固有名詞を伴う事例が、こうしてブログに紹介しようとするとき、プライバシーという呪縛が私にかかってくることに気がついたことだ。
なかなかあらすじのように、小野寺さんの語りを要約できないのは、陸前高田の認知症の人と家族のくぐった被災経過の話であり、質疑応答形式に進んだ話だったからだ。
質問は、東北ならではといわれた「地縁・血縁コミュニティ」の得失をめぐる話題、被災下、ケア関係職のサポートのあり方と緊急対応、避難生活の中の施設サポートと人材不足の影響、認知症者の被害把握の困難、筑前高田市行政・社協職員の死亡率の高さによる統治機能の麻痺という特殊性、自衛隊・警察職員の長期滞在支援による医療サポートの特殊性(これは『医療サポートより介護サポート』が必要だった。)というように多岐にわたった。
プラグマチックな即応性のある話ではないが、あちこちに今後続く議論を触発する話であったと思う。
私は陸前高田被災現場の漆黒の闇を見てきた。訪問時、避難所を抜け出して行方不明になった徘徊のある認知症のおばあちゃんが、街路灯や住居の破壊されたがれきの間に、闇にまぎれてうずくまっているところを警察官と家族の捜索で発見した話を聴いていた。ところが翌日、追加情報が入ってきた。お嫁さんが、捜査の途中、蓋のはずれたままになっていたマンホールに落ちた話を聴いた。幸い軽症だったとのことだが、日が暮れた被災地の闇は、原始林のそれとちがう、人の気配がする魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跋扈(ばっこ)する廃墟の闇、ガレキと危険物の散った闇なのだ。
小野寺さんが紹介されていた仮設住宅の認知症者の困難が、同じ形の建物が続くので、自分の家がわからなくなるという健常者には気づかないような困難もあった。
小野寺さんは、被災時から短期の認知症者を次のように分けてくれた。
1)認知症だから助かった人
2)認知症だから亡くなった人
3)福祉避難所
4)避難所から仮設住宅へ
5)切らさぬ介護・暫定介護
唯一、具体的な方向性は「健常者合流の認知症カフェ」がだされていた。議論は「東北のコミュニティ」という特殊性とか、「避難所コミュニティー>仮設コミュニティ>被災者住宅コミュニティー」というコミュニティのスクラップ&ビルドに認知症カフェがどのように継続していくのかというような話も出た。
小野寺さんは大きな骨子を提供されていた。それゆえ、決して混乱や破綻は生まれなかったけれど、どこまで細かいメッシュで救い上げるかという情報の「程度の話」になってしまった。これを超えるには、小野寺さんとの事前の調整議論を重ね、もっとお互いの問題意識をすり合わせておくという地味な作業を踏むことが、結局は近道だろう。
番組プロデューサーが使う手では、ある特定の認知症の方の3年間を追い、そこに交差する出来事から世界を想像するという方法がある。これは鳥瞰してエピソードを配列していく方法とは異なっているし、視座は鍵の穴のように限定的だが、共感は深いし、背後の世界は広い。両者とも懇談できるが、後者の見えてくる世界は主観的で緻密だ。客観的知識をある程度保持している者たちが懇談する場合、読み込む能動的な感想を交換するためには、網羅する必要はないのかもしれない。
今回印象づけられたのは、講師選びは小野寺さんのように、ベテランの方がいいということ、今回は小野寺さんの陸前高田の会の代表のKさんの推薦から小野寺さんに結びついたが、こういうばあい、更に事前の話し合いを煮詰め、論点の発火点を生み出しておくべきだということだった。
また、懇話会の独自性の被災地現地をゲストにした懇談の価値に磨きをかけていく必要があるということだ。
いつ起きるかわからない災害よりも、喫緊の用件をという聴く側の限界は、結局、タイムリーで「平和ボケ」していないテーマを継続していくが、結論を焦らないということ。種まき活動の芽が育つことを、ただ、ただ念じている。
夜間傾聴>ひとり
(校正1回目済み)
2014/01/18 記
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昨夜の懇話会のゲスト小野寺氏を送り、今日は「認知症のせかい」と題する藤沢市の高齢支援課の企画に参加してきた。元茅ヶ崎市職員の中村成信氏の若年性認知症(ピック症)の話を聞きたかったことと、藤沢市の認知症への取り組みを知りたかったからだ。後者は残念ながら情報は入らなかったが、グループホームに取り組んでいる知人と会うことができた。また、医師からの概略解説として、久里浜医療センターの松下幸生医師の説明が的を射ており、副産物も多かった。
この企画は、災害からの援護という視角はなく、高齢化社会を見据えた啓発企画だった。室田の方がいらしていて、茅ヶ崎でも同様な企画をして欲しいと私に話をされていた。しかし、大地震の被災の話となると、「怖いわねえ」というに留まり、リアリティを感じていないのが気になった。この方の勘違いは、3.11のとき、近くのコンビニにいて、揺れを感じたが大丈夫だった。東日本大震災でこれだから、この次も大丈夫だという、何から説明したらわかるか、私の方が戸惑ってしまう受け取り方だった。前途多難。まさにその通りだった。
この会の前に、横浜でビッグイシューを仕入れてきた。300円で買い300円で配るのだから、横浜までの交通費が赤字となる。馬鹿な話だが、湘南あすなろ会が始めた湘南販売の購読者さんを放り出すわけにはいかないからだ。さっそく会からの帰りに、2部届けてきた。
小野寺さんへの礼状を書き、懇話会の通信No.04の原稿を書き始めた。ブログへの転載は時間切れ。センター試験を受けた子たちへの取材仕事があり、小野寺さんの話は、明日へと持ち越された。
父の葬儀があってから、様々な墓苑の広告が送られてきている。中には故・祖父の名前で来ているものもあって、二十年近く前の古い流出名簿を業者から買っているのがありありとわかる。骨壷わきに飾っていた菊が、やっと枯れた。長持ちするよう品種改良されているのだろうか。ひと区切りである。
夜間傾聴>疲労ゆえ、臨時休業
(校正1回目済み)
2014/01/17 記
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ゲスト小野寺さんと合流。小野寺さんの横浜の友人##さんも、時間内にセーフ。45分前に茅ヶ崎市民文化会館に入り、無人のフロアを抜けて会議室に入った。小野寺さんと事前の打ち合わせをしながら、仮の夕食の寿司をつまむ。不安がよぎる。高齢者の関連企画は初めてである。参加がはっきりしている一名を除くと参加は不透明。意識は異様に明瞭になり、身体がしんしんと冷えていくが、それを小野寺さんに悟られまいと、自販機にお茶を買いに行った。
会議室は24名定員だが、半分を満たせば成功だと考えていた。今、必要なのは被災地現地のリアルな情報。その質の濃さをどう引き出すか。そこから現場を担う者として、これからの道筋がみえてくれば最高だと思う。
今回も小野寺さんからは、足湯マッサージ支援の現場の事例が指摘されたが、東北人は地域のコミュニティに生きているので、初めての出会いのよそ者には、恐れに似た心を抱いたまま、支援者を思いやって感謝を述べる。ところが支援者はそれに気づかない。心に届く支援とは、いや今、本当に必要なものはなにかという本音のところは、当事者との継続した対話の中にしか実相を現さない。
その乖離に直面させてくれるのもまた対話である。懇話会の使命は、被災地の方の現状を高みから分析するのではなく、被災から生じる困難を雑踏の中にあって考える、言葉に息吹を感じ論考を実態にフィットさせていく、懇話会の役割は、その作業の出発点を提供する仕事だ。
だから医療・福祉のいわば「ケア」の現場に立つ者への語りかけだ。チラシなどに「現場主義」と呼んだのが、それを意味している。高みからの分析の視点を否定してるのではない。高率で大震災が警告されているいま、被災の経験は活かされなければならないし、現にいまだに生活再建と復興が進んでいない東北の被災地に生きる人々と、どこでどう連携していくか、それは「客を迎える公の言動のガード的緊張」を前に、そこで支えている家族と地域の生活と健康・生計の課題でどうつながるかを意識しなければ、元気付け支援は抑圧に転じてしまう。
この懇話会の価値は、自分のパートを災害との関係の中で拓いていく立場の方の評価を待たなくてはならない。今回は、行政の方や、包括支援センターの方など8名の方が参加された。私としては首が皮一枚でつながった。厳しい現実である。災害そのものの課題が、明日必ず起きる出来事ではないことから、山積する仕事を優先するが、そこで連想されているのが、ステレオタイプ化した「安全避難と救急法を訓練で覚えるのが災害ボランティア」というレッテル・勘違いだ。それゆえ、懇話会の話は、遮断されてしまう。
小野寺さんの語りの内容は次回語るが、語りは具体的でよかった、しかしそれは、家族・友人が被災した心の傷の痛みを伴う語りへの共感であるが、日々直面する困難場面をめぐるエピソードへの共感ではなかった。小野寺さんとの対話は今回が初であり、しかし、針の穴から世界を覗く様な広がりが、その出来事には潜んでいる。その議論に至るには、まだ対話が足らないようにも感じる。
講師選びは当たりだった。(失礼)しかし、問題意識のすり合わせがもっと出来ていたなら、一本の絆が生まれていたように思う。65点は甘いか。
(つづく)
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夜間傾聴>なし
(校正2回目済み)
2014/01/16 記
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たまっていたノルマをこなすような面会指導を行う。JR相模原の塾に用があったが、明日は小野寺さんの講演日。すでに塾長の奥さん預かりになっている母親の捻挫話がくすぶっており、嫌な予感がするので、さっさと茅ヶ崎に戻ってきた。
明日の資料追加に、仮設住宅巡回をしている巡回指導員(被災者緊急雇用)の様子の画像と、保健師・看護師による指導とのかみ合わせを論じた宮城県内仮設の文書をコピーするつもりで、茅ヶ崎図書館にやってきた。茅ヶ崎図書館と辻堂図書館は相性があるのか、また特別館内整理日で休館あがくのをやめ、口頭で民間の役割の話を提案することにした。
昨年、大船渡の仮設巡回をしたとき、どの仮設の入り口にも「個別訪問禁止」の張り紙があった。プライバシーを守るということと、訪問販売や、窃盗目的の人間が入り込むことへの警戒が語られていた。しかし、どの仮設も閑散としており、活発な仮設は集会場で集団企画が動いていた。
田舎の高齢者は元気だし健脚なのは事実だが、集会場に集まっている層は、80才台は少数派だった。広田町からの帰り、典人会のマイクロバスと複数回出会ったが、デイ・サービスにでていたかと思ったが、小友・末崎(大船渡市)周辺の巡回印象は、仮設入り口あたりにぼんやりとしている高齢者(女性)の多さだった。明らかに集会場に集まっている元気な笑い声の主とは違う80才台後半の方だった。声をかけて話すと、あれは嫁の集まりだと言っていた。散歩と言っても、仮設の近くだけだと話されていた。
これは大船渡側の猪川町周辺から仮設巡回してきた不可解な印象と一致するものだった。閑散として生活音が少ないけれど、無人ではないという印象だった。仮設に住む方に聞くと、高齢n方や独居の方だねえという話だった。大船渡の社協に立ち寄ったとき、仮設は近隣の方と同時に、家庭の事情を考慮して入居してもらっているとのこと。水面下の存在を意識したときだった。
こうした状況で、マスコミなどにも語られない沈黙している方たちのサポートをどうされているのか、ましてや仮設入居していない方々は、巡回保健師・看護師の方々の巡回や、仮設ごとの指導員さんのよろず相談の網目で、サポートできているのかちう疑問があった。このとき、被災者自身の巡回相談員さんたちの役割分担や、集会場などで行われている料理教室などの料理おすそ分け活動などで、独居入居者等の孤立を防ぐ活動が、どのように巡回サポートと連携しているか、その辺のネットワーキングの話が課題となったまま、茅ヶ崎に帰ってきてしまった。
だから、認知症の人と家族の会の活動の、ひとつの基地口はローカル・コミュニケーション・サポートとの関連の切り口だった。医療サポートや、地域保健サポートの切り口もあり、被災時、安全避難の課題は勿論だが、避難生活のストレスフルな環境下の要援護者としての高齢者の3年間の実像について、課題を明らかにしていきたいのだ。
生活と健康という課題は、就労や地域復興の土台をなす課題であり、非生産性のふるいにかける健常者の眼差しに晒されつつも、被災という特殊環境下では、意識的な関わりが組織されなければならない課題だ。失って貴重さを知る側面が強い課題であるがゆえに、ここにかかわることを志の大小に還元するような健常者の驕り・偏りの轍を踏んではならないと思う。基準がずれている。誰もが安心して活動できる基盤の問題なのだということを押さえていきたい。
小野寺さんとの出会いが、その辺の手がかりとなる意見交換ができたらいいと思う。と同時に、民間の社会活動をどう生み出していくか、つまり何が必要とされているかを明らかにしていくことで、迷える子羊観を超える、能動性を質的に持った活動の糸口を探して行きたいと思うのだ。
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ある職種・職能社会活動団体の方から、新年会のお誘いがあった。組織があってそのコミュニティの中からの発想との接点がうまくいかずに、信用の負のループに落ちていたために、新年会欠席ではなく、不参加と応答した。いけばこじれる。しかし接していても共同の場が成り立たないことは、怒りではなく悲しみであることなのだ。歩みを止めるつもりはない。ただ課題をそれを理由に止めて欲しくない。そこに軋轢がある。
夜間傾聴>塾長の奥さん(フィリピンの塾長に呪いをこめて)
ひとり(東京シューレに行った話)
(校正1回目済み)