湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

9/29 避難所・地域における回復期と治療支援&保健活動を切り出す(3-17)他

2015-09-30 05:00:47 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/29 記
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(前回の続きから)

仮設生活が始まる。復興住宅や新居入居あるいは転居先決定までの一時的な生活であるが、仮の日常生活がスタートしていく。今までの生活と違っているのは、仕事がないこと、これが様々な歪みを生み出して行く。

ひとりひとりは、この仮設から脱するために仕事を探し、または再建に尽力していく、または高齢者のように生活を社会福祉に委ねていくことになる。いずれにせよ仮設生活は、被災以前の生活の再現ではなく、生活再現のための過渡期の生活だ。それゆえの不安定さが常に伴い、地域社会が支えていた領域が欠けている分、入居者個々人の生活負担が大きい。ゆえに孤立死や、アルコール依存症、家庭内暴力という閉塞した所帯の歪みが拡がり易い。家計破綻の淵を綱渡りしている危うさが、一方における仮設内共同企画の明るさに、包み込まれるようにつながって行く。

子どものアレルギー症状・苛立ち・不登校等の増加も、この家庭の不安定さと、明るさの抑圧を背景にしており、仮設生活に連れ添う災害ボランティアは、仮設コミュニティ形成に収斂する出会いと交流の活動を勧めて行くことになるが、一方では入居者の医療と保健の活動を外部ボランティアや地域保健行政と結んで、心と身体のセイフティ・ネットを張って行くことが急務となる。仮設内の出会いと交流企画からは見えてこない姿を潜めている人々を放置してはならない。

その活動は、戸別巡回訪問活動の形成と持続、弁当配布や命の旗活動(単身者・高齢者所帯等が朝、健康なら玄関に旗を自分で掲げ、無事を隣人に知らせる活動)、地元業者と組んだ訪問美容・理容、タクシー業と組んだ相乗り通院・買出しなど、体力の低下した方も参加できる活動をデザインしていくことが求められる。この中に短期滞在型ボランティアの参加の道を拓く必要がある。それには仮設所帯の内情について詳しいリーダーを業種として育成していく必要があり、その多くは仮設に行政や病院などの保健・福祉の常駐相談員派遣として実施されている。連携した活動を作ることで、ニーズに沿った活動を生み出すことができる。

(つづく)

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月に数回、母や私に出来ない、しゃがみこみが要求される草取りや床掃除をお願いしている。その方が午後、我が家に来るということで、窓掃除も出来ない役立たずは、追い出されてしまった。

それを予測していたので、海老名に来てもらっての対面学習を挑戦してみた。PT志願の**君だ。実際は私の足の話で大半の時間は過ぎてしまったのだが、やっと一歩を踏み出すことが出来た。

それにしても相模線海老名駅は、私鉄駅と離れている。歩道橋をわたりきったところで、膝の上下の腱(けん)の痛みに、帰りの電車を一本乗り遅れてしまった。8時間おきの痛み止めを飲んでベンチで休み、海老名で仕込んだ糖尿病対策の夕食の魚を下げて帰宅した。座って足を投げ出しマッサージ。まったく…ポンコツである。

「わーくNo.058」を書くつもりで机をみると、AM****の書籍小包が到着していた。下記の書籍入手。目の調子をだましだましの読書ゆえ、いつ読み終えることか…。

●「震災被災者と足湯ボランティア」
●「中越地震から3800日」


夜間傾聴:ひとり

(校正1回目済み)

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9/28 避難所・地域における回復期と治療支援&保健活動を切り出す(3-16)他

2015-09-29 05:18:20 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/28 記
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(前回の続きから)

大災害後、行政関係者や医療・介護・福祉関係者も自分の家族とともに被災し、仕事に復帰できない事態になる。このため生活に支援が必要な障がい者が困難に直面する。

仮設入居後も、様々な困難が起きていた。視覚障がい者は、狭い仮設を伝え歩きができる分、手がかり歩行ができる反面、様々な生活用品が部屋に散乱するため、足元が悪くなってしまった。外に出れば、未体験の道路環境にさらされる。敷地外にでれば、歩道の縁が欠けてころがっていたり、マンホールが開いていたりする。付き添いの補助支援がないために、家に拘束されてしまう。これには視覚障害関係の中央団体でも対策に動いていた。派遣補助までは出来ないが、巡回訪問員派遣をはじめ、被災後の困難を取材し、地域の専門職関連ネットに還元した。電話やインターネットが回復しない間、家族の安否も確認とれず、なによりも同居家族以外、知り合いとの出会いがなくなり孤立していった。この知人の減少と孤立は、他の障がいの場合も孤立の傾向は、健常者の場合よりも強く現れた。

この時期、地元以外の災害ボランティアは、現地到着後、宿泊先の確保に苦労する。車で来られた方は、車で仮眠をとれるが、疲労が残ってしまうのだ。ボラセンが宿泊所を準備するが、瓦礫撤去や道路整備などのコースが決まっているボランティアとの摺り合わせが悪く、居心地が悪いことが難となる。

こうしたことから、外部ボランティアの流入規制も始まり、ボラセンから独立して、まずは宿泊先を確保し、地元ボランティアなどの御宅にお願いする例もあった。

ともあれ、障がい者個々人への支援は、そのニーズがありながらも、情報が欠落している。福祉避難所があれば、まずそこに行ってみるのが接点をつくる方法となる。

(つづく)


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市の障害福祉課に行く。私が依頼した拡大読書機は、モニターを接続して使う。ところが画像モニター分の料金が市の補償上限からはみだしてしまうのだ。この機種は単独では拡大読書機として機能しない。果たしてこの機種を補償対象商品として認めてくれるかということで、判断結果を聞きに行ったのだ。

結果はOK。家に拡大読書機がやってくる。帰りヤマダ電機に立ち寄り、画像モニターの値段を見に行った。2~3万円というところだ。準備は整った。

私の目は、両目とも視野の中心から周辺に滲み出すように闇が日rがっている。片側はほとんど失明している。反対側も中央部が見えないので、視野の周辺に意識を向けて外界を見ている。だから疲れるし、見逃しや空間認知の失敗がしょっちゅう起きる。だから老眼も始まっている目の状態では、見えなくなる。だから、練習も兼ねて拡大読書機(19万8千円)を使うことにしたのだ。

しかし、さっそく失敗するとは…。

サポセン・スタッフをしている**さんは、障害福祉課の嘱託もされていた。私が拡大読書機の問い合わせをしている最中、私の目の前を何回か通過しているのに、私は気付かなかった。**さんから挨拶されて、やっと気がついた。気を悪くされていたと思う。申し訳ないが、いつも私はこの一見無視のような状態で人間関係を誤解されている。私の障害は、網膜上の障害で、外見上眼球が濁っているわけでもないため、障害に見えないのだ。

ちょっとがっくりしながら、遅い昼食を食べたが、その木の椅子が悪く、悪い方の足が強烈なこむら返りを起こし、店のコップを割ってしまったのだった。さえない話である。

夜間傾聴:ひとり

(校正2回目済み)

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9/27 避難所・地域における回復期と治療支援&保健活動を切り出す(3-15)他

2015-09-28 04:52:14 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/27 記
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(前回の続きから)

茨城県常総市の浸水被災者支援カンパを見て、「わーく」や懇話会の今後の取り組みについて考えていた。「わーく」の問題意識が伝わらないと思うので、私の体験を書いておく、2000年の有珠山噴火のときの支援者の事例のことだ。

ある著名な団体の方たちは、有珠山噴火被災者を元気づける企画を次々と打ち出していた。私にはその応援が被災者にどのように届いたのか疑問だったが、非常にアクティブで、当時、三宅島の噴火災害の被災者連帯を打ち出していた。ところが次々と地震や台風の大雨被災があちこちで起き、そのすべてに支援を拡げ、無理が出たのだろう、活動が希薄になっていったのだ。

自分の組織の実行力を見定めないと、轍を踏むと考えている。今回の茨城・東北浸水被災の状況はただごとではない。しかし東日本大震災や阪神淡路大震災の継続支援と震災津波防災の活動を中心としている「わーく」では、一般支援者レベル以上の協力という拡張は議論上に留めて、被災地に出かけることは無理と判断した。

一方、「懇話会」では、震災津波被災から台風の被災や浸水・噴火災害等をも含んだ被災者医療・福祉・介護等への防災対策というか「普遍化」を行って行きたいと思う。

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仮設入居が済んだ頃、生活支援ボランティアたちは、仮設集会所を拠点とした諸企画を始めていた。共同炊事食事会・おしゃべりしつつの軽作業(ミサンガ等の製作)・花壇整備・コーラス・カラオケ等の、仮設コミュニティ形成に役立つ活動だ。これは勿論有意義な活動だが、「あれは嫁(健常者)の集まり」と言っていた白髪で腰の曲がった女性が言ってのけた声無き被災者たちがいる。施設に入らずに自宅で介護を受けている高齢者や、認知症の方々、自宅生活をしている成人障がい者の方々に目を凝らし、耳を澄ませて状況をつかみ支援して行くというサイレント・マジョリティの医療・福祉支援を生み出したいと願う。

前回の個別訪問の協力可能性をさぐることのように、専門職の活動に閉じ易い領域の参加法を探索していく活動を進めて行きたい。従来のいわゆる被災健常者生活支援活動に協力して行きたいと思うが、この特殊性を私たちの任務と考えていく。

(つづく)

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昨日は、(怪我はなかったが)母が入浴バス内で滑ったための緊急対策だったのだが、案の定、翌日、腿の内側が痛いは、片側下肢の外側の腱の疼痛と、引きつれが部分化してはいるが、痛みが強くなるなど、後遺症が残った。しかし平塚市図書館の書籍更新は1週間弱遅れてしまっていたので、でかけたのだ。帰りの買い物は最小限にとどめ、急がずに往復した。身体が不自然なときは、肩が凝る。下りの階段だけは回避した。

帰り道、茅ヶ崎の駅ビルを降りると、茅ヶ崎駅南口でタージの方が茨城県常総市支援カンパ活動をされていた。買い物のつり銭ではあるがカンパ協力した。しかし思うのだが、東日本大震災後の熱は、やはり覚めているとしか思えない。この手のカンパの際は、呼びかけとチラシ配布だけでは、通行人が活動を瞬時に理解することがカンパ活動の鍵となるので、弱いと思うのだ。やはり「立て看板」がないと…。

瞬時に伝えられなくてはならない事項は、「活動内容(常総市被災者支援とか)」・「カンパ提供先(避難所に○○を贈る)」・「主催団体名」の3点だ。これが見えるようにしておくことだ。釈迦に説法だろうなと思いつつ、路線バスに乗り込さんだ。

 夜間傾聴:ふたり

(校正1回目済み)

 

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9/26 避難所・地域における回復期と治療支援&保健活動を切り出す(3-14)他

2015-09-27 05:11:17 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/26 記
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(前回の続きから)

被災した岩手・宮城の自治体は、被災者の雇用保障の副産物を考えて、仮設入居者の孤立を防ぐために、巡回訪問員として被災者を短期雇用した。医療福祉の専門職の巡回相談の支援の意味もあった。

この巡回訪問は顔見知りの安心と信頼がなければ、胸襟は開かなかった。時間と場数が必要なので、現地長期滞在ボランティアでなければ、そのままの参加は支援にならなかった。短期滞在ボランティアの場合、別の方法を考える必要があった。

大船渡市では「さんさんの会」という、飲食業有志による弁当宅配活動があった。弁当を避難所や仮設に届ける活動だ。しかし仮設になると、生活の自立性が高まるために、主に単身者や高齢者世帯や、仮設イベント(食事会など)に絞って配達を行っていた。避難所では強いニーズがあったが、仮設入居後は、食材による地域復興にシフトしつつあった。

しかし、一方で仮設高齢者の健康確認と孤立防止のために弁当配達を行う役割も、新たに加えられていた。抽選入居ではない地域コミュニティを残しつつ入居した仮設では、隣人間の食材のおすそ分けなどと活発に交流していたため、配達ニーズは低かった。阪神淡路大震災の際、避難所から仮設に移ったころから、高齢者・単身者の孤立死が急増した。青年期のような自殺は少ないが、アルコール中毒死、浴室転倒などの事故や病気発症が発見が遅れて死に至る孤立死だった。それを教訓に巡回訪問は大事な仕事となったが、弁当宅配は各世帯を巡回確認できる有効な方法だった。

これは高齢者生活支援でも各地で行われている活動だが、注意する点として、弁当殻の当日回収を行うことがあった。高齢者は食が細く、食べ残しを翌日回しにすることが多く、食中毒の危険があったからだ。

車を持ったボランティアは、仮設や自宅の配布表に基づいて回収作業を弁当宅配活動の支援として、仕事を分けてもらうことができないかと思う。そこには健康チェックや、会話の備忘録をつけるというもうひとつの仕事を伴うものだ。何回か被災地訪問ができる方は、同じところを巡回するようにすれば、入居者の知り合いも出来るだろう。

園芸農家の協力を得た切り花の宅配なども行われた例があると聞く。鉢植えは「根付く(寝付く)」と言って忌み嫌うため切り花なのだ。病気見舞いのときの常識だ。弁当は毎日の生活に組み込まれた食事をサポートするため、より優れた活動と言える。また全国から提供された支援物資の配達も併行して行うことができる点でも、優れた活動といえるのだ。しかし知りえた情報は、プライバシー遵守の上、医療福祉関係者に共用されなくてはいけない。その意味で関係者の地域ネットワークが育っている必要がある。

(つづく)

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仰臥で目覚めたとき、腰の痛みがなくなっていることに気がついた。足は棒のように引きつり、腹筋の力で起き上がることが出来なかったが、今朝は両足を振ればなんとか上半身を起こすことが出来るようになっていた。腰の片側が緩んで痛み、両足を振ることさえできなかった以前の状態とは異なり、明らかに回復してきている。しかし、突然の来客に壁を伝って玄関に出る間に、門前の客は留守と間違えて帰ってしまった。

食事を作って母と食事を済ませ、母の入浴時バスの中で滑らないように、ゴム製滑り止めシートを貼る作業を行った。裏側のゴムの吸盤が吸い付くように、バスを洗わねばならず、前傾姿勢の作業は足がこむらがえりを起こしたり散々だったが、故・祖母の介護のときに取り付けた手すりが役に立った。

トレーニング量を少し減らし、公園までの往復を姿勢を正して歩いた。橋本の対面指導の日だったが、塾長の奥さんが代わってくれた。私の自営の塾ならすでに破綻している状況だから、喜べない。

FMワイワイ支援時代の知人ルートのフリーライターと会う話は、事情を説明してキャンセルした。電話での質問でも、当時の看護師・保健師さんルートは開く事が出来なかったからだ。この状態では、時間がかかる。何箇所もまわることは出来ない。

夜、再び母が溜め込んでいたロブ(ロキソニンの後発薬)の追加服薬となってしまった。夕食は手抜き。深呼吸。

夜間傾聴:ひとり

(校正1回目済み)

 

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9/25 避難所・地域における回復期と治療支援&保健活動を切り出す(3-13)他

2015-09-26 05:08:32 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/25 記
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(前回の続きから)

余談だが私が陸前高田の市社協に行き、保健師さんか巡回看護師さんを紹介してほしいと頼んだとき、所長が、詳しい者がいないから、「明日来てくれ」と断わられてしまった。忙しい様子もないのに、首都圏からきているのに「明日」はないだろうと高速バスのキャンセルかと腹をたてた。後日わかったのは、他県から臨時に入った所長代行だった。私の宿泊も静岡県警や兵庫県警との相部屋だった。珍しい体験をさせてもらったが、行政職関係は特に外人部隊が入っている。だからその辺を見極めないと、依頼も紹介も全く通らないものと思っていい。地元の方であるかを確認して接触することだが、私は地元の教員を狙って紹介の輪を広げた。教員は顔が広いし、まず地元だからだ。民生委員という手もある。

私は巡回訪問をしている地元専門職の方や、仮設集会所の健康と精神保健を背景に持つ生活ボランティア活動をしている方とつながり、引きこもり離脱を試みる青年や、地元茅ヶ崎の活動の形成を進め、現地に参加する活動の糸口を作りたかった。また、偶然手に入れた中古車を活動に利用してくれる団体を探すことも目的になっていた。つまり中間支援的なかかわりなのだが、実際は当人が現場で活動参加することでなければ、なかなか理解されなかった。

だから手がかりから、実際の活動の道に乗るには、最速で1日はかかる。

(つづく)

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薬漬けになっていると、身体の小さな無理が利かなくなってくるせいか、食卓を作業テーブルと兼用にしているが、1cm高い作業面がつらく、肩が痛くなってくる。そのまま続けていると利き手側の肩が凝ってくる。病床に伏す患者さんが、シーツの皺の上と下を背中は、崖から落ちるかのように感じることがある。狭い範囲の統制出来ない感覚が鋭敏になっているのだ。体調が悪いとバランスを維持するために、不可解なことが起きる。鎮痛剤漬けの状態なのに、強い肩こりが生じるのだ。貼り薬を貼ったが、薬漬けへの警告だと思っている。

今日は辻堂・茅ヶ崎の駅前で、休んでいたため無くなったゴミ袋や調味料などを買いに出た。小雨が降っているため、駅前から離れることはしなかったが、両手一杯の買い物は、とぼとぼと歩く足腰の弱った高齢者と同じ状態になり、邪魔者とばかり接触しそうにすり抜けていく若者に何回も買い物袋を蹴飛ばされた。帰宅するまでに3回、ニア・ミスが起きていた。大きな数字だと思う。茅ヶ崎の改札口周辺が2回と、一番ひどかった。

足は、ぎごちなさを残しているが、着実に回復している。今月のうちに遠出できるようになりたい。

「わーくNo.058」に、緊急避難ができない災害弱者状態になって思うことを書いている。健常者とて、足をくじけば誰もがたちまち避難時災害弱者になる。今は平常だからと思うが、こういう怖さを感じとってもらいたい。

拡大読書機のメーカーから電話が入った。直接販売をしていないので販売店を通して購入して下さいというものだった。紹介された販売店は横浜だった。見積書を出してくれたから、通信販売してくれるものと考えていた。そこを突いたが、メインテナンスが出来ないとの事だった。藤沢の販売店を聞いてみたが、横浜の販売店は、湘南を定期巡回しているから大丈夫とのことで、やむなく横浜の販売店に連絡、至急見積書を出してもらうことになった。市役所の許可が下り次第、配達できるという。巡回中なら配達料は、いらないとのこと。明日見積書が届く。月曜に市役所に再度申請することになった。


p,s, 新潮文庫、「知ろうとすること」を入手。茅ヶ崎・平塚の図書館にあり。


夜間傾聴:ひとり

(校正1回目済み)

 

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9/24 避難所・地域における回復期と治療支援&保健活動を切り出す(3-12)他

2015-09-25 05:40:50 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/24 記
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(前回の続きから)

~現地の錯綜する入口のこと~

大船渡には早い時期から地元と長期滞在ボランティアと行政がネットワーク会議を持っていた。ボラセンを中心とした外部ボランティアの会議はあったが、これは短期参加のボランティアに対して、仕事枠を勧め、束ねて行くことが中心となった会議で、ボランティアバス参加のボランティアには重宝するものだが、自主的な目的を持って参加する者には、調整会議でしかなかった。この外部ボランティアの交通整理会議と、地域ネットワーク会議は別物であり、後者は長期滞在ボランティアが入っていた。

生活支援ボランティアは、被災者に直接向かい合うサービスを提供する活動なので、本来は地域ネットワーク会議から情報を得たいところだが、多くは直接仮設に出向き、そこから地元との接点を得ていた。

医療専門職や、地域福祉関連職の地域との接点は、地元同業職を仲介することで、仮設入居者対象の巡回訪問相談に参加して行ったが、一般ボランティアは、長期滞在と、経験が問われ、訪問相談ではなく、足湯や食事会・共同作業や集会所娯楽企画などが求められていた。

こうしたボランティア受け入れの複雑化は、これからの災害の際も現れる。東日本大震災を契機に、災害ボランティアが市民権を得たという。自分の余力を役立ててもらうというパワーに役割を与えるボラセンの指導は、一面において正しいが、その枠にはまらない目的をもったボランティアたちが、自力で接点を探しているところと、話が通じないような状態は、なんとかならないかと思う。特に生活ボランティアについては、要望のあった仮設に送るという活動はあったが、それも企画があってその実現の人材のように、やりたいことをもって参加したボランティアとの摺り合わせが問題になっていた。

ひとつは役に立ちたいと、ともあれ現地に出かけたボランティアと、目的を持って参加したボランティアが求める地域との接点を求める先が違うために、特に生活ボランティアや、ましてや私のように災害弱者支援の接点を求めるものは、違っていたこと。それには地域ネットワーク会議との接点が必要と思うが、いわゆる専門職の活動との接点は、準備されていないと考えなくてはならないということだ。

まず排除の結界がはられていても、仮設区長や社協、関連行政へのダイレクト・アクセスを試みること。目的を端的に伝える紹介文を持参することが始まりとなる。

(つづく)

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連休が明けて、整形外科に行った。ここは水曜休みで、木曜は診察している。路線バスの低床タイプではない型の昇降は段差が大きく、足に障がいがあるとき、困難な場面となる。昇降は出来たが、痛みが走っていた。今日、その場面で痛みが出なかったこと、そしてころびかけたときのふんばりが平常に戻っていることを確認できた。

診察は非常にせわしない。親指上下に力が入っているかを爪先立ち確認しただけで、鎮痛剤を増やすか否かを迫ってくる。上記の改善変化を知らせる隙間も無い。5分間診療以上のゆとりのなさ。非常に怖いタイプの医師と判断した。

頓服薬の常習を避けるため、頓服は不要と断わった。効き目のわからない鎮痛剤を減らすことを告げ、相互作用があるからと断わられた。なければ痛い。それはたしかだが鎮痛剤常用が習慣化することを避けたかった。これに対して現行通りを処方されることとなった。薬局で鎮痛剤の効用と相互作用を質問したところ、習慣化する薬剤は入っていないとのこと。ただ1種類、長期服用で便秘を起こす薬剤があることを教えてくれた。半年以上が要警戒とのこと。

今回は駅の階段も、休むことなく昇降できたし、鎮痛剤の効果の上ではあるが、回復している。夜風に当ると疼痛復活。電気ストーブで患部を温めマッサージ。薬剤の自己管理を行う。

雨が降ってきたが、辻堂図書館(定休日・ビッグイシュー配達のみ)、茅ヶ崎図書館図書更新、重い下げ袋が足首に響く。家に戻り、マッサージを始める。距離はいまのところこれが限界。

新しい発想ではないが、干渉しあって聞こえない防災行政用無線放送に、半鐘の記号システムが組み合わされるべきだという文章を「わーくNo.058」に書いている。緊急放送にはすでに使われているが、ことばで伝える限界を内容の前後の音色で伝える部分をつなげるというものだ。

昔、江戸などでは半鐘という鐘の鳴らし方で、火災を中心とした緊急信号を町に流していた。言葉ではなく鳴らし方だ。これを音色にして干渉を避け、避難信号を通すというものだ。昔のように火災ではなく、避難信号を衆知し、ことばの前後に音色をいれる。サイレンよりは細かく段階を伝えられる。(半鐘の例、ズにて。「半鐘 - Wikipedia」


夜間傾聴:開店休業

(校正1回目済み)

 

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9/23 避難所・地域における回復期と治療支援&保健活動を切り出す(3-11)他

2015-09-24 05:58:56 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/23 記
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(前回の続きから)

避難所から仮設住宅へという時期は、障がい者の全国団体の支援方針が固まり、その支援が被災地に届き始めた時期であり、近隣施設が被災障がい者を受け入れ始めた時期でもあった。それまでの期間、障がい者は避難所体験をした方も多くいらした。視覚障がい・発達障がい・身体障がいの重篤な方は環境の不備や無理解の方との軋轢が問題となった。特筆すべきは、避難所生活が初めから無理と判断し、半壊の我が家や車、親戚・知人宅で過ごした方や、聴覚障がいの方を含み、自宅に孤立した方が多かったことだ。仮設にしても隣人とのトラブルや、火を扱う台所の狭さ、間取りの閉塞感が問題になり、利用できない方も出てきていた。

このため、全国からの支援は、疎開先紹介や、オンライン代読などの提供が主で、現地ボランティアとの結びつきは弱かった。

(つづく)

---- 今回も短編ですみません。

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足は気温に影響される蒸し暑かった昼間、頓服薬が切れた状態でも平常時の鎮痛剤でなんとか治まっていたが、夜間冷えてくると腰と筋の疼痛が消えなくなった。電気ストーブを持ち出して、やっと小康を得ている。明日、整形外科に行く前に、家の修繕のあと片付けがある。隣の御宅の迷惑になるので、延ばすわけにいかない。ひとつのハードルが控えている。

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阪神淡路大震災の際建てられた復興住宅のビデオをみなおしている。高齢者の多い被災者が高層住宅に入居していくシーンと、入居後孤独を告白する高齢者の表情の差が胸に刺さる。阪神にいくとき、高層住宅の問題点をたどってくること、被災者の孤立を作らない支援を実行した人たちに会う事、これが阪神に行って、茅ヶ崎につなぐことが目的となる。都市型被災の特徴を捉えたいと思う。

打診して応答のあった方をめぐることで精一杯かもしれないが、実はこれらの方は災害の研究者の方であったり、当時東京の高校生であったフリーライターの方たちで、直接震災再建に関わっていないひとたちなのだ。以前、懇話会で招待した故黒田裕子さんのような震災再建の渦中にいらした方と出会うことではない。そこがひっかかり続けていて、手がかりは無いかと阪神淡路大震災系のビデオの見直しをしている。

湘南の災害は、東日本大震災よりも被災者の立場・状況が分散し、統一した災害対策の伝わり方が違ってくることが予想される。職業も家族構成もそして国籍も、多様といえば聞こえがいいが、ばらばらなのだ。避難所>仮設住宅>復興住宅という一律の施策で治まるのか、そこでおこりうることはなにか、またその施策の運用の中で、阪神淡路大震災・東日本大震災で得た教訓で生かせるものは何か、それを災害弱者からの視点で整理してみたい。

年内の懇話会は高齢者支援の関係の方だ。来年3月までの懇話会は東日本大震災の施設運用者を招待しようと思う。それにあわせたゲストを見つけたいのだ。阪神には来年の西浜高校ボラ塾にあわせた方を同時に見つけたいと願っている。

当初二段構えやむなしと考えていたゲスト選び(研究者から当事者へ)の時間的なゆとりがなくなってきたことを感じ、見直しをしている、それが現状だ。

夜間傾聴>ひとり
     **子

(校正1回目済み)

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9/22 避難所・地域における回復期と治療支援&保健活動を切り出す(3-10)他

2015-09-23 04:56:42 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/22 記
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(前回の続きから)

3.11の年の夏、障がい者の様子を知るために、グループホームが付いた作業所を訪ねたが、門前払いだった。しばらく入口で待っていると、職員の方が出てきたので時間をいただいた。社協の隣がスナックになっているので、そこで話を聞いた。

職員家族も被災しているので、人手が足らなくて、入所者さんも何人か分散して、近隣の施設にあずかってもらっているとのこと。この障がい者(**さん)の家族も被災して,亡くなっているという。受け入れてくれる施設の方以外は、余計な話はキャパが無いとのこと。

そうなのだ。災害ボランティアは、生活ボランティアを含めて、施設の支援に目が向かなかった。車があれば、歓迎してくれる。これは高齢者関係もまた状況は同じなのだ。

---- 調子がわるいので、ここまで。

(つづく)

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頓服薬を飲んで、足らなくなった食材を仕込んだ。ついでにサポセンに寄って、ビッグイシュー誌を配達してきた。ネットスーパーだけでは、揃わない。痛む側に買い物を下げるか、反対側かといろいろやってみたが、異様に足首が疲れて、下り階段も避けることになった。

頓服薬がこれで無くなった。平常時の鎮痛剤だけになる。ダメならまた杖を持ち出す。

長引くと、きっとコルセットを買わされるんだろうなと思いつつ、これだけは避けたいと思案中。昔、交通事故治療の退院後、腰の痛みで通院していた。このときコルセットを買えといわれて、買ったが1週間もたたずに面倒で押入れの中行きになってしまった。厄介なのは経験済みなのだ。

お彼岸だねえと母。身動きとれないので堪忍してもらった。

風呂の排水が詰まる。なんとも関われない、じれてもしかたないのだが。業者を呼んだ。

夜間傾聴:**子
     ひとり

(校正1回目済み)

 

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9/21 避難所・地域における回復期と治療支援&保健活動を切り出す(3-09)他

2015-09-22 05:03:32 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/21 記
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(前回の続きから)

仮設生活の初期は、入口に「許可のない訪問者はお断り」という看板がかけられていた。後にその看板のことを「空き巣」・「押し売り」等の防犯上の警戒から立てていたという。仮設の区長や自治会長に面会し取材を許可してもらおうとするが、まず許可してくれない。親切なところでも、区長(自治会長)が用件を聴くという形でガードされていた。

私は市役所の担当課ではなく、市議会事務局に奇襲をかけて、市議さんを紹介してもらった。これはいままでのボランティアのまとめ役のボラセンが、私のような中間支援者の動きを判断しかねて、一般マスコミ同様、時期尚早と、わからないものを排除してきたからだった。

こうして市議さんの口利きで仮設の門が開いた。

初期の仮設は、昼間、ひとはまずいない。留守なのだ。家族の安否確認や、自宅再建のための瓦礫撤去や、農地整備に追われているのだ。乳幼児を抱えた母親も、ミルクや紙おむつを求めて、集団で行政指定の配給所周りをしていた。それでも介護のために仮設に残っている方がいらしているし、共同食事会の準備をしている方がいらした。その熟年の主婦の方から、さまざまなお話を伺う事ができた。同時に、高齢者施設が被災したり、職員不足で預かれないために、自宅で介護をしているというお話も、具体的に伺う事ができた。(しかし障がい者の話は、みごとに掻き消えていた。)

この段階の生活ボランティアは、医療介護専門職の有資格者以外は、環境改善に入る以外は無理だろうと思った。いわゆる仮設コミュニティ形成支援の活動だが、注意することは、熱心に活躍する当事者以外にも、それなりの参加や恩恵が拡がる活動を創造していくことが必要だと思った。サイレント・マジョリティに耳を澄ます感性は失ってはならない。

(つづく)

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近所を杖なしで1周した。すでに出歩くことは、がにまた歩行や横歩きと緩慢な速度なら出来るのだが、急な変更や体当たりを避けるなどが不安定で出来ない。頓服薬を飲んで出ると身の回りの状況確認が片目の状態と重なって浮遊状態になって危険なのだ。今回の近所1周は荷物を持っての1周だった。トレーニング半分でテストしたが、外出時には頓服薬の服薬量を減らす必要があると結論づけた。

自宅に缶詰状態になるのは嫌だ。服薬中、痛みや異常が出ない範囲で,杖を使った歩行トレーニングを始めることにした。医者からは、過負荷のトレーニングの禁止とストレッチの遵守を言い渡されていたが、腰椎のヘルニアとすべり症、そして治まった事故の神経の古傷炎症の様子を見ながら、過負荷なるものの際まではトレーニングすることにした。

片足を両手で持ち上げると、痛む側の足首が勝手にピクピクと震えている、戦振である。足首に鈍い痛みも消えずにいる。レ乳明けに整形外科に行く。金曜日、慈恵医大眼科に薬をもらいに行かねばならないが、それまでに混雑の中の歩行が出来るか微妙な状況が続いている。

夜間傾聴:ひとり

(校正1回目済み)

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9/21 「わーくNo.058」原稿「金曜災害ミニ・カフェ『紙とマジック 石巻日日新聞』」感想

2015-09-22 03:34:07 | 地震津波災害ボランティア

「わーくNo.058」原稿
「金曜災害ミニ・カフェ『紙とマジック 石巻日日新聞』」感想

★大災害が起きたとき、今、取り巻く状況を知り身の振りを決めたいと思うが、人づてで情報を得るが、果たしてこれが正しいのか、その点検をどうするか。そこに公共情報を提供するマスコミが登場する。FMラジオは県単位の被災状況、特に交通状況を提供してくれるが、近所の情報や安否確認を得ることができない。まだ災害FMは立ち上がっていないとき、役所が出す情報や、避難方法、食料・水の配給がどのようになっているかは、指定避難所の掲示板に頼ることになる。

★一方、地元新聞社は、大船渡市の東海新報社のように生き残っている場合は、紙の節約をするが、配達要員の欠落を指定避難所への配達を重点化し、記者が配達を兼ねて越えていく。ところが石巻市の石巻日日新聞社のように、印刷所が被災した新聞社は、自社の通り沿いや避難所に掲示板の形でラジオ情報や役所の交通路被災状況や救護所情報とは異なる必要情報を提供していく。それは更新頻度の高い安否情報や水や食料と物資の配給情報・地域被災の取材情報・被災者の要望など記者の足で稼いだ避難生活に必要で公共情報に抜け落ちた情報を、掲示板に手書き新聞を貼り出して行く。

★避難所運営会議は自分の避難所に関わる公共情報を掲示板やチラシ・避難所新聞で知らせるが、石巻日日新聞は地域を歩き、安否情報を中心にした新鮮な情報提供を行い、行政の公共情報を補った。普段の新聞発刊活動とは勝手の違った活動だが、地域新聞が成り立つ地域情報をもって読者と会話して行く原点に帰った活動となった。その経験を武内宏之主幹が語っていく。

★私達、未来の被災者からしてみれば、石巻日日新聞や東海新報にあたる日刊地域新聞が神奈川新聞社しか見当たらないことから、ここに地元災害ボランティアが立ち上がる可能性を見る。これは災害FMの早期立ち上げとからんで、地域情報ネットワークをどうたてるか考えて行くべきだ。発信者の信頼性の得方も議論が必要だ。

(飛田)

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9/20 「わーくNo.58」原稿☆金曜災害ミニ・カフェ「女性が安心できる避難所運営」から☆

2015-09-21 04:28:10 | 地震津波災害ボランティア

「わーくNo.58」原稿

☆☆☆金曜災害ミニ・カフェ「女性が安心できる避難所運営」から☆☆☆

★この番組を観ていて、災害ボランティアの現地活動が、いあに男性主導であったかを思うのだった。農地の瓦礫取りの時も、胃燐にトイレがないため農家を探しに出かけてしまった女性がでたり、避難所の男性トイレに割り込んできた女性に、女性トイレは隣だと諭している男性を見駆けた。何が起きているか想像できないのだ。こういうずれは、避難所運営の場面で、いかに被災家族の要望に鈍感であるかを見てしまった。運営委員に女性がいなければならない。また聾の方や高齢で耳が聞こえない方は一般避難所にいらっしゃることが多いので、それらのあたも運営委員に入ってもらう必要を感じた。

★番組では、着替えや生理用品を受け取る女性専用の更衣室作り・女性用トイレ・育児授乳室の必要性が男性主導の運営では全く考えられていなかったことが指摘された。

★運営は当事者によって構成されなくてはならない。そのことを次の災害避難の際に伝えていく必要が有る。その意味でこの番組は次の被災地ボランティアに観てもらいたい、いい映像だ。

(飛田)

 

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9/20 避難所・地域における回復期と治療支援&保健活動を切り出す(3-08)他

2015-09-21 03:38:23 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/20 記
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(前回の続きから)

東日本大震災の際、避難所に最期まで残っていた方々は、農業や漁業を営んできたが津波被害で全てを失ったが、地元への執着がある方が地元から離れた仮設に出ることに二の足を踏んでおられたり、行方不明の家族の捜索を続けるために、我が家に近い避難所からでることに抵抗があったりと、仮設の地理的条件が合わない理由の方がいらした。

また、遠縁の方の近くに引越しをするか、仮設に入るかというタイムラグがある方もいらした。仮設に入ってすぐ、仮設から出て行く訳にはいかないという事情を抱えてる方もいらした。

行政の転換のテンポは一律に合わせられない。避難所は統合させられ、仮設入居と差がなくなって、避難所の残留者は激変していった。

ここでもわかるように、被災者は様々な問題を抱えていた。しかしここで問題になるのは、石巻のように仮設入居が「抽選」で決められていたことだ。人気仮設への集中を分散させるためとのことだったが、結果的には集落単位が解体する事態になっていた。「抽選」は、あちこちで行われ、また仮設適地が遠方に分散していたところもあった。この結果、仮設の隣人が見知らぬ人間であり、相談できる相手を失い孤立する例が増加したのだった。特に男性は酒を除いた結びつきの手立てに不器用であり、その傾向が顕著に現れた。

こうした様々な問題を抱えた方の支援は、長期間連れそう必要が有るため、地元の保健生活専門職と、地元近隣のボランティア以外には無理があった。しかし、長期現地滞在者以外は、被災者の浮き草のような不安に寄り添うことができないのか。

外部の生活支援災害ボランティアたちは、仮設の集会所で、共同食事会やミサンガ等を元とした共同作業の推進や、団体の踊り、コーラス、家庭菜園など集団活動を通じて仮設コミュニティ形成を育てる活動を行った。お互いが出会うことで会話の契機となり、孤立解消の手立てとなるはずだった。バケツ足湯もまた被災者とボランティアとの対話を促進するものとして拡がって行った。

しかし、私の仮設巡回で見た状況は様相が違っていた。仮設をまわると、熟年の女性が元気よく料理を準備していたが、仮設の門のところで白髪の女性が杖を突きつつ仮設の入口に佇んでいるのだった。声をかけて話すと、「ああ、あれは嫁の集まりだよ」というのだった。集会所の様々な企画に身体が老衰した高齢者や、高齢男性の姿をそこに見かけるのは稀だった。企画参加しているのは「健常者」であり、いわゆる「孤立」を味わう人々はさらに影に隠れて見えなくなっているのを感じていた。

仮設は昼間は閑散としているところが多い。訪ねて歩くが人の気配を感じるが玄関に出てきてくれない家族があちこちに見られた。寝たきりの高齢者や障がい者、そして案外多いのが男性だった。つまり集会所などで行われている初企画は、元気な高齢者などの健常者以外の方をすくい取るには、網の目が粗すぎるというか、本当に支援が必要な方に届いていないのだ。

そうした危機感も手伝って、巡回看護師・保健師・PSW・CSWさんたち医療・福祉の専門職の方や、被災者の雇用を進めるための被災者による巡回相談員等の方々による個別訪問が始まった。しかしこれも、半壊の我が家や、倒壊を免れた知り合いの御宅に避難している仮設外の方々までフォローしているわけではなかった。仮設外避難をしている方は被災者の40%に及んでいるという。

仮設コミュニティの自治による定期巡回や、玄関に元気の目印の旗を出してもらう活動などの「見守り活動」が始まって、やっと孤立しやすい方との接点が生まれた。しかしそれでもなお、孤独死が生まれてしまっている。それは専門職の領域かもしれない。しかし浮き草のような未来の開けない漠とした不安に寄り添うボランティア活動はあり得ないのだろうか。


(つづく)

---------

足の痛みは日に日に改善しているように感じるが、まだ階段を下りることが出来ない。ペンギン歩きというか、カニ歩きが痛みを感じにくく、これを外出時にやるわけにもいかず、困っている。やっと腕輪のついた医療用の杖を使わずに済んでいる。頓服薬の効果だ。なんのことはない鎮痛解熱剤の入った風邪薬には必ず含有している成分の薬だ。ただ単位が多いというところだ。痛みは取れたが、失認があって困っている。

例えば、新聞記事を読んでいたとしよう。ふと気がつくと、隣の別の記事の列を何の疑問もなく読んでいたり、TV番組がいつの間にか終わっていたりする。握っていた包丁を持ったまま、まな板で切るつもりのジャガイモを置かずに,初めて包丁を握ったかのように包丁に気付くという具合だ。これは明らかに頓服薬による副作用だ。まずいなと思いつつ、対面指導・訪問指導のようなシビアな場は、まだ避けた方がいいようだ。

もうひとつ不可解なことも起きていた。膝を裏側を圧迫するように持ち上げると、膝下がぴうぴくと勝手に踊りだすのだ。これは芍薬甘草湯の服薬で止まった。

ともあれ、立ち上がったり、加重をかけて歩行する際に痛みを感じずに動けるようになったが、棒足のなりかけ状態のような痺れ感覚がある。炊事で長時間うつむき加減で立つ作業は、近くに椅子をおいておき、時々座らないと実行できない。立ち仕事は、長時間同じ姿勢でいることは無理。ぶらぶらと歩いていることはできても、急ぐことが出来ない。そんな状態が続いている。

生協までの買い物、短時間の雑草取り、洗濯、炊事をすることができた。しかし買い物袋をどちらの手で持つか試行がいった。傷む側の反対側で下げるのがベターだった。ビッグイシューが溜まっている。どうしたものか。

連休明けに網膜色素変性症の検査。足が御成門まで持つだろうか。国勢調査をオンラインで締切間際、登録終了。

夜間傾聴>ふたり

(校正1回目済み)

 

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9/19 すみません、間に合いませんでした>明日へ

2015-09-20 05:51:15 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/19 記
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(前回の続きから)

時間切れになってしまいました。すみません。

(つづく)

朝起きると調子の悪い側の足が鈍い痛みを持って寝返りが打てない。指示された頓服薬と平常薬を飲み、効くのを待つ。30分たたないうちに、後頭部に鈍い痺れが現れ、いつの間にか足腰の痛みが消えていた。

立ち上がって、いつもの朝の準備を進める。炊事をしていて不思議な出来事が起きる。失認である。スプーンを持って洗っているつもりで指を洗っていたり、やかんの湯が沸いて、自分が流しに立っていることに気付くという危ない状態だった。眠いのではなく、自分がいつの間にか意識を失っている状態だ。

これは服薬量に問題が有ると判断。次回から頓服の量を減らし、落ち着いた。

足腰の痛みから解放されたが、動作が緩慢になり、踏ん張りが効かなくなった。

腰椎のヘルニア部分は、足の2つの神経を圧迫していた。はみ出した部分は免疫細胞が異物として判断し、ヘルニアを作る外圧がかからなければ、3~6ヶ月後、30~80%の確率で完治するとのことだが、その神経の少し先、腰の神経の古傷の炎症は消炎鎮痛剤の効果を待つという投薬待機治療が方針だが、当事者は、ただ定時に薬を飲むだけでいいのか。マッサージをしたり、貼り薬を使ったり、強い負荷をかけず歩くことをしてよいかと医師に質問し、無理しない範囲で歩けという応答を得た。また。直らねば、すべりの部分、ヘルニア部分の手術になるがという。そうなりたくない。加齢だともいわれ、自分の手立てを奪われる不快感を覚えた。

社会活動や仕事等を奪われることを一番恐れる。当座の状況をつかみ手を打つこと。ここは、通院レベルは大丈夫だが,長めの買い物は休憩と局所マッサージが必要。授業は相模大野校を辞めたので、塾の方の一斉授業の肩代わりをやめること。電車内の立った状態の利用は、降りた駅で一度休む時間の余裕を持つこと。痛みが消えても、急がないこと。(この位か?)

今日は東京で災害医療関係の講演会があった。被災後の東北の地域訪問医療化推進と災害医療の拠点化の関係が論じられたのだが、行けなかった、無念。

p.s.
●「連休、ボランティア続々 水害の常総、1万人超見込み」河北新報9/19

日本の災害ボランティア活動は、定着したと言っていいだろう。泥排除と水浸し家具や畳の日干しと排除。清掃お手伝いボランティアは、善意のお手伝い。私もこの活動を認めないわけではないが、次々と変化する被災地の日常にフィットし、被災者の思いに直接寄り添う形のボランティアは、先行きの見通しの中で活動することが半プロの活動としてある。ただこれは、自然発生的な「お互い様のお手伝い活動」のエネルギーとは、位相が違う。このギャップをどう埋めるか、考え続けている。

 

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9/18 避難所・地域における回復期と治療支援&保健活動を切り出す(3-07)他

2015-09-19 06:00:37 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/18 記
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(前回の続きから)

仮設入居が始まった。避難所は歯が抜けたようになったが、入所者少数の避難所と学校教室利用避難所から統合がはじまった。事例の家族のように、同じ人数でも負傷者・障がい者を抱えた場合、場所を判断しにくい家族などが、避難所に残ったが統合を前に、自宅半壊の方が自宅に戻る方も出てきて、避難所残留の方の孤立感は高まった。この辺はNHKスペシャルの「最期の避難所」が詳しい。

部屋に入ってみると、いろいろな問題が出てきた。狭い炊事場と子どもの行き来の危険、仏壇が置けないということを主張していいのかという不安。雑な建造物の補修要請、歩行困難者からは、ゴミ捨て場の遠さなどが、風呂場の段差は高齢者家族から等、出されてきた。ところが東北人は「世間に迷惑をかけない」という発想が強く、この要請を我慢する例が多かった。

ところが住んでみると、壁一枚で声やいびきが隣に聞こえてしまったり、嫁姑の対立が昔の家のような逃げ場所がなく、ストレスが溜まってしまう。心休まる場がないという問題が広がって行った。これは保健師さんや、巡回相談員の方の訪問でわかってきたことだった。DPATの巡回があったところは、鬱病の発症なども拾うことができた。

保健・医療ボランティアの支援は、集会所イベントや共同作業の紹介などに留まっているが、マイクロバスで、主婦を美容業者のところに運んだり、高齢者を銭湯に連れ出したりする動きもあった。こうした「取り出し支援」は病を抱える方を除いて、元気が残る方の「ガス抜き効果」を得ることが出来た。

また高齢単身者を車で誘い出し、買い物に寄り添う試みがあった。ところがこれは、タクシー業界から反発があり、マイクロバスは中止、自家用車による連れ出しは非公式のものとなり、公表は出来なくなった。CSWさんたちの調整があればという事例だ。

残留避難所利用者の話は次回へ。

(つづく)

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頓服薬を飲み、効果が出始めるのを確かめて外出した。杖なしだ。ペンギンのような歩行になったが、なんとか休みなしで歩くことができた。ただBDプレヤーの荷物を抱えているので、どちらの手で持つかで安定性が変化したが、とにかく後ろから追い抜いたり、携帯やゲームプレヤーをやりながら突っ込んでくる方との接触、譲らない改札口の流れの群集の恐怖で、何回も立ち止まる事態になった。身体障がいの方がホームから落ちるのは、自分の歩行の不備ではなく、ゆとりのない群衆の圧迫の結果だということを、身をもって感じさせられた。

まず糖尿病のクリニック。処方箋をいつもの離れた薬局から、クリニックのそばの薬局に変えた、歩行を減らす判断だった。路線バスで、隣駅の駅前の整形外科に行った。このとき、小さな段差につまづいた。幸い筋をくじくことがなく済んだが、これは網膜色素変性症で片目が見えないので、奥行き判断が見誤るのだ。

冷や汗をかきつつ受付に。MRI検査の結果は、腰椎のヘルニアと足根元の神経の古傷の炎症が原因であり、すべりの部分も確認できた。外科治療の前に、消炎鎮痛剤を増量して数ヶ月様子をみることになった。リハビリは様子見の上、決めることになった。しかし増量は怖い。不注意になるのだ。

夕食は吉野家。ここでも、荷物置き忘れを起こし、店員さんの掛け声で、忘れずに済んだ。

とにかく金曜災害ミニカフェに間に合った。番組はTOMORROW「女性が安心できる避難所運営」、30分ものだ。運営が男性に任されていることで、女性はプライバシーの侵害を我慢しなくてはならなかった。亘理小避難所は比較的順調に運営されたが、それは運営に保健・福祉専門職の女性が運営に関わっていたからだった。その比較を捕らえた番組だった。

薬が切れ掛かっており、放送中、頓服薬を飲む。帰りはタクシーになった。ともあれ、杖なし長時間外出は、問題がありつつも、一歩進んだのだった。

安保、参院強行採決。言葉の無力さ、ひどい。


夜間傾聴:開店休業(1時間居眠りをしていた。副作用。)

(校正1回目済み)

 

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9/17 避難所・地域における回復期と治療支援&保健活動を切り出す(3-06)他

2015-09-18 04:14:59 | 地震津波災害ボランティア

2015/09/17 記
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(前回の続きから)

復興住宅の地域コミュニティにこだわるのは、被災単身高齢者の孤独死が阪神淡路大震災から20年を経た現在、社会の闇の中で続いているからだ。被災単身者の孤立という重い課題は、少なくとも、健全な地域コミュニティの存在するところでは抑止される。

私は連れ合いとご母堂を津波で失った方と、大船渡で出会った。漁船を失い、年齢から引退を決意されていた。その方は自分の老後の面倒を親戚や地縁の友人にかける負担を考え、地元を去るつもりでいた。私は皮肉な意味で、復興住宅への入居後の孤立を説明し、被災者への公的保護を受け易くするために地元に留まり、入居を待つことを勧めた。勿論孤立を勧めたわけではない。そのうえで社会の福祉制度とつなげばいいからだ。この方の苦しみを大船渡市社協の方と話したが、この方の名を匿名にして紹介した。

しかし被災による家族の破綻の傷は深いので、こういう方は積極的に新たなコミュニティに属するとは思えない。高層復興住宅に入居したとき、孤立化する危険は大きい。被災>仮設>復興住宅とコミュニティは、二重の解体を余儀なくされる。

それだけに、復興住宅在住の被災の痛みを知る者の地域コミュニティを育てる重要さは、この方の孤独な心を推して知るべしだが、支援者がどのように連れ添えるか考え続ける必要がある。

NHKの番組によると、阪神淡路大震災のその後には、更に痛ましい事例が紹介されている。復興住宅の自治活動を推進してきた当事者が20年を経て年をとり、自治活動を支えられなくなり引退するが、入所者全体が高齢化していることも手伝って、自治会の後継者がいないという問題だった。孤独死が急増する時代に入って、推進者がいなくなる現実。被災者支援活動は、4・5年で済むというものではないのだ。ではどうしたら…。持続する志を通し受け継いでいく企画、構想力が問われている、そう思うのだ。

(つづく)

天気が雨、気温も低い。やはり、こういう日は腰が痛む。家事をすべて平常時に戻した。しかし、食器を洗う横に椅子を置く。洗濯をするときは、機械を置いている洗面所に長居せず、洗濯物を干すとき、手を肩より上にあげるとき、両足をしっかり床に付き、足の片側への力の偏りを避ける。これで薬が効いている間は、時間がかかるが成し遂げることができた。

MRI検査の結果が出たというので、金曜日は、午後、糖尿病の外来(予約済み)、次に1駅バスに乗って、整形外科、夜にサポセンで金曜災害ミニカフェ。事前に頓服を服薬だなと思っている。大げさな杖から解放されなければ、回復とはいえない。

電気ストーブを使って、脚の筋のマッサージを3回/日、繰り返す。早く復帰したい。


夜間傾聴:臨時休業

(校正1回目済み)

 

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