2015/03/28 記
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春期講習の学習カウンセリングが月曜日に決まった。やはり、発達障がいが疑られる子の相談だが、受け皿が壊れている予備校に誘うことに、戸惑いを感じている。まずは話してみよう。
ごりごりのER畑の元看護師さんと藤沢で会った。共産党系の方だが、石頭ではない。昔、祖母がお世話になった方だ。某看護学校の講師の方につないでほしくて会ったのだが、あっさり断わられた。とにかく私は共産党系の方に評判が悪い。しかし、気仙沼&釜石の小児科情報が少し入った。まあ、感謝である。
母が珍しくグラタンが食べたいと言い出して、漬けておいた塩豚でグラタンを作った。案の定、私の自慢の仕上がりとは別に、スープを飲んでしまったので後で食べると言い出して、一度焼き上げたグラタンは、今も尚、冷蔵庫に眠っている。私は笹蒲鉾とハマボウフウのおひたし、温泉卵とネギの味噌汁という糖尿病食。明日、グラタンは捨てるはめだなと、世の儚さを感じている。しょうもない。
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医療専門誌「臨床透析」(2012/03 Vol.28 No.3 日本メディカルセンター刊)が「東日本大震災と透析医療」という特集をしていた。被災病院の内情がすこしでも見えるかという基礎作業の資料として入手した。石巻赤十字病院のそれが取り上げられていた。私の関心は、医療関係者と患者さんの間の災害ボランティアのなしうることの抽出である。これもいずれ紹介する。
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私はいつも、市民活動と社会活動との断層を見てしまう。そこには、市民社会なる幻を前提にしている点で違和感を感じるものであり、「自分の日常生活が脅かされない範囲」で、「協調的」あるいは「投げ銭的」、「娯楽または善行」を行う活動ということで、限界を感じるものである。
一方「社会活動」は、社会的義憤(私は嫌いだが)、階級・階層的な利害や、社会的独自性(例えば福島原発に対する大熊町というような)の対立や矛盾解決を課題とする活動であったり、個人的課題の背後に社会矛盾という他者をつなぐ絆を孕む活動の課題に取り組む活動であったりする。私の諸活動は社会活動に属している。
私は「投げ銭的善行」ほど己の姿を糊塗しているものはないと思う者であるが、例えば募金はしなくてよいか、出来る範囲の協力を否定するのかと問われれば、胡散臭い顔でそれを認める者だ。要は靴の上から掻いているような、本質をはずしている点にあり、高みから銭を投げたり、藪の中から石を投げるような行為はしないというものだ。後者は社会的義憤の危うさに通じる感じ方だ。私は社会活動をしているのだなと思う。
実は先日から、郭基煥氏(東北学院大経済学部教授)の論文、
●「冬眠から覚めた愛」は自然に眠るのか
『災害ユートピア』の継承可能性」郭 基煥・著
(『震災学』誌 2015/Vol.6 所収・東北学院大刊)
これを読んでいて、レベッカ・ソルニットの「災害ユートピア」(ISBN:9784750510231)を読んだときの霞が払われたような気持ちと、非被災地からの支援の隘路が閉ざされるような閉塞感を味わっている。ここで語られている「「脱工業化した現代社会においては『冬眠している愛』」とされる、「災害ユートピア」の情動が、市民活動と社会活動を仲介してくれそうな感触を得ている。
被災地の中で命を最優先した「法」を超えた活動が支持されてきたのは、脱工業化社会という家族という再生産活動と消費活動が日常生活を包み込むことで、命の危機というような極限矛盾が露呈したとき、無関心・警戒という態度で場を流す堤が切れて、眠らされてきた「愛」が行動となってあらわれるという。
郭教授はそれを「自己贈与的同一化」と呼び、「災害ユートピア」の心性としている。津波避難のとき、道にいる見ず知らずの方を車に乗せるという衝動的行為をどう読み解くかという点について、郭教授は石巻市・気仙沼市在住の外国人対象のアンケートや、ソルニットが前著で明らかにしている実例をもとに、極限の人間行動は、従来言われているパニックと退行・野蛮化を特徴とするものではなくて、
・災害によって<あり得ない場所>としての地獄のような世界が現れたとき、まさにそれが条件となって現出するような<もう一つのあり得ない場所>としての天国paradiseが「災害ユートピア」である。(郭氏・同論文p.129)
・惨事に遭遇したとき、人はむしろ、「利他主義や相互扶助を感情的に表現するだけではなく、挑戦を受けて立ち、創造性や機知を駆使する」。こうして現出する「特別な共同体」を彼女は「災害ユートピア」と呼ぶ。(同)
という。これは日本人の特性というものではなく、人類共通のものであるとする。百万の実証が対立意見の否定に届くことはないが、私はそれでもなおかつ、被災地のすべての被災者や現地の支援者を包み込むものではないという感触を得ている。それは救出時の「相貌」異様な障がい者や路上生活者への除外視であり、避難後の身元確認後の外国人・障がい者排除であったりするからだ。閉ざされた地縁の中のユートピアであったりするが、それでも災害前と比較にならないほどに「寛容」となる。
私は、引きこもり青年のリセットの場として、災害ボランティアを勧めているが、必要とされる経験をする珍しい場だからだ。
私たちの生活する社会が、消費社会とその欲望を基礎にしているがゆえに、己を巻き込まない生命の危機が露呈したときも、無関心・警戒心を露わにするだけだ。たとえ「災害ユートピア」が立ち上がったときでさえ、「法」と「規律」を言い立てたり、自己贈与的同一化の超法規的行動基準を非難したりする。
食料がなくなったとき、避難所近くの畑から芋を取って、分かち合うという行動が、窃盗と断じられるだろうか。
こうした心性は、時間の経過の中で、経験化されることはなく再び冬眠させられる。
この心性を眠らせることなく、引き伸ばし続けることは出来ないのだろうかという。この被災地に立ち上がった心性は、経験化されることはない。ここを倫理教訓化したり、非被災地の活動に移植したりする行動は、その情念を封じ込めることであって、ゆえに「防災」活動は、現地支援活動とはエネルギーの出所が違うゆえに、醒め切ってしまう。
じんわりとボディブローを食らった感じがしている。今の災害ボランティア活動が、世界中ただひとりの活動であったとしても、活動は続けるだろう。被災という場には、物理的な波が覆いかぶさっただけでなく、人心という波もまた押し寄せたのだと思う。懇話会の課題には抽象的過ぎるが、郭教授に会いたいという気持ちが、じわりみぞおちあたりに宿ってしまったようだ。
夜間傾聴:開店休業
(校正1回目済み)