湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

10/28路上生活者支援自助組織「あすなろ会」定例会報告(マイクロクレジット基金他)

2009-10-30 10:44:14 | 引きこもり
28日(水)あすなろ会の定例会が開かれた。11/16の佐野代表を迎える懇談会の準備や、翌日の鶴嶺高のボランティア学習の1コマにTさんが招待された件で、路上生活と離脱・貧困の話を高校生にどう話したらいいか話し合った。地元の九条の会のOさんが合流してきたので、支援活動に熱が入っている。

Tさんが個人の用件があったり、雨天が邪魔したりでビッグイシューの販売部数が落ちている。フリーマーケット販売の件も、実行委に正面から交渉するので、途中参入が認められなかったり、販売商品の仕入れ値の何%かが事前に請求される仕組みだったりして、売り上げからしか現金を準備できないTさんには門前払いに等しい状態があった。かといって実行委員会に出ていては、販売時間に制約がでるのだった。それは支援者が支えるべき仕事。しかし、事前情報が遅かったり、キャパがなかったりと案外参加しづらいのが現状だった。

今回は売り上げが上らなかった。これをどうするかという話となり、バックナンバーを売るときの煩雑な事務手続きをOさんに譲った。ビッグイシューは、仲介屋がかためて買取り、仲介屋の懐内のやり取りで販売するのではなく、販売日録を中央管理する。そのため、出納日録と在庫管理が日々にかかってくる。週に何曜日かを整理日にするというわけにもいかなくなってくる。ここに加えて販売仲介者が複数になると、この出納管理が重くなって、結局前の販売体制の轍を踏むことに引きずり込まれてしまう。ラフさが得られないのだった。

最新号の出納管理は体制が出来ているが、バックナンバー販売をどうするかという問題を話し合った。

次に問題になるのが、雨天が続いたとき、仕入れ金まで食費に食い尽くしてしまうため仕入れが出来ず、まさに今、Tさんが抱えているのがこの問題だった。ビッグイシューはつけ売り禁止。この隙間をどうするかという貧困離脱の難しさだった。事情があって路上生活をしている。だから住所がない。住所が無ければ住民票がもらえず、住民票が無かったら職がない。この悪循環をどう断つのかという課題がある。例え住民票があっても採用されるかは別。連帯保証人を必要としたり、日雇いさえ保証金と称するピンはねが行われたり、している。個人で起業して路上販売は公道販売は禁止、私有地も許可が下りなかったりと社会の排除の論理は徹底している。

そこで空き缶拾いとなっても、自動販売機の横から持っていけば窃盗、ゴミ捨て場さえ町内会などの所有権が主張される。マンションのチラシ配布さえ警察沙汰になる時代、結局この空き缶拾いをして元金を稼ぎ、ビッグイシューを買う。しかし雨天時にはゴミ拾いもままならないという地獄。

ここをビッグイシューではなく、あすなろ会として対策を打つことにした。ガイドブック作成配布にも資金がいる。講演会には講師に謝金を捻出しなければならない。こういう具合に資金調達の道を作ることになった。

大風呂敷をひろげれば。ムハマド・ユヌスのグラミン銀行の芽のような個人向け無利子無担保小口金融「マイクロクレジット」を作っていくことになった。そのためにも、「ワンコイン基金」を生み出していくことに。

路上生活者が例えば庭掃除の仕事をもらったとしよう。ところがこのままでは彼は働けないことがある。その御宅までの交通費が支払えないのだ。金額設定はこれからの検討課題だが、ここにマイクロクレジットから、一日上限千円の資金貸し付けを受け、交通費に当てて日当をもらう。その日当により千円を返す。雨の続く日は仕事も食費も尽きてしまう。ひとり月上限5千円までと設定してあれば、借金地獄への歯止めもかかる。このようにマイクロクレジットは初動資金として機能する。

ワンコインで金銭的な見返りがあるわけではないが、活動協力の形が得られる。会計は会報で常時公開していく。ここでのリスクはふたつ考えられる。ひとつは基金利用者が失踪する場合。もうひとつは梅雨時など申し込み人数が固まることが考えられること。今話していることは、目的の確認をしっかりし、審査にかけることと、上限確認以外、全くの無審査の基金とする場合などの議論がいる。基本は後者でありたい。

あすなろ会の基金は、ふたつの利用途。ひとつは路上生活者支援活動の活動費。もうひとつは、小口貸付の原資。この辺のバランスも今後の議論の課題。

ただこのマイクロクレジットは、路上生活者支援活動に限定的に使う以外にも、社会的困難を抱えた青年達の社会貢献諸活動の助成金。地域起業の初動資金補助などへの発展可能性を持っている。

これは、放置傘再販のような雨天時の社会的起業と併行して拡げて行きたい。
「あすなろ会」は、サポチガの登録を来年「湘南あすなろ会」とする。これは様々な分野で「あすなろ会」が結構あって、紛らわしいので「湘南」をつけることに。

以上

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父はホームでも転倒を繰り返していた

2009-10-30 07:27:58 | 引きこもり
ここ二日間、PCを前に眠りこけてしまう状態が続いていました。すみません。

父が出かけた日のその夜、ホームから連絡が入り、父が再び夜間に徘徊し転-倒したことを知った。担当者が少ない夜間、父の求めに応じて、ベッドからトイレに介助する際、他の入所者さんに気が取られた間に、車椅子から立ち上がって、上履きを履かせている最中の中途半端な状態で転倒、肘と尻に擦り傷、腰を打ち尻に内出血、入れ歯が外れて口内に傷を作った。父は待たせておくことが出来なくなっている。検査の必要があるということで、路線バスの終わった夜間、家族に同行を求める連絡が入ってきた。

これからタクシーで指定クリニックまで飛んでいくのかと思いつつ、父の細かい状態を聞いたところ、父は自力でつかまり立ちをし、担当者の指示にしたがってベッドまで戻ったという。トイレの途中なので、排尿も済ませていたのだった。内出血からの痛みの訴えも無く、頭を打ってもいなかった。肘を突いて横転したのだと、いつもの我が家の夜間の転倒騒ぎと同じと思えたので、朝まで様子をみて様子がおかしかったら連絡くださいと御願いし、急行することを回避した。幸い連絡は入ってこなかったが、父は暴走を繰返したようだった。父の帰宅時、担当者から上履きを履きやすいものに替えて欲しいと要望が出た。

従来の行きなれたホームの出来事だから、これで治まったものの、新規契約のホームなら、利用拒否や家族の夜間出動となっていただろう。このことを母が近所の商店の奥さんと話したところ、その商店のご隠居さんが同じようにおしめを拒否して、家族が窮地に追い込まれたり、4時台に爆音のような大音量でTVをつけてしまうという、夜間家庭内戦争をやっていた。男はなぜ言う事を聞かないかという議論をしていた。わがままというより、今80代以上の男は、空気を読む力がもともとないのだということに話が落着いたらしい。

父は制約しようとすると殴りかかってくる。再度転倒すればパニックになる。聞いていると背筋が寒くなる。我が家だけでなく、施設の中でも騒ぎを起こしているのだと思うと、妙にちょっとほっとしている。私達家族の介護技術の未熟さという発想が払拭できない証拠でもあった。

このメールを書いている30日、前日の朝日の夕刊、排泄の医療関係者の紹介の記事が1面3段抜きで出ていた。コンチネンス(自制)研究は、全く流れが逆だった。おむつをつけられたまま、陰部がただれた状態に放置されている高齢者に、自分で始末が出来るよう支援するという研究なのだった。私の父のように、単独排泄が危険を伴うにも関わらず、暴走し転倒を繰り返す。家族を結果的に拘束してしまうタイプは、記事に1行も出てこない。しかし、近所の商店のご隠居さんのように、父と同じような暴走を続けている当事者の潜在率は高いのだろう。

父は帰宅するなり空腹を訴え、出したうどんを食べながら排便、いきなり介護者の意志を剥ぐのだった。昨日は転倒が2回、いずれも夜間の出来事だった。元気がよく、そのうち1回では枕もとのペットボトルの蓋が落ちたと、転倒後理由をつけてベッド下に潜り込み、そこから出られなくなった。

またぐ部分があって、介助しようと手を引くと、その手は濡れていた。やがて悪臭が漂い、おむつの中に便がでてしまった。こうなると、ますます指示を聞かなくなり、抜け出せなくなるのだった。帯を使って私の体重を使って力任せに引き出したときには、父も私も立ち上がることが出来なかった。父は四肢の打ち身と擦り傷、私は完全に坐骨神経痛が始まってしまった。

2回目は父は夢半ば、ポータブルトイレの手すりにつかまり損ねて前方へと転倒。手の甲を打った。もう数cm前で転んだら、ポータブルトイレが投げ飛ばされる状態だった。朝の5時。父を引き上げベッドに戻したために鼓動が収まらず、ズタ袋になったような気分で、ゴミ袋を指定の場所に出しに行き、ご近所さんの朝の挨拶への応答が、うわついて言葉にならないのだった。

夜間傾聴:□□君(11/28・仮名)
******君(11/28・仮名)
     相模大野%君(11/29・母親)


p.s. 朝、近所の子が我が家の壁をつかってボール練習をする。それに起こされてしまう。電話はコードを抜いてあるから平気なのだが。


(校正1回目済み)

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引きこもり経験者と故祖母の介護/減算原理という感覚

2009-10-28 10:48:54 | 引きこもり
昨日は久しぶりに、父がショートステイ2拍3日に出かけて行った。母は知人の葬儀の関係で集まった旧知の友人たちからの電話応答と、父の寝具や衣類の洗濯に余念が無かった。私は父の使う常備薬の不足分を、片道1時間弱かけて届けるという交通費の方がかかってしまうような、割り切れない役割を済ませながらも、いわゆる急変の不安定感が収まった、表現しにくいが、せわしなくとも時間が自分のところに戻ったような気分を味わっていた。

ホーム職員の◇さんは、元引きこもりの経験者である。祖母のお世話になったころの話なので、もう10年来のベテラン。薬を経営者の++さんに手渡ししたあと、車椅子の片付けをしている◇さんをつかまえて少し話をした。

「わーく」の取材話だった。呆気なく断られてしまったが、採用されたときは嬉しかった話を少し聞かせてくれた。前に聞いた話とあわせると、介護職は学校担任の先生のリードがあったようだ。仕事を始めて、はまったというタイプ。いつも父の介護をしてくれている。

訪問介護の藤沢営業所にいた〇さんは、退職して専業主婦して、鎌倉の紀伊国屋で買物をすると、出会うことがある。学生時代鬱の闇をくぐった方である。この方も、パート職時代、祖母のお世話になった。娘さんを抱いて買物をしている立ち話に、祖母介護時代の懐かしいフレーズが混じる。

しかし考えてみると、わかっているだけでふたりの不登校引きこもりの方のお世話になっている。十数年前と比べると、介護の世界もだいぶ四角四面というか効率優先の時間に流れが変わっているが、当時は若干の茶飲み時間というか、立ち話時間がとれた。この二人の方と話す機会が取れたから、プライベートな話も伺うことができたのだ。

しかし、引きこもりの方への支援も、今と比べようも無いが、選択肢が少ない分、自分で探したり、数少ない選択肢に自分を賭けたりする場面が多かったのではないかと推測する。その影には、数多くの失敗などが隠れているが、私の祖母をめぐってさえ、ふたりの方に出会う。それは私からは成功例と思うが、就労は転機なのだと改めて思うし、彼らの眼差しがあってこそ、祖母は安定した生活(余生とは言わない)を送ることができたのだと思う。

ホームから湘南台駅に出て、相模大野の巡回2件。片方は同僚の担当する中学生。明るい子なのだが雑踏に出ることが出来ない。私は訪問2回目なので、先方も覚えていてくれた。もう1件は%君。親御さんと話したものの本人と会うことができなかった。

同じバス路線上なので、予想外に早く仕事が終わったので、藤沢に戻り辻堂図書館で書籍の入れ替えをすませることが出来た。横浜から寿町に出て「Nくん」がBig Isuue を仕入れつつ生活支援を受けているNPO法人「さなぎ達」の半分閉まったシャッターをくぐった。閉店まぎわ、セーフ。

「Nくん」は今、「はまかぜ」にいる。就労を前提にした生活支援の横浜市の公共施設である。心身の体調悪化や、アディクションのために就労が困難な中高年の方が入っている。N君はなかでも若手に属する。

はまかぜには、まだ帰っていなかったので「さなぎ達」のSさん、Tさんと情報交換することが出来た。11/16の懇談会への参加要請や、Tさんから頼まれたBig Issue のバックナンバーを仕入れて、2枚続きのままの懇談会チラシを渡してきた、お恥かしい次第。コピー後、切り離しを忘れていたのだ。

寿町から川崎のLD懇話会の講演に参加しようと携帯を覘いたら、同僚から、電話が通じないのでとメールが入っていた。%君の親御さんと至急連絡を取るようにとのメール。受信後1時間経っていた。

%君の家族の方が応答。至急相模大野に戻ることに。横浜と相模大野はつながりが悪い。%君宅で仕事。

藤沢で遅い夕食を済ませ、辻堂に戻った。バスも丁度セーフ。図書館にもどったときスーパーで駆け足の買物を済ませて買物袋をコインロッカーに入れておいたものを取り出すゆとりもあった。

LD懇話会の「フィンランド・メソッド」の発達障碍の観点から再検討する講演(牟田悦子成蹊大教授他)は参加できなかったが、今の私には予備情報に当たるのでやむをえないと納得させている。

母は茅ヶ崎側から、船橋は遠いと愚痴りつつ、私より少し先に帰ってきていた。

家に戻ると猛烈な睡魔に襲われ、地元からの依頼があった方との出会い調整電話を済ませて、そのまま着替えもせずに私は眠りこけていた。従来なら、茶の間でちょっとしたお茶の時間を持つのだが、そのまま眠ってしまった。やがて午前3時になるころ、夜間傾聴の待機を忘れていたと照明がついたままの厨房に出て行って驚いた。母が居室の机にむかって、まだ手元のレシートを整理していたのだった。

私が寝込んだら、この家はどうなるのだろうと、私が眠ってしまった孤立感をかみしめていたのだった。だまってお茶を出した。大丈夫だから早くお休みという以外、何もいえなかった。私も60になる。この家は減算原理で動いている。だから、その歩みは踏みしめていかなくてはならない。そう思いつつも、嵐の合間の時間の価値に驚いている。

夜間傾聴:******君(仮名)


(校正1回目済み)

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結局、まとめた報告になりました/路上生活者支援の湘南ネットの話

2009-10-27 06:16:18 | 引きこもり
母の旧知の友人のご主人が船橋の病院で亡くなったと連絡が入り、祖母の葬儀のときも協力してくれた方なので、午後、私にメールを残して野田線馬込沢の御宅に飛び出していきました。食道癌の手術後、経管栄養で長年闘病生活をされていたのですが、徐々に衰弱。誤嚥性肺炎で亡くなりました。ご主人は自己主張が強い方で、通院介護や調整で10年近く苦労されており、母と愚痴友達のような支え合いをしてきました。

昨日は父がデイサービスの日で、16時半の帰宅時間に家にいなければならなかったのに、母が近所の医院から帰ってすぐ出かけてしまったので、私がすっかり迎え待機を忘れていた関係で、階段介助ヘルパーさんから緊急連絡が形態に飛び込み、17時すぎに家に飛び込むという失態を演じてしまいました。

昨日は北風吹く雨模様の天気だったので、外で待たせてしまうことは影響が大きかったのです。幸い交通渋滞があって到着が遅れ、事情が判明したので、私と携帯電話確認後、少し待っていてくれたので、父は数分待ちの状態で家に入ることが出来ました。階段介助のヘルパーさんが、訪問最後の場所と時間延長して対応してくれたため、階段介助も普段どおり済ませることが出来ました。

ところがホームからの日誌を見て、父が便予定日に浣腸をさせなかったことがわかりぞっとしました。案の定、帰宅後、排便転倒騒ぎが始まり、私は巡回を延期せざるを得なくなりました。

昼の巡回後、母に依存してTさんと茅ヶ崎社協を訪ね、茅ヶ崎サポセンで文書作りを済ませて、辻堂に移動。買物補充をすませて、バス待ちのベンチで雨の中、うたた寝をしている最中に携帯が鳴ったのでした。デイサービスを忘れるなぞ、母が待機していることに寄りかかっていたからで、このときタクシーがつかまらなかったら、大ごとになっていることでした。母のメールが届いていたことも、このとき気が付いたという具合。

父をひとりに出来る状態ではなく、母が終バスで帰宅するまで、最終的にはSECOMの緊急出動ボタンに、家族がいながら頼る、変則事態覚悟の泥仕合ならぬ便仕合格闘技を行っていました。夕食を作る必要があり、私が1階に降りると、糞尿だらけのまま、足をもつれさせ階段に出てきて降りてしまうのです。

私が今回延期した方は、相模大野の%君で、軽々しく延期できる状態の方ではなかったのです。同僚に電話しつつ、正直言って限界を感じていました。昨日は、引きこもりの息子さんを抱える地元の方から問い合わせがあり、市北部の方で歩きで訪問は、夜間対応が難しいことで、一度お邪魔するものの、方法を考えないと丁寧な仕事が出来ないと思案していたときに重なった延期判断でした。地元の方は数日後にお邪魔することになっていますが、工夫が必要です。

%君は、今日父を2泊3日のショートステイに送り出したあと、準備していなかったメンソレータムADを補充しに、買物をしてホームに届けます。薬より交通費が高くなり矛盾を感じますが、前日、父の帰宅時間を忘れたためなので、仕方ありません。こういう行き違いの用事が介護には頻繁に生まれます。

帰りは湘南台経由で相模大野の%君宅を訪ねます。ここから横浜寿町へ。NPO法人「さなぎ達」の代表S医師にN君の件と、11/16 14時からのビッグイシュー懇談会への参加勧誘等々を済ませ、18時から川崎でLD懇話会参加し帰宅という日程。LD懇話会は「フィンランドの教育事情及び発達障害との関連について」という久々の学齢期の子たちの話。私は教科学習という観点よりも、生活と職業教育、自主性と創造性の観点から得るものは無いかということを「フィンランド・メソッド」が日本に紹介されて以降の日本の反響を踏まえる形で聴いてきます。そして「わーく」の取材のアポを**さんと会えたら、してこようと欲張りなことも考えています。父をホームで預かってくれるからこそ動けるということを実感として感じます。

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一昨日、カトリック茅ヶ崎教会の路上生活者支援「きずな」の会合に参加してきました。Tさんからは湘南ネットの会合という事を聞いてきたのですが、実際は「きずな」主催の法律相談会でした。茅ヶ崎・藤沢・一部寿町という共催型の相談会だったため、確かに湘南ネットには違いないのですが、拍子抜け。私はつい、社会活動・市民活動のなにげなく考えている枠組みの常識なる隠語で発想しています。活動経験者の言葉と市民一般の言葉とは、ずれていることをTさんとの会話で感じてきました。私が踏まえるべきことでした。

しかしここで、いくつかの経験をさせてもらいました。茅ヶ崎駅頭の路上生活者の元気なひとたちの大半が、衣類取得と食事会に集まっていました。目的のビッグイシュー懇談会(11/16)への関係者の参加要請と、生活支援ガイドブックの発刊提案は、相談会が終わった後の場でということになり、17時まで3時間待つことになり、父の紙パンツや、入れ歯洗浄剤と夕食の当番として食材補充の買物時間と重なるため、中途で抜け出しました。

14~17時の会の中で話し合い参加できるものと思っていたのですが、ここで観たものは、待合室室内で、Tさんは仲間と歓談。そこを渡り歩くようにチラシを配っていたのでした。私が発想していたのは、企画会議参加の指導者や積極参加者の話し合い自体を予測していたわけで、Tさんにしてみれば、この場自体が仲間に会合を伝えられる場だったのです。Tさんの方が自由、私が私の言葉でTさんに問いかけても、それはTさんの常識を言い換える素材に化けてしまうのでした。目的は達成したものの、主導者たちには17時からでは相談するわけにもいかず、予定伝達だけして帰ってきました。

買物はコインロッカーに一時預けてきたのですが、空いていた場は、路上生活の女性の常連さんの居場所。露骨な空転の会話を重ねつつ、引き出す荷物をじっくり観察されてしまったという、少々居心地の悪い作業でした。おむつがあるからということより、共通の話題が無いことでした。それが証拠に、彼女得意の演歌を聴くこととなったのでした。

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私の巡回している青年たちは、ふたつの団体からの方です。ひとつはキャッチアップの学習指導と通学支援を目的とした、サポート校風の進学予備校、先方からは下支えと呼ばれている訪問活動。もうひとつは進学塾の長期在塾生のケア的進学サポート。この両者とも、社会的引きこもりの青年の中でも、発達障碍や、精神障碍を抱えた方への比重が多く、たまに帰国子女の生活習慣と言語の差からのいじめの重荷を抱えた子が入っていたというような様々な挫折を抱えた青年の支援が実情であるわけです。そこに、元私が講師として在籍していた塾にいた青年たちが便乗しています。

固定的で付き合いは長くなります。電話傾聴と訪問巡回の形でつながりますが、臨床心理士とつないだ方がいい場合が多く、その都度紹介しますが、協力関係を結ぶというより、当事者さんたちが仲介後離れてしまう問題を抱えています。
その体制もなかなか迅速な対応が出来ないこともあって、減少の一途というのが実情です。父の介護との両立では出来る仕事ではなく、ましてや現在会員制でクローズのサポートですが、オープンは個人で出来る状態ではない情況が拡がっているのが実情。だから進学指導の枠の中ではなく、そこに生涯にわたる就労支援の場面の地域セイフティネットを組んで、競争原理の暴走への歯止めをかけていくことが必要なのだと思っています。大上段ふりかぶった物言いになりましたが、綱渡りをしていると、自分を納得させる儀式が必要になる。そんなものでもありますから、お許しあれ。

台風一過、ゴミ袋を出しつつ。


夜間傾聴:相模大野%君(仮名・母親)
     小田急相模原君(仮名)


(校正1回目済み)

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書きこみ遅れます、すみません

2009-10-26 06:43:16 | 引きこもり
1時間半ほど前、夜間傾聴の対応を終えました。無事。

今夜は父は静か。私の両足がこむらがえりを起こして、マッサージ。
メール応答2件、済み。

8時に父の朝食とデイサービスが始まるので、小休止します。

書きこみ、午後からです。すみません。

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ベッドまわりの床材張替え効果はあるものの

2009-10-25 07:08:54 | 引きこもり
父の部屋の床を汚れ対策から、拭くことに出来る床材に、ベッド周りを敷き直した。出入り口の床が緩くなっていたので、板を入れて補強。この部分も、ベッド周りの延長として、同じ床材を敷いた。父の部屋の半分弱が新しい床材になった。工事は床補強の分を除いて、見積書と領収証を準備した。7万円ちょっとである。介護保険では、関連工事は20万円以下なら1割負担で出来ると思い込んでいた。祖母の介護の時代のつもりでいたのがいけなかった。

ケアマネさんに話を持ち込んだところ、まず工事は内容審査があって、事前に届出が必要であること、工事前と工事後の写真が必要であること等、数年前から非常に審査が厳格になっていることを知った。その上、掃除の軽減の工事は対象外だとのこと。ちょっと痛かった。祖母の時代、廊下の手すり取り付け工事のときのつもりでいたのがいけなかった。もう十数年前のことである。

カトリック教会の路上生活者支援の湘南ネットの25日の会合にあわせて、ビッグ・イシューの佐野代表との懇談会(11/16)のチラシを作りに巡回の帰りに茅ヶ崎サポセンに寄っていた頃、母は父の排便騒動に巻き込まれていた。

昨日は、一日中雨模様。市内の主要幹線道路が異様に渋滞し、バスが予定通りに動かず、タクシーも捕まらない状態が続いていた。

予定より40分遅れで帰宅すると、玄関を開けた途端、便の悪臭が鼻を突いた。茶の間に母がへたばっていた。この気温で強い悪臭がしているときは、よほど広範に便が散っているのだが、さすがに父の部屋に飛び込む気にはなれなかった。

母は頬杖をついてTVを見たまま、私の方を振り向かない。声をかけたところ、堰を切ったように状況報告が始まった。要は父が大便始末に失敗し、便をこぼしながら階段上に出てきて母を呼んだということ。父は身体が硬く、かがんで自分の尻を拭くのが困難になっていた。だからなおさら紙パンツ内の排泄を説得していたのだが、父は片言も耳を貸さずに、大便のときは騒動を起こすのだった。週に2回、家族は悪夢を見なければならなかった。最低限、便意を催したときに私達を呼べと言っているのだが、いつも便を振りまいた後、始末がつかなくなって私達を呼ぶのだった。決して事件に父は学ばなかった。掃除中の後始末の様子にさえ、身構え、居直りの罵声を私達に浴びせた。私達は忍耐することにいつの間にか慣らされていた。

母の説明を聞きながら父の部屋に上っていくと、父は座り込んでTVを眺めていた。悪臭が部屋に立ち込め、窓を開けようとすると、「寒いから開けるな」と父が怒鳴った。不思議なもので、この悪臭、本人は、よほどのことがない限り気が付かないのだ。しかし、ゴミ袋に捨てられた介護用手袋の数に驚いた。ポータブルトイレのバケツをこぼす事態にはならなかったが、父が汚れた手であちこち家具を触ったらしく、母は床だけではなくそれを追いかけて拭いていたらしい。

母が父の手を拭こうとして、跳ね飛ばされたという。父は無言で後を向いていた。紙パンツ交換が暴れるので、ひと騒動だったという。父の腰に巻いた毛布をはずして驚いた。紙パンツは乾いていて、シーツが無残な状態になっていたのだった。脱いでトイレに行こうとして、間に合わなかったということが読み取れた。このおしめ拒否のたったひとつが家族を拘束し、父の意固地が作業量を膨大に拡げている。ホーム職員さんたちや来客のときのよそ行きの顔と家族に向ける顔が違うことから、まだ父は正常なのだと思いつつも、その都度、喉元までこみ上げる怒りを飲み込んできた。その息遣いを父は察知している。

静かに指示しつつ、父を椅子に下ろし、母はシーツ交換を、私は父の清拭を分担した。父の暴発が考えられたからだった。20リットル用ゴミ袋がいっぱいになった。用意していたぼろきれは、たちまち使いきり、アルコール入りのウェットペーパーと、キッチンペーパーを事件のときは使うことにしていたので、汚物ゴミの山が出来上がった。

雑巾は範囲が広いと、後始末の労力がかかり、1階も汚物の悪臭が立ち込めてしまう。洗濯機を使うときも後始末の清掃をしないと、一家の衣類に悪臭がうつってしまう。基本的に、父の衣類はバケツの予備洗い後、洗濯機を使い、私達の衣類は混ぜずに洗濯する。雑巾はバケツ洗いし、汚水はトイレと風呂場の排水口に流す。この時間がかかる上、私は脚の怪我の後遺症でしゃがむことが出来ないので、腰に異様な負担がかかってしまう。母は両手に掌蹠膿疱症(しょうせきのうほうしょう)の持病があるので、長時間の水仕事が出来ないという状態にあった。雑巾を干せば悪臭は周囲に立ち込める。そういうことで、広範な汚れのときは、紙を使って清掃する。

清拭中、父はサイドテーブルの上のミカンに手を伸ばして食べようとした。糞尿がついた手で平気で食物をつかんでしまう。父は認知症を患う前から、男のバンダリズム(野蛮主義)を誇張する癖があって、散々悩まされてきた。認知症を患ってそれは演出ではなく、本性につながっていることを知り、過去の記憶に塩を塗り込められているような痛みを感じる。父のトラウマから連なる一連の歪みを観る思いがある。

2度目の家具の清掃を終え、ゴミ袋を庭のペール缶に詰め込み、風呂に入った。3時間が過ぎていた。母の部屋の清掃時間を合わせると、どう考えても6時間は掃除していることになる。炊飯の時間を合わせれば8時間近い。通勤仕事をしている個人が、父のような状態の家族を抱えたら、その方は1週間と持たないだろう。加えて夜間の転倒や、危険行為の監視が加わるのだ。ハイ・ストレスを受け流していく知恵は、プロでさえ限界がある。在宅介護というのは、どうしようもなさと付き合あうこと、飲み込まれる危機に身を晒していくことである。

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これを書いている、朝4時。父の部屋のTVが点いた。音量を下げにいき、父の尻が出ていることに気が付いたが、黙って階段を降りてきた。まもなく7時、父はここで眠る。8時の朝食のとき、起こすのにひと騒動。8時半、私の睡眠時間が始まる。11時半までの3時間と、夕食後の1時間半が私の睡眠時間。体力を使う仕事なら、とうにつぶれている。

夜間傾聴:□□君(仮名)
     相模大野%君(仮名)
     多摩センター君(仮名)

(校正2回目済み)

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「わーく」準備メモ(05)「わーく」出発の形について

2009-10-24 08:15:51 | 引きこもり
「わーく」は、次のような段取りで立ち上げられる。ひとつは私が結果的に不定期に取材し立ち上げる「紙メディア&ブログDBの『わーく』」。これは「わーく」を構成していくヒントになるような事例の活動紹介。以前の「湘南子どもフォーラム懇談会通信」の地域就労支援手探り版のような姿のものだ。

もうひとつが、「画像交流ネットワーク・テスト放送」だ。これは面白そうだと興味を持った人たちと、その都度、お試し版を2種類作り、CDに焼いて関係者に手渡ししていくもの。これはオンライン上のDB公開していくが、ブログを作って乗せるか、その都度の最新版をHPに乗せるかは未決定。とりあえずは、流通用に最新版を公開していく。ここでいう「2種類」とは、コンテンツの区分というよりメディアの差にアクセントがある。ひとつは「メール配信フォトフレーム版」(無線LANと受信携帯付フォトフレーム用)。もうひとつが「ポッドキャスティング版」(携帯電話&iPod用)のことだ。

前者は、いわゆる「静止画スライドショー」のファイルの各画像にひと言メールを焼きこんだもの。音声は当初は無音。後者はいわゆる音声放送が画像紹介をしていく形だが、音声と画像はコンテンツが独立。片側だけ受信しても意味が通じるような編集方針で行く。

つまり受信形態(メディア)の差によってアレンジするが、元のコンテンツは同じものから編集していく。

この中途半端なまさぐりは、この放送が目的としている対象層の多様性と偏りを意識しているからだ。

「わーく放送版」は、地域に散っている社会的困難を抱えた個々人をつなぐという点ではひとつだか、二重構造を持っていること。それは社会的引きこもりの方や、精神障がい・軽度発達障がいの方には、企画情報以外は商業放送や諸ネットワークの方がアミューズメント的な価値が高いため、受信者としての魅力には欠ける放送である。

しかし、その放送のスタッフとして、より困難度の高いひとたちとこのメディアを通じてつながり、その方たちのネットワーキングを手助けしていくというスタッフ参加型の仕事を提供していく。

もうひとつの層は、手帳取得している知的・発達の障がいを抱えた方である。参加の形と、メディア表現にアクセントを必要としている方たちだ。端末の操作性の問題があるが、その検討は、従来の「湘南オンラインフレネのブログ」で探っていくが、視覚優位・簡潔表現をアクセントとしつつ、日常のスナップからつながる面白さを生み出していく放送の現場課題を、作りながら考えていく。投稿の形の参加や、前者スタッフとともに編集会議参加する形で、よりローハードルな参加法をさぐる。お試し版作りを通して、放送の価値を拡げていく活動となる。編集会議は流れが出来てこないと、それ自身が成り立たないが、ともあれ、口火を切っていく。

このテスト版には、ふたつのコンテンツを意識していく。ひとつは「日常のスナップ」であり、もうひとつが「企画イベントの紹介」。前者は擬似的にしか今は作れないが、文章主導型ではない交流からつながりの価値と面白さをどう引き出していくかという手探りがある。後者は、いわゆる関係団体の諸企画紹介やその報告を編集部が流す部分。もうひとつは利用者の企画紹介、たとえば「○月×日Δ時にお茶会をする」とか「○○に出かける」「野球をする」というような日常交流情報を提供してもらい流していくという部分。いずれも放送の価値を高めていく試みとなる。

最後は仕事量と放送頻度の測定という仕事。基本的には「金曜日放送」を狙っていくが、一般の放送とは違い、流れ去ることがないこと。配信した放送はファイルの形で記録されていくので、何回も見ることが出来ること。この内容の更新頻度を人材との兼ね合いでつかんでいく。できることなら週2回更新をめざしたい。

(つづく)

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Big Issue 佐野代表を囲む懇談会日程決定!/介護者のガス抜きを

2009-10-23 11:41:33 | 引きこもり
Big Issue の佐野代表との懇談会の日程が決まった。

11月16日(月)14時~16時、茅ヶ崎サポセン

となった。若松町の「ゆめたいカフェ開店(11/15)」と重なった。佐野代表に無理を御願いして、日程調整してもらったのだが、台風延期の影響が痛い。

特養への入所手続きをする関係で、相模大野巡回の時間を早めた。手続きは電話で状況を話しこんでいたので書類の受け渡しで済んだが、手続きをしたからと言って入所できるわけではない。気の遠くなるような順待ちがある。家庭崩壊を起こしている障碍者のお子さんを持つ家庭の高齢者介護の話も聞いた。

どう考えてもサポセンに立ち寄ると時間切れになるので、Tさんの支援協力をしてくれるIさんに頼み、Tさんへの伝言メモをレターケースに入れてもらった。

私用料金を渡して、本校でプリントアウト。茅ヶ崎に戻って、父の主治医の医院に薬をもらいに行く。仕事を終えた20代の方がマスクをして何人も咳き込んでいる。風邪をうつされに行くようなものだ。高熱で飛び込んでくる方もいて、高齢の方や私のように使い走りの者は、夕方の時間帯は見かけない。次々の順を後回しにされて、調剤薬局で薬を受け取ったときには、夕食の時間に食い込んでいた。

母に夕食のメニューを電話で伝えておき、食材を私が後から持ち込む算段をしていたのだが、臨時メニューにせざるを得なかった。母とのふたりの食事なら、時刻に融通が利く。父が入ると、空腹だと階段を降り始めるので、忙しいのだ。夕食は決まったTV番組が終わるのを契機にしているらしく、時間の錯誤があるのに、体調のいいときは正確なのだ。昔から、こぼした椀の汁を拭くのも家族にさせて平然としていた人なので、配慮することはありえなかった。

幸い昨日は、夜の巡回がなかったので、たまっていた家事に使うことが出来たが、仕事への切り替えがなし崩しされていけば、質が落ちる。私のような根気勝負の仕事では、鋭敏な引きこもり青年の警戒が生まれてしまう。信頼度の問題なのだ。幸い彼らは大人なので、話せば是非は別として通じる。低学年の子などでは、疲れの眉間のたて皺も、怒りの眉間のたて皺も区別が無く、敬遠されてしまう。切り替えが命の職業でもある。

AMAZONから書籍が届いていた。一部を最後に紹介しておく。特に「マイクロファイナンス」は、ムハマド・ユヌスのグラミン銀行のような小口融資が日本に根付かないのはなぜかと問いかけている。ビッグ・イシュー仲介を始めてみて、改めて可能性に興味を感じている。

父は既に冷凍食品で食事を済ませて眠っていた。毛布をめくってみると、母と激戦をしたのだろう、濡れた尿取りパッドが脇に脱ぎ捨てられ、尻がでていた。パッドを捨てて、念のためにポータブルトイレのバケツをチェックして驚いた。顔を拭いたタオルが糞尿浸しになっていた。母は詰めが甘いのだ。近くにタオルを放置すれば、トイレットペーパーが手元に無ければ、父はタオルで尻を拭いて投げ込んでしまう。こうなったタオルはトイレに流すわけにいかない。取り出して袋に包んで捨てる以外にない。悪臭との格闘になる。以前はオムツを投げ込んだ。2階のトイレを破壊し、下の厨房を汚水の滝で使用できなくしたのも、その投げ込み行為だった。わざというより知識が無い、配慮が無いのだ。

結局私のゆとりはタオル戦争によって吹き飛んだのだが、現行犯逮捕の場合以外は、後から怒っても父がいいがかりと勘違いしてしまう。やったことを忘れてしまうのだ。現行犯でも言えば口論になる。決して直そうとはしないので、更につかみかかりなど悪いことが生まれてしまう。

シャワーは浴室が、防水シーツや、ウェルカムマットの乾燥干しに占領されていてすることができなかった。やむを得ず洗面所で清拭をしていると、母の悲鳴が2階であがった。

父が下半身裸で毛布を母に投げつけていた。シーツは尿でびしょぬれ。パンツを下げているからベッドが尿浸しになるのだと注意したのがいけなかったらしい。途中に飛び込んだ私は、非難をせずに「すぐ椅子に移って!」と怒鳴った。父は状況を忘れて、危うい足取りでベッド脇の椅子に移った。成功したのだ。しかしものすごい顔をしている。

気持悪いだろう。着替えようと父をポータブルトイレの椅子に誘導し、ベッドから距離を作った。母に顎で指示し、着替えをしている間に母はシーツを交換した。私が端を持たないとうまくいかないのだが、父がベッド内にいない間にざっと敷いておく必要があった。

清拭をしつつ、着替えをして時間稼ぎをし、父をベッドサイドの椅子に戻してから、母と私がへたくそなシーツ交換を仕上げ、父をベッドにもどした。荒れたときは、次々に状況に巻き込んで衝突を避けるのがいい。

父が鉾を収めて居眠りを始めたので、居室整理をしていた母と茶の間に落着いたものの、私は自分の清拭途中だった。文句にならない疲労感が私達を無口にそいた。予想通り、父は午前1時半・3時・7時前の三回、父は階段上に現れたり、大声を上げ、ベッド上でシャドウ・ボクシングを繰返した。

元気が家族の精気を奪うのだ。

《入手した書籍の中から》

●「マイクロファイナンス 貧困と戦う『驚異の金融』」
●「書き込み式 アスペルガー症候群の人の就労ハンドブック」


夜間傾聴:******君(仮名)

p.s. 25日の午後、訪問介護のKさんを頼んでいたが、OKの応答。助かった、カトリック教会の路上生活者支援ネットの場に出向くことができる。

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父の回復が介護者の日常を奪うという矛盾

2009-10-22 07:17:19 | 引きこもり
父の介護を進めていく上で、父の事故対応の比重が増していることが、家族の軋みを膨らませているように思う。父の体調が良くなる方が、危険な事態を引き起こしてしまう矛盾。

今、老健利用のときは父に歩行訓練が入る。訓練用具の名前を知らないので容態で書くが、平行に二本の水平な支持棒が、立ったときの腰よりやや上に設置されている間を、その手すりの棒に両脇を支持されながら往復するというものだ。足の筋肉が萎えて動かなくなる状態を避けるために、この訓練が行われている。

前回から、この訓練は特養利用のときにも始まった。本来行事のような形で織り込まれている見えないリハ以外は、特に改めてリハ訓練を行っている場ではなかったので、職員の方々の負担の決意で始められたことと理解している。

昨日も、デイサービスからの帰宅時、階段を誘導して押し上げていく場面で、父の姿勢が前傾して、腰が急に落ちてしまう危うい場面が何回もあり、それは、訓練の疲れだなと思わされる出来事だった。幸い私の姿勢の取り直しの指示で、父は崩れる場面を切り抜けることが出来たが、問題はそれからだった。ベッドで一眠りして起きた父は、悪い方の足を引きずったまま、部屋を歩き回り、普段行かないベッドの隙間に入り込み転倒した。元気が仇になった。ケガは擦り傷程度だが、よく周囲に頭をぶつけなかったものと驚いている。

本人が自分で立ち上がる意志を失ったとき、この狭い空間は地獄のようになる。柔らかな巨大餅を持ち上げることを想像してもらえばいい。父は腹ばいになることをしない。だから、機能を残している腕の力に頼り、自分の身体を「引き上げ」ようとする。繰り返し無我夢中で周囲にしがみつき、失敗すると何もしなくなる。この上向き姿勢のとき、動く腕側が壁側で、つかむところがまるでないのだ。四つんばいになってくれれば、股の間に両腕を押し込み、腰を押しあげることによって脱出できる。その指示が全く無視されてしまう。結局背中に枕を押し込んで座位を作り、私が後から両脇を抱えて父を起こす最悪の形になってしまうのだった。ベッドにもどすまで20分近くの格闘となり、持ち上げ行動は、介護者の背筋に負担をかけるため、あとで腰痛を引き起こす元になるという具合だ。

この格闘のとき、指示に従ってくれればまだいいのだ。錯乱して周囲のつかまる所を必死になって探すために、父の入れ歯が飛び出し、前側から補助する母を引っかいて、結局もとの木阿弥、父は床にころがってしまうのだった。

何とか父をベッドにもどしたが、周囲につかまるので電話機やベッドサイドに置いた小物はすべて床に投げ出され、トイレットペーパーは白い道を作って転がっていった。父の心を落着かせるまでに、私達は引っかき傷だらけにされてしまうのだった。この救出作業は介助者の心理的な動揺を引き起こす。必死に暴れている父を支え、嫌がる父を強制している私達は何者だろう。刑吏?この思いは場面に慣れていないと、濡れた外套を着込んだように心身に重くのしかかってくる。補助した母が、しばし無口になった。平常時の父との日常会話は大体通じるのだが、危機状況では私達は無口になる。

母のケアが必要だった。父はその事件後も、ソファーに積んだ衣類をすべてなぎ払ってソファーから床に尻餅をついた。午前3時前の出来事だった。張り替えた新しい床の外側で便をもらしてしまった。衣類も汚れ、その場で作業用シートを敷いて、おむつ交換となった。この遠出も父が元気がいいからなのだった。母は自室にこもり、この時は出てこなかったが、徘徊は介護度の尺度に入っていないので、動けるからと介護度が下がったら、双方破滅と母は心配を拡げていた。何のために床を張り替えたのかと、母は怒りをあらわにしていた。

おむつ交換を済ませベッドに寝かせて階段を降りて、その数分もしないうちに父は起きだし、ポータブルトイレの周辺を濡らしながら立ち小便をしたのだった。せっかく履かせた紙パンツは、尿取りパッドを動物の尻尾のようにはみ出させ、父が無理して引き上げた利き手側のゴム部分が穴が開き、破れてしまっていた。

再び交換する気にはなれなかった。紙パンツをガムテープ補強して、パジャマを引き上げた。このとき私は父に語る言葉を失っていた。父も無言のままだった。

夜間傾聴が始まった4時前、父の部屋の徘徊が再開された。電話を切って父の部屋に行こうとすると、階段下の闇の中に母が立っていた。黙って階段を見上げていた。身体が参ってしまうから、任せて眠るように母を促し、私は父の部屋にあがって行った。父はTVをつけようと、再びベッド周囲の狭い空間にまた足を踏み込んでいた。まだ午前4時だから寝ようと父を説得し、ベッドに戻した。

そして5時半、父がベッドから落ちた。母がトイレに起きてきた。まずいなと思いつつ、母に安定剤をもらってきたらどうかと話した。父に対しては、機械的に対応せざるをえないなと思いつつ、父の足の萎えるのを願った。何とも矛盾である。

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昼間橋本に巡回。16時半の父の帰宅時間までに家に戻らなければならなかったが、夕食の買物がまだだった。茅ヶ崎図書館に寄り、期限切れの本の返却を済ませ、茅ヶ崎駅の南口で買物をした。最近開店した幸町バス停前の生鮮食料品店で父の好物の寿司を買い、生鮮食材を補完。駅前の惣菜屋で弁当を買った。手抜きである。

ところが店のレジの調子が悪くなり待たされたためバスが出てしまった。タクシーで家の戻ろうとすると、我が家の近所の路地を入ったところに宅配便の車が停車していて、タクシー抜けられず立ち往生。やむなく途中下車して、買物袋が揺れるのを忘れて、家まで駆け足(風)で飛び込んだ。母は医者に行っており留守。玄関をあけて数分で受け入れ準備したところに、ホームからの車が入ってきた。

疲れている父をボランティアさんと2人で階段を押し上げたが、作業を終えたあと、玄関先の買物袋を上げて絶句した。タクシーを降りて駆け込んだので、寿司が無茶苦茶に崩れていたのだった。とにかく時間にゆとりがない。寿司を何とか復元し、夕食の準備をして、形式の決まった巡回レポートをFAXして、最後に階段下にバリケードを組んだ。

あすなろ会の定例会が19時からだったのだ。今回は茅ヶ崎サポセンの定休日なので、女性センターのロビーに集まることにした。Oさんが参加してくれた。厄介な調整話を済ませて20時すぎ散会。私は外食を済ませ家にもどった。

とにかく0時まで仮眠。母が黙々と食器を洗っていた。

「わーく」を始めるためには、まずは父のショートステイ期間と、母の友人親子の応援が入る日を利用する形になる。とすると取材活動からしか始まらないなと思う。しばらくは活動はひとりだなと諦める。

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Big Issue の佐野代表を囲む会の台風で延期となっていた会合の日程を調整している。若松町ショップの開店ともろに重なってしまったので、佐野代表に無理を御願いしている。その関係で日程が定まらず、困っている。

企画はもうひとつ、「わーく」編集部主催のミニ講演会に工学系のN教授を御願いしていた。携帯電話付随機能の応用を障碍者教育の場面で実践している事例を紹介してもらおうとしていたが、その分野のビッグネームなのに、地元関係者の関心を得られるかという点では、はなはだ心もとないのだった。親の会の代表に長い呼びかけ状を書いている矢先、12月の日程がだめになったとN教授から連絡が入った。この企画も流れてしまいそうだ。若松町ショップの件があるから、関係者には来年初頭の企画として提案せざるを得ない状態。ここも見えない壁にひと思案。

スペアちがさきさんが、TOTOのフリマで子どものショップを開く、10月24・25日なのだが、24日は横浜で引きこもり関連の会合、25日は路上生活者支援の湘南ネットの会議がかさなった。この会議とて13~18時の時間枠で帰宅しなければならなかった。すべて母の非常招集がかかれば、活動を中断して帰らなければならないのだった。24日は横浜から一度帰宅し再度出かける非効率な日程。小田急相模原で巡回が19時半からあるからだった。この一度帰宅が重荷になり始めている。

今日は父の入所希望先に書類を登録しに行く。Tさんの冊子受け渡しと、印刷をサポセンで済ませ、父の主治医から薬をもらって、一度家にもどり、相模大野に出る。ひたすら父の静まるのを祈る以外ないのだ。

<入手したお勧め書籍>

●「アスペルガー症候群 就労支援編」
--- 視覚的にまとめられていて、忙しくてもわかりやすいのが助かる。


夜間傾聴:□□君(仮名)
     小田急相模原君(仮名)

(校正2回目済み)
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「わーく」準備メモ(04)「わーく」は市民活動を基礎にする

2009-10-20 16:07:05 | 引きこもり
「わーく」の「本業」は社会的困難を抱える若者の就労支援である。しかしそれは、企業への就労というような狭義の就労ではなく、社会参画という裾野を抱え込んだ活動としなくては存在し得ないだろう。なぜなら、機能的な求人情報提供や就労訓練などの、民間ハローワークや私設職業訓練校のような補完活動が今求められていることではないし、それらは規模や運営資金からも政策統治的な配置の中でしか継続できないという物理・経済的な問題を持っているからだ。しかし決定的には、メニュー提供的な活動構造自体が、就労自身を食うためのものという形に歪め疎外している、そのことが不問の形で抜け落ちているからだ。

賃金を得るための労働と前提をつくってしまうと、企業の求人に応じるという形に労働が限定的になってしまう。求人は企業から発せられるものとは限らず、地域社会や公共活動、個人や個々の家庭からも発せられている。これを基に仕事に取り込んでいく活動が、従来の就労支援活動の発想には余芸のような形にしか扱われてこなかった分野であるし、それは有っても地方自治体の行政側から行われることが主だった。

道路横断に困った高齢者に手を貸して道を渡した活動が、心と身体を使うことにおいて労働と内実において差異が無い。労働対価として賃金を得るという労働の外側に、広いニーズを持った求人が潜んでいる。これらはブルデューやギデンスなどの論じるソーシャルキャピタル(社会関係資本)の世界に広がる、前資本制社会から人の営みの中に存在しているものであり、イリイチなどによって別の角度からシャドウ・ワーク(アンペイド・ワーク 家事などの無償労働)として取り上げられてきたものだ。組織としては不定形な地域潜在労働だが、地縁血縁社会の崩壊や高齢化社会等、社会構成の変化によって、有償活動の基礎が生まれている。ここを治水し自らの生計をたてる基礎としていく活動こそ、市民活動の活躍しうる世界だろう。

哲学的に、いや、日本理化学工業の大山代表流にいえば「ひとに頼られる幸せ」の苗床がこの世界に存している。労働目的を奪い去った賃労働がここでは、目的回復を果たしうる広がりとして存在している。企業模倣としての起業ではなく。地域の公共ニーズに応える社会参画の形として、地域起業を企業手法を使って組織していく、いわゆる「社会的企業」の契機を提供し、触媒として中間支援していく活動が「わーく」の情報交流活動である。

このことは、逆に言えば関連社会活動と結びついてこそ、「わーく」はその価値を発揮する。しかしその関連活動が存在しない場合は、「わーく」の文化活動的な側面から、就労支援活動そのものではなく、それを支えるコミュニティをネットワーキングの手法で生み出していく、つまり社会参画への可能性を内包した活動で人材の結集を緩やかに作っていく、いわば環境づくりの活動を推進していく。

この準備活動的なネットワーキングは、独自の価値を持っている。手帳を持つ障がい者、手帳を持たず地域潜在化している精神や軽度の障がいのある方、社会的引きこもりなど社会的挫折者等の出会いと連携を生み出していくからだ。この二重性によって活動がわかりにくくなっているが、環境が整わなければ、地域の公共的ニーズを引き受ける活動に姿を与えるネットワーキング型就労支援は、偶然による企業や知人商店求人などへの個人送り出しの活動に留まってしまう。起業という果実を結ばないのだ。

地域社会という分野において、生活スタイルの構成や問題解決のネットワークに社会参画と有償労働の形を提供する情報交流活動が「わーく」なのである。

消費者に求人メニュー提供を行う活動を常識とした社会にあって、就労という自分の必要性を原動力としながら、お互いがつながることで、解決の糸口を自主活動としての「仕事」を通じて膨らませていく。

私はその実際上の形を、高齢者・乳幼児子育て生活支援としての「買い物代行」「御用聞きシステム」として提案しつつ、土台となる文化活動として、画像交流SNSネットワークを始めていく。互いに意識的な交流をしてこなかった人たちが、健常者の独占のような世界の携帯電話オンラインネットを駆使して、潤滑な対面活動を生み出していく。そこから小さな火を広げていくことにする。技術による活動の質の底上げの話は前回のメモを参照されたい。

(つづく)

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父の小景

2009-10-19 14:44:41 | 引きこもり
昨日、私がTさんの冊子受け渡しと、夕食の買物補充をするために出かけた2時間弱の間に、父が単独で階段を降り、階段下のバリケード(車椅子と椅子、水のタンクを重ねて作っている。)の手前で限界になり、階段途中で座り込んでしまう事件が起きていた。その日父は昼食が出されたことを知りつつ、食事を食べずに居眠りをしてしまい、再び目覚めると食事が嫌いなパンに代わっていたので、そのまま食べないでいたため、空腹で階段を降りたようだ。

サポセンでBig Issue からの領収証を受け取り、Tさんへの伝言メモを書き置き、近くのジャスコで買物を済ませていると携帯が鳴った。母からの連絡だった。とにかく急いで家に帰ると、父が階段下で椅子に座っていた。母の話だと、階段途中に父が座り込み、今にも崩れそうに居眠りをしていたとか。

とりあえず、命に別状が無いことに安堵しつつ、この父をいかに2階に上げるかの算段をしなくてはならなかった。こういう行き詰まりのときは、唐突に困った物事が浮かぶものである。ジャスコで買ったパンの袋が気が付くと無かったのだった。パンの袋には領収証(レシート)を入れていた。領収証がなければ、一日の終わりの家計の清算のとき、母ともめるのは必至だった。ここまで考えて、父が領収証の影に消えていることに気が付いた。領収証に消えるような問題なら、何とかなると言い聞かせ、父の両手を支えて睨みつけるように立たせていた。

認知症の人を「睨んではいけない」。表情だけで状態を判断するので、突然私の両手を振り払い臨戦態勢に入ってしまった。最悪だった。その場は退散するのがベストだった。

作戦をたてた。母に新しいパジャマを買ってきたことを利用し気分転換するから手伝えと伝え、「新しいパジャマが2階にあるから着替えよう」という内容の誘いをさせて父を立たせ、私が引き継ぐ形で誘導し難関を超えた。母には父のリードを任せ、力任せに引っ張り上げないこと、父が崩れたら手を放せと言っておいた。始めてみるとそれは片言も守られないのだが、とりあえず、斜め後方からの支えを私が担当し、父を何とか2階に上げた。父が倒れたら、母は巻き込まれてしまう。最悪のリードだったが、私には、先験的な抑制は何も母には伝わらないことがすでにわかっていた。行動が状況に飲み込まれてしまうのだ。

とにかく父は疲れていた。トイレをふらふらしながら済ませてベッドに入ると、数分後には、いびきをかいて寝込んでしまった。

夕食を作りながら、パンを置き忘れたこと、それが父との喧嘩騒ぎ直前で思い起こされたこと、その発想の奇妙さを笑ったが、伝わるとは思っていなかったが、やはりパンを忘れたこと以外は、話の一切が母には伝わっていなかった。夫婦や家族の気持はこういう機微の共有に支えられている。この空転の虚しさこそ忘れてはならないものだと思っている。それでなくとも、60になろうという爺ぃが、軋轢の中の青年が語る微妙な言葉が通じるはずがないのだ。私の小さな矜持である。

夕食後の家計調整は、ジャスコの支払いがカードチャージ金額よりも少ないことを思い出し、事無きを得た。

時間切れである。巡回に出る。

夜間傾聴:□□君(仮名)
     中央林間君(仮名)
     相模大野%君(仮名・やっと本人!)

(校正2回目済み)

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「わーく」準備メモ(03)SNSプログラムの選定他

2009-10-19 06:11:51 | 引きこもり
「わーく」のSNSプログラムの選定は、現在2系統のプログラムを検討している。片方は実際にオンライン上でテストをしている。ひとつは「OPEN PNE」であり、もうひとつは「Hit Suji」これらはSNS環境を提供してくれるが、携帯画像ネットワークを支える実例紹介が乏しく、SNS環境を作ることが可能と思われるXOOPS系の「XOOPS Cube」の方がいのかなと思いつつ、「OPEN PNE」との比較をしている。とりあえず「OPEN PNE」は動いてはいるが、運用経験不足。

今回は技術的な話を中心にメモを書くが、処分品携帯電話カメラの受け渡しや、ノードへの画像メールをプールする受け入れと編集を行い、会員制配信を行うという一連のシステムは、あえてSNSと呼ばずとも運営できる。

SNSとしたのは、個人情報の保護的環境を踏まえて出発するためで、個人情報流出と誹謗中傷や虚偽情報に参加者が振り回される危険を避けるための会員制をとるつもりだからだ。当事者と家族、当事者公認の支援者の範囲でまずは出発する。

「NOTA」という面白いシステムもあったが、携帯ネットに対応していないために、選外となった。

以前OCNが提供していた、一枚の掲示板の隙間に落書きを描くように書きこみアップロードを行い、その書き込みを見て歩くようなシステムがあった。しかし必要メモリが大きく、携帯ネットワークでは支えきれなかった。

キーボード操作という難関を超えるためにも、配信重点型の通信端末が必要だった。これはフォトフレームと携帯電話を使うことでなんとかなりそうなのだが、そこを卒業して自分で交流を始めていく人への掲示板的なシステムを作るためには、SNS的環境が必要となる。個人情報管理は高度な判断力を要求されるため、チェック担当者が必要。その人材をどう確保するか。画像が蓄積され、配信DBを作っていくときも個人情報には慎重でありたい。

送られてきた画像に、ちょっとしたショートメールをつけたり、インフォメーションを入れたりする際に、データを無音でいく手もあるが、BGMや音声をつけていくと、いわば静止画像スライドショー的ビデオのような形の最小版を配信していくことができる。フォトフレームの料金枠から逆算されたデータ容量と配信頻度から携帯の軽快に動く範囲のデータ基準を整える。

この音声ミキシングは主にインフォメーション放送を提供する際に必要となるが、ここには4chミキサーと、マイクが3本、ノートPCを準備した。ヘッドホンとソリッドマイクが不足している。これも早々に買い揃える。

10数年前にミニFM局を運営していたときのタイマーなどが出てきて、懐かしい感じなのだが、ポッドキャスティングなども発展系のひとつに準備している。幸い個人用携帯がiPhoneになったので、モニターできるようになった。

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しかし、初動スタッフが今だ集まらない状況では、個人が巡回して画像をいただき、インフォメーション中心で配信していくことになろう。少なくとも週2回位の配信を実現したいが、この放送は、マスコミやストリーミングの放送のように、流れ去るかたちではなく、ビデオファイルを配信し、各自の通信端末に保存する形となる。つまり反復して聴くことが可能である。隔日配信体制がとれたら御の字。

この「アフレコ」編集はスタジオ的静穏を求めないことにする。場所が無いからだ。茅ヶ崎や藤沢のサポセンをラフに使って収録する。

取材については、一台カメラを買うつもりでいる。音源のプレヤーなどの込みで5~6万円は必要となる。これは年内に確保する。

ひとりから始められ、複数へと開く道は、ひとつはモデル的な画像ビデオ配信と支援者向け紙メディアの発刊を始めていくことにある。

近隣情報系学生の支援が欲しい。呼びかけの好機の学園祭の季節になったが、ついに対応が取れなかった。手が回らない状況が無念でならない。

次回は、コンテンツについて書いてみる。

(つづく)

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ルビコン川を泳ぐ

2009-10-18 15:26:51 | 引きこもり
自分の行動の非効率さを正すにも相手が居るのが介護だ。父をホームが預かる日程や訪問サービスが入るところが基準となって、授業や巡回指導の日程が決まっていくが、もうひとつの変数、母の協力の部分が不安定に揺れ始めた。その部分は、父の体調と重なって、その日暮らしのような状態を作り始めている。これは綱渡り。父の認知症が「まだら」状態から、解離して不安定な徘徊が始まってしまったら、入所順待ち状態では、まず私が仕事を失い、母の体調がつぶされていく。先手を打つとは、ケアマネさん、介護体験者との情報交流を絶やさないことという、当たり前のことに行き着くのだが、もうひとつ腹をくくることだ。切り捨てていくものは何かという問いを問い続けていくことにある。

昨日、母が「私(母)が動けなくなった夢をみた」と打ち明けた。「そのときは、そのときに考えましょう」とケアマネさんは以前言っていた。家族の破綻の手前という例は珍しくない。そのときは短期入所先を渡り歩きながら、結果として介護負担を減らす方法を取るが、寝たきりではなく徘徊を含む認知症高齢者の受け入れ枠は少ない。社会的入院といわれる精神科病棟は減らす方向といわれつつ、そのニーズは絶える事が無い。病棟の状況は入院を躊躇する状態ではあるが、選択肢がない状態に追われていく。「切捨てていくもの」のひとつが父なのだろうか。今の私には肉親の情というつながりは細い糸のようだ。私は誰にでもそうするように介護している。父だからという話ではない。あまりにも父との生活経験はひどすぎた。

母は両親のどちらを取るかと迫った。いつもなら、両方捨てて逃げ出すと茶化すのだが、母の追い詰められた眼差しを見ると言葉が出なかった。母は社会運動から手を引けと迫る。私の中では、全くその部分が饅頭の皮のような外周部、片手間という認識が無い。このずれが母と私を隔てる断層なのだが、私の中では整理するのは県北巡回の仕事となるかと思っている。

二年前、ある幼児英会話の教室経営者と辻堂に共同経営の塾を作る話があって、私は部屋の共有の無い一戸建てを考えていた。昼間は引きこもり青年たちの居場所兼「わーく」編集部の事務所にするつもりだった。ところが家主との契約手付金の支払いに不可解な話があって、それが詐欺まがいの話であることが、私の塾屋ネットの東京情報から酷似の事例があることでわかり、話が破談となった。金銭被害はなかったものの、破談の精神的なダメージは有った。私の回転資金の大半は借金である。独自開業するゆとりの枠ではない。

しかし無店舗巡回指導型の仕事を、県北の仕事を湘南に移すことは考えなくてはなるまい。県北は進学校に寄生する形で成り立っているが、その条件は湘南では当てはまれない。職業ペースに持ち込める糸口すら開けてこないのは、ニーズが違うからだ。ニーズは「居場所」。しかしこの仕事は持ち出し仕事だ。さてどうするかという形の壁と向き合っている。このことは私の年齢のこともあり、毎年の契約更新時、人事担当の友人といつも話に昇る。際どい場面のある仕事だけに、私の補充は出来ない。その意味で、先方に必要がある限り、やれるだけ残るという約束が出来ている。だから見通しの無い起業に踏ん切りがつかないできた。

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父が昼夜逆転生活に入り、昼間の大半は寝ている。そこで目覚めれば、ポータブルトイレまでの間の移動中の事故が連発される。父は自力で立ち上がることが困難。介護者が持ち上げれば、腰をやられる。歩行器や椅子などのつかまり立ちの試みも、足の踏ん張りの一切を使わず、機能の残った腕一本で身を引き上げるために、私が補助しないと立てない。これでは母への交代は無理だ。頻繁なので訪問看護のOさんに依存することも出来ない。立小便ではなく、おむつの中にして、この1点の戦いなのだが。

父の紙パンツ交換のために、相模大野や橋本から茅ヶ崎に一度戻らなければならない非常識なことも起こる。ここ1週間弱は父の足が萎えて、階段まででてくる回数は減ったが、以前は、紙パンツが不快だと、下半身のパジャマと紙パンツを下げたまま、階段を降りようとするから、いっそうもつれて、危険極まりなかった。1階だと火の始末、狭く硬い床の場所での転倒、襖・障子・暖簾・砂壁の破壊、徘徊外出、単独入浴などただ事ではなかったから、それでも転倒打撲と火の危険を避けるために居室を2階にした、その意味があったのだ。(過去何回もボヤ騒ぎを起こしている。)

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昨日は味噌汁の椀ごと父がひっくり返った。母がそれを発見したが手がつけられず、父を床に「座らせたまま」、私の帰りを待っていた。実はこれが最悪なのだ。半身麻痺が進行しているので、左右のバランスが崩れていて、座面を調整して下半身の血流を加減することをしていないため、丁度慣れない正座を強制された後のように、足が麻痺して動けなくなるのだ。

この場面は母との話の中で想定して、手順を確認しているにも関わらず、そういう想定にしたがって行動するということに、母が順応しないために、毎回同じようなトラブルとなって立ち現れてくる。どのような知識も技術も、当人の生活の流儀の上で流れている。そこを侵されると、簡単に知識や技術が切り捨てられてしまう。このことは、母を責めても流儀が変わらなければ、その言葉も空転してしまう。病院ではなく家庭なのだからと思いつつも、言葉の無力さをかみ締めなくてはならなくなる。

脱線するが古い書籍だがルリアの「認識の史的発達」の一説に「白熊の三段論法」という下りがある。物議をかもし出した一節なのだが、「AならばB」「CならばB」「よってA=C」とか「AならばB」「BならばC」「よってAならばC」といわれる三段論法(後者は推移律とも呼ばれるが…)この私達の日常に使われる論法も、普遍的なものと考えると間違いを起こす。ルリアの一節は、一般論を前提において物事を推論するとき、その前提を受け入れない社会があると論じた。母を通俗的と断じるつもりはないが、経験が行動へと結びつくとき、そこに範化を経由することは一般的とは限らないのだ。白熊なんて知らないよの世界は、論理と文脈の不整合の話としてちと面白い。ちなみにこの書は文教大湘南図書館の心理学の下段の方に、色あせた書として並んでいる。余談なり。

三段論法とその危うさについては、下記のページも面白い。

●「三段論法/wikipedia」
●「三段論法」

ともあれ、私の身はひとつしかない。三段論法を押し付けられる両親は、それはそれでたまったものではないのだろうが。

未完

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父は押入れから過去を引き出していたのだった

2009-10-17 12:13:08 | 引きこもり
父はここ数日静かだ。というより、一箇所脛に打ち身を作ったことが堪えている。昼夜逆転して昼間寝ているが、夜間に歩き出す。一般の家庭だったら、それだけで参ってしまうだろう。昨日は巡回をこなしていたが、母が遅い衣替えを始め、中途で外出してしまった。何か不足品があって補充しつつ、定例の稽古事なのだが、携帯にかかってきた内容で、父の部屋の押入れが開いたままだということがわかり、巡回を1件取りやめる騒ぎになった。父が中をかき回すのだが、布団類を抱えて転倒の危険があったからだ。とにかく見境が無い。

小田急線もどかしく、家にもどると、案の定、布団類が落下して、衣類が部屋中に散乱していた。父はいびきをかいて眠っていた。ひと仕事を終えた満足そうな顔。新しい床は脱ぎ捨てられた紙パンツを踏んだのだろう周囲に尿が染み出し、ペットボトルの茶をこぼして、その茶を踏んだのだろうあちこち衣類に足跡がついていた。歩行器は横倒しになり、自分で紙パンツを替えようとしたのか、紙パンツの袋の中に剥いた柿がころがっていた。

バスが間に合わないからと母が途中で出かけた結果だった。午前中、訪問介護のKさんが清拭と着替えをし、周辺を整理してくれた状態も一瞬にして破壊されたこと、とても申し訳なく思う。

とにかく濡れた布団と毛布、衣類を階段から降ろし、母が帰る夕方までにと縁側に干した。サポセンでTさんとの待ち合わせがあったので、予定ではそこから北茅ヶ崎に出て巡回という話だったが、往復タクシーで自宅に戻り、床の拭き掃除、父を着替えさせ、階段下に厳重なバリケードを作って巡回に出た。母との連携が次第に乱れがちになってきているのを感じている。いくら「ピア」と言っても、介護ばかりは高齢者同士は無理だ。

冷や汗をかきつつ、茅ヶ崎駅にもどり、図書館にBig Isse 誌を置き「「居場所のない人びと」の共同体の民族誌」「XOOPS Cube コミュニティサイト構築ブック」を受け取って、海老名に出た。「「居場所のない人びと」の共同体の民族誌」は二重になってしまっていた。母を責める資格など有りはしない。

小田急相模原君(仮名)と会った。学習の本題に入るところで母から電話が入った。母の友人親子で留守番応援をしてくれるふたりが、鍵がかかっていて家に入れないと連絡があったという。母が自分の稽古事のために、月1回を超えてしまうが頼んだということらしい。母も出先にそのことを忘れていた。私が後始末に入って鍵をかけて出かけたので、行き違ったらしい。

とりあえず、友人親子に帰ってもらうように連絡しろと指示したが、先方の連絡先がわからないと母は怒り始めた。母に携帯電話の履歴を説明し、履歴から電話の返信をするように指示。

小田急相模原君が窮状を察して、ちょっと買物をしてきますと喫茶店を出て行った。すぐに戻ってきたが、この神経の細やかさが彼自身を追い込んでいる。悪かったねと学習指導に戻ったが、30分延長。私の落ち度、申し訳なし。

大和経由で中央林間に出て夕食。中央林間君(仮名)の巡回だったが空振り。辻堂で茶菓子を買って家に戻った。肉体的な疲労というより、行き違い不消化の気分が塞いで、帰宅直後から2時間仮眠。

母は携帯の履歴の使い方を初めて知ったようだ。

夜間傾聴が小田急相模原君から始まったのは、気分的に楽だった。%君の親御さんとの話し合いでは、話がどんどんずれて、実家が茨城なので両親の高齢化が進んだらどうしようと悩んでいると高齢者介護の話にずれて行った。様々な事情が絡んで%君も狭間で苦しんでいた。

携帯を切ったのが午前2時。父の部屋の怪しい物音に、2階の父の部屋に上がってみると、父が板戸の押入れと格闘していた。車の鍵が中に入っているという。鍵でどうするのかを聞くと、母の入院している病棟に行くのだという。母は当に退院して家に居ると私がいうと、盲腸は大丈夫なのかという。母の盲腸は30数年前の出来事。第一、遠方の病院ではなかった。父は20年前に廃車している車を運転するするために、昼間も押入れをかき回していたのだった。

父をベッドに戻し、不安そうに階段下で待ち受けていた母に、車で盲腸の見舞いにいく途中だったようだと話し、ため息をつく。午前2時50分。

怒りをこめて板戸を蹴飛ばした父がベッドから落ちる。午前4時すぎ。板戸までは50cmはある。身体を乗り出さなければ届かない距離。片足がベッドの柵に引っかかって、柵ごと落ちた。「家に帰せ」と怒鳴っている。ホームの宿泊時の夢だろうか。尿を漏らしていて、濡れたずた袋を持ち上げている感覚。部屋の照明をつけて、父の目覚めを促した。70kgの身体を本人の協力なしでベッドに上げるのは困難だからだ。

この「家に帰せ」という利用者が、ホームでは一番嫌われるのだと訪問看護師Oさんが語っていた。本人の扱いではなく、この「家に帰せ」は伝染するからだという。なるほど、皆事情があってホームに来ている。ホームシックは伝染するのだ。父がなおさらに敬遠されている事情が分かる気がした。

父は寝惚けて、ぶつぼつ言いながら、なんとかベッドに戻った。足首が痛そうだ。午前4時半を過ぎていた。

午前8時に朝食を届けにいくと、ベッドシーツが血だらけだった。板戸を蹴って落ちたときのひっかけ傷と、バンドエイドをはずして引っかいた膝の傷から出た血で汚れていた。排尿に立った間にシーツ交換。これは私の苦手のひとつ、いまいちピンとしない。手を拭かずに食事に手を出す父に濡れナプキンを渡す。急いでポータブルトイレの蓋を閉じた。そのままにしておくと、紙ナプキンをトイレのバケツに投げ込んでしまうからだった。繊維の長い紙は、下水道を詰まらせてしまう。紙パンツを交換し、毛布をかけるが毛布がツンとアンモニア臭い。

手足を洗浄して、ヤクルトを飲もうとして吐き気を催した。手が尿臭いのだった。湯で洗浄しなおし、殺菌剤で消毒。匂いの元の手ぬぐいを洗濯機に入れ、使い捨てキッチンタオルで手をふいて一段落。

午前中仮眠を取るつもりでいると、母がトイレで胃切除後のダンピングを起こして吐き出した。父の夜間の騒ぎで睡眠不足になっているのだ。私の説得で、近くの主治医のところに出かけさせた。母から点滴を受けていると連絡あり。

この記事を書き終えたら昼食である。一日中食事と排泄処理、ゴミ出しに制約されている。生殺し感覚は介護している者が大なり小なり持つ感覚である。どこでどう制度を借りるか、そればかりを考えている。

夜間傾聴:相模大野%君(仮名・母親)
     ******君(仮名)
     小田急相模原君(仮名)

<気になる記事>
●「横浜市の給付金寄付事業 若者就労支援に」
●「大学生が「村づくり」 第一弾は棚田で収穫 徳島・神山」


(校正1回目済み)

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「わーく」準備メモ(02)

2009-10-16 07:49:57 | 引きこもり
「わーく」準備メモ(02)

「わーく」の活動は、いわゆる手帳を持った障碍者の日常生活的なネットワーキングの実現と、社会参画的就労を支援者とともに実現していく、オンライン活動を組み込んだ、活動の契機作りと発酵の活動だ。

一方、社会的困難を抱えながらも連携に戸惑い、途中下車のような空疎感や孤独の堂々巡りをし、地域に潜在している手帳を持たない数多くの青年達がいる。消費者という仮面のもとでは、その範囲において仮想的なつながりは持ちえても、自分の名刺、「私」を名乗ることが出来ない青年達がいる。先読みの結論付けによって、今・ここの私の世界を否定している彼らに、出発点として手足を伸ばし始める本格的な「ごっこ」活動、強力な腰掛活動が「わーく」である。

地域の居場所を地域公共活動(潜在ニーズ)に求め、生きるというテーマの、人の出会いと連携の場を生み出していく、その強力なスタッフに化けるのも彼らである。競争と商業的な喧騒にかき消されている地域のネットワーキングのニーズを抱えた相手の発見を通して、自分なりの仕事の場を企画実践していく典型的な活動が「わーく」である。「わーく」は典型的であることにこだわる。真似のできる創造的活動を作る。この枠組み作りは移殖可能であれば、実績は各地に感染する。ウィルス並みの感染力を持ちたい。

「わーく」は異なる道を歩んできた人々が、交差する接点に生まれる活動、周辺領域の接面に生まれる活動だから、双方の活動でありながら連続した過去への論拠を持たない。出会うことによって、ニーズという相互の契機を活かし立ち上げる活動である。

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一方、私たちの日常のテクノロジーとなった携帯電話を使ったネットワーク活動は、様々な障壁にぶつかる。

そのひとつは、オンラインネットは仮想世界に閉じたものであって、あなた達は直接の対面活動を行うべきだという偏見がある。今、固定電話で相手と話すことは人間関係を歪めるものだから、電話利用は、やめようという主張を、私達は認めるだろうか。百歩さがって身体障がいのためにベッドから立ち上がれない方が、戸外の友人と話す電話や電子機器対話を、人間を歪める仮想空間に閉じた行為と断じるだろうか。コミュニケーションツールの背後の文脈を、ゲーム・2ちゃんねる的消費文化と断じる偏狭さ、そこからはみだす世界は膨大に広い。彼ら流に言う「直接の対面活動」を促進するツールという提案が、ばっさり切り捨てられるのはどんなものだろうか。支援者、当事者の親などが提案を当人から遮断してしまう。一知半解の壁。

もうひとつは、「携帯電話は難しいから」無理というもの。これは確かに操作が困難な方がいる。しかしそれをカバーするテクノロジーは量産にまでは至っていないが実用的な商品が生まれてきている。しかし一方で障碍者の日常にも携帯電話が既に使われていることを踏まえての反論だろうかと思う。

もう4・5年前になる。本人活動の知的障がいの青年たちの集まりだったが、携帯電話の扱いを紹介する会合だったのだが、その会の調査では、5年前で携帯電話の所持率が90%を超えていた。中には家庭からの連絡の受け専用という人もいたが、それも立派な活用法である。すでに「メール」が活用されていた。だから「難しいから」という部分は、障碍を一律に論じる誤りを犯している。

あとひとつは携帯電話は「利用料が高いから」というもの。これも契約次第だ。受信にウェイトを置いた契約も考えうる。フォトフレーム型の受信法もある。発信を情報の「直接対面活動手渡し」による受け渡しをすればいい。この「受け渡し」自身も社会参画活動ではないか。携帯受信機能付きのタイプでも本体購入価格が2~3万円、利用料が月千円前後。

最後は「文書は無理だから」というもの。これは一律ひとつのネットワークを作るつもりはないということ。主軸は日常生活の1コマを共有する画像交流ネットを運営することだ。参加してもよし、裏方を支えるもよし。就労支援の外側を包み込む、お互いを知ることによるネットワーキング。

もうひとつは「インフォメーション放送活動」だ。地元の障がいや就労関連の会合や当事者諸企画の紹介や、参加者取材レポートとか、就労しているひとたちの取材、企業取材などの裏方記者スタッフによる地域ミニコミ活動だ。

このふたつを、SNS環境に個人情報が守られた範囲で情報交換していく。

このふたつのネットの外側に、会員提案で昔風に言えば「会議室」、「文字メーリングリスト」がSNS環境の中に展開される。こちらはメーリングリストの設置以外は、基本は自主運営。基本はというのは、誹謗中傷、虚偽書き込み等を管理する担当者を置くからだ。

主軸は画像交流ネット。加えてインフォメーション放送。余芸に文字メーリングリストという構成である。就労支援情報は、インフォメーション放送を育てていく延長に生み出していく。画像中心であること、音声を乗せるので、ipadなどスローペースのポッドキャスティングの方向にも進む。視覚障がいの方への配慮は後手になるが、両立できるコンテンツを考えていく。

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「わーく」のSNS環境は、障がい者関係のプロバイダの上に置く。ネットワークの性格をはっきりさせるためだ。

画像交流ネットの記事編成は、分散編集型を使う。編集スタッフ相互のオンライン体制で、各自の家のネットで手がけてもらい、期日限定の縛りの上で、間に合ったものをノード(結び目)で集中管理する。その中央編集かけたものを会員に流していく。

(つづく)

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