--- 今回は灯火と文明の話。ラスコー洞窟壁画などの話題です。以下を覘いて「ヒント集」を見てください。また「書庫」に移したものもありますから、そちらもご覧下さい。
●自学教材ヒント集《ロウソクから拡がる世界(番外編3野外活動とロウソク)原始のあかり(ラスコー壁画)》
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=tobipub2
今回の話は、火(炎)を感じ取る話だ。ホタルを探そうと、懐中電灯を振り回し、おしゃべりしながら探している、その愚かしさ…そのうちは見つからないのと似たような、ニュートラルな心の視界を取り上げている。ひとりだからこそ見えるもの、感じ取れるものがある。それはその人を自分たらしめる大事な体験なのだと思う。
懐中電灯を闇の地面においてみるといい。ふたつあれば、少し離して向かい合わせに光をだしてみる。するとそこに地面に引かれた光の線がみえるだろう。昼間、棒で地面を擦るようにして作った線と様子が違う、ひきつけられるような能動的な線を感じ取れると思う。たったこれだけのことなのだが、じっと見つめていたい線がそこにできるのだ。ロウソクは、ゆらぐ。だからより複雑な心象の世界が見えてくるはず。その神秘さを宗教に結びつけるひともいる。ただそれを見つめていればいいのに、余計な解釈をつけなければ安心できない心の安っぽさよ。
--- 以下は、前から続く授業書から引用する。
ネイチャーゲームという野外遊びの一群がある。五感をフルに使って、「自然」と出会う狙いを持っている。山野を広場に、樹木を遊具に利用するという、街の遊びを山野に持ち込んだ従来の野外遊びとは一線を画している。
ネイチャーゲームには、「視覚絶ち」のゲームがいくつかある。ひとは状況認知を視覚に頼っている。その視覚は他の感覚を抑圧しているために、視覚を絶つことによって、聴覚・触覚・嗅覚が解き放たれていく。その新鮮な感覚によって自然の声を聴こうとする。
この「視覚絶ち」と同様の働きをするのが「闇」である。火は夜に光をもたらせた。火はひとの存在をあらしめた。しかし電灯の光は同様の働きをしているのだろうか。電灯の光は昼を引き伸ばし、ひとの営みを中断させる闇を駆逐したが、点光源・熱源の火の「光と影の役割」を喪失してしまったのではないか。
ロウソクや焚き火の炎は、闇の中に人間のテリトリーを作ると同時に、太陽のかけら、地の怒りに連なるものとして、その揺らめきが汎神論的な生命を連想させる。
ネイチャーゲームには「サイレント・ウォーク」「カメラ・ゲーム」という優れたゲームがある。それと比較すると何とも洗練されていないゲームではあるが「闇の中の黒い鍋」というネイティブ・アメリカンの風習から生まれた儀式のゲームがある。
山野の夜の闇は圧倒的な迫力を持っている。そこに小さな炎をおくことによって、存在を誇示した小さな集団が生まれる。草むらから、仮想の鍋を取り出しそれを地に返す儀式だが、闇の力を借りて一日の記憶をたどり返していく。その中の印象的な自然との出会いを鍋に語る。印象的な出来事を鍋に語る。
子どもの魔術的な心の世界は幼児期を過ぎて失われてしまったかのように見えるが、このゲームは情念的な世界として心の底に脈打っているのを見出すことにもなる。会話をせず、最後に静かに散会するのがコツとなっている。
LDの子たちの中には、五感のひとつが突出して鋭い子たちがいる。この子たちには少し刺激が強すぎるようである。事前にわかっていたら、加減してやるといい。テントの中で押しつぶすような闇と静けさにまんじりともせずに夜明かしした幼い体験はないか。それと同様に周囲をピュアに感じ取っているように思われる。
関連資料は古代の「光と闇の関連サイト」として「ラスコー」「アルタミラ」の関連サイトを選んでみた。画像的な価値の大きなサイトを心がけたが、内容も大人が見ても色褪せない考古学美術史などの発展経路を持っている。