2012/09/29 記
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路上生活者支援の@@さんから、
9/29・30 YMCA三浦ふれあいの村にて
「全国地域・寄せ場交流会」
の情報を教えていただいて、早速覘いて来た。出発は前日からの夜間傾聴と母の件があるので午前中というわけにいかず、帰りも相模大野に20時前までには入らねばならなかった。どうしたものかと思案したが、資料をいただくことや、会いたいひともいたので、出かけることにした。しかし会場に近づくにつれ、もうひとつの恐れが出てきた。山道に街灯がないのだ。網膜色素変性症の私は、いわゆる「鳥目」状態、闇が苦手なのだ。鍾乳洞に入っていたときと違い、壁がない。懐中電灯は携帯しているが、月明かりがまだないので日没前に帰らねばならなかった。
私は20代の頃、学習困難児の学習指導の出前をしていた。そのとき、社会的要因のため、貧困が受け継がれていく現実に出会った。また私自身も体験してきた病弱者の院内学級をみてきた。私の場合は、重度の小児喘息と結核による留年体験から、自分独自の道を歩まねばならない亀裂のようなものを意識してきたから、院内学級の子たちの指導者と協力することは、全く違和感がなかったが、社会的体験からの差別・抑圧の存在は、普通といわれるひとたちの学習と進学は、そういう作られた立場の違いに寄って、そぎおとされ、残った結果を普通と呼んでいるということに気付かされた。そんなことで、私はと識字学級を手伝っていた。同時に心身の要因によって教科学習が疎外されていることについて、塾の場を活かしていくことを試みていた。
夜間中学のサポートに入ったこともあった。そうした経過の中で、スラムの存在を知り、それは路上生活者の接点へと拡がっていた。しかしここでも、心身の要因、今で言えば自閉症スペクトラムが重なっていたり、軽度の知的障がいが重なっていると思われる方がいて、指導を変えたことが、支援者の常識からはずれていた。そんな対立に貧困下の教育現場から追われてしまい、結果、大人の路上生活者の支援とも次第に離れていた。そこに不登校・引きこもりの青少年の指導という課題が大きくなり、フリースクール作りへと舵を切っていったのだが、自閉症スペクトラムや欝との取り組みから、卒業生の就労挫折組の指導が始まり、訪問指導から、再度貧困へのすべり台構造と向かい合うことから、再び貧困のことと向かい合うことになった。
寄せ場交流会は、2年前だったか東京のオリンピック記念体育館会場のとき、その会場の上の会議室でソーシャル・ファームの打ち合わせをしていた。知った面々と意外なところで出会い、「全国交流会」の存在を知ったのだが、参加は今回が初めてだった。
とにかく往復4時間強は痛かった。14時前に出発し着いたのが16時台。予約もなにも日程自身を知らなかったから、とにかくどこかの分科会に入ることになった。会費2千円は資料費のようなもの。私は会いたい人がいそうな福島原発の作業に借り出された非正規労働者の関連分科会に出て、目的は達せたのだが、1時間もしないうちに閉会。バーベキューの時間には夕闇が濃くなっていた。資料を抱えて、急ぎ暗闇の山道を下り、横須賀駅行きのバスに乗ることが出来たが、とにかく接続が悪く、相模大野に20時ぎりぎりセーフという状態だった。日曜日も交流会はあるが、橋本への訪問指導がある。参加は無理だった。
実質は分科会の**さんに再会することと、資料をいただくことだから、出費は痛かったが、目的は達成した。三崎口駅は、昔、小網代の自然観察で来たことがあったので距離感はあったが、私たちの「わーく」編集部のひとりが久里浜から来ている。改めてご苦労様といいたい。
もうひとつ、いわゆる左翼臭さの会場の雰囲気も久々だった。懐かしさもあるが、強面のわりに切れ味を感じなくなっていたのは無念。余計なことではあるが。要はアプローチの多様性のことだと思うのだ。
来年は、近場なら改めて時間をとって参加したいと思っている。
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母の遅い夕食、紀文のおでんを買って帰る。見るなりへそがまがった。胃切除したものに、こんにゃくを食わせるのかと。やむなく、ヘタクソな出し巻玉子を作って納得させた。とても三崎に行ってきたなどとは言えない、極秘である。
夜間傾聴:橋本3君(仮名・母親)
(校正3回目済み)
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路上生活者支援の@@さんから、
9/29・30 YMCA三浦ふれあいの村にて
「全国地域・寄せ場交流会」
の情報を教えていただいて、早速覘いて来た。出発は前日からの夜間傾聴と母の件があるので午前中というわけにいかず、帰りも相模大野に20時前までには入らねばならなかった。どうしたものかと思案したが、資料をいただくことや、会いたいひともいたので、出かけることにした。しかし会場に近づくにつれ、もうひとつの恐れが出てきた。山道に街灯がないのだ。網膜色素変性症の私は、いわゆる「鳥目」状態、闇が苦手なのだ。鍾乳洞に入っていたときと違い、壁がない。懐中電灯は携帯しているが、月明かりがまだないので日没前に帰らねばならなかった。
私は20代の頃、学習困難児の学習指導の出前をしていた。そのとき、社会的要因のため、貧困が受け継がれていく現実に出会った。また私自身も体験してきた病弱者の院内学級をみてきた。私の場合は、重度の小児喘息と結核による留年体験から、自分独自の道を歩まねばならない亀裂のようなものを意識してきたから、院内学級の子たちの指導者と協力することは、全く違和感がなかったが、社会的体験からの差別・抑圧の存在は、普通といわれるひとたちの学習と進学は、そういう作られた立場の違いに寄って、そぎおとされ、残った結果を普通と呼んでいるということに気付かされた。そんなことで、私はと識字学級を手伝っていた。同時に心身の要因によって教科学習が疎外されていることについて、塾の場を活かしていくことを試みていた。
夜間中学のサポートに入ったこともあった。そうした経過の中で、スラムの存在を知り、それは路上生活者の接点へと拡がっていた。しかしここでも、心身の要因、今で言えば自閉症スペクトラムが重なっていたり、軽度の知的障がいが重なっていると思われる方がいて、指導を変えたことが、支援者の常識からはずれていた。そんな対立に貧困下の教育現場から追われてしまい、結果、大人の路上生活者の支援とも次第に離れていた。そこに不登校・引きこもりの青少年の指導という課題が大きくなり、フリースクール作りへと舵を切っていったのだが、自閉症スペクトラムや欝との取り組みから、卒業生の就労挫折組の指導が始まり、訪問指導から、再度貧困へのすべり台構造と向かい合うことから、再び貧困のことと向かい合うことになった。
寄せ場交流会は、2年前だったか東京のオリンピック記念体育館会場のとき、その会場の上の会議室でソーシャル・ファームの打ち合わせをしていた。知った面々と意外なところで出会い、「全国交流会」の存在を知ったのだが、参加は今回が初めてだった。
とにかく往復4時間強は痛かった。14時前に出発し着いたのが16時台。予約もなにも日程自身を知らなかったから、とにかくどこかの分科会に入ることになった。会費2千円は資料費のようなもの。私は会いたい人がいそうな福島原発の作業に借り出された非正規労働者の関連分科会に出て、目的は達せたのだが、1時間もしないうちに閉会。バーベキューの時間には夕闇が濃くなっていた。資料を抱えて、急ぎ暗闇の山道を下り、横須賀駅行きのバスに乗ることが出来たが、とにかく接続が悪く、相模大野に20時ぎりぎりセーフという状態だった。日曜日も交流会はあるが、橋本への訪問指導がある。参加は無理だった。
実質は分科会の**さんに再会することと、資料をいただくことだから、出費は痛かったが、目的は達成した。三崎口駅は、昔、小網代の自然観察で来たことがあったので距離感はあったが、私たちの「わーく」編集部のひとりが久里浜から来ている。改めてご苦労様といいたい。
もうひとつ、いわゆる左翼臭さの会場の雰囲気も久々だった。懐かしさもあるが、強面のわりに切れ味を感じなくなっていたのは無念。余計なことではあるが。要はアプローチの多様性のことだと思うのだ。
来年は、近場なら改めて時間をとって参加したいと思っている。
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母の遅い夕食、紀文のおでんを買って帰る。見るなりへそがまがった。胃切除したものに、こんにゃくを食わせるのかと。やむなく、ヘタクソな出し巻玉子を作って納得させた。とても三崎に行ってきたなどとは言えない、極秘である。
夜間傾聴:橋本3君(仮名・母親)
(校正3回目済み)