2016/05/18 記
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NPOサポートちがさきの総会があった。声が出ないので参加を迷っていたが、出席することにした。長期企画と新規短期企画が混じった方針が提案されたが、コミュニティ・ビジネスの話や、行政との地域連携の話等をのぞいて、地域に働きかけて市民活動の育成を緩やかに働きかけるというより、他の市民が行った企画の束のような話が相変わらず多い。これは「市民活動の受け皿」という受動的な発想が根強いからなのだろう。
前の会合のとき、私は「いまさら何を聞いているのか」という顔をされそうな質問をした。私は社協が主導しているボランティア・センター(ボラセン)に加入していない。するとボラセン情報はサポセンには全然入ってこない。サポセンとボラセンは、同じ地域でどのように連携しているのだろう、管理団体が違うから、関係ないのかという形で、「地域におけるサポセンとは何か」という積極的な意味のことを暗に聞いていたのだが、だれもピンと来ていなかった。
話はこうなのだ。確かにサポセンも課題分野として「災害」を扱っている。しかしそれは時流の受け皿的な関わりに留まっている。今、関東圏で大震災に見舞われる確率は高い。もし湘南で大震災がおきて被害が起こったとき、ボラセンは、関連ボランティアの結節点(中継点)となり、外部ボランティアもまたそこをハブにして散って行く。
このとき、一般的な市民活動は休止せざるをえないだろう。そのとき、サポセンは何をするのだろう。ただボラセンに合流して、独自活動を休止するのか、独自の地域活動を行うのかという問いだった。海抜が低いので避難所になることができない。どうするんだろう。大震災は必ず起こることではないが、発生確率は高いのだ。
総会の議論を聞いていて、皆の脳裏には、全く被災の意識のかけらもないことが伝わってきて、「災害」を様々な活動領域のひとつとしてしか考えていないように思えた。東日本大震災以前の発想と全然変わっていないことにがっかりする。「地域におけるサポセンの役割とは何」なのか全然みえないまま、会計収支の欠陥の指摘だけで、会合の議論は終わった。災害ボラをやれというのではない。時代のアクチュアルな理解、サポセンの役割を見直す必要を感じている。
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前回の懇話会ゲストの福永さんから、メールが届いた。また内容が違うのだ。事務的なことだが、いきちがいがあって、その応答のメールなのだが、福永さんは身体上の麻痺があるので、仲介者が入るので行き違いがおき、なかなか依頼内容が伝わっていかない。勘違いのままなのだ。その仲介者が陰に隠れているので、仲介者と直接連絡を取りたいがうまくいかない。困ったなと思いつつ、再依頼の封書を書いている。こんなつまらないことで、親交を壊したくないのだが。
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帰宅時、我が家の玄関扉の鍵が急に壊れて入室できず、業者を呼んで開けてもらった。開錠と分解掃除、グリース塗布で1万8千円、高いと思いつつも相場がわからない。明日、市生活相談センターに連絡を取り相場を聞く。サポチガの年会費を準備しついでに、金をおろしておいたのでその場の支払いは間に合ったが、周辺にコンビニATMもなく、危うく困るところだった。
しかし、サッシ戸の鍵はあっさり開いてしまうものだ。数秒。鍵のロックをしていなければ、玄関扉が開かなくとも、空き巣など簡単に入れてしまうのだ。扉トラブルは2回目なので驚きはしなかったが、これからはロックをしておこうと自分に言い聞かせた。
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困ったことは立て続けに起きる。母が東京の主治医の病院の帰り、知人と会って食事をして夜になってから帰ることになっていた。東上線の脱線事故や山手線の人身事故の関係か、電車が混んでいて座席に座れなかったという。誰も席を譲ってくれなかったとのことで、帰って来るなり、いつにないいびきをかいて茶の間で居眠りを始めてしまった。普段から低血圧のひとなので、高血圧の可能性は少ないだろうと思いつつ、はらはらしながら母をながめていた。尿意を催し、立ち上がろうとしたとき、母の足が突然つって、のたうちまわりはじめた。芍薬甘草湯の残薬があったので服薬させ、肩を貸してトイレに行ったのがいけなかった。今度は肩が痛いと言い出して、つい先ほどやっとベッドで眠ったところだ。私は声が出ない。母が疲労で寝入っている。困ったものだ。明日は10時前、生協と某業者が来る。業者は相談で茶の間に入ってくるが、断わることにした。
教材屋から災害ボランティアのニュースを扱った現国の問題の監修を頼まれた。ボランティア文化の開花を扱った記事を読んだ感想文なのだが、改めて思った。今のボランティアの発想は、余力をお手伝いに回す自由意志が根源にあるが、もう一歩踏み出し、自分ができることをどう活かし、コラボしていくかという線に行くにはハードルがある。だから定型の補助作業(これとて大切ではあるが)に「参加」するという形になる。
ところが被災者の心身の保健や介護、生活困窮に立ち入る話になるとエネルギーが違ってくる。自主的な判断がともなうからだ。この壁を変えることは、挙手空拳になることを覚悟しなくてはならない。参加意志の出所が違うからだ。生活支援が語れる同志と出会いたい。だからこそ人個々人の元気回復を願うのだが。
懇話会ニュース配布、ビッグ・イシュー誌配布。辻堂方向。
教材屋仕事、現国仕事は初めて、災害ボランティアの引用文、違和感はないが、支援は物理力だけがボランティアではないのだが、生活ケアのボランティアの内容は、文中、かけらすら見当たらないのが、悔しい。
夜間傾聴>ひとり(声がでないため、短時間)
(校正2回目済み)