湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネの地域学習活動・就労支援活動の実践試行を書き溜めていきます。

3/28 UKC Japan の方と電話でお話させてもらいました/?/がんばれという抑圧

2011-03-31 06:15:55 | 引きこもり
2011/03/28 記
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午前中、茅ヶ崎養護高等部の卒業式があった。私は「United Kennel Club Japan 湘南」に連絡を取って、うまくつながったら面会を求めようと電話をかけていた。

来年度のクラス分担の再調整会議が相模大野校であり、JR相模原の私塾の方で、春期講習の授業代講が入っていた。そんなことがあって、UKC Japan とは、連絡が取れてもすぐに会えるわけではなかった。やっと相模線が橋本まで動き出していたが、計画停電次第で今後も茅ヶ崎<>寒川間運行に変更になってしまう不安定ダイヤだった。

電話は先方が忙しいのだろう、一時的に電話を止めていたのか午前中いっぱいは空振り状態だった。相模大野に着いて、教室から電話して、やっと連絡が取れた。今、現地に犬を保護に出かけているとのこと。私は電話に出た方は理事長さんの親御さんのつもりで話していた(失礼!)が、後で知ったのだが奥さんだった。

とにかく、やたらに協力をするという団体からの話が飛び込んでくるので困惑しており、現地に皆出かけているので、話は帰ってきてからにしてくれないかとのことだった。連絡先の本拠が京都府亀岡市にあるので、土地を寒川に見つけて、ここに本拠の施設を変更して置くという話を聞き、私は地元協力できないかと更に問いかけた。

自分たちが茅ヶ崎の市民活動サポートセンターに所属しており、内容によって藤沢や寒川の市民団体や関連行政とも紹介できるのだが、接点を検討して欲しいと付け加えたが、どうも話が空転するのだった。

私の知人の運営している「Jazzyな犬たち(横浜ドッグレスキュー YDR)」は、今は伊東の一碧湖の近くに転居して活動している。ドッグレスキュー活動は、YDRの北*さんに教わったのだが、既に10余年の大ベテラン、UKC Japan の方々も、もしかしてお互いの連絡網があるかもと、団体名を出してみたが、やはり空転するのだった。どうやら、自前ネットワークで単独展開をされているようだということがわかった。寒川には警察犬訓練所があるので、そこに行けば関連情報が入るかと、明日歩いてみようと決めていた。

このドッグレスキューは災害救援活動としては、直接人命とは関係ないので、いわば傍系支援活動である。初期の人命救援や避難所運営、物資輸送などの救急活動から、避難所生活を中心とした、消息仲介、要望仲介、医療支援、義援金募金、避難先開拓などへ、活動が生活支援にシフトしていく時期、個人の重要所有物探しと同時に、家族の一員として愛されてきたペットの疎開が価値を持ってくる。その生活支援という長期戦への移行期に展開される活動と言っていい。

ドッグレスキューと名乗っているが、愛玩動物(ペット)一般、北*さんは、放置された放牧馬の餓死防止にも活躍されたようで、野良犬化している被災地の犬の保護も行っているので、飼料確保と飼育を含んで大変に忙しかった。

人命救援、生活再建の活動の中では、瓦礫除去作業と併行して行われていく家族の記憶、「位牌・家族写真・遺品」などの収集と、それを当事者に届ける「該当者探し」を、行政の瓦礫撤去作業の一部を手伝う形で行われる活動があるが、これと同等の活動がドッグレスキューとなる。傍系支援活動だが、関係者にとっては大切な活動となる。だから基本は、邪魔にならぬように脇にいながら、ひとのこころの渇きを癒す活動でもある。人命救助と比較した大事さという秤では測れない裏方活動という性質がある。

私は、有珠山噴火災害救援活動のときにも、初めから終わりまで「がんばれ」の応援活動に辟易としていた。当事者は言われなくとも精一杯生きているので、「がんばれ」とか「明るい話題提供」の嵐は、ときに抑圧になってしまう。言いたいこと、頼みたいことも口封じされてしまうような場面もある。「日本人はひとつのチーム」というのは最悪で、家族や活動チームのような運命共同体には、ちっともなっていないのは明らか。立場の差異をふまえてフレンドシップを築くというならまだしも、精神障がいの領域では常識の禁句である。

この一見正しそうな「がんばり」の嵐は、一方で人災の責任を覆い隠す煙幕にすらなってしまう。だからなおさらに、被災者の声に耳を傾け、協力していく具体的な活動が求められるのだが、打ちひしがれた心と生活からの出発であるから、被災者の背後で再建環境の下準備を併行して行うことによって、直接には徐々に被災者への支援を深めていくことになる。

ドッグレスキューは、主に収容所を設置し、動物を預かる形の活動となるが、盲導犬飼育のときの「パピーウォーカー(参照)」のように個人宅で生活再建に道がつくまで「預かる」という、私はそれを「ペットのホームステイ」の活動もありうると思っている。これを話したとき**さんは、ペットはもとの主人を忘れてしまうと指摘されたが、それはそれで殺処分よりはいいし、犬猫は元の飼い主を忘れてしまうほど知能が低くないと考えていると伝えた。ペットの命が救われるということは、忘れられるということ以上に、飼い主にとって重要なことではないかと思う。

このホームステイ活動によって、支援者は災害救援活動の直接の参加者になりうるし、犬などのペットを媒介に、個々の家族が知り合いになるという副産物がある。また、「飼育」は小中学生位までの子にも参加しうる救援活動になるだろう。中高生以上は、現地に行かずともドッグレスキュー活動の補助的な応援に入ることが可能だ。ドッグレスキューなら、学校でも救援活動を作りやすいだろう。そういう被災地後方の支援活動をデザインしていく上で、柔軟な変容の要素を抱えることが出来る。

一度「わーく」編集部主催で「ドッグレスキュー活動紹介」出来ないか、そういうところで、寒川を拠点に活動しようとしているUKC Japanさんと連携を模索しているのだ。地元の緩やかな連携の輪も可能な活動だろう。

傍系支援はあくまでもわき道だ。しかし義援金と物資カンパよりも、一歩被災者に近づいた活動といえる。それを見越せば優れた活動になると思う。

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会議中、私はPCを抱えて、メモをとるフリをしながら、実はUKC Japan を調べていた。上司には内緒といいつつ、隣の上司には完璧にばれていた。ところがびっくりするような記事にであった。これである。

●「組長をカタギに変えた犬

●「Glay Taz's SHONAN 神風」

吹きだしてしまった。(失礼!)なるほど、強烈な個性である。UKC Japan に連絡したとき、ネットワーキングのルートが違うなと思っていたが、トラッカーのネットワークではないだろうか。

そういえば有珠山噴火災害支援活動をたちあげたとき、いわゆる市民活動の面々が少なく、ボーイスカウトや、商店会、トラッカーなどの災害支援関連の活動が際立っていた。私は火山灰を学校の授業に配る活動をしていたが、現地の火山灰を送り出してくれたのが、トラッカー無線の雄のような人物だった。こういうダンディズム系の活動の方とは、ことごとく話がずれてしまう苦い体験がトラウマ化していた。どうやらじっくり話す必要があるなと感じていた。是非明日、お邪魔しようと思った。なるほど電話で話した方は、玉那覇 葉音さんだったのかなとと思ったのだった。

●「UKC Japan ドッグレスキュー」

この辺に近況が報告されていた。

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8日の炭谷氏講演会のわずか3日後、このような大きな災害が起きるとは思ってもみなかった。この辺だと平塚に済生会病院があるが、岩手・宮城・福島にも済生会病院は海岸線に沿って有った。済生会理事長である炭谷氏は大変なことになっているのだろうなと思いつつ、「ソーシャルファーム」の講演の意義をまとめていた。しかしタイミングとしてレポート公開する状況ではないなあと思って、ため息をついていた。

エル・ファロを救う会の活動も、生活拠点を丸ごと移転する活動なので、長期戦になる。大変なことだなと思いつつ、火曜日には、配布参加時、茅ヶ崎以外の地域にも通用するチラシを提案しようと考えていた。

しかし、奈良**大有志のMLに参加したものの、いまいち発想が練れていない気がして、まずは自分が中心に協力する義援金先を決めておこうと考えた。前から活動を知っていることもあったが、「あしなが育英会」中心においていこうと考決めた。

●「あしなが育英会」
●「東日本大地震・津波への緊急対応について-あしなが育英会」

とにかく様々な団体の義援金募金だらけなのだ。目的をはっきり絞ったほうがよさそうだと思うようになった。

JR相模原の私塾の方では、気仙沼で家を失った老夫妻が息子の家庭に引き取られた。このとき入院中の身で、転院した祖父が亡くなった。孫にあたる**君が、律儀に授業に出ていた。そんなこともあって、彼と番茶を飲んだ。「あしなが育英会」の募金をしようかと思っていると話した。在日外国人やホームレス被災者はどうしているのだろうと話した。彼はその方向から活動を支援したいが、どうしたらいいかと聞いてきた。駅前までのバスに同乗して、支援法を調べることを約束した。


夜間傾聴:橋本2君(仮名)


(校正2回目済み)

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3/27 エル・ファロを救う会の募金活動に参加し/気仙沼から引っ越した**さんのお通夜に

2011-03-29 10:57:43 | 引きこもり
2011/03/27 記
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いわき市で被災した自閉症者の福祉施設「(社福)エル・ファロ」のみなさんを茅ヶ崎の矢畑に受け入れた「エル・ファロを救う会」の支援資金カンパのチラシ配布に参加した。

会では連日チラシを撒いているが、私が参加したのは初めて。土曜日ということもあって参加者が多く、茅ヶ崎駅北口歩道橋・イトーヨーカ堂前・茅ヶ崎駅南口に分かれた。私は南口に参加したが、300枚ほどのチラシは1時間ほどで無くなり、カンパしてくださった方は10名に及んだ。他にも親戚や知り合いが被災地にいると語って下さる方もいらして、関心の高さを感じさせられた。今後も連続して配布を行うので、次回は29日(火)に参加するつもりでいる。9の日なので、九条の会の方たちとご一緒するかもしれない。

チラシを撒いて感じるのは、世代差だ。ファッショナブルな服装の方は世代を超えて受け取りが悪いが、やはり若手の拒否が多い。こういう支援の形に違和感があるのかもしれない。勿論、今回もカンパしてくださった方もいらっしゃるが、私の勤務する予備校&私塾でも、類似の傾向がある。問えば社会的課題を知っているが浅い。話せば響くので、その浅さにとどまっているのは、各人の振幅の少ない社会生活が、振り向く契機を閉ざしているように思う。つながりへのリアリティは、とりあえず見えないような気がする。実際は他者と私(個)の生活の差異が私を揺すっているのだが。

中には障害者は避難所は無理だから、病院に県外収容すればいいんだという男性の方がいらして、そう機械的に割り切れないことや、施設まで結びつける準備が後手にまわっている事態があるといいたいけれど、口論になりそうなので、ご意見ありがとうございましたと、その方と別れた。

この駅前の場所は、ビッグイシュー販売等の際、使っていた場所だ。だからなおさらに、次々に吸い込まれていくチラシがうらやましくもあった。私の義援金は、あしなが育英会にわたそうかと思っていたが、それはもう少し期間を置いてからでいい。当座のカンパ先が生まれたように思う。

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チラシ配布が済んで、一度家に戻らねばならなかった。気仙沼から祖父母を引き取った**さんの祖父++さんが、移動のストレスか昨夜、抱えていた脳腫瘍が脳溢血を引き金に悪化して昨夜突然に亡くなった。間接的だが震災の被害者である。塾長と関係者は明日の葬儀に、私はお通夜に向かうことになった。面食らう母に詫びて、滅多に出さない喪服を着込んで橋本に向かった。相模大野校の授業は欠勤届を出した。

男は通夜に行っても仕方が無いというが、ちょっと変わった光景をぼんやりと目の当たりにしていた。塾のクラスの何人かが手伝いに来ていたのだが、派手な茶髪が忙しなく動いている。ひとりはアジア系の子だが、風習の違いが気になるのか、いつもは無口な奴を質問攻めしている。たしかに出番はないと、初対面のお別れをして会場を出てきた。よろしく頼むなとアジア系の子に声をかけたときの自信に満ちた顔、いい顔しているのだ。必要とされることの大切さを改めて思っていた。

土曜日が計画停電がなくてよかったのだ。通夜まで停電に振り回されるなどとんでもないことではないか。

横浜で一度降りて、パンを仕込んだ。駅前は時間をはずすと予想外に不便だ。橋本で買っておけばよかったと、後悔しながら相鉄側をうろうろしていた。

さすがに帰宅しても、夕食を孤食させたと怒りはしなかった。しかし気仙沼というか一関から引っ越した直後だと事情を聞くと、戦争みたいだねと母が言った。たしかにそうである。しかし、放射能の影響はなかったのかと聞かれると、母の頭の中に地図がないことに気がついて、話すことをやめた。妄想の化け物が母の脳裏に広がるばかりだと思ったからだ。

察知するのか夜間傾聴も開店休業だった。


夜間傾聴:なし

p.s. 「エル・ファロ」の施設の地図を載せておきました。

(校正1回目済み)

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3/26 相模線運休と停電のボディブロー/ドッグレスキューの「UKC Japan」という災害救援活動が湘南に

2011-03-28 04:52:48 | 引きこもり
2011/03/26 記
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受験に連れ添うとき、試験が終わるまで近くの店で待つことがある。そこには期待があるが、詳細は書けないが、今回はその期待が無い待機をした。一時間後、夜の授業までは時間があったので、帰りに買い物を済ませて一度家に戻った。

「気分換えにパーマ屋に行こうとしたら、今日は予約がいっぱいだと断られた」といいつつ庭先に出て、母は雨どいを眺めていた。枯れ葉が詰まっているようなのだが、母の傍らに立てばたちまちのうちに、仕事仰せつかることになるので、私は慌てて玄関に飛び込んだ。家事は底無し沼だ。母の思いつきでやらされると、私の身動きが出来なくなるので、時間のかかる家事は、最低1週間程度の予定を事前に話し合って決めている。母は不服そうだがこれは歯止めである。

++さんから電話が入っていた。依頼の件が済んだとの事で、感謝を告げ電話を切った。来週の月曜日、私は障害手帳発行の説明会に出た後、県教委に用事があって横浜に出かける。その帰りにもう一本の予防線を張れないか確かめ、寿町にも立ち寄ってくる。用を済ませたら、父の入所している老健にその足で回るので、予定がせわしない。

ここ数日、明け方の冷え込みが強いとき、床に着くとすぐ、膝骨折を手術した方の足がしびれて、足首がこむら返りを起こす。こういう状態のとき、母から芍薬甘草湯を一包もらっていた。母の薬の補充分を漢方薬局で買い求め、薬局から得体の知れないサンプル薬をもらって、もらった大きな薬袋を提げて巡回に向かった。今回はJR相模原の塾の方の巡回。橋本から路線バスに乗る。

ところが計画停電の地域を通るので、網膜色素変性症の鳥目状態というか、症状のため暗闇に弱い私は、目的地からの帰りのバスの時刻表が全く見えなかった。携帯を懐中電灯代わりに使うが、それでも文字が読み取れなかった。

これが災いして、彼の自宅を定時に出たが、バスは最終が出た直後だった。バスで15分ほどかかる距離なので、天候が悪い中、歩くわけにも行かなかった。相模線が動いていないので、怪しげな小田急江ノ島線に町田から入るより、横浜に出て東海道線で帰る方が確実だった。行きは老健から伊勢原に出て町田経由で橋本に回りこんだが、帰りは横浜経由である。

となれば、茅ヶ崎の終バスに乗るには、時間のゆとりも無かった。タクシーの会社もわからないので、行きは神奈中バスで来たので、神奈中ハイヤーを調べて電話。15分ちょっと待たされて橋本駅に戻れた。訪問の稼ぎはタクシー代に消えた。帰りは東神奈川乗換えが入り、横浜で再び乗り換える。1時間半後、茅ヶ崎到着。なんとか終バスに乗れたものの、冷や汗をかいた。車中、**君が心配して専用携帯に電話をくれた。なんとも通勤距離感が大きい。相模線が復活してくれないと、どうしようもない。

当分、相模線が動き出すまで、夜は教室の授業にするのが無難なのかもしれない。そうもいかないのが悩ましいところなのだが。

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MLで震災津波被害地に支援物資を送るときの話になった。どこか企業を動かそうという話になり、話が脱線して紙おむつは真空パック搬送できないのかという話になった。確かに空気を運んでいるようなものだからだ。布団収納に掃除機を使って収納袋の空気を抜く真空パックの商品がある。そのパックは案外真空を保っていられるのだが、

1)紙おむつ屋と真空パック屋を出会わせる活動がいる。
2)コスト、時間がかかるのではないか。

ということから実行は難しいという平凡な結論に達したのだが、ここで発想のひとつのヒントが出てきたことを私たちは確認した。企業を動かす場合、その実践は、ひとつの企業を動かすこととは限らず、他の分野の企業の組み合わせを考えることもありうること。それを引き寄せるのが企画の力だということだ。

次に、話はTVで歯ブラシが避難所に欠けているという話を知ったという学生が、被災者の生活を理解するために、避難所生活のシュミレーションをしてみようという提案をし出した。一方では、すでに被災地から欲しいもののリストが出ているから無駄という反対論も出て、できることをそのリストからまずは考えようということになった。

私は余計な話ばかり入れて申し訳ないのだが、先日、茅ヶ崎で偶然、京都・亀岡の社団法人「United Kennel Club Japan」の理事長さんと会った。被災地のペットの預かりボランティアだ。有珠山噴火災害救援活動時、横浜ドッグレスキューの方と知り合って、愛玩動物の救援という活動を知った。復興までの期間、犬猫をあずかるという活動だ。

「緊急!東北地方太平洋沖地震」

声高にペット救出活動を語れば、人命が危ういときに不謹慎というそしりを受ける。しかし一方では家族の一員として育ててきたペットでもある。現場にはその要望があることを、以前、横浜ペットレスキューの北*さんから教えてもらった。

今回も新潟県が「新潟県動物救済本部」を立ち上げており、そのニーズが広範にあることを明かしているかのようだ。

実は「UKC Japan」の方は、湘南に預かる場所を既に作って活動を始めたようなのだ。茅ヶ崎ならNPOサポートちがさきで取り上げ、その実践が商業主義的な営利目的な問題がなければ、市民活動が協力することも可能になる。

たとえば、ペットのホームステイを行う協力活動も立ち上げうるのだ。近々、理事長さんと話してみるつもり。茅ヶ崎には、湘南おやじの会に獣医さんもいる。うまくコーディネートできれば、活動が根付きうると思う。

北*さんたちは、ブログをたちあげており、久々に連絡してみたくなった。そんな話をMLに流した。傍流の支援活動だが、学校をからませて子どもの支援活動の参加の形を作ったり、ペットのホームステイが成り立てば、里親と被災地家族との交流を生み出す事も可能だ。

UKCの活動を支援し、その収容所で世話をお手伝いできないか探る非ホームステイ型の筋もある。ホームステイ活動よりも中高生位なら、応援派遣の形は学校で取り組みをしやすいのではないか。現在北*さんは伊東在住。会ってこようと思っている。「わーく」編集部企画かな。サポチガも協力しやすい活動だと思うのだが。

MLでは、結構面白がってくれたが、奈良で受け取るのは遠すぎるのではという意見もあった。湘南で支えるのなら、既に種が撒かれている。

●「Yokohama, DOG RESCUE「YDR」のご案内」
●「Jazzyな犬たち(2011.3)」

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別の話だ。これを書くと混乱しそうだが、被災者の特に高齢者・子どものPTSDなどには、心理ケアだけでなく、緩和的な効果があるペット・セラピーという方法がある。触られても大人しくしている訓練を受けた犬猫を高齢者の方などに抱いてもらったり、撫でてもらったりすることで、抱いた方の心の緊張を解きほぐすのだが、避難所生活が長くなってきた時点で、ペットセラピーというボランティアもありうる。湘南では高齢者の施設、藤沢市の老健の「わかば苑」(大庭)が取り組んでいる。湘南おやじの会の獣医の**さんから、動物虐待だねと御叱りをうけそうだが、気持よさそうなのだ。

この活動は専門性が要求されるので、被災地の幼児の皆さんに、ペットランド的な場を提供することができれば、それはそれで意味を持つだろう。暢気な話だといわれそうだが、ペット連れで被災地を訪問することが、現地の子どもイベントになりうる。これも被災後、現場が落ちついてきた頃、なしうる活動だ。飼い主さんが責任を持つ。

傍系の支援活動を紹介したが、つなぎ屋(中間支援)できないかなと思っているのだ。

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夜間傾聴:南大沢君(仮名)
     橋本2君(仮名)
     --- 相模大野校関連の方々からもひとりあったが、規則で個人的に接触できないのだ、ごめん。



(校正1回目済み)

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3/25 相模大野校巡回訪問終了/東日本大震災被災障がい者支援サイトから

2011-03-27 06:08:12 | 引きこもり
2011/03/25 記
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母はなぜか木曜日に体調を崩して、私を困らせる。それが無意識上の目的なのかなあと愚痴をPCに言った。最近は吐くまではいかなくなっているが、夜間、苦しそうに、ベッド上に座り込んでいる。結局は睡眠導入剤を使って、眠らせるのだが、今度は私顔負けにいつまで経っても朝起きてこない。母は胃切除しているので、本来食事をしたくないので、朝食抜き生活パターンの我が家では、きちんと昼食に誘い込まないと一日が始まらない。

計画停電の午前中分が、微妙な朝の時間のずれに追い討ちをかけている。TVが点いていれば、ベクレルとかシーベルトとは何かを説明させられたり、津波の何cmがなぜ大波になるのかなど、私に聞かなくても、TVでやたらに説明していることを質問することで、話題がつながってこの時間帯が何とかなる。しかし停電していると、母はひたすら布団をかぶってしまう。

TVはふと画面を眺めても、話題を画面からなんとなく補間情報を得て、自分なりの聞き方ができるが、ラジオは途中からでは、何の話なのかよく聴きとって文脈を構成しないと語りの内容が理解できない。ときどき気まぐれに聴くという聞き方が通じない場合が多いので、意味不明で聞き流すか、語りには集中力を要求される。曲を聴くわけでもない母とラジオは、NHKのラジオ深夜便以外は、相性が悪いようだ。

固い飯は食べさせられないので、自家製のリゾットを作ったりしていたが、牛乳が手に入らなくなった。米を薄くコンソメで炊いて剥きトマトとほぐした鶏のササミで大まかな出汁をとり、セロリとネギで調子をとった粥に、火を通したウィンナソーセージの細切れを添えた。芋粥風にトマトの代わりにサツマイモのサイコロ切りを混ぜ込むこともあった。私には急に血糖値があがるメニューなので、別メニューになる。これが時間がかかる。同じ食材で作れるように考えるが、量が入らないように工夫する。

夜が巡回が入ることが増えていたので、昼食に手をかけたのだが、夜もまた夕食時に計画停電することが多く、母はひとり闇の中で帰りを待つのを嫌がった。ましてや闇鍋ではあるまいし、食事は完全放棄となってしまった。しかし昼と夜、母に付き合うと仕事にならなかった。

相模線が使えないために、長い往復の時間がそこに加わって、結局、午後に相模大野側最後の巡回は遅刻という不名誉な状態で終わった。この停電の余波は最後まで祟ったのだった。気持ちは、震災と停電の影響分・4月に2回もつれ込むが内容を完結したかった。これは理事長が許さなかった。

IR相模原の塾の方の外勤講師屋稼業が残っているが、3分の2弱近くの巡回が、なんともあっけなく終わってしまった。これから普通の授業の講師となるのだが、何か私の仕事の後半の主力戦が過ぎた気がして、今抱えている暴力がらみの問題の始末に力が入らなかった。それでも、やったらやりかえす、それが彼らのやり口なので、HL行方不明化への予防二次対策を打った。一応やることは、やったと自分に言うが何の喜びも無かった。はずしてはいない手ごたえだけが、気持を支えていた。

ビッグイシュー東京事務所に、残金送付。自爆計画に乗る不合理な結末に矛盾を感じる。ともあれ、私はもとのひとりのHL支援に帰る。自主パトから再開していく。

母を茅ヶ崎駅の降車場まで呼び出して、計画停電中の我が家を離れて、平塚で食事をすることにした。駅ビルはグループから停電していないことを確かめてあった。ところがなんという事か、入った時刻で既にラストオーダー。20時に全館閉店だという。食事は済ませたが、せわしないこと。

買物はどうするのかと母に聞かれて焦った。コインロッカーに食材を、昨日から入れっぱなしだったのだ。母は突然不気味なことを指摘した。コインロッカーも停電中は開かないのではないかというのだ。ため息が出た。停電に振り回されている。

幸いコインロッカーもその周辺も停電していなかった。冷凍物は買っていないが、廉売の苺と魚が危なかった。帰宅時、予定ではまだ停電中のはずなのに電灯が点いていた。予定より1時間弱点灯が早かった。それがなおさらに、うんざりした気分を生んでいるのがわかった。身勝手な東電の責任は計り知れない。

相模大野校に最後のレポートを送り役割を終え、++さんに明日の準備の個人メールを送った。なにやら仏滅気分の一日が終わった。遅れていた障害者向け就労支援・携帯電話副次機能利用案、中邑賢龍氏・近藤武夫氏らの実践を探りなおしている。めどをつけて今夜分を区切る。



《障がい者・社会的弱者被災者支援ポータルサイト&義援金サイトから》

●「「東日本大震災」支援専用ページ(日本自閉症協会)」
●「「東日本巨大地震」により被災された方々に(日本発達障害ネットワークJDD)」
●「東北地方太平洋沖地震に関する情報(全国精神障害者地域生活支援協議会 あみ)」
●「作業所・施設の緊急支援にご協力ください(きょうされん)」
●「東日本大震災・津波の被災者ならびに支援者向けに医療情報を提供するためのサイト(#311CARE HP)」
●「東日本大震災の被災者支援募金のお願い(ホームレス支援全国ネットワーク)」


夜間傾聴:大森海岸君(仮名・傾聴にあらず、応援。感謝)


(校正2回目済み)

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3/24 震災余波生活の疲れ、今回は何もなし、沈没

2011-03-26 07:01:45 | 引きこもり
2011/03/24 記
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一昨日夜の巡回が流れたので、今回は相模大野と中央林間の2ヶ所を回った。いよいよ相模大野側の外勤(訪問)講師はあと1回である。外勤講師と家庭教師の違いは意味合いからはあまりない。ただ対象が不登校や引きこもりをしている若者だったり、就職挫折経験者の再進学補助だったりと、やや特異な経験を要する仕事だったりする。指図はしないが、余計なお節介を含んでいるのも特徴となる。爺ぃだと相手が気を使う。指導されてしまうことも多い。それでいいのだと思っているが、心情が通じるには年齢の限界がある(のだそうだ)。金八先生や夜回り先生のようなオーバーアクションは似合わないが、事に熱くなっても、しらけた尻尾の世界をしっかり見せるのが私の役割だと思っている。同僚には、脱力世界を紹介しているのもいた。あれは傍観者にも後遺症がでる。

1つめの巡回を終えて早めの昼食をとるために入った店で、北里大の、学部はわからないけれど3人の学生さんたちの食事をしているところに出くわした。密着した隣の席しか空いていないので、嫌がられるのを承知で、その席に座った。

話の内容がどうも辻堂在住者らしい子がいたので、嫌な顔をされたが割り込んで、久しぶりに「わーく」の取材をした。

医療関係学部以外では、まず聞けない話題だった。その子がLDの診断を受けていたと言う話を聞いた。興味津々、つい割り込んだ。空間認知が苦手だという。まもなく3年なのでそれなのに、就活を本格化させなくてはという話だった。話し方から、私をよれた学校教員と思ったようだった。

障がい者施設職員に興味は無いか聞いてみた。食っていけるのですかと応答があった。たしかに…。しかしその話の成り行きから、この集団が塾の個別指導をバイトにしていることを聞いた。あれあれ、同業者ではないかと、ひとり笑った。先方が聞かなかったから私の本当の仕事を明かさなかったが、バイト代を聞いてがっかりした。私と大差ないのだ。外勤講師のやり手がないのもこれが理由だ。成果給がなかったら、生業ではやっていけない。医学部・薬学部系の学生さんの給与は高い。それにしてもトラウマが残りそうだ。

発達障がいに関心があると彼に話して、今度辻堂で会えないかと誘いをかけた。変なおっさんだと思っただろう。しかし携帯電話のNo.を生真面目に教えてくれた。

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一昨日、湘南あすなろ会の**さんと会って、今後の事を話し合った。会員に暴力団がらみの問題も起きていて、**さんが事態を裁いていた。私は自分の価値観でやれるところは一緒にやるが、できないことは別個に進めればいいと考えている。その会員さんとは信頼関係が成り立たない反目の関係にあった。しかしこの問題は、協力する必要があった。

厄介な問題だったが、**さんは迅速だった。

この件、対策を協力する旨の話をして、内科薬治験の相談に向かったのだが、憂鬱だった。地元内科で製薬会社の担当者と話し合い、協力の下準備を行った。

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2回目の巡回は夜だったので、治験相談終了後、買い物を済ませコインロッカーへ。茅ヶ崎図書館は17時終了になっていたので、急ぎ更新を済ませて、中央林間に向かった。相手はブログに登場する中央林間君ではなかった。

帰りの電車で睡魔に襲われた。この震災と計画停電はじんわりと私の体調にのしかかっていた。やったりやらなかったりする停電に予定が振り回されて、完璧に睡眠不足になっていた。食材を買ったがコインロッカーに入れっぱなしで帰宅してしまった。母には内緒にして、玉子と鶏肉を使って即席の親子丼を食べさせて、夜間傾聴の電話を抱えて、ともかく爆睡。作業はお手上げ、今夜は何もなし。


夜間傾聴:休みに


(校正2回目済み)







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3/23 いわき市の被災(社福)エルファロを翔の会が茅ヶ崎に受け入れた件に賛同し/他

2011-03-26 05:48:33 | 引きこもり
2011/03/23 記
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朝、相模大野校に連絡を入れる。上司はまだ出勤していなかったが、状況がわかった。相手の進学先を馬鹿にした相手と喧嘩になり、仲裁に入った講師がふたりを分けた。そのとき、つかみかかった子の顔面に手の甲をあててしまったのだった。こうして講師の暴力話となって、高校生だと言うのに両方の親が出てきたという話なのだが、この講師がもともと暴力講師なのだと、顔に手が当たった子が親に訴えたので、ますます話がこじれたのだった。

勢い怒鳴り込んできた親が講師を出せと要求してきた。ところが出てきたのが自分よりはるかに年上の温厚な爺さんだったので、矛先を見失い、暴言を吐いた相手方の子をなじった。その結果、なじられた側の子が親を呼んだ。近所なので親同士の対立となったというのだ。この事務員、この手の話が大好きなので窓口からはずされたのだった。しかし、喧嘩したふたりは、しょっちゅう反目があって、その結果の暴言だったので、今回限りのものではなく、鬱積したものが爆発したというのが実際のところだった。

ふたりとも大学受験は推薦で決まっていたので、今まで在籍していたのが不思議な状態だった。上司は噂を立てられるのがこわかったのだ。もともとの暴力講師と呼ばれた**さんは、驚いていた。思い当たるのは遅刻して教室に飛び込んできた子を両手を開いて制止したが、勢いあまって、その子が講師にぶつかったことぐらいだという。**さんは退職してもいいよとあっさりいう。もともと定年で、この3月で職場を去る。私は彼の後釜にはいる関係にあった。

二人の反目といっても、その中身は、サッカーの誰がどうのという贔屓(ひいき)がちがうことくらいで、実際、私がわかっていることは知れているのだ。

上司から20分ほどして連絡電話がはいった。双方の親御さんの調整をしていたらしい。大したことが出来ないからと、夜に巡回してくると告げ、電話を切ってしまった。しかしなんだろう、高校生、いや大学生になる歳で、親の仲裁も無いだろうに。

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3/11の地震で福島県いわき市にある(社福)エル・ファロが神奈川県茅ヶ崎市に避難してきた。翔の会が受け皿になって、入所者7人と職員4人の11人。19日に萩園の翔の会「あいあいクラブ」を夜提供することにしたという。すべてはこれから。その支援を「エル・ファロを救う会」を作って支援していこうとしているという。私の名前を出すと支援も散ってしまうので、ともあれ時間帯の合う2回、チラシ配布を手伝うことにした。炭谷氏の講演会のときも怪しげだったので、前にでるのは避けたかった。実があればいい。隠遁の術…などというから怒るのだろうが。

それはそうと、11人を受け入れるのは大変なことだ。急な話に出来そうなことを考えている。塾の**君を支援する会は、被災地の実家から親族を受け入れる話だったが、こうした様々な周辺の受け入れ活動が始まっていることに協力したいと考えている。このエル・ファロの件も奈良**大の有志MLに紹介させてもらった。詳細は下記。エル・ファロのHPが更新されていないのも、返って痛ましい。

●「エル・ファロを救う会」
●「(社福) エル・ファロ」

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相模大野に行かなかったのには、忘れていたもうひとつの約束があった。私の糖尿病治療の治験話があって、それに乗ると返事をしたので、製薬メーカーが確認にくるのだった。

4ヶ月ごとに、半日ががりの大きな血糖値変化のテストがかかる。1年間、2週おきに医者にかかり、その薬を含む投薬を受け、基本的な糖尿病の検査を受けるというものだった。中性脂肪が、やっているつもりの食事療法では一向に下がらないので、何とかならんのと質問したのがきっかけだった。

症状を悪化させたり、副作用が出てきたらすぐにやめること、治験後、その薬を続けなければいけない状態を作らないこと。この辺が確認できるならやってもいいとした。

4月早々、投薬検査が始まる。しかし網膜色素変性症の方にこうした動きが欲しい。28日に視覚障害の手帳が交付されるので1ヶ月遅れで遮光眼鏡を買う。自転車はその直後だ。

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母が計画停電の度に同じ戦争体験を語り始めるので、最後に「AC(日本広告機構)」かいとちょっかいをかけるものだから、言わなくなった。そういえば「AC」のCMの最後、「AC」と歌い上げるコーラスの声が消えた。それだけでも鬱陶しさが軽くなった。

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泣いても笑っても、相模大野校の外勤定年が迫っている。4月までの延長が駄目というので、相模大野側は、あと2回。JR相模原の塾の方だけになる。半減、いやもっと減ってしまうのが寂しい。私はキャッチアップ屋だ。補習塾のそれと違うのは発達障がいの認知特性や、ストレスなどの学習の軋轢に伴走し、学習や将来のプラン作りに協力すること。教室の授業を担当するのも、これも方策を持っているが、受験のしばりが強すぎるのだ。まあ、爺ぃなりの再出発をしよう。

夜間傾聴:中央林間君(仮名・こちらから)


(校正1回目済み)

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3/22 気仙沼からの県外医療避難の支援懇談会/水と電池の買物を

2011-03-25 07:14:55 | 引きこもり
2011/03/22 記
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相変わらず相模線全線は動かないが、寒川町民の声だろうか、茅ヶ崎<>寒川間の運行が始まった。少しずつではあるが、平常時に戻っていくのはほっとするのだが、私のようにJR相模原(橋本経由)や海老名に出向くものにとって、相模線が動かないのは致命的であることには変わりがない。

朝、相模大野の本校から電話が入った。案の定呼び出しだった。生徒間のもめごとがあって、保護者面談になったので、生徒のもめごとの経過を知りたいという。今日は先約があって抜けられないというが、上司はどうしても今日話を聞いておきたいという。JR相模原の塾の支援懇談会が終わったら、立ち寄ることに。

いやな予感がしつつ、横浜経由でJR相模原の塾に到着。連休中なので計画停電は中止なのに、停電で塾の支援懇談会中止というメールを送った講師がいた。発信時が2時間前だったので、メールを見ていない者が何人か来ていたのは幸いだったのだが、肝心の**君が来ていないのだった。

訂正メールを流したが、修復訂正はなかなか効かなかった。**君には携帯に電話。近くにいることがわかって、すぐに来ると言う、一安心。全く…風評被害の種は尽きまじなのだが、おかげで中途からの参加者が増えてしまった。この講師、塾の電話の脇のメモを取り違ってお節介をした結果だった。湘南あすなろ会のことが頭に浮かんだが、役割分担をいい加減にすると厚意も厚意でなくなってしまう。言葉の責任は取るべきだと私が怒って釘をさしたが、爺ぃの虫の居どころが悪い風の本人の態度は許せない。カウンセリングに無責任な言葉を発すれば、相手の命の引き金にもなってしまうことがある。憶測の言説を撒き散らしてはいけない。

懇談会は8人の小さな会となったが、**君の親御さんが参加してくれた。親御さんは、気仙沼市の入沢在住の祖父母の方々を車で一関まで迎えに行ったのだそうだ。入沢は壊滅的な被害を食らった地域だ。津波の日の前日、地元から紹介を受けた医師を訪ねて、一関市の病院にたらいまわしの3ヶ月目の転院を機会に市外入院したので津波に合わなかったのだという。脳溢血から悪化した持病の専門の検査を受ける日で、奥さんも病院のそばのホテル泊を偶然していたので、ふたりは助かった。しかし家は全壊。親戚が無事避難所に着いていたので、連絡が取れて近所と我が家の全壊を知ったという。

あれから家にもどっていないので、逆に県外避難がうまく行った。半身不随で歩けない夫を息子夫婦(**くんのご両親)が引き取った。当面は在宅介護だ。相模原市の協力を得るといいと、**君のご両親に伝えた。

こういう受け皿のある幸運な例もあるが、気仙沼市から籍を抜くことはしないのだそうだ。県外医療避難の形となる。明日から相模原市内の病院に、再検査と入院手続きを取るのだそうだ。空きベッドがありますように。

**君は口数が少ない方だ。しかし今回は、能弁だった。気仙沼市行政が復活してから、状態が安定してきたら、父親とともに気仙沼の実家に行ってみるとのこと。私たちは結局は観客なので、義援金をまとめる程度しか出来ないかもしれない。しかし、現に知人が震災に影響を受けている、この実態を受け止めたい。

会の中には津波の様子を知りたかった者もいた。話は一関市の被害の話だったのだが、間接的に震災の大きさとその惨事を、隣人の様子の語りから知ることが出来た。散会も無口になってしまうほどの思いを抱えて会は終わったのだった。

何ができるだろうか、それを探り続けたい。

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会の最中も携帯が何回か鳴っていた。相模大野のもめごとの件の呼び出しだった。結局時遅し。親御さんの対立に火が燃え広がって、とりあえず今日は、それぞれ帰って行ったのだそうだ。ともあれ、私は恨みっぽい上司の口調を聞くだけで済んだ。明日対策を打つ。

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もう一件の電話は、私の弟と母からのものだった。水や電池が出まわってきたからと、車で運んでくれるという話なのだった。弟夫婦も妻方の祖母の介護で身動きできなくなっており、会ったのも年末以来だった。茅ヶ崎駅に到着したら電話を入れて合流し、買物することになっていた。まずは島忠ホームセンターから、鶴が台入口のかながわ生協、そうてつローゼンとまわってこようということになった。

節電で薄暗い店内の買物に母は緊張していた。結局、2リットルの水3本と、単3電池4本、今のうちにと葉物、白菜とキャベツ、それにジャガイモを仕込んできた。灯油販売しているガソリンスタンドを見つけたが、タンクを持ってこなかったので、あきらめ。

なにやら移動で疲れてしまった。夕食を片付けて睡魔が襲ってきた。2時間弱眠ったが、翌朝は燃えるゴミ回収の日。夜が明けてからでないとゴミは出せない。ゴミの時間帯が昼夜逆転生活の私にはひどく重い。睡眠の眠り初めが中断されるからだ。

「買物難民」の対象地域を略図化する。パワポ化する素作り。

炭谷氏感想、まとまりつかず。


夜間傾聴:橋本3君(仮名…支援懇談会の感想のような…)


(校正2回目済み)

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3/21 震災余波の中の墓参り

2011-03-24 05:34:34 | 引きこもり
2011/03/21 記
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今年の彼岸の墓参は異例のものになった。最寄駅が運行停止中の相模線にあったからだった。相模線の駅から路線バスに乗るのだが、横浜経由でも一番近い駅には到達することが出来なかった。後からわかったのは、横浜線の普段使わない全く別の駅から路線バスに乗れば、いつも利用する駅にたどりつけることだった。よくも周辺住民からJRに苦情が出ないものと、島のような駅の状況に驚いた。結局、乗り継ぎの多い横浜経由より、茅ヶ崎から小田原に出て海老名から回り込むのが一番確実なのだと知った。何のことは無い、先日冗談で時間がかかることを確認した路線をたどりなおすことになってしまったのだった。もともと不便なので、2000年末、交通事故を起こす前までは、出かけるのがひとりのときは、渋滞箇所もあるので、混雑回避も考えて遠いが原付バイクを使っていた。

墓苑の方もさすがに対策を打っていて、一日二便マイクロバスを臨時運行させていた。しかし私の到着時間帯には、海老名からはタクシーを使わざるを得なかった。予算不足を感じたが、持っていたカードがひとつは故障中の「みずほ」銀行のものであるし、もうひとつのカードは海老名にATMがなかった。タクシーの運転手に事情を話すことにした。片道に当てられる現金の額を言って、行けるとことまで行き、あとは徒歩で埋めて往復するというものだった。準備不足、少々情けなかった。

肝心のタクシーが来なかった。30分強待って到着したタクシーに相談したら笑われた。私の銀行カードに、クレジットカードが付いているでしょうと指摘されたのだった。タクシーでクレジットを使うのは実は初めてだった。今日は他に親戚関係が誰も行かないし、こんな日に車の路上待機する自信がないと母がいうので、ひとりタクシーで珍談義をしてきたようなものだった。

以前寒川駅から、翔の会がある小出一本松までタクシーに乗ったが、暴利と思える料金を取られた。深夜料金でもないのに、メーターがどんどん上っていくのだった。同様の体験をして墓苑に着いた。田舎料金は高いのだろうか。これが帰りにはもっと厄介な話となった。クレジット清算してくれるタクシーが来なかったのだった。現金で相模線の畑の中の別の駅に出て、そこから歩いて便のいい私鉄に出た。そこには私が持っているカードが使えるATMがあるのを仕事の巡回で知っていた。ATMで資金を引き出して窮乏から救われた。しかし帰りは近い駅ではなかったので、更に回り込みの料金がかかってしまった。今回の誤算「みずほ」ATM停止の話は、窓口支払いしていたのを知ったのが、家に戻ってからだった。海老名にはコンビニがある。「みずほ」以外のカードの扱いがあるはずだった。普段使わないと、こんなものだ。帰りのタクシー選びは1時間近くかかった。皆地元の同じタクシーで、カードが使えなかった上、地元タクシーも、たまにしか来ないのだ。最後は諦めて現地タクシーに現金で乗ったという馬鹿な話だった。

墓苑はそれでも自宅の車で来た家族連れが何組も来ていたが、墓苑はいつもと比べものにならないほど閑散としていた。帰りに立ち寄る飲食店がどこも閉まっているということにどの家族も困っているようだった。計画停電中かどうか、行ってみないとわからないなんてひどいという苦情や、ガソリン補給が大丈夫かという話があちこちから聞こえてきた。タクシーの少なさは、ガソリン入手が難しいので、流し運転していないのだと知った。

墓苑の入口で線香と花を売っているのだが、花が見当たらないし、販売員が見当たらなかった。墓苑の管理事務所に立ち寄って聞くと、販売員の女性を探し出してくれた。しかし花が切れてしまい、店まで取りに行っているが、まだ戻ってこないというのだった。やむを得ず、天候の悪い外で待つのをやめて軽食コーナーに移動したが、座る場所はあったが同じ女性が注文に応じて、缶コーヒーなどを配っているのだった。調理人が来れないので、食事は出来ないという。なにもかも異例の状態だった。

奥の食堂側は停電ではないが、休業中なので照明が消えており、相席を先客に挨拶して、入口側の待合室の席に座った。同席の方から、いろいろな話を聞いた。墓苑は平地のところと、山の急な斜面を削ったところがあって、急な斜面のところは地盤が弱くて、いくつかの墓石が倒れたり、位置がずったりしたという。その方のところも急斜面で、墓石がずったという。地面の中の棺の周囲を埋めなおすように管理事務所に抗議したのだという。私の家の墓は平地にあったが、線香置き場と花入れの石が浮き上がって移動していた。墓苑は地震のあと、当然チェックするはずだった。それがしていないのはなぜかといぶかった。

花が到着して、やっと墓前にたどり着いて、その理由らしき光景を見ることができた。造成中の斜面にブルーシートが張られ、入り込めないようにロープが張られていた。崩れたのが容易に想像がついた。造成地側ではない販売済みの区画は、墓石に遠方から見た限りは異常はなかった。待合室で話したご家族は、その急斜面の一区画の墓だった。

これでは我が家の少ない親戚も遠方から来るのでは、皆80代以上なので、先方が敬遠したのは正解だった。こうなると馬鹿なことをしたくなる。「はい、チーズ」と墓石に笑みを促して、携帯のカメラに収めた。一日かけて、何をやっているのかと思いつつ、母に墓参終了の連絡電話を入れて画像をメールし、タクシーを待ったのだった。

母に送った画像は、母が親戚の孫の携帯を経由させてメールで配った。画像を転送する方法は、昨夜母に仕込んだもの。こうして怪しい墓石画像は空を飛んで行ったのだった。心霊写真を期待したのだが、故祖父母たちは冷たかった。

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子どもネットワークが珍しく就労支援の講演会をやっている日だった。私は墓石の写真を撮りに来たのだと思いつつ、正直言って虚しかった。翌日はJR相模原の方で、私らが提案した企画だが、気仙沼から祖父母を迎える**君を囲んで苦労をねぎらう会を開くことになっていて、言いだしっぺのひとりとして、欠席するわけに行かなかった。被災地の様子も**君から話を聞けることになっていた。他にも調整が難しい人のいる親戚との日程あわせも面倒なので、20日になっていたのだ。

横浜駅を経由したので、県立図書館の書籍受け取りも済ませてきた。シャッターだらけの地下街の一角、開いていたスーパーで食材を追加。到着時間のあてにならない混雑している夕方の東海道線に乗って帰って来たのだった。県立図書館から都市の独居高齢者の生活の実態調査の書「大都市における高齢者の生活」を仕込んで来た。2000年刊のものなので、データが古いが視点のフォーカシングが出来るだろうと予測して借りているが、もうひとりこの書の利用者がいて、いつも延長できずに図書館経由で書籍が行き来している。類似テーマの図書としては「大都市のひとり暮らし高齢者と社会的孤立」がある。これは入手済み。引きこもり青年の御用聞きシステム稼動はありうるのか見定める基礎仕事である。

しかし計画停電はせわしない。公共施設がいつもと違い17時終了だったり、停電による休館だったり、いっそ平塚のようにばっさり休館にしてくれた方がすっきりする。

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墓参だというのに、相模大野校から何回か電話があったらしい。ところが連絡を入れてみると担当者が帰ってしまったという話で、どうということのない話の場合が多いが、嫌な予感がしたので事務の**さんに質問してみると、その「担当者」(上司)は、明日連絡してきてもらうからいいと言っていたという。冗談ではない。明日はJR相模原の懇談の日だ。明日は予定があって無理と伝えておいて欲しいと頼み込んだ。

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今日の子どもネットワークの講演会は残念だった。ましてや墓参帰りに本を担いで帰って来るなど、慣習からすれば、罰当たりめというか、母にとっては稼ぎにならないことにいい年までうつつを抜かしている息子が嘆かわしいというか、母とは何十年もの並行線をたどっていた。

母は何を思ったか、30日、北里東病院の予約の足で、彼岸の時期をはずしてしまうが、墓苑に行くと言い出した。棺桶に片足突っ込みたいかという私の露骨な挑発に乗って、母は親戚から余計なことを言われたのがばれた。何をしてくれるわけではなし、義理で法事にくるだけの連中である。遠くにいれば、所詮傍系の血縁などこんなものなのだと母にいうが、また道端で突然しゃがみかねない母を、不便な墓苑に連れて行くはめになった。

コーヒーで雑念払いして、作業に入った。今回は最後に炭谷氏の講演会の総括文書案を書かねばと思いつつ、隣の茶の間の余震と緊急速報にかき回されながら、3時までの記憶を最後に、PCの席で眠っていた。沈没無念。

《気になったHP》
●「東北地方太平洋沖地震 被災者(障がい者・高齢者)のためのトイレマップ」


夜間傾聴:なし


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3/20 東日本大震災の社会的弱者の支援を考えて

2011-03-23 04:33:19 | 引きこもり
2011/03/20 記
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土曜日は担当の授業が無く、面談と巡回というのが今までのパターンだった。外勤定年が決まってから、切換の過渡期のように他の講師の代理授業が入ってきていた。午前中だったが、相模線が動いていない現状では中学生50分1コマの授業のために、3時間強の通勤をかける無駄を感じ、上司と話し合った。慣れてくれというなら、他の講師のクラスではなく、4月から担当する子たちと会わせて欲しいと掛け合った。結局私の担当は夜のクラスに回された。たしかにそこには、4月から担当する子がふたり混じっていた。

授業が夜になったので、昼過ぎからの**さんたちの選挙向け懇談会に間に合うようになった。障がい児者の支援活動を進める上で、++さんと組んだ**さんは貴重だ。そんなこともあって、昼間の買出しがてら(失礼)懇談会を覘くことにした。しかし計画停電の影響で、停電中はファンヒーターが効かないからと母が寝床から起きてこないこともあって、昼食を時間早めに済ませることが出来ず、結局は家を出るのが13時になってしまうのだった。

懇談会は13時からだった。結局会場に着いたのが13時半。ところが部屋の扉が閉まっており、薄暗い通路に**さんが立っていた。選挙活動が不謹慎に思われるので中止したとの話。確かに選挙は、やり難いだろうなと思うのだが、「不謹慎」はない。実は前回紹介したレベッカ ソルニット(Rebecca Solnit)の「災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか」のなかで取り上げられている「地獄の中のパラダイス」と評される被災地の相互扶助と利他的行動は、自己の社会的存在を垣間見るものだが、そこへと連なる活動は「不謹慎」という内と外を前提とする概念ではなく、地理的に離れていることとは別に、共感を呼ぶことだろう。社会活動や市民活動の成立の基盤であろう。だから障害者と災害のことを語れば、意味を持ったであろうに、惜しいことだと私は思いつつ、会場を出た。

私は夜の授業を終えて、馬鹿な話だが相模大野から、小田原を経由して茅ヶ崎に帰って来た。町田に出て横浜線で横浜に出る経路がひどくうんざりとするものだったからなのだが、この1時間半の車内で、参加したての奈良**大のMLに質問を出していた。

ひとつは街の復興のため、家族が分かれて、障がい者・傷病者・高齢者・幼児の県外避難をすべきか。

もうひとつは、被災地のホームレスにどのような支援をするべきか。

この2点を問いかけた。圧倒的に回答は前者についてであり、母親や介護役可能な年齢に達している長女などの女性が引率してまずは避難し、仮設住宅が出来る頃に現地に戻ればいいというものだった。介護は女性の仕事という根強い常識は若い娘なかでも強く、こうした被災時にはむき出しになるような印象をうけた。また県外移住の話は全くでなかった。

ところがホームレスについては、ケガをしていなければ、食事以外は手を貸す必要は無いという意見がひとり。あとは応答が無かった。大阪や福岡HL支援団体はおそらく彼らの有志をボランティアとして協力を呼びかけ、社会参加の一歩として自己有用感を育てることを提案するだろう。しかし、それは場面が違っていて、彼地震も被災し、取り残されている場合、どうすればいいのだろうかということなのだが。

このとき、被災地には観光客や外国人もいるねえという指摘が出て、結局HLの話は途切れてしまった。もう少し続けて欲しかったのに。それほどにHLは縁遠いのだった。時間を見て再び話してみようと思う。

明日は彼岸の墓参、天候が悪いし、母は朝の状態次第だ。


夜間傾聴:なし


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3/19 久しぶりの出勤/被災地の障がい者支援、HL支援

2011-03-22 05:19:48 | 引きこもり
2011/03/19 記
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さすがに相模大野に出勤せずにいるわけにもいかず、乗り継ぎ、横浜から大回りで出勤した。欠勤講師の代替を2コマやって巡回に出たが、あと2回で終了の生徒宅に行ったが、この調子だと4月初めにもつれ込みそうな状態。上司からは3月中に済ませるようにとの話だが、先方は震災の余波と割り切って、回数を最後まで行うことを求めていた。無料の訪問ではないのだから、震災だからと言って回数を減らして済ませるわけにはいかない。理事長に直訴のメールを書いた影響が出ていて、専任たちの眼差しが厳しい。授業料を返還するならまだしも、返さず回数を減らすという訳にはいかないだろう。

母のことに振り回されていたが、私の見える方の左目の調子が悪いので、巡回に危うい場面を体験していた。道路を渡るとき、右側から来た車を見逃す危険な場面に直面することが、巡回中1回起きた。首を振らなければ右側が死角になるのだ。レスキュラ点眼薬(眼圧治療・日2回)を点し忘れると、異様に目が疲れる。茅ヶ崎市の障害福祉課から視覚障害手帳を28日にもらうことになった。だから詰めて3月中に巡回を終わらせるというのは、少々しんどいところがある。慈恵医大の診察は次回がなんと9月だ。その間に薬の補充や、6月の検査があるが、つまり今の薬を続けていく以外、治療の手が無いという意味だが、その間も両眼の悪化は進行するわけで、自分のピッチで仕事をさせて欲しいのだ。

JR相模原の塾の方は、ひとり、親の実家が気仙沼の子がいて、幸い祖父母ともに避難所に入ったが、祖父が脳溢血で入院していた。その祖父の介護を祖母とヘルパーさんで預かってきたのだが、避難所生活とストレスが祖母を襲っているという話から、祖父の転院と祖母の上京を実現させるために両親とともに奔走している。その彼を支えようと支援活動が塾では公認されている。相模大野はビジネスライクだが、巡回4月割り込み許可、なんとかならないかと、上司との調整が進んでいる。震災の影響とはいえ、私個人の事情だから筋がどちらが通っているかという話ではないのだが。

話は変わるが、震災を受けたホームレスの所在について、某地方紙記者経由で現地地方紙の質問箱の優先権をもらった。てんてこ舞いの現場で、すぐには応答があるはずがない。しかし検索をかけてみても、被災地HLの状況がわかるサイトは出てこなかった。検索結果では、ただ全国ネットで義援金募集の話があっただけだった。2ちゃんねるあたりでは、ホームレスは震災のおかげで三食居室つきの生活を得て儲けかのような書き込みを見かけるが、避難所に入るには住所を明かさなければならない場面があり、身元調査が頻繁にかけられる。身元を隠すがゆえに職を得られず路上生活を余儀なくされていた者が、そんな居心地の悪い場にいることは考え難いし、たとえ集団生活に入ったとしても、ことあらば集団からの差別と排除に会うのだから、HLは、むしろ被災地脱出に動くとみるのが妥当と考える。2ちゃんねるの発言は、蔑視から予断発言しているとしか思えないのだ。もしHLの被災地脱出の動きがあれば、その行程の安全保障と健康と食の保障を支援活動に組み込まねばならない。一般被災者と異なり、被災以前の生活への復帰とは方針が立たないだろう。

もうひとつ、被災地の障がい者の心身の保障を現地ではどうしているのだろう。これもさぐっている。この件は奈良**大有志のMLに初書き込みをした。また未整理だがリンクを作ってみた。(下記)今だ手探りだが支援活動参加の道を探っている。

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母を残して相模大野まで行ってきた。幸い地元の趣味仲間からの誘いがあって、私が出かけている最中、母を茅ヶ崎に足止めしてくれた。「体調がよくないようなので家に早めに帰した」と、そっと私に連絡してくれたのだった。

やっと単3電池4本を入手。近所の生協でヨーグルトと納豆を入手。品切れ品を買えたものの嬉しくもなんともない。勝手な計画停電は、やめて欲しい。生活が外れっぱなしなのだ。「災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか」を買うことにした。「ほしがりません、勝つまでは」流の実態隠しにつながる危険な一体感ではなく、被災地に生まれるお互い様交流に希望を見出していく。残念なところは翻訳物なので、話題が日本のものではないことだ。カトリーナ台風がえぐったニューオリンズの状況は、自由の国アメリカならではのものだった。しかしそこは被災地の無法地帯と略奪が支配する世界にはならなかった。自然災害の中に潜む人為の社会格差を覆うことはできない。しかしその矛盾を越え、被災者・支援者は災害救援を媒介につながった。そこに何が育っていったのかを考えている。

…目の不調が悔しい。しかし良書は読み通したい。


《リンク集》

●「東日本大震災」支援専用ページ」((社)日本自閉症協会)
●「災害時の発達障害児・者支援について」(発達障害情報センターHP)
●「自閉症の人たちのための防災ハンドブック -支援をする方へ-」((社)日本自閉症協会作成)
●「障がい児の防災を考える一冊」(障がい児・者の家庭支援をするNPO法人 ぴーす)
●「東北関東大震災支援の絆」(リエゾン被災人)
●「被災障害者等への特別支援に関する緊急要望書」(JDF 日本障害フォーラム)
●「JDF東北関東大震災被災障害者総合支援本部の設置について」(JDF 日本障害フォーラム)
●「DPI女性障害者ネットワーク」
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●「東北関東大震災の被災者支援募金のお願い」((特非)ホームレス支援全国ネットワーク)


夜間傾聴:橋本3君(仮名・こちらから)



(校正1回目済み)
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3/18 震災対策中の父の老健を訪ねつつ

2011-03-21 14:47:53 | 引きこもり
2011/03/18 記
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母がかかり付けの近所の内科医のところに行くと言い出した。薬が切れるというが、大半はサプリメントである。ましてや木曜日ではないか。妙な話だが、こういうとき、薬局が薬の効用を書き添えた説明書を取り出して無理に説明しても、大概は意味を持たない。説明者にとっては聞く側が話を聞かないと感じてしまうが、実はその薬を入手すること自身に目的があるのではないことが多い。母の場合は昨日の様子から、自分の避難袋の薬品類が整わなかったことあたりのこだわりではないかと私は予測を付けて、間を置いてから、落着かない母に避難袋のことを質問した。残念ながら予測は外れたが、母は出かけたかったことがわかった。

茅ヶ崎駅と辻堂駅の駅前の現状を説明し、買い物は思うように品物が揃わないこと、第一、肝心の店が開いていないことを、禁止の意味ではなく情報提供の意味で母に与えた。

母は東京に用があると言い出した。じっとしていられないのはわかるが、鉄道の交通規制から東京に出るのは、藤沢からになるような状態では、慣れている者でないと大変だからと説明した。

今日は私は父の老健の様子を見に行く予定だった。一緒にいかないかと誘った。たちまち首を横にふるのだから、会いたくないのが露骨にわかる。男の価値はそんなものなのだ。東京に行くという衝動もこのひと言で一気に冷えるのだから。現状では期待薄ではあるが、平塚で店が開いていたら食事をしようと約束をして、後でメールすると言い残して、私は老健に向かった。

途中、とんでもないところからのメールが入ってきた。奈良**大の准教授をしている**さんから「義援金活動やってるけれど、参加するか」というものだった。さすがに戸惑った。有珠山噴火のときに知り合った方だった。当時、被災ということを社会科から授業案を組んでくれた。金沢からも連絡があったが、義援金活動なら地元でやった方が自由度がある。従来の知人網からの初めての応答だっただけに、辞退のメールに出すべきか躊躇していた。今回のメールは2通目のものだった。

**さんは独創的な方だ。ツイッターではなくMLを立ち上げているというので、参加させてもらうことにした。ゼミ生の方以外にも参加者がいるというので安心した。

老健に行くときは、寿司の小セットを買って持ち込むのが常だったが、茅ヶ崎駅に向かうバスの中で、メールを読んだために気がそちらに向いてしまい、寿司屋を探すのを忘れて、老健の近くを通るバス路線にうっかり乗ってしまっていた。軒並み店が閉まっている状態では、鮮魚は無理だろうと理屈をつけたが、忘れていたことに変わりは無い。

老健の隣は同系列の病院がある。珍しく外来に人影が見えていた。老健にそのまま入るのには抵抗があった。父と会話と言っても、父から話しかけるわけではないし、Yes/No でしか父は応答しないから、話が途切れてしまうのだった。話の仲立ちが寿司だったのだ。近くに店がないか探したが畑と民家の間に中小企業の工場が入り込んでいる土地柄で、店舗が近くにある様子は全く無かった。

まだ行ったことのない病院の裏手にまわると、近くに車線の広い道路があった。そこに見つけたのは、調剤薬局併設のスーパー展開している大手薬局チェーン。なるほどと思って入ってみたが、電池も食材もきれいになくなっており、ただ袋菓子が残っていた。父は煎餅が好物だった。さっそく袋に小分けされている煎餅を買い求め、老健に飛び込んだ。

老健は地震対策だろう、エントランスのソファーが隅に片付けられ、車椅子避難路が拡げられていた。非常持ち出し資材が用意されているのもわかった。事務室でケアマネさんたちと世間話をした。老健には自家発電施設があって、避難路などの照明は確保されているが、居室の照明に苦労されている話を伺った。

入所者さんたちは不安だろう。父はと聞くと明かりが消えると軍隊調になるらしく、その話に、つい吹きだしてしまった。若い頃の記憶が蘇るのだろう。指令にきちんと対応しているようだ。

認知症フロアは、照明が消えないようにしたいと思っているが実現していないという。大きな声を出したり、立ち上がろうとする方もいらしゃるが、歩けない方がほとんどなので、なんとか静穏に戻せているとのお話だった。詳細は話してくれなかったが、地震があってから、夜間の宿直体制も増員されているようだった。

認知症フロアに上って、ホールに向かうと定位置に父が見えた。向こうもわかったらしく、大きく手を振っている。実は私は別のことで驚いていた。父は半身麻痺があるので、利き手で体位のバランスを取っている。両肘付きの車椅子に座っているから大丈夫なのか、その利き手を振っていたからだった。もうひとつは、すぐに私を識別したこと。意識が鮮明である証拠だった。前には対話した20分間、私を医師と間違えていたこともあり、認知症の状態に変動があることがわかっていた。今回は意識の調子が良好なのだった。

入所者さんに不安材料を与えるのはよくないのだが、ホールのTVからは原発の情報が流れている状態だったので、三陸沖に大きな地震があって東北の太平洋側に大津波の被害があったこと、その地震が神奈川県にも伝わってきて地震騒ぎがあったのだと説明した。父は揺れたことより、電気が消えたことを連想した。父の灯火管制という言葉に連想しているものがわかったが深入りせずに、職員さんの指示に従ってくれというと、緊張した(?)面持ちでわかったと応答した。

なるほど「灯火管制」かと思いつつ、買ってきた煎餅を見せた。早速手を伸ばしたが、老健への到着時間が遅かったので、夕食を運ぶカートがホールに入り込んできた。夕食の妨げになってはと思い、部屋の隅に車椅子を移動。すぐに夕食になること。煎餅はここで食べないで、職員さんに言っておくから、あとで隣の談話室に移してもらってから食べるようにと言ったのだが、「わかった」と返事して、その場で手を伸ばして煎餅を食べようとした。他の入所者さんがいる場で食べさせるのはご法度だったので、慌てて父の椅子の向きを壁側にまわした。父は私から煎餅を奪い取ったが、内袋は片手では空かないことに気付き興奮しはじめた。「わかった」ではなかった。注意しなくてはいけないのは、適当にうなづかれると、会話が成り立っているのと勘違いすることだった。フリーソフトの人工知能という種類のプログラムでは、相手の語彙を学習しながら、「**って何」「そうだよね」というような言葉が返って来るだけの機能が、あたかも機械と対話しているかのような錯覚を起こすというものがある。それと同じことが父との会話に起こっていたのだった。

とりあえず袋が開かないということで、父の癇癪を爆発させないように、袋を開けた。たちまち父は煎餅を頬張り、ばりばりと音を立てながら食べ始めた。急いで残りの煎餅の入った袋を隠し、あとは夕食を食べてからにしようと車椅子を移動させて煎餅話を配膳の職員さんとふたりで誤魔化してしまった。

と、はるか離れた席の女性が大きな声で

「おせんべい~!」

と怒鳴ったので、私は肝を冷やして逃げ出すようにホールを出、エレベータPWを入れて開けてもらい、老健を逃げ出してきた。職員さん、すみませんでした。

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帰りのバスの中で、職員さんに確認しのこして、質問する機会を逸してしまったことが気になってしかたなかった。煎餅を問題なく食べていたので、機能的には問題が無いのかもしれないが、父の歯が異様に小さかった、つまり他人の入れ歯をしていたのではないかという疑いだった。高齢者の施設では珍しくない手違いだが、これは健康を害する。父が赤子のように唾液を垂れ流していたのも吻合が悪かったのかもしれなかった。まずかったなあと思いつつ、次回の訪問まで待つか、電話するかどうしたものかと思った。家族が時々覘いていても、こうしたことは起こりうる。厄介な問題を抱えてしまったのだと思った。

帰り道、母の弁当を買えないかと駅前をまわったが、コンビニ弁当では母は口にしない。諦めて握り飯を探したが、これもない。居酒屋の開いているところに入ったが、飯を炊いていないといわれ、間もなく閉店という。店内は店員さんと思われる方ひとりいるだけで、閑散としていた。

しかたない、家で飯を炊こうと諦めた私はボケていたのだった。20時過ぎまで計画停電で電気釜は使えないのだった。急遽煮込みうどんとなったのだが、母はいいとして、私が夜間空腹になるのだった。糖尿病対策と言っても、少々参ってしまった。


夜間傾聴:橋本2君(仮名)
     □□君(仮名)


(校正2回目済み)

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3/17 震災余波体験が高齢者の異常緊張を引き寄せている

2011-03-21 07:55:33 | 引きこもり
2011/03/17 記
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相模線が動かない。これが私の仕事にとっては足を奪われた感覚、どうしようもない。加えて計画停電のグループが、茅ヶ崎駅前、辻堂駅前と同じなのには閉口した。懐中電灯は諦めた。縁起でもないがろうそくが入手できているので、火の始末だけは厳重にして、金属パッドの中に蜀台を作った。ろうそくが無くなれば天ぷら油ランプの作り方を知っているので何とかなるのだった。

ことは足止めを喰らって、所得申告が終わってから再開しようとしていたことが、足踏み状態になることだった。加えて今までの協力網から災害救援活動の情報が入ってこないので、誰かの活動をバックアップしようと考えていた、その「誰かの活動」がわからない状態にあることだった。義援金募金活動や食材・資材の仲介活動の情報は入ってきていたが、阪神淡路大震災のときのミニFMのような少し角度の違う支援活動の情報が途絶えたと言っていい。10年経っているのだからあたりまえではあるが、北大や室蘭大などからの話は入ってくるはずだった。

しかし、私はもうひとつの変化に恐れをなしていた。母を始め80代の知人の異様な活性化だった。東日本大震災が若い頃の戦災体験を喚起しているのだろうということは想像がついた。母の場合は、身辺の整理や古いものの再収納が始まっており、「めまい」「嘔吐」という症状が押さえ込まれていることなのだ。就寝時刻が1時間遅くなり、明け方一度尿意に起きる時刻が早まった。私の夜間の仕事中、私がトイレに立つと母の部屋の明かりが点いた。つまり深く寝ていないのが読み取れたのだった。異常緊張である。横須賀方向から厚木方向に早朝飛行機が飛ぶ。そのことを私に話すのだった。

この状況で母が体調を悪化させることは、どうしても避けたかった。食事の腸への負担を軽減させる工夫を始めたが、その前に庭先で母が座り込んだ。茅ヶ崎駅のエスカレータ前でしゃがみこんで以来のことだった。母を寝室に誘導し、ポタージュをひと口含ませてから、安定剤がないのでストックしていた睡眠導入剤を飲ませた。そばにいることが音で判断できるように、洗濯物はまだ溜まっていなかったが洗濯機をかけ、冷蔵庫をさらうために、豚肉の少ない豚汁を作った。すこしブイヨンを強めれば、調整ができる。私の糖尿病対策なのだが、そんな生活音のなかで眠りを誘ったのだった。下手をすればお節介に参加してくるので、普段任せられると思っているものの範囲にとどめたのだが。

洗濯が済み、豚汁も一応仕上げて寝かせる状態にしたころ、母が眠ったのを確認して、電話線のモジュラージャックを抜いて、外出することにした。母の枕元には携帯電話があった。連絡はこれで取れるからだった。

嫌なことを思い出していた。有珠山噴火の災害救援活動をしていたころ、故祖母の部屋と私の仕事場兼寝室が隣り合っていた。既に祖母は寝床生活になっていたが、音を抑えていたがやたらに電話が飛び込んでいたのだった。祖母は二回の転倒で両足の大腿骨を骨折して歩けない状態だった。深夜の傾聴や入力作業は離れに移動していたが、電話の親機は私の寝室にあり、子機を離れにワイヤレスで移動させていた。昔からBBSを立ち上げていたので、インターネット以前のシステム機が離れで24h動いていたので、その回線を使ってFAXを利用時間を限定して兼用していた。だから親機を切ってあれば、夜間、祖母の睡眠の妨げにはならないと思っていた。

ところが親機は受信してから通話を子機に送るとき、キャッチ音をチンとひとつ音をたてた。これが火山灰配送の活動が活発になると、連絡のセンターは**さんだったが、塾屋や教員関係は問い合わせのFAXを、公開のBBS共用回線とは別の私の電話連絡先に送ってくるようになった。この深夜早朝の音が布団蒸しした親機から時々チンという音となって、祖母の耳に届いたのだった。

祖母のかかりつけの医師は、寝たきりの高齢者は、昼間寝ているので眠りが浅いのだからと言ってくれるのだが、祖母はそのころ認知症も始まっていたことも手伝って、歩けないというのに電話に出ようとして、ベッド柵をはずして降りようとして、柵を抱えて落下したのだった。救急車騒ぎだった。当時100歳、骨粗しょう症気味だったこともあって冷や汗をかいた。下側になった足の外側にあたる小指の付け根の骨折以外は、床を柔らかくしていたことが幸いして無事だったが、その時点で思い起こすと、祖母の関東大震災・東京大空襲の昔話が増えていたことがあった。異常緊張が続く生活空間は、その危険が自覚的ではない者の変調をもたらすのだ。私の早朝の離れからもどっての就寝のときに、祖母は目が覚めていたのだった。

母は寝たきりの他者依存生活ではないが、東日本大震災の影響が出ており、祖母とよく似た緊張が続いていた。余震と計画停電がその緊張を異様に高めていた。危うさに先手を打てたかと思っていた。

駅改札口の混雑をすり抜けて、バスを乗り継ぎながら閉鎖していない店舗からパンと乾電池、保存性の良い食材を買い集めたが、いわゆる駅前は使い物にならないのがわかった。かえって地元チェーンショップの方が入手できるものが多かった。容量の大きい乾電池は既に跡形も無く、飲料水もひとりあたりの販売本数制限がかかっていた。母が大事に抱えていたチョコレートも、チョコレートコーティングの菓子は残っているが、チョコレートそのものも棚から消えていた。これはむしろコンビニの方が入手できる状態だった。生鮮食品特に鮮魚と牛乳はまもなく姿を消すだろうということは、想像がついた。

そんな心理作戦のような買物を終えて家に戻ると、母は目覚めていた。やかんが過熱して湯気をたてており、慌ててガスを消した。家は真っ暗。計画停電下、母はろうそくを眺めてラジオを聴いていた。

夕食を遅くして明かりが点いてから食べようと母に勧めて、茶を飲みながら話をした。周囲の異様な光景は話すのを控えた。父の老健には明日様子を見に行くと話し、祖母の思い出から母の記憶を誘導し、話を聞いていた。私は本来聞き下手であり傾聴は苦手なのだが、不登校の子たちとの傾聴からの体験が少しは活きている様に思っている。引きこもり青年の場合はパワーの振幅が違うのだが、母の場合は、むしろ不登校の子たちとの対話に似ていた。

昔話を母はめったにしないのだが、今回は延々と続いた。同時にいつ何時でも、突然の別れがやってきてもおかしくない年齢に入っている自覚の話が出るに至って、震災余波の状況との接点が見えてきた。父を入所させ、母との生活になった現状は、いつ途絶えてもおかしくはない。ここに再び今の傾聴以上の活動の本拠地を置くわけにはいかないと知った。震災救援活動は誰かの活動への協力の形で進めることにした。しかし、この停電は過去を引き戻してしまう。生活上の不便だけではないのだ。

夜間傾聴:橋本2君(仮名)


(校正1回目済み)

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3/16 青色申告も計画停電に煽られつつ…

2011-03-20 03:40:12 | 引きこもり
2011/03/16 記
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朝から母の電話が鳴りっぱなしとなった。噂が立って母がケガをしたことになっており、そのお見舞いの電話だった。我が家の固定電話は、いたずら対策にモジュラージャックを抜いて睡眠している。かかってきたのは母の携帯電話だった。相変わらず回線状態は良くないが、固定電話からかける分には、それほど支障が出ずにつながっていたのだった。私の傾聴専用携帯は、つながりが悪い。回線業者によって状態がかなり違うように感じる。母の交友関係は、朝8時前から平然とかけてくる。昼夜逆転家庭には身に堪える。高齢者は朝が早いからだ。

おかげで助かった面もある。私は所得が複数所得なので藤沢税務署に行く。この方が話のまとまりが早いからだ。家族の分とふたつ持ち込むのだが、今回整理しておいて良かったのは、医療費控除を受けるために領収書をため込んでいたが、その領収書をすべて提出するよう求められた。数十円のものから数万円のものまで、全部を茶封筒に押し込んで提出することになった。何十年も申告をしていて初めてのことだった。

今回は異様に会場がすいていた。震災の影響だとわかった。受付順待ちも20分以下、初めてだった。質問面談申込書なる用紙を渡されて、e-Tax というPC入力で書式を仕上げる方法を勧められたが、質問箇所を指示して説明をもらうとき、職員がなかなか回ってこないので、e-Tax は控除があっても使いたくなかった。

そこでPCが使えるかという質問のところを「わからない」を選択した。これが珍事のもとになるのだが、順が来て記入台に通された私は、バッグの内袋に近距離用の眼鏡を入れていたことに気がついた。取り出そうとぐずぐずしていたら係員が来てしまった。

私の質問票を見るなり、「お父さん、名前かけるぅ?」と来た。ここで税務署員と喧嘩するのは最悪なので、「かけません」とうそぶいた。名前と住所を質問票に書き込もうとするが、濃い橙色の用紙に、明朝体で書き込まれると、遠方用のめがねでは全く見えなかった。私は弱視であり、視覚障がいの手帳申請中であるとはいえなかった。眼鏡をはずして10cmほどのところに用紙を接近させないと読めないのだった。

このなめるような姿勢で書き込みを始めると、職員が怒り始めた。若い職員には白髪の爺さんが、ボケ初めと見えたのだろう。しかし、「お父さん、名前かけるぅ?」はない。

結局私は、ほとんど仕上げた申請書を見せて、大半をチェックさせたのだが、「お父さん、名前かけるぅ?」「かけません」のやり取りに頭に来ていたのか、例年「控え」は鉛筆書きのままだったのだが、鉛筆書きだと承認印を押せないと言い出した。訂正が出るから鉛筆書きして持ってこいと指示したのが昨年までの職員の指示であったし、提出用紙はその場でボールペン書きに直して提出できるようにしてきた。それなのに、控えもボールペン書きしろというのだった。

ぷいと出て行ったまま、職員はしばらく帰ってこなかったが、茶封筒を持って戻ってきた。医療費控除を出した元の領収書、レシートを全部出せというのだった。早くしろと急かせるので、何事かと思っていると、計画停電の時間になって、提出時間切れになるというのだ。驚いた。彼が頭に来ていたのは来ていたのだが、計画停電が追い討ちをかけてきたのだった。

私は押し出されるようにして、提出会場に移り、医療関連領収書の山を詰め込んだ茶封筒とともに、書式を出した。しかし問題はまだあった。三期分を15時までに銀行窓口に出さなくては支払いが期限切れになってしまうのだった。

銀行は異様に混んでいた。そこで行きつけの信用金庫に飛び込んだら私ひとりきりだった。しかし、間もなく停電するから受付は出来ないという。15時前なのに、送金できないとは何事かと反論した。この書式はATMが使えないもので、窓口で支払ってくれといわれていた。窓口時間内なのにひとを送金不履行者にするつもりかと声を荒げると、即座に支店長から店員に処理してくださいと声がかかった。

こうして私は滑り込みで支払いできた。私がATMのところまで出ると、たちまちシャッターが閉まって電気が消え、またついた。自家発電に切り変わったのだろう。初めての経験だった。昼間だから明かりの消えた店内は、まるで休業中のような状態のところばかり。

どこまで不自由を強いるつもりなのかと思いつつ、早めに出てきてよかったのだと思ったのだった。税務署では停電に重なった申請者ともめているのが想像がついた。公共サービスすら計画停電は制限するのかと呆れてしまった。

東海道線は止まっていたし、藤沢駅前は休業だらけ。路線バスの茅ヶ崎駅行きも一時間に一本では待つ気にもなれなかった。とにかく辻堂駅行に乗って辻堂駅乗り継ぎで帰宅した。

帰宅してスケジュールを見て驚いた。テスト屋の原稿期限だった。青色申告が終わったのにと思いつつ、冷や汗を書いて本社に電話した。

担当者から「あれ?メール行かなかった?」という言葉。私が税務署で職員とジャブ・スパーリングをしている最中に届いていたそのメールには、締め切りを今月一杯に延長すると書いてあった。しかしよく読むと、一度編集部に来てくださいと有った。その場で缶詰にされて書かされるのである。月末では遅すぎるのは明白だった。

更なる校正読み直し以外は、一応済んでいた。その意味で気が楽なのだが、「震災余波、来るねえ」と言ったのがいけなかった。「震災騒動にかこつけて、まさか書いていないのではないでしょうねえ?」と嫌味。出来ているといえば、今すぐ持ってこいと言い出すに決まっていた。まだだといえば、それはそれで問題となった。

「ひと、信用しないひとは因果応報だよ」と言って電話を切った。自分でも訳わからないところが素晴らしい。

しかし、これでやっと解放である。

夜間傾聴:□□君(仮名)


(校正2回目済み)

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3/15 東日本大震災の報道に危機感を募らせつつ(3)公共に働きかける/雑感

2011-03-20 02:11:27 | 引きこもり
2011/03/15 記
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関東でも余震が続いている。12日明け方の長野で起きた地震は、三陸沖の大地震に影響を受けて起きたものらしい。東海地震の引き金にならぬことを願う。それにしても浜岡原発がこわい。使用済み燃料処分の問題もあるが、事故発生時の事態の深刻さは、化石燃料発電と比較にならないものだ。地元への利益誘導を行いつつ進められてきた自民党政権時代の後始末がまわってきている。

それにしても、今回は支援側の動きが見え難い。現地に向かうボランティアとしてではなく、背後で支える仕事もある。その動きが義援金募集活動や支援物資の収集活動以外の活動がよく見えない。

放射能漏れの関連の避難と、津波被災者の避難の話が混乱しているために、関東などの周辺部の地方自治体が、公的施設を提供する形の被災者の仮住まい作りや、医薬品調達、関連企業の協力要請、社会的弱者とその家族の優先避難の受け入れ等プロと接点を持つ諸活動がある。

同時に自治体が非常用に抱えている食糧ではなく、資材にも注目する必要がある。

仮設住宅などはいい例だ。災害が再発せずに安定してきた段階で、避難所から個々の家族の生活を支える家屋、これも今回の震災のような規模になれば、絶対数が不足する。各自治体が次にもしや自分の地域で災害が起きたときストックしておかなければならないから、提供できる数は限られていると考えるなら、危険を承知で提供すべきと考える。その資材の補充までのタイムラグは、この状況下では大きいが、輸入を含んで考えれば、コストを抱えてもやれることのひとつだろう。

医薬品にしても、緊急用の中でも即座に使うものと、時間差を確保できるものとは違うだろう。こうした操作はプロの段取りが必要になる。公共にその仕事をさせることも背後で行うべき活動のひとつだ。

すべてが個人生活とその領域の中で成しうる節約や供出に話が集約されるのは、災害の一定程度克服後、問われる企業と行政責任の眼を曇らせるものだと思う。

なしうることは、自分の所属する公共を動かすこと、所属する企業に救援協力させることも、背後で成しうる活動だと思う。

特に社会活動のなかで、プロとの接点のある活動が彼らと組んでなしうる有期限ネットワークを作って支援活動の解決力を高めていく活動は、公共を動かすことと同時に自分たちも、やれることを高めていく活動として重要だ。

より明快な目的を上げた結集をプランニングしていくのもいい。直感的な目的掲示を行うことによって、議論の余地を狭めていく。これなら協力してもいいという形の運動をネットワークの端々に立ち上げていく。これは、いわゆる物言わぬ市民層に参加の糸口を提供することにもなる。参加者の幅を広げる活動としての特性がある。

特に私の職業柄感じるのは、長期化を見通し、子どもの国内留学型学校受け入れや転校環境整備などを、自治体に対し市民が推進要請の声を上げるべきと考える。これは家族の中の高齢者・傷病者・子どもとそのケアに当たる人たちの疎開のような家族の二分などの問題を含みつつ、地元の見通しがつくまで生活する家や部屋を確保することなので、民間の貸間,貸家の条件緩和仲介を行うようなボランティアを、社会的企業風に定年退職者の中の関連企業の元プロが有期限活動で作ってもいいと思う。

ともあれ、こうした活動がツイッターなどでは語られているのだろうが、私の見聞きしている範囲からは、個人生活の範囲の支援活動に発想が閉じているのを感じるのだ。ひとは私人であると同時に公人である。その後者をも始動すべきだろう、より大きな力を引き出すために。そう思うのだ。

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藤沢に出ようと辻堂駅行のバスに乗ったときだった。母から電話がかかってきた。また冷蔵庫への体当たりをやったのだった。今回は食器を乗せた盆を持ったまま倒れたという。急いで家に戻ったが母の姿がなかった。割れた食器が大雑把に片付けられていた。地元かかりつけの医師に連絡を取ろうとしたが電話番号がわからない。携帯電話の検索も途中で止まってしまうことが繰り返されていたのでPCを立ち上げて検索し電話したが、母は行っていなかった。母の携帯電話は厨房のテーブルの上に放置されていた。

次に思いついたのが近くの徳州会病院だった。選択肢が多くは無かったので、病院に小走りで駆け込んだ。すると母が救急外来のところに座っていた。ところが様子がおかしいのだ。母に大丈夫かと問うと、そのケガは母ではなく、我が家を訪れたお稽古事の友人が倒れ、母が付き添ったのだとわかった。30代の奥さんが掌に包帯を巻いて出てきた。その年齢であるのか私にはよくわからないが、起立性症候群の持病が出たのだという。立ちくらみである。やがて50代の女性がやってきた。母親だと言う。ばかに相手が若いなと思っていたが、やっと話がつながった。娘の運転で親子で母を訪ねてきたが、母親と私の母の話を中断させないためのサービスとして、盆に使った食器を乗せて流しに戻そうとしたところで起こした事故だった。娘さんと母を乗せて、母の友人である娘さんの母親の運転で、ケガをした娘さんを乗せて徳州会病院に向かったということなのだ。

門は開いており、玄関の鍵もかかっていなかった。携帯を放置して母は連れ添ったのだ。割れた食器を大雑把に片付けるなど心の余裕を持った行動をしたにも関わらず、あちこち抜けていたのだった。15時になろうとしていた。今年こそと思って締切日ではない前日にと思って所得申告書式を揃えていた気持ちが萎えてしまった。

娘さんの右手は食器の破片が刺さったのだという。あっさり手首を握られた状態で破片を抜かれて痛かったというから、指かなと思った。動脈を切ったら面倒なことになる。そんなずさんなことはしないはずだからだ。いずれにせよ数針縫ったらしく、転倒時の勢いを感じ取っていた。これでは当分水を扱えないから、お母さん頼むわねという会話を聞いてしまった。娘さんには悪いが、大したことは無いなと思って、包帯を眺めていた。

ここまで出てきたのなら駅前で食事をという話になったが、それは店が開いていればの話だ。駅ビルは臨時休業だし、周辺も店を閉じている。立ち食いソバ屋に列が出来ている状態だから、やめようとという私の提案に意外な表情の母。それよりも乾電池がないのが問題。夕食時、闇鍋になりかねないからだった。この親子は母が困っているだろうと、惣菜を作って持ってきてくれたのだったが、私の糖尿病には禁忌のハイカロリーものばかり。事故で慌てたのだろう、冷蔵庫に詰め込んだために、扉を開けた瞬間、教室入口の引き戸に仕掛けられた黒板拭きのように、容器ごと冷蔵庫から飛び出してきた。受け止めきれず、大半は床に飛び散って、無駄になってしまったのだった。

乾電池と食材買出しで一日が終わるほど虚しいことはない。定時連絡が入る生業の方も、電話が鳴らなかった。茅ヶ崎からでは大回りしないと教室につけない事をしっていたからだろうと思っていたら、私の上司が出勤できない状態で休んでいるので、慣れない専任が仕切っていたから忘れられていたのだ。中央林間君が登校していた。問題は引きこもっている子が緊急事態に不安を募らせていることだった。早く申請を済ませて、生業の方と市民活動の合流に移りたいと思った。

茅ヶ崎養護に、就労支援の一環で、携帯電話の副次機能の効果的利用の提案書をまとめているが、これも災害が一段落つかないと出来ない。機器提供の回線業者が協力してくれる状況ではないからだ。家計は重要なことだ。だが青色申告は、早くやっつけてしまいたい手続きにすぎない。明日は邪魔されないように、とにかく午前中に出ようと決めたのだった。何をやってるのか…本当にそう思う。

夜間傾聴:中央林間君(仮名)

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3/14 電池探しと青色申告準備の一日

2011-03-19 06:04:30 | 引きこもり
2011/03/14 記
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青色申請仕上げと電池探しの一日。浜見平の母の友人親子が心配して、我が家を訪れてくれた。浜見平団地はもと葦の原だったから、水害を受けやすいと言い出した。我が家は祖父母が東京を引き上げて今の家に住み、私たちは出来たての浜見平団地に住んでいた。だから現在の団地たまやスーパーの周囲が水田でウシガエルが鳴いていた頃を知っていた。ウシガエルは、業者がゴムボートを夜の闇の中の沼地に出し、モリで突いて集めては、食用ガエルとして売った。その業者が夜間出没していたのを知っていた。豪雨に東海道線のガード下が水没し、通行止めしたにも関わらず、車がダイビングして浮き上がってしまったことや、川の水面が信じられないほど増水していたことも見てきていた。だから地盤が弱いことはその通りだと思った。津波にはひとたまりもないだろうと、首をたてに振った。しかし、私の感覚では、柳島・中島あたりの悲惨さの方がリアリティがあった。

親子は、私たちと同様、乾電池とラジオを探していた。そこで頼み込んで車に乗せてもらうことにした。私の自転車購入予定は大幅にずれ込んでいた。私の眼の視覚障がい手帳の発行が3月28日にずれ込んだことで、遮光眼鏡の購入がその後にもつれ込み、今の眼鏡のままでは危険な自転車も、購入がずれ込んでしまっていた。そんな関係でずうずうしく、買物に同行させてもらったのだった。

鶴が台から湘南ライフタウンを回り、藤沢を回って帰って来た。トマトと人参、品薄になったスパゲッティを買ってきただけ。肝心の乾電池(単1・2・3)とポータブルラジオは、新ゲーム機が販売されたときのように、30分を超える順番待ちの末、「ここが最後尾です」と書いたプラカードを持った店員(さん)が、電池は完売しましたと説明した。多くは休業。「どうしよう」と親子が聞くので、思いつきに自転車屋さん廻りを提案した。ところが乾電池は勿論、事態は自転車も売れていく状態で、ここが穴というのは甘い考えだったのだ。

我が家の前まで送ってくださった。***さん、ありがとうございました。

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青色申告の仕上げ一応終了。前日に終わったのは何年ぶりだろうか。最後の仕上げである。今回はここまで。


夜間傾聴:□□君(仮名)


(校正1回目済み)


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