2023/11/12 記
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ハッカーさん、こんばんは。
母もそうでしたが、朝、寒さに寝そびれて、路線バスで1停留所寝過ごしました。ハッカーさんは若いのでしょうね、でもこういう天候激変時は過信は禁物、ご自愛ください。
滞納金支払い督促が市役所から来まして、コンビニ支払いをしました。セルフの操作を求められましたが、千円札を縦に入れるのか横に入れるのかとか、確認ボタンが,今の私の目には見えません。画面に10cm位まで顔を近づければ見えますが。
そこで、視覚障害でATM操作ができない旨を伝えると,鼻で笑い、ここ、ここに入れてという。それが難しいのだというと、舌打ちして札をもぎ取り挿入口へ。レシートとつりは放置。レシートがわからないと伝えて、とってもらいました。
君,失礼だよ。見えないのはいけないことなのかいと、質問。黙って請求書に音を立ててスタンプを押して、私に突き出すので,受け取りを拒否しました。上司があやまり、場をおさめましたが、何に苛立っているのでしょう。彼はその粗さで危機を招きます。怒鳴られた方が気付きがはやかったかなとおもいつつ、その場をさりましたが、怖いのは自分、それに気がついてくれるかとぶつぶついいながら、歩いていました。いつか私は殺されるでしょうが、それも運命、でも違うものは違うのです。
さて書きはじめます。
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私の作っている子どもフォーラム懇談会(SCF)は、活動開始から20年を経て、会員の婆さんたちも90代二人目になりました。おめでとうと、チョコレートにハート印シールを貼って、届けてきました。最近老健通いが始まったようで、懇話会やビッグイシューのあすなろ会のベースの会ですが、活動終了近しかなと思っています。それぞれの活動は続きますがね。この方曰く、白菊もってきたら殺す所だっただそうで、私は今日、二度ころされるところでした。
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母との夕食は、麻婆豆腐、かに玉。
引きこもりラジオを聴きつつ、市民トリアージならぬ、御用聞き支援巡回時の副産物、在宅単身者の市民健康チェック 表原案をかいていました。
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子ども学会の木下真さんが11/11に映画「月」の批評をかいていらしたので、フォローさせてもらいました。以下に転載します。
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木下真さんをシェア。(2023/11/11)
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映画「月」でもテーマとして取り上げていたが、妊婦が「子どもに障害がなければいいな」と思うのは内なる優生思想なのだろうか。「無意識のうちに障害者を切り捨ててしまっているんですよ、植松と一緒です」と、短絡的な倫理でスパっと断罪できるものなのだろうか。
ここには「障害」と「障害者」という概念の混同があるのだと思う。かつて、ヘレン・ケラーは「障害は不便ではあるが、不幸ではない」と語った。障害者の人権擁護に一生を捧げたヘレン・ケラーも当事者として障害は不便だとマイナスの面があることを認めているのである。
つまり、障害にマイナスのイメージをもつことと、「障害者はあなたたちの愛すべき同胞なのです」という話は両立するのであって、矛盾などしないのである。それは「病気」と「病人」の関係と同じなのではないだろうか。
障害者の中には、さまざまな人格や個性があるのであって、障害者をその人の障害特性だけで語ることなどできない。「障害」を否定的に語ることと、「障害者」を否定的に語るのとは同じではないのだ。
「子どもに障害がなければよかった」という思いと、「障害があって生まれてきても大切に育てるつもりだ」という親の愛は、矛盾せず両立するように思うし、障害のある子どもを産んだ母親の心の中には、その両方の思いが交錯するのではないだろうか。
中には、我が子に障害があるとわかった瞬間に泣き崩れて、子どもの受け取りを拒否する母親もいると聞いたことがあるが、それを優生思想という言葉で断罪するとしたら、かなり人間観が幼稚だと言わざるを得ない。
倫理は大切だが、それ以上に人間の真実はもっと尊重されるべきだと思う。
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津久井やまゆり園の殺傷事件後の文化人の論争にとても付いていけなくなったのは、あの事件が19人が殺害された殺人事件であることを出発点とした議論がなされないからだ。みんな障害者問題として語ろうとするが、殺されたのは「障害者」ではなく、「人間」なのだ。
「内なる優生思想だの」、「施設から地域へ」なんて議論をするよりも先に、人間が19 人もまとめて殺され、26人が重軽傷を負ったことへの悲しみや憤りをまずは表すべきではないのか。その基本ができてないから、延長線上にあんな「月」なんて醜悪な映画ができるのだ。
あの映画の問題点は、まず事実に基づいていないこと。見ている人は津久井やまゆり園の実態に基づいているなんて思うかもしれないが、あれは完全なフィクションだ。誰も知らない山奥に障害者が集団で隔離などされていない。誰もが施錠された部屋に閉じ込められているなどという事実はない。秘密の部屋に重度の障害者が閉じ込められていて、糞まみれになっているなんて事実もない。職員がみんな虐待を繰り返していて、利用者をもののように扱っているなんて事実もない。すべて障害者問題をまがまがしく語るためにしつらえられた絵空事だ。
植松は現実が見えてなくて、勝手に妄想をめぐらしていたのだ。その植松の妄想の側に立ってどうするのだ。
さらに、利用者に絵本を読み聞かせようとした植松を他の職員たちが脅したなんてエピソードもないし、植松に聾者の彼女がいたなどという事実もない。
なんでそんなおぞましい印象操作をするのかと言えば、文化人たちが障害者問題について自分の見識の深さを世の中に示すためには、多少事実がゆがめられたり、誇張されてもいたしかたがないという驕りが根底にあるからではないのか。きれいごとだけを見つめるのは偽善だと言うが、おぞましく語れば真実なのか、冗談じゃない。
こういう映画を作るスタッフは、被害に遭われた家族も職員も、いまだにPTSDで苦しんでいるという想像力は働かないのだろうか。事実とかけはなれた、こんなものを実話に基づくかのように発信するなんて、ほとんどセカンドレイプだ。そんな鈍感な人間たちが、偉そうに差別だなんだなんて説教垂れるなんて…。
繰り返すが、殺されたのは「障害者」ではなく、「人間」だ。障害者問題にすり替えるのではなく、ちゃんと殺人事件として扱ってくれよ。
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(校正1回目済み)