2011/10/28 記
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震災の実状を高校生に自分の問題として気づかせていくプログラムとして、鶴嶺高校の授業と冬休みの体験学習の組み合わせを考えていた。被災地側と高校教員の方々の説得はまだ残っている。しかし、このプランを実現するために、土台を固めていく必を要があった。ひとつは高校生に良質のメッセージを届けること。これは実現しつつある。また助成金の可能性を求めていくこと。これは高校生を体験学習させていくための費用が大きい。
今回も、ある中小企業団体の東京支部の知り合いを経由して可能性を探った。昼を食べる機会を与えてもらい、その場で相談を持ちかけた。これは非被災地の団体から補助を求めること自体が難しいだろうという助言をいただいて、依頼は見事に失敗した。確かに一見これはもっとものように聞こえる。しかしそれは被災地の中小企業団体に依頼すべきという意見として受けとると、まったく違うだろう。地元の高校生ではなく、湘南の高校生である。その見返りを考えると、その資金を使ってやるべきことは山積しているのだ。高校のカリキュラムに「災害と私たち」の取り組みがやっと登場しつつある。そことの関連で、教育系の線上にスポンサーはつかないか。少なくとも一週間程度の滞在であれば、番組のドキュメントをTVに売り込むことが可能だが、実際上、予算から夜行バス2泊現地1泊がいいところだろう。本人とっては出かけたこと自身が印象深いだろうが、質の濃い体験をしてもらうには、予算の関係上、時間が足らないのだ。
品川で食事後、私は蒲田経由で、多摩川線の丸下子にある障がい者就労支援センターに立ち寄った。道すがら、本来なら災害ボランティアは引きこもり青年に体験してほしいのだ。すべての引きこもり青年にマッチするものではないが、被災地の災害コミュニティは独特の包容力がある。人生の切り替えになることも十分ありうるのだ。災害ボランティア体験は、矯正ではなく脱皮である。
それなのになぜ高校生なのか。一番無関心を装うのもハイティーンたちである。しかし私は職業柄、その背後に鋭敏な感受性が息を潜めているのを知っている。立場を得たとき、彼らは変わる。その可能性を打診する契機が与えられていると思うからだ。**子の仕事が終わったら、もう一件まわることはできまいかと思った。気仙沼に同業者の厚意で借りた酒蔵で、大船渡の復興の酒を送り出すことに成功した酔仙の取材CM作りを条件に、酒造組合から資金バックアップを得られないかという発想だった。しかしこれは、未成年と飲酒という線から、学校側から問題にされる可能性があると思った。
こんなことを考えながら、大田区の障害者就労支援センターを探すというのは、気持ちが抜けている。これはさっそくバチがあたった。今日は担当者不在というのだ。こういう機関まわりというのは、そのままでは紋切り型の応答しか得られない。しかし、近隣の特例子会社の話や、親御さんたちの尽力で生み出された小規模作業所のパンやクッキーなどのお店の話を切り出していくと、多少地域情報が出てくる。**子のようなボーダーの子の就労の話は、たとえ手帳を使ってみても、優先順位が後回しになったり、仕事そのものがもともと少なかったりしてうまくいかない。だから就労相談担当者でないと、突っ込んでも関連情報が得られないことが多いのだ。受託運営している社福に子にあうのは連絡を取ることもある。これも迷惑顔で押し返されてしまう。いつもこの繰り返し。手がかりがえられたとき、ハローワークに話を返し、すこしずつ業者さんとの話をさぐりだしていく。
**子の件は、翌週4日、予約を取って引き上げることとなった。今度は下丸子ではなく、少し歩いて、千鳥町駅から旗の台を経由して**子のお宅のある荏原町出た。
**子と会うのは十数年ぶりだ。電話や手紙などで交流していたものの、これほど年月が経っているという実感はなかなかわかなかった。ファミレスでおじいさんを交えて話すことと、なった。**子の第一声は、私をひっぱたいて「うそうそ!」を連発。ぴょんぴょん跳ねる様は、年相応に大人びた、中身は昔と変わらない**子がそこにいた。おじいさんが現れると急に萎縮してしまったが、大きな時間のハードルは、あっけなくクリアしていったのだった。
話が一通り終わったところで、**子は現在の通所しているB型の作業所を紹介してくれるという。先方の了解を得て、私は**子と路線バスに乗って作業所を見せてもらった。彼女の担当者と会うことができた。電球の袋詰め(パッキング)・品質検査の工程を見せてもらった。たしかに**子には役不足の作業だったが、福祉的就労の枠内では、身体障がいの方たちの作業しかなさそうに思えた。今度は**子には高度すぎるのだった。
**子と馬込の地下鉄駅で別れたが、宿題が残った。同時に17時をまわってしまったので、次の組織を訪問する時間ではなくなっていた。
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(連載)
20日、陸前高田の市役所を出て、路線バスの時刻はまったくはずしていたので、私は鳴石団地の仮設住宅を見ておこうと思った。大船渡のサンリアSCには小さなコインロッカーがあるが、私のバッグは入らなかった。民宿に置きに入れば戻るバスがない。結局ずるずると引きずって歩いていた。ブレザー姿で、大きなバッグを引きずっている様は、明らかに災害ボランティアには見えなかった。迷い込んだ観光客の風情だ。しかし人がいない。しばらく歩いてたまに地元の方と出会う感じだ。被災したマイヤ(スーパー)のビルの見えるところまで降りてきて、私は便意を催した。和式しかない仮設トイレに苦しんで、汗だくで市役所に戻っていると、後ろからパトカーが私を呼び止めた。
「どうしました、どちらへ?」
と問いかけられた。目立ったのだろう。怪しいおじさんである。窮地にあったので文句はいえなかった。市役所に用事があって行こうとしていたと継げると、事情を察してかパトカーで、坂の上の市役所まで送ってくれた。被災地、油断してはならないのだった。**巡査さん、感謝!
竹駒の社協に、夏日のような日差しに汗まみれになって歩いていると電話が鳴った。茅ヶ崎の市民活動サポートセンターからだった。なんだろう、まだ岩手だぞと電話に出てみると、それは昨日の東海新報の編集局長さんに相談を持ちかけた講師依頼への回答だった。
我が家の固定電話に連絡を入れたが誰もでないのでと、サポセン経由で連絡がまわってきたのだった。早速東海新報社に連絡すると、講師受諾のこと。ありがたかった。やっとひとつ、訪問の成果が得られた瞬間だった。これから訪問する社協も、紋切り型が予想されていたので、思わず頭を下げていた。
週明けに連絡を取る旨伝えて、汗に濡れた携帯を切った。
(つづく)
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夜間傾聴:橋本2君(仮名)
(校正1回目済み)
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震災の実状を高校生に自分の問題として気づかせていくプログラムとして、鶴嶺高校の授業と冬休みの体験学習の組み合わせを考えていた。被災地側と高校教員の方々の説得はまだ残っている。しかし、このプランを実現するために、土台を固めていく必を要があった。ひとつは高校生に良質のメッセージを届けること。これは実現しつつある。また助成金の可能性を求めていくこと。これは高校生を体験学習させていくための費用が大きい。
今回も、ある中小企業団体の東京支部の知り合いを経由して可能性を探った。昼を食べる機会を与えてもらい、その場で相談を持ちかけた。これは非被災地の団体から補助を求めること自体が難しいだろうという助言をいただいて、依頼は見事に失敗した。確かに一見これはもっとものように聞こえる。しかしそれは被災地の中小企業団体に依頼すべきという意見として受けとると、まったく違うだろう。地元の高校生ではなく、湘南の高校生である。その見返りを考えると、その資金を使ってやるべきことは山積しているのだ。高校のカリキュラムに「災害と私たち」の取り組みがやっと登場しつつある。そことの関連で、教育系の線上にスポンサーはつかないか。少なくとも一週間程度の滞在であれば、番組のドキュメントをTVに売り込むことが可能だが、実際上、予算から夜行バス2泊現地1泊がいいところだろう。本人とっては出かけたこと自身が印象深いだろうが、質の濃い体験をしてもらうには、予算の関係上、時間が足らないのだ。
品川で食事後、私は蒲田経由で、多摩川線の丸下子にある障がい者就労支援センターに立ち寄った。道すがら、本来なら災害ボランティアは引きこもり青年に体験してほしいのだ。すべての引きこもり青年にマッチするものではないが、被災地の災害コミュニティは独特の包容力がある。人生の切り替えになることも十分ありうるのだ。災害ボランティア体験は、矯正ではなく脱皮である。
それなのになぜ高校生なのか。一番無関心を装うのもハイティーンたちである。しかし私は職業柄、その背後に鋭敏な感受性が息を潜めているのを知っている。立場を得たとき、彼らは変わる。その可能性を打診する契機が与えられていると思うからだ。**子の仕事が終わったら、もう一件まわることはできまいかと思った。気仙沼に同業者の厚意で借りた酒蔵で、大船渡の復興の酒を送り出すことに成功した酔仙の取材CM作りを条件に、酒造組合から資金バックアップを得られないかという発想だった。しかしこれは、未成年と飲酒という線から、学校側から問題にされる可能性があると思った。
こんなことを考えながら、大田区の障害者就労支援センターを探すというのは、気持ちが抜けている。これはさっそくバチがあたった。今日は担当者不在というのだ。こういう機関まわりというのは、そのままでは紋切り型の応答しか得られない。しかし、近隣の特例子会社の話や、親御さんたちの尽力で生み出された小規模作業所のパンやクッキーなどのお店の話を切り出していくと、多少地域情報が出てくる。**子のようなボーダーの子の就労の話は、たとえ手帳を使ってみても、優先順位が後回しになったり、仕事そのものがもともと少なかったりしてうまくいかない。だから就労相談担当者でないと、突っ込んでも関連情報が得られないことが多いのだ。受託運営している社福に子にあうのは連絡を取ることもある。これも迷惑顔で押し返されてしまう。いつもこの繰り返し。手がかりがえられたとき、ハローワークに話を返し、すこしずつ業者さんとの話をさぐりだしていく。
**子の件は、翌週4日、予約を取って引き上げることとなった。今度は下丸子ではなく、少し歩いて、千鳥町駅から旗の台を経由して**子のお宅のある荏原町出た。
**子と会うのは十数年ぶりだ。電話や手紙などで交流していたものの、これほど年月が経っているという実感はなかなかわかなかった。ファミレスでおじいさんを交えて話すことと、なった。**子の第一声は、私をひっぱたいて「うそうそ!」を連発。ぴょんぴょん跳ねる様は、年相応に大人びた、中身は昔と変わらない**子がそこにいた。おじいさんが現れると急に萎縮してしまったが、大きな時間のハードルは、あっけなくクリアしていったのだった。
話が一通り終わったところで、**子は現在の通所しているB型の作業所を紹介してくれるという。先方の了解を得て、私は**子と路線バスに乗って作業所を見せてもらった。彼女の担当者と会うことができた。電球の袋詰め(パッキング)・品質検査の工程を見せてもらった。たしかに**子には役不足の作業だったが、福祉的就労の枠内では、身体障がいの方たちの作業しかなさそうに思えた。今度は**子には高度すぎるのだった。
**子と馬込の地下鉄駅で別れたが、宿題が残った。同時に17時をまわってしまったので、次の組織を訪問する時間ではなくなっていた。
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(連載)
20日、陸前高田の市役所を出て、路線バスの時刻はまったくはずしていたので、私は鳴石団地の仮設住宅を見ておこうと思った。大船渡のサンリアSCには小さなコインロッカーがあるが、私のバッグは入らなかった。民宿に置きに入れば戻るバスがない。結局ずるずると引きずって歩いていた。ブレザー姿で、大きなバッグを引きずっている様は、明らかに災害ボランティアには見えなかった。迷い込んだ観光客の風情だ。しかし人がいない。しばらく歩いてたまに地元の方と出会う感じだ。被災したマイヤ(スーパー)のビルの見えるところまで降りてきて、私は便意を催した。和式しかない仮設トイレに苦しんで、汗だくで市役所に戻っていると、後ろからパトカーが私を呼び止めた。
「どうしました、どちらへ?」
と問いかけられた。目立ったのだろう。怪しいおじさんである。窮地にあったので文句はいえなかった。市役所に用事があって行こうとしていたと継げると、事情を察してかパトカーで、坂の上の市役所まで送ってくれた。被災地、油断してはならないのだった。**巡査さん、感謝!
竹駒の社協に、夏日のような日差しに汗まみれになって歩いていると電話が鳴った。茅ヶ崎の市民活動サポートセンターからだった。なんだろう、まだ岩手だぞと電話に出てみると、それは昨日の東海新報の編集局長さんに相談を持ちかけた講師依頼への回答だった。
我が家の固定電話に連絡を入れたが誰もでないのでと、サポセン経由で連絡がまわってきたのだった。早速東海新報社に連絡すると、講師受諾のこと。ありがたかった。やっとひとつ、訪問の成果が得られた瞬間だった。これから訪問する社協も、紋切り型が予想されていたので、思わず頭を下げていた。
週明けに連絡を取る旨伝えて、汗に濡れた携帯を切った。
(つづく)
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夜間傾聴:橋本2君(仮名)
(校正1回目済み)