湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

7/2 母の短期入院と父の7/5老健入所が決まりそうで

2010-06-29 14:58:32 | 引きこもり
今日、介護担当者会議を我が家で開きます。
準備がめまぐるしくなり、ブログ更新が遅れています。
ご容赦下さい。

飛田
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父の介護関係者調整会議を前に、入所に舵をきることに

2010-06-27 11:38:50 | 引きこもり
2010/06/19 記
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埼玉県戸田市の県立戸田翔陽高校の「元不登校8人が語るシンポジウム」に参加する予定でいたが、両親が寝込んでいる状態では、さすがに出かけられない。母の心身症状は、眼の奥の違和感と時たまの引きつり状の痛み、続く浮遊感と歩行不安定化というもので、内科・眼科の地元医の範囲では原因不明というものだった。大学附属病院系の神経眼科・神経内科にそれぞれ受診したものの、眼科では眼瞼けいれんという診断、神経内科は30日に診断が出るが、ストレスによるものが大きい。それをそれぞれの専門で診断しても、統合像が得られるのだろうか。医療の穴がそこにあるように思えてならない。

以前、母は症状が出始めの頃に心療内科に通ったことがある。「短い」問診(世間話)のあとに睡眠導入剤を中心にした内服薬の山が処方され、母は日中も眠くてかなわないと、いわゆるシャブ漬けを感じて通院をやめた。

今回は眼科のボトックスに苦しめられている。眼球周囲の圧迫感と痛みが続き、注視が困難となって日中活動に支障が出ている。10日目ごろから2・3週目に効果が出始めるというので、まだ途中なのだと思いつつも、これほど辛い治療なら、数ヶ月で効果が無くなりやり直すということは、もうやりたくないと訴えている。これを予測しているのだろう、施術時に同意書を取られた。まずかったのかなと不安が募る。

母はようやく家事をこなしている状態で、介護にはまったく入れない。父は父で、極端に歩行が困難になり、ベッド下への尻餅が増えた。一旦落ちてしまうと、利き腕の力で身体を持ち上げることにこだわり、あぐら状態をし続けるために全く立てないまま、何時間も座り込んで、垂れ流し状となり、ずぶぬれの床に寝そべってしまうことがしばしば起きた。決して家族を呼ばない。これで便が出たらどうなるのかと背筋が寒くなる。

近々、父の介護関係者の調整会議が我が家で開かれる。年に1度程度の会議なのだが、特養・老健・訪問看護・訪問介護・行動介助・介護用品レンタルなどの関係者が調整を行う。ケアマネさんが、今後の大きな方向を提案し、足並みを揃えて行くのだが、今回は「父の居室を1階に下ろすこと」が問題になる。

私も母も、これは的を射ていないと思っている。以前父が元気だった頃、父は風呂場の浴槽の栓を抜いたまま湯を張ろうとして、外部機タンクが過熱。ガス会社に通報が飛んだり、ひとりで入ろうとして転倒事故を起こしたり、火を扱ってやかんを3回丸焼きにし、そのうち一回は傍の油の滲みた木箱に引火。ボヤ騒ぎを起こしたり、冷蔵庫をあさって、血糖値が上ってバランスを崩し、治療中、庭や階段下で倒れていたり、襖を突き破ったりしていた。この危険行為を避ける意味で、20畳ほどある2階の父の書斎に軟禁することになったのだが、今は自分で階段を降りるトラブルも減ってきていた。

問題はデイサービスやショートステイなど、外出時階段通過が危なくなってきたことだ。サービス提供する事業所としては、安全な1階をと主張するのは当然だが、私は父が完全寝たきり状態になるのは近いと思っているが、母の衰弱を観たとき、古い我が家の床補強から部屋改修をしてまで、引越しを行っても、介護が私ひとりになるのはすぐだと見ている。父は長期ショートステイを介護度をはみ出して繰返すか、入所待ちを拡げて確率を上げて、入所させていかないと、1階の介護も短期だろう。1階の在宅サービスで在宅入浴などを入れれば、家族は立ち会わなくてはならない。その細かい時間束縛が、家族の残りの自由をも奪っていくだろう。病気になれば3ヶ月おきの病院キャラバンと病院探しが家族にのしかかってくる。それも外泊型。となれば、なんのために1階に居室を移したのかわからないという事態が考えうるのだ。

高齢者介護はブルドーザーの運転のようなものだ。通った道は荒地と化す。父の排泄物臭の滲みた2階は改修をしてもしばらくは使い物にならない。古い家である改修せずに転居かと母と話している。1階になればその分父と隣接して過ごすことになる。全体を排泄物臭を滲みこませて生活するのは、父の安全の対価としては大きすぎるというか、柔軟性に欠いている。

介護度が4に上った現在、ショートステイ回数を増やすのではなく、長期化すれば、階段昇降の回数は抑えられる。座位横向き昇降の方法を使えば、落下の危険は大幅に抑えられる。寝たきり状態までの過渡期の対策になりうる。これは関係者の情報だが、団地5階からの転居を拒む高齢者を下ろすことや、車椅子の入れない石段の上の家から、送迎車まで移動を行っている現状があるから、我が家の階段介助も座位移動の方法を考えれば、部屋の引越しは必須条件とはいえないだろう。基本は入所。そこに舵を切るべきと判断している。

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これほど土日が邪魔と思ったことはない。入所希望先周りや、母の友人親子の応援も土日は避けてもらいたいという先方の意向に沿うと、家族は土日抜け出せないことになる。事業所の相談員さんが休みなので、事が進まないのだが、施設資料をもらいにいくことで、偶然相談員さんと会えることがある。即相談とは行かないことが多いが、次回の予約はその場で取れる。

朝、なかなか起きない父を起こして、おむつ交換。水袋のように寝そべり、寝返りや腰を持ち上げることも協力しない状態の中、力技で乗り越えた。おしめなら、横臥状態を作らせて、左右半分ずつおしめをセットしていく。ところが父の場合は紙パンツ(リハビリパンツ)なので、どうしても腰を上げなくてはならない。父を抱え込み持ち上げるが、どうしても一人では上らない。びしょ濡れの毛布を丸めて背中に押し込み、それを腰骨から下に下ろして、隙間に紙パンツを引き上げていく。破れずに尻にはまるのは尻ゆえ「うん」かと状況を茶化してみても、鼻先の悪臭は消えない。母は中腰が一番いけない。元気でも手助けをさせるわけにいかない。上げている最中に父が屁をたれて、外からぬるりと嫌な感触がした。便だった。はかせたばかりのパンツを鋏で切って、散らないように抜き取り、ゴミ袋に。問題はその次の瞬間だ。父が不快感から姿勢を変えておきようとベッドを尻でこすることだ。母に助けの大声を出し、父を押さえ込んだ。

しぶしぶ上ってくる母に、作業用シーツを尻の下に敷くように指示。上半身裸になって、父の両足の間に挟まって、両足を持ち上げ、父の腰を浮かばせていく。そのとき父は失禁し、しぶきが顔にかかってしまう。息を止めてシーツ挿入を促し、離れて一呼吸する。地獄である。

母に予備の紙パンツを持ってこさせて、ひたすら突っ張り蹴り上げる父の足を「蹴るな」と指示。一切無視する父の蹴り行動が治まるのを待って紙パンツをはかせ、背中から尻にかけて清拭。上半身の着替えをさせて、一度ベッドから下ろして立たせる算段。立たせて私が父を支えている間に、母が紙パンツを上げた。これはふたりだから出来ること。この父の状態では、介護者ひとりで立たせることは難しい。注意したにも関わらず、ベッドは便がついてしまっていた。作業用シートおむつを上にかぶせ、周囲をシーツ上、ガムテープで押さえてしまう。しかしこれも、尻の上らない父は尻を引きずって、ベッドに戻す最中に破いてしまうのだった。排泄ゴミを捨て、シャワーを浴びながら四肢と顔を念入りに洗うが、自分が医療関係者のような決意をしていなければ、状況に押しつぶされていただろう。

父の主治医は診療時間が午前中。今日は父の薬と医療用浣腸、それに入所希望申請添付資料に、診断書が独自の書式で、他の書式を認めていないところがあるために、診断書を2通申し込んでこなければならなかった。

バスが既に出ていた。時刻表を確かめ、逆方向の辻堂駅に出てJR東海道線下りで茅ヶ崎駅に戻って、バスに乗り継いだ方がわずかに早いことがわかったが、バス停前をタクシーが通ったので乗ってしまった。一瞬のバスの乗り遅れで千円違う。診断書1通数千円。しかも入所できるとは限らない。ぶつぶつ金勘定してタクシーに乗ったが、動かない。早く出してくれと言ったら、運転手さんに、何処へ行くのかと聞かれてしまった。惚けている。最悪なのだった。座りなおして気がついた。またチャックが開いていた。しかも介護用ユニフォームズボンのまま。

なんとか医院に滑り込み、薬をもらったが医療用浣腸が在庫が無いので、月曜日午後に来てくれとの話。午後は時間内に立ち寄れない。とりあえず、家に戻って出直してから家庭用浣腸を補充に買おうと思って忘れてしまった。

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母が食欲が無いから昼食を抜こうと言い出した。手抜きができるように、サツマイモや、うどん玉を用意してあった。父と二人のけんちん風うどんを作って、夏場に食うとはねと母に出す。母はふたくち食べて、ダンピングに遭った。トイレに駆け込む母。うがい用の水を差し入れ、もう一方のうどんを父の2階へ。

なんと父はTVをつけようと、TVとベッドの隙間に伝え歩きで移動していた。先ほどの寝返りも、腰をあげるのも出来なかった状態はなんだったのだ。怒りが喉元まで出ているのを、無理なため息でガス抜きして父を椅子に戻した。次の瞬間、父は急に立ち上がり小便だとポータブルトイレに移動しようと手を伸ばし、うどんの中に手を突っ込んで、熱い!とうどんを椀ごと投げ出してしまった。

父のわずかな尿のたれるのを、トイレにたつ父の横で父のふぐりを支え、身を寄せて転倒を防いでいた。換えたばかりの紙パンツはびしょぬれである。父がうどんを踏まないように、一応ベッドに上げた。こうして県立戸田翔陽高校の「元不登校8人が語るシンポジウム」参加は流されていったのだった。

うどんをつまみ上げ、新聞紙で周囲の汁を吸い取り、キッチンタオルで水分を取っていく。片付けてパックご飯で茶漬けを作って持っていくと、父は高いびきで眠って起きようとはしなかった。気持ちの限界。茶漬けを枕元に残して階段を降りた。

洗濯をしていると、母がAmazonから本が来た。経済的に苦しいときだから協力しろと軽石のような顔をしていた。(年配でなければわかるまい。)私の本は1冊が高い。数冊で1万数千円になる。しかし美術書とは違うので、売るときは二束三文となる。立替えて頭にきたらしい。一冊は松為信雄氏の関係書。もう一冊はブロンウェン エリオットらの、「家族のカウンセリング―親子・家族の強さを見つけるストレングスアプローチ」だった。実務書なのだが、母にはわからない。堪忍、堪忍と拝んで代金を支払ったが、現金が有ってよかった。銀行で下ろしてこないといけなくなった。

県立戸田翔陽高校に行く予定でいたので、相談・学習巡回は夕方からだった。今回は戸塚区の施設2ヶ所の書類をもらって、湘南台から小田急線に合流した。遠い。車ならなんという事のない場所だが、バスの本数が少ない上、タクシーも通らないから時間がかかる。クリスチャン系の施設の匂いがした。父は同じクリスチャン系新興宗教過激派である。気付くなこれはと憂鬱になる。帰ると騒ぎ出しかねなかった。寒川神社経営の老健も危ない一線だったが、同じ系列ほど語源でもある「セクト」の意地が出てしまう。愚かしいと言っても、話にはならない。

どこの認知症フロアの集合スペース(食堂など)のTVも点いていたことがない。興味も無いようだ。父もTVは見るが,観てはいない。筋書きは全く終えないし、対話番組は、やり取り自身についていけない。だからアクションものとか野球のようなその場その場のメリハリのある画像を楽しんでいるだけだ。それなのに、違う宗旨の言葉尻を気にして、怒り出したりする。親方日の丸で自分のアイデンティティを立てるほど愚かなことはない。私は私。それに選択肢を狭められるのは嫌になる。

原宿交差点に出てきて車を拾う。成果は無い。困った…。追い詰められたような気分になる。

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戸塚の駅ビルにいくと、私の好みのラーメンを買うことが出来る。チーズと安物ワインと、このラーメンを仕込んで用意しておいた大きなバッグに詰め込んだ。湘南台を経由して小田急相模原に移動した。

ところが、彼も憂鬱な一日だったらしい。お宅を訪ねると、出かけて行ったという。携帯で話して、事情が分かった。同じ道を帰る気がしないので、海老名で食事をした。

幸い父はトラブルなく寝ていたが、夜中は案の定トイレに伝え歩きをして周辺の物を蹴散らしているのだった。覚悟して部屋にいかなかった。



夜間傾聴:小田急相模原君(仮名)

(校正1回目)

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6/18 母の神経内科検査に連れ添い

2010-06-25 08:10:59 | 引きこもり
2010/06/18 記
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朝の10時からの北里東病院着となると、8時台から家を出発せねばならない。夜間傾聴は、4時前に終了しても、記録作業が約1時間弱かかる。終わらせてから仮眠を取って8時に起きるために、四肢がしびれているような感覚で目が覚める。早鐘にような鼓動。午前中の用事は堪える。

母を早めに起こして、診察券・保険証のチェック。相模大野はホームグラウンドだが小田急線がこの時間、座れないことがあるので、事前に時刻表をチェックして、相模線原当麻駅からタクシーに乗る。バスは北里大学病院行があるが本数が少なく、終点から病院間巡回マイクロバスに再度乗らないといけないので、タクシーがいい。寒川もそうだが、タクシーの田舎料金は高い。

神経内科検査があった。頚部・脊椎のレントゲン撮影のように、いくつかの基本的な検査に加えて、かなり細かい筋電図を取ったようだ。針が痛かったと母。

母の歩行は明らかに浮いている。それが眼から来るものか、耳鼻科領域のものか、内分泌系や、ストレスなどの総合判断をしないと、個々の科の検査では原因に迫るものが得られない。眼科手術の際、ボトックス治療を施した顔面の眼の周囲が眼を開けていられないほどの違和感と痛みがあるのだと、母が症状を説明する。眼科医からは、十日目あたりから効果が出てくるが、その前は炎症の痛みが続くと予告編があった。だからその範囲ではあるのだが、ともに病院まで連れ添っている最中にも、低い段差のつまづき、自転車の横切り見落とし、階段段数の読み違いなどの危うい場面が数回あった。これはかなり危険。遠出はボトックスの炎症がある間は避けたほうがいいと母を説得した。母は驚いたような眼差しに変わりつつある。落着くまで1ヶ月はみないとという話。

ともあれ、神経内科検査と言っても、長い時間はかかるまいと踏んで、病院の食堂で軽食を済ませて検査室に戻るも、母の姿はなかった。検査室が複数に分かれているので、困って受付に質問して、入室禁止の初めの検査室に問い合わせをしてもらった。母はまだ検査の途中だった。まるまる2時間。母は疲れた顔をして部屋を出てきた。これで検査結果は30日まで待たなくてはならない。

勿体無いから路線バスで帰ると主張する母の説得をしたが、言う事を聞かないので、原当麻方向に誘導したが、母はさっさと横断歩道を渡って相模大野方向のバス停に向かってしまった。あとでこれは外食をしたかったのだとわかったが、足元が不安定なまま、混雑した路線バスに立っていることが影響しまいかと気が気ではなかった。案の定、相模大野の降車場に降りた母は、階段を昇れないと立ち尽くしていた。20分のバスでさえ、ぐらぐらして歩くのが不安と母は訴える。相模大野のバス停は、橋上駅を結ぶエレベータがあるので母を誘導し、母の求めに応じて自然食の店で昼食を取った。

しかし、今日は父がショートステイから帰宅する日でもあって、14時半の父の帰宅時間が迫っていた。母を急かせるわけにも行かず、私が先に帰ったとしても、異常を訴える母をひとりにするわけににもいかず、ともあれ母を藤沢まで小田急線で移動し、母をそこからタクシーに詰め込んで帰った。父の帰宅15分前セーフだった。しかしゆとりが無い。ずれたら、階段昇降ヘルパーさんと、送迎のホーム職員さんを庭先に待たせてしまうところだった。時間に追われている感覚が鬱陶しい。

母はそのままベッドに潜り込んだ。私は受け入れ態勢を整えるため、父のベッド周りと玄関の準備をしていると、ヘルパーさんが到着した。それを追うようにホームの送迎車が到着した。父はご機嫌である。不機嫌の始末するよりは、腹立たしくてもいいかと無理やり自分を納得させ、父を引き取った。

階段上りはむちゃくちゃ。腰が抜け、左右に揺らいで危ない状態。1回座らせたが焦って立ってしまう。言い聞かせ「休もう」と、ヘルパーさんとふたりで説得。燃え上がる父に突き落とされそうになった。必死の思いで父を押し上げてベッドに寝かせた。途端に大きな屁が出て悪臭が漂ってきた。便だった。焦って作業シーツを敷いた。父はこういうときに失禁するからだった。これも危ないところだった。父は横向きになって、賢明に紙パンツを脱いでいたのだ。

尿はあふれ出し、尿取りパッドで男性器を包み、素手のまま処置。ヘルパーさんは、次の契約が待っていた。新しい紙パンツに替えたところで、汚物ゴミを持ってヘルパーさんの書類に印鑑を押すために階段を降りた。

突然、ガタガタンという音と同時に父が転倒。部屋に駆け上がってみると、紙パンツを膝まで下ろした父が、ポータブルトイレ脇にころがっていた。周囲は軟便が飛び散っていた。一瞬も気を許すことが出来ない介護戦争が再開されていた。さすがに母も異常を感じ、父の部屋に入ってきたが、父を力づくで椅子に座らせ、紙パンツ交換してから、ベッドシーツの再交換、床の清拭と父の誘導を終えて部屋を出て、洗濯済ませて、両手を消毒石鹸液で洗浄。着衣を交換、シャワーを浴びた。その間、母は父が歩き出さないように見張りをしていた。

帰宅1時間半後、近所で食材を補充し、食材を母に渡して、まるで北里に戻るように小田急相模原巡回に向かった。途中、ビッグイシュー販売のEさんと電話で調整。巡回後、北茅ヶ崎駅から歩いてサポセンへ。ジャスコで紙パンツを閉店ぎりぎりの売り場で買い求めて、紙パンツと一緒に駅に戻り、やむなしと判断してバーミャンで中華丼を3つ買い求めて、01系統に乗って帰宅した。途中、踏切りに足止めされたが、踏み切りの警戒音は鼓動のようでたまらなかった。

23時には消灯の紙パンツ交換。仮眠1時間ほどで夜間傾聴待機が始まる。午前中の用事は地獄なのである。

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24日に市の障碍者団体連絡協議会がある。そこで30分「わーく」編集部の年間予定と企画呼びかけの時間をいただいた。その際のプレゼン資料を作り始めた。独自の読み物には出来ないけれど、関連抜粋集程度にはできるだろう。夜間傾聴の待機中、その情報切り出しの作業をしていたのだが、始めるとマウスをにぎったまま眠ってしまう。母が午前3時半ごろ、トイレに起きてきたが、私は傾聴中だったという。その母を私は気付かなかった。母ではないが宙に浮いていたのだ。傾聴では無責任になりかねない事態。19日は緊急以外の傾聴は遠慮して欲しいとメールを流した。

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自作紫蘇ジュースを飲む。夜明けが早い。これから寝る。


夜間傾聴:小田急相模原君(仮名)
     橋本2君(仮名)


(校正1回目済み)


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6/17 家族にとって入所ということ・平塚の老健の入所相談から

2010-06-23 17:15:31 | 引きこもり
2010/06/17 記
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母の眼の痛みは山を越えた。父がショートステイから帰って来る日なので、このまま母が寝込んでいると、今日の予約の入所相談をキャンセルしなくてはならなかった。昨夜の眼の青あざは色が薄らいでいた。痛みは相変わらずあるようで、物を注視できないと母は訴えていた。注視するとき、目の周囲の筋肉が緊張する。それが痛みを引き出すようだ。

とにかく父の帰宅時間は中途半端なのでいけない。今回の施設は15時半、いつものところは14時半である。ここで日程が一度中断されてしまう。

今回の相談先は平塚の老健なのだが、乗換えのバスに大きく制約されてしまうので、約束の11時に着くには家を9時半過ぎに出なくてはならない。隣の平塚というのに1時間以上かかる。東海道線の到着時間とバスの時間が最悪の組み合わせで、バスが出た直後にバス停に着く。

今回の話は、父の認知症が問題になった。前回は基本確認だったが、今回は見学を踏まえて、父の状態との支援の調整が出来るかということが鍵になった。ここは認知症フロアがある。ただ男性の枠が4名と少ない。問題は入所者さん相互の関係と、職員さんとの関係がうまく組めるかというところが問題だった。

話し合いの方法に私は提案があった。相談員さんが書式に従って質問し、それに答えていくという形式は、質問の隙間が実は介護上大きな問題を孕んでいることが多いので、一度相談員さんが先に、まとめてチェックポイントと現場体験からの知っておきたい要点をざっと出してもらい、私は私で、ここに何を求めてきたのかという目的の大枠と、父のプロフィールの中で、特に問題になると予測されるところと父の事例をあげ、施設に期待するところを伝えて、質問紙問答の前にざっと摺り合わせしてみないかと提案した。相談員さんは、ちょっと戸惑っていたが、私には入所者さんの状態をみて、慎重に進む必要があるとおもっっていたので、レールに乗る前を大事にとダメ押しをした。結果、少し違う入所相談が実現した。隙間を含む情報交換なのである。

認知症の場合、生活管理をするときに、職員の指示拒否や徘徊・異食などの様々な困難の症状が出てくる。個人差があるので認知症一般とすることは出来ない。ところが高齢者施設入所者は女性が圧倒的多数なので、職員の指示拒否と言ってもワーキングメモリの異常から、すぐに指示を忘れて別行動を取るというタイプで、父のような固執があるための拒絶というタイプより多い。

父の場合は固執が強い。利き腕の力に頼った引き寄せ・持ち上げ以外の方法を全く受け付けない状態がある。その行動修正をめぐってトラブルが発生する。加えてすぐに忘れる。「車椅子に座って少し待っていてくれ」という言葉にうなづいていても、職員が背を向けたら立っていたという具合に、指示が受け流されていく。これは指示を忘れてしまうのか、場面と指示がそれぞれ理解できないのか、その辺が明瞭ではない。

さらに参考になりそうなエピソードを話してから、質問書式の質問に沿って登録を進めた。相談員の方に、施設の判定会議に参加して、今回の申請を説明するのかを確認した。この方が説明してくれれば、細かいニュアンスの部分を補填してくれるだろうという期待があったからだ。

毎回気になるのは、家族の事情の部分だ。緊急性は当事者の平穏な生活が心身ともに維持出来るかと考える本人中心主義の考え方か、本人を含む家族が生活していくうえで、破綻せずに互いがより安定したクオリティの生活を分かち合えるかという、当人との関係において介護者を含んだ家族関係基盤整備論のような発想に立つかという点だ。入所という形の選択は、同居の限界という溝を孕むがゆえに、同居の回復という道とは異なる道に踏み出している。ゆえに当事者と家族の別居を前提にした新たな関係構築という発想は、奥に潜んでしまう。別々の生活の構想が組み替えられていく。施設にとって、優先順位という選考は、当人の心身の健康だけでなく、入所しなかった場合の家族の事情が判断されていくというのは、家族関係基盤の再構成を見据えてのこととなる。

平塚の不便なところに生活拠点を移すということは、父を心理的にも遠くに置くことになりかねない。それでいいではないかという立場もある。しかし父としてではなく、施設職員・入所者との関係だけに父の人間関係の拡がりを閉ざすということは、すべきではないということだ。その一点は忘れてはならないだろう。入所依頼の申し込みの意味は押さえておきたいと思う。

相談員さんと話し終えて、この施設では徘徊性の方は認知症フロアで預かっていないのかと質問、現状では移動性の少ない女性の方が中心になっているとの話で、父は歩けなくなっていることが、こちらとの接点になっているのだと思った。来週判定会があって、順待ちの待機者登録されるかどうかが決まる。

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父のショートステイの帰宅時間に間に合わねばならず、長話の影響は本数の少ないバスの停留所待ちにもろに反映した。平塚駅に戻っての昼食はとりやめて、すでに飽きてうんざり状態にある茅ヶ崎駅の立ち食いソバ屋で、手っ取り早く食事を済ませて家に戻った。案の定、母は洗濯物を階段下に積み上げただけで、父の部屋のセット、ベッドメイクなどをしていなかった。

今のシーツは4隅にマットレスや布団の角に引っ掛ける平ゴム製の輪が縫い付けられている。これをひっかけてやると、ひとりでもシーツを敷くことができる。しかし臭い。干しておいたにもかかわらず、黄変した尿の鼻を突く匂いが寝床に蔓延している。ここに父を戻すのだと憂鬱になった。窓を開けたらお隣さんと窓越しに顔を合わせてしまった。会釈するが憂鬱顔が見えてしまったかなと気になった。

父は予定より早く帰ってきた。階段介助のヘルパーさんが着いたのとほぼ同時だった。父の足の麻痺はじわり進行しており、車椅子から立ち上がって玄関前の室内側の椅子に移るのが困難だった。これは足腰の力、腹筋の力で立ち上がるのではなく、家具につかまり手の力で胴体を引き上げる父の固執した方法の力の限界を意味していた。足で立つという意識が無い。腰を浮かせるだけなのだ。この場面で父は腕の力の限界を感じ、掌を離してしまったため、介護者3人が倒れそうになるほどの重さで、私たちに体重を任せてしまった。なんと椅子に移させ体勢の立て直しをしたが、階段昇降は危険な力技となってしまった。壁に父の体が倒れ掛かって結果的に足元が悪くなって、落下の危険性に何度も触れてしまった。ヘルパーさんと、これからは最悪のリードになると父の今後の介助の確認をした。麻痺の無い側を階段面にして、階段の壁側に向かせて座らせ、横向きに昇降する。父はスムーズに、このやり方を学んでくれないだろう。この間も、手の力で身体を引き上げようと手すりにつかまって立とうとするし、昇降の進行方向に身体を正面に向いてしまい、横になろうとしないという反発が出る。どう教えて行ったらいいか、見通しは暗い。

寝たきりになったら、1階に住まわせろとケアマネさんたちからの指示がある。しかし、移動後の父の部屋は糞尿蒸しの状態。家族のどちらかがそこに移れば、階段が父の介護の迅速な対応を阻む。となれば、住居を狭めて住むと同じことになり、父の糞尿臭は家じゅうに及ぶだろう。母は父の帰宅に寝室から出てこないほどに、拒絶のストレス症状を発している。介護と言ったとき、その視野は本人中心主義になってしまう。しかし介護者の追い詰められた心境を無視して、安全の鉈を振り回していいものだろうか。私は次の地獄が始まる前に、入所という選択をすべきと思う。このとき、順待ちの分厚い壁が転換を阻んでいる。その待機時間、私は、比較的入所が早い老健の入所を使い、特養につなぐ道を選ぼうと思っている。その段階移行の調整時間を、この横すわり階段昇降法を間に入れようと思っている。1階に父の寝室を移す案は、入所を前提にしたとき、家の改修含む大事の割りに時期は短いと思っている。とにかく確率論的ではあるが、入所先探しの巡回は拡げていかなくてはと思う。母がつぶれる前に…だ。

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父受け入れ後の巡回>サポセン立ち寄り後、南林間へ


夜間傾聴:□□君(仮名)



(校正1回目済み)
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6/16 神経眼科の手術が終わり/あすなろ会総会決まる/明日からの予定

2010-06-22 05:57:10 | 引きこもり
2010/06/16 記
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父は3泊4日で老健にショートステイしている。その2日目、父がリハビリを受けることを拒否していて、このままでは困るから来てくれと老健からの電話で言われて、何とか拒否して電話を切った。母の手術の翌日というのに、父の様子見に老健に出かけていったら、ショートステイを頼んだ意味が無いからだった。

母の手術は無事終わった。眼科の日帰り手術は呆気ないものだった。美容整形ではポピュラーな治療のボトックスというリフトアップ治療を行った。美容整形と違うところは、効果を治療に転用するところにある。眼瞼痙攣の対症療法だ。ボツリヌス菌の毒素を抽出し、筋弛緩剤として眼の周囲にその希釈液を注射する。効果は10日から数週間後効果が出てくるという。しかしその効果も数ヶ月で消えていくので、リフトアップの対症療法効果を見極めて、リフトアップ形成手術へと持って行く。

さらに母には、瞼裏の油脂の結腫があり、眼の違和感にまで影響の出たものを取り去る手術をした。昨日は雑菌感染保護の眼帯をしていたが、化膿止めの点眼薬を点すだけで、眼帯も今日は取れてしまった。手術そのものは呆気なかったのだが、母は帰りの途中、眼が刺されるように痛いと、あちこちで立ち止まり、それでも何とか予約していた中華街で遅まきの昼食を取って家に戻っていた。

夜間が問題だった。母はベッド上をごろごろと身の置き所が無いように転がっては、冷えた濡れタオルを要求した。このタオルから感染してはいけないので、ラップ巻きのタオルを当てさせた。結局は母は一晩眠れなかった。ここに父がいたらどうなっていただろうと考えると背筋が寒くなった。

朝、母に顔を見て驚いた。眼の周りがあちこちで内出血を起こして青くなっていた。このことは、「アレルギー体質の人や、血管がもろい人などに出るが、数日で治るから大丈夫」と事前に知らされていたので慌てはしなかったが、父を普段より一日長い3泊4日にしたのは正解だったと思う。

痛みのために母は食欲を無くしていた。母は「食べなくても死なない」説を唱え始めた。これが始まると言う事を聞かなくなる。すでに体重を15kg減らし、身長を5cm強縮めているというのに。胃切除すれば食欲も落ちる、だからそういうことをいうのだろうと判断し、作戦を立て、昼は「素麺」、夜は母のいきつけの二ッ谷で和定食を食べさせた。母の顔は涙袋が膨れ上がり、暴行を受けたかのような表情だった。外出を嫌がるのも無理ないのだが。

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今日は、以前入所希望申請を出したところに、介護度が3から4になったため、介護度認定書のコピーを提出せよとした施設2箇所を回り、窮状を訴えてきた。父のいない貴重な明日は、生業の巡回の複数の予定を組んでいる。途中、一箇所平塚の老健にも向かう。父のショートステイ最終日18日が、北里東病院で神経内科の検査を受けるから、この日の巡回はつぶれてしまうからだ。

母の浮遊したような足元、目の奥の激しい痛み、極端な肩こりは、この引き伸ばされた検査期間、無神経に放置されたままだ。一切の家事炊事は私が行うことになっている。時間との戦いの様相を帯びてきた。ガス抜きが持続の鍵。どうやって?手がかりと可能性は低いがまずは仮眠に限るのだ。胃が痛い。まずいなと思いつつ。


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湘南あすなろ会の定例会があった。代表がTさんからEさんに移る。ビッグイシューの販売IDカードとゼッケンなどを回収し、Tさんが抱えているバックナンバー10冊を買い戻した。会の総会をやるという。代表が代わり、会則について、正会員のきちんとした定義のしなおしがあるから、総会は秋口にまわさずに7月にやることになった。7月、夏期講習が始まる。6月30日が母の神経内科の診断が出る。治療となれば、7月上旬が動けなくなる。7月下旬は夏期講習。決算が間に合うか、胃が痛くなる。総会は7月8日と決まった。

7/15の就労支援の上映懇談会のチラシが出来る。配布準備完了。

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明日は11時から平塚奥地の入所相談から始まる。朝のゴミ出しが睡眠時間を分断していく。仮眠3時間。ここ数日、日程をかき回されている。まずい。もう夜が明けている。今回はここまで。


夜間傾聴:□□君(仮名)


(校正2回目済み)

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6/15 神奈川全県パトロール会議から/母の眼科手術当日、父は尻餅禅問答をしていた

2010-06-22 04:18:57 | 引きこもり
2010/06/15 記
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野宿者支援関係者の神奈川・全県パトロール会議が6/13茅ヶ崎カトリック教会を会場に行われて、湘南あすなろ会から、当事者Tさんと私、会員だが「きずな」としてのMさんが参加した。

長い活動の歴史を持っている団体が作り出してきた活動なので、スタイルが決まっている印象を受けた。話は日常活動報告である。大きなところでは、寿連絡会や寿日労の横浜・寿町の関連団体が参加している。

各地域の状況報告が語られたが、非公開の部分も見分けがつかないので書くことが出来ないが、パトロールは、地域の野宿者の実態把握と生活支援(炊き出し・生活保護・住環境仲介・健康管理等)を行うのだが、その巡回報告が既にわかっている方たちの近況報告になっていて、防砂林などの野宿者の定住性の高さを感じさせられた。ブルーシート・ホームの分布と件数は、もう十数年前になるが、自然観察会の関係で林にのぞきに入ったときに見つけたホーム数と先日防砂林パトロールにお邪魔したときの印象は、ずれが少ないのに、茅ヶ崎・藤沢、百のカウントは意外な密度と感じさせられた。

寿町のイベントで、

●交流学習会「私の出会った寿の子どもたち」
  講師:のりたまさん
 7月19日(月・休)14時~ 寿生活館4F

が紹介された。しかし全般は、日常活動の状況確認が大半のために、大都市部で起きている野宿者層の変化、従来の中高年層に、若年層がインターネットカフェ住民と重なる形で非定住通過型難民が登場していることへの関心は薄かった。

むしろ生死に関わる問題、生活保護をもらって住む家が決まった高齢野宿者がパトロールの目から抜け落ちて孤独死したり、精神障がいを発症したりする孤立化をどうしたらいいのかという問題が、繰り返し報告の端々に話されていた。

基本情報カードのたたき台は19時近くになって、カレーライスの炊き出しが出たが、おいしさよりもまずその量の多さにおどろいた。糖尿病なので事前にライスの量を減らしてもらうべきだった。配膳係の方に謝って、残った皿を返した。私が声をかけたとき、おかわりは沢山あるよと先に話されたのには、ショックが。カレーだけ、美味しくいただいた。

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母の手術の日、父は老健に3泊4日のショートステイすることになっていた。5時ごろ、父がベッドから尻餅をつくように落下した。父はベッド下であぐらをかいて座り込んでいた。このあぐらの状態から片手の腕の力で家具にしがみつき、身体を家具の重さに頼って引き上げようとする。腕力のある間はこの方法で、家具を引き倒したり、椅子を巴投げしたりした。ベッド柵にしがみつき、力尽きて仰向けにひっくり返り、椅子に頭をぶつけて擦り傷を作ったりしていた。力ずくで何とか起き上がることもあった。ところが寝たきりの生活が腕の力も萎えさせた。あぐらを崩さず、片手で前に引き上げることにこだわる限り、その方法は脚の力の応援を使わないから立てないのだ。

ベッドから座位に移るとき、横臥姿勢から身体を螺旋状にねじって座位に持っていく。この身体をねじり開店しながら姿勢を変える方法がある。この動きを生理的曲線と呼ぶのだが、身体をより楽に立たせる方法も、この生理的曲線に身体を移していく。身体を起こすとき、両手を片側の体側に寄せ、両手で床を突くと、身体は上半身をねじった状態となり、そのねじれを腰から尻、そして下半身に追わせて、立てひざに持ち込む。これが起き上がりの鍵になる。幼児の立ち上がり方を真似するといい。

この立ち上がり方を私がやって見せ、一緒にやろうと促しても、あぐらの姿勢からぴくりとも変更しない。やがて周辺のティッシュペーパーの箱をサイドテーブルの棚に入れ直ししたりと、立ち上がり場面の忌避行動が出始めてしまう。

父は箱型歩行器も身体をその中に入れない。そして遠くから歩行器の前のバーにつかまろうとし、折りたたみ部分なので危ないと直されては、誘導者の手を払いのけて自分のやり方を通し、放置すれば歩行器の外側から片手で杖のように歩行器を使おうとして投げ出してしまう。そして転倒。

この自分のやり方への固執は、説明がわからないのかとも思ったが、どうやら説明自身を拒否しているように思う。手の位置を変えようと触ると、猛烈な勢いで払いのけられる。この固執が介護を徹底的に困難なものにしている。

今朝、父は立ち上がるまでに1時間半かかった。つまり尿が漏れ出し、床に流れ、どうしようもなくなって、尿を避けようと横臥したことから、生理的曲線を追うように、立ち膝に誘導し、尻が上り、また従来の腕の力で立つことができた。やり方を決して変えない。腕で家具に頼って身を引き上げるのだ。

8時には食事にしないと、間に合わない。父は1時間半の睡眠で朝食となり、不機嫌丸出しの状態で、階段を降りるのを腰砕けて、階段の壁に体当たりしながら、落下寸前の危険な姿勢で、9時ホームの車椅子に乗って出て行った。

父はベッドから落ちると立てなくなっていた。あぐらをかいて、私が発見するのを待っているのだった。一日何回も父は尻餅をつくようになっていた。その都度1時間は父に付き合わなくてはならない。持ち上げれば、水袋のように身体を介助者に「身を任せ」てしまう。73kgの尿まみれの赤ん坊を思えばいい。必ず介助者は腰をやられてしまう。尿だらけにされてしまう。

だからポータブルトイレにこだわりベッド下に落ちる父の行動が、一日数回あれば数時間父と禅問答を演じさせられる。あらゆる予定を中断して、この禅問答を演じさせられるとしたら、家事とともに家に束縛されてしまう。

この騒ぎを堪えて傍らで見ていた母は、嗚咽と思いきや、胃切除後遺症のダンピング、逆流嘔吐を始めてしまった。母にはトイレに移動し自分で処理してくれと頼んだ。そんな母を父はぼんやりした目でながめ、あぐらを崩さないのだ。

床に寝かせるかと母と話していた冗談が、現実味を帯びてきた。

私の夜間傾聴も、父がもし、5時前に落ちたとしたら、続けていけなくなる。尻餅のために際どい傾聴も中断を余儀なくされるのだろうか。二年前には死が傍らに寄り添っていた青年がいた。判断を間違うこともありえよう。思い憂鬱の中、母は眼科手術当日を迎えていた。

夜間傾聴:中央林間君(仮名)


(校正1回目済み)

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6/14 父の帰宅と急を要する入所希望申請巡回/7/15 就労支援上映懇談会の狙いとは

2010-06-19 12:16:45 | 引きこもり
2010/06/14 記
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母の診察を受けに行く回数が増えるにつれ、父のショートステイの日数が増え、父に疲れが出始めたため、今日のデイサービスは休むことになった。明日からのショートステイ。その前日には訪問看護を入れて、ホーム滞在時の慢性便秘トラブルに備えて浣腸をしてもらうのだが、これも取りやめた。

入所希望申請巡回に添える診断書のオリジナルを使ってしまったので、主治医に再発行を頼んでいた。母は翌日眼科の日帰り手術があって、朝、父をショートステイに送り出して、その後私も母に付き添って横浜に出かけることになっていた。母は足元がふらついているところに視界が危なくなるから、手術自身は美容整形では普段行われている処置と、片目の涙腺と瞼の切開の手術が行われ、眼科手術としては重症のものではないが、歩くときの事故が考えられた。事実、前回は母は転んで擦り傷を作っていた。

そのような状況と併行して、父の入所希望申請巡回は進めなければならなかった。私の右眼は、網膜色素変性症のため、すでに汚れたガラス窓のような視界となっているので、親子揃って片目で父を介護することになる。遠近感の失敗が起きるだろうが、敗戦兵のような重荷を抱える介護は長続きしないだろう。共倒れしかねない不安が忍び寄っている。

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今日の仕事の方は近場のみとした。今日は臨時にデイサービスを休みにしたために、連携のトラブルが起きそうだったからだ。今朝は父の主治医の診断書の取り直し分を受け取ることから始まった。

その脚で、私は小田急相模原に出かけた。帰りに厚木駅の近くのホームに向かうことにした。ここは有料老人ホームだが、資料をもらい状態を見ておきたかった。可能性は低いので、今回はとりあえず有料老人ホームはここだけ見ておけばいいだろうと思ったからだ。

母に電話を入れてトラブルが起きていないようなので、準備していた湘南あすなろ会の6月分の便りを持って、茅ヶ崎市議会事務局へ。偶然その場で某議員の秘書の**さんと出会い立ち話。行政課との懇談会をどう拡げて行きたいのかという積極的な質問に答えたが、保守系の議員さんは、理念的な話では腰があがらない。茅ヶ崎の現状の転換に踏み込まないと自分の側に積極的なビジョンを持っていないから、しっかりと答えるには立ち話では限界があった。企画があるときに事務所にお邪魔するので、話を聞いて欲しいと私は先方に伝え承諾を得た。

茅ヶ崎サポセンに行って、7/15ボーダの方の企業就労に焦点を置いた上映懇談会のチラシ印刷やら、湘南あすなろ会の街中巡回時に、新顔をビッグイシュー販売を誘うメッセージ名刺を作った。試作品である。県青少年センター引きこもり支援関連団体向き夏期指導者研修ポスターを遅ればせながら掲示してもらった。

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今日は急遽父のデイサービスを中止したので、連絡の行き違いトラブルが既に起きていた。階段介助のヘルパーさんが午前中、間違って来ており、午後父の留守中に父の部屋周りを整えてくれるヘルパーさんが、私の留守中に来ていた。父がいるのでベッド周りを中心にやってもらったらしい。家に戻ったとき、このヘルパーさんに虚しい思いをさせていたことがわかった。父をベッドから、椅子に移してベッドメイクをし、父をベッドに戻してすぐに、父はベッドを目の前でびしょ濡れにしてしまった。事情が分からないヘルパーさんは、再び紙パンツ交換からベッドメイクまでやり直し、時間切れになったが、母におむつをさせなければ無理と説得して帰ったと言う。母は仕事中そばにいれば、父のしょうもない失禁騒ぎは回避できたかもしれない。しかし、女は損だと母は言う。そのような仕事の最中に何もせずにいるわけにいかず、手伝えば何のためにヘルパーさんを頼んだのか意味が無くなるというのだ。

夕食の食材の下ごしらえをして、私は7/15の上映懇談会の打ち合わせ日程の調整で、サンシティひらつかに電話をいれた。DVDが借りられるのは2週間。7/2 ~16の契約になっている。この間に事前打ち合わせの日程をあわせなくてはならなかった。ところが7月1~4日は、平塚七夕。この間は様々なことが起きるので避けることになり、日程は狭められた。母が6/30に神経内科の診断を受けるとき、手術の可能性が語られていた。とすると、7月上旬は手術日と重なる可能性がある。巡回を夜にしておかないと、両親を捌(さば)ききれなくなるだろう。また講師の勝田さんを呼び出して設定したとき、私がその場に参加できなくなる最悪の事態のとき迷惑をかけてしまうので、サンシティひらつかにお邪魔する設定にしていた。ところが打ち合わせ時間の設定が、昼間は勤務中であったり、片や専業主婦で夕方から夜は、家族の食事があるので避けたいという時間のずれがあり、結局昼間にサンシティひらつかにお邪魔する設定にさせてもらった。

ここでは事前打ち合わせが大事な意味を持っていた。この企画の狙いは、障がい者手帳を持たないが、軽度の障がい、あるいは事情を持つために就労が難しい、いわばボーダーラインにいる層の方への就労支援をどう行うか、そこを制度的または技能的にどうサポートしていくのかという手がかり企画。

今までは軽度発達障がい者支援の関係では、いかに得意な分野を発見し、職業にあてはめていくかという視点の企画が多かった。ところがこれは、当人の意欲を適所にはめ込むことで抑圧を解放するという発想が根拠にあった。観察とはめ込みというひとの意志の根拠を機械的に把握する「医療モデル」に基づいている。ところがひとは、仕事の協業、ひとの共鳴によって意欲が生まれていくという居場所と出番の論理がかけ落ちていた。これには原理的なモデルの欠陥に基づく結果という側面よりも、発達障がいの方の持つ対人関係の困難から、仕事を彼の分だけ切り取ってくるという取り出し方が影を投げていた。身体障がい領域の就労支援とは様相が違っていたという経過がある。

ところが近年、自閉症のカナータイプ(知的遅れを伴うタイプ)の方ではなく、高機能型の方の層が自閉症スペクトラムの考え方から、就学前検診で発見されなかった方まで連続的に拡がるに至り、この層の方への就労支援の形が必要とされてきたという社会的背景がある。そこで問い直しが始まっており、私たちの企画も、それらのひとたちの障がい者手帳の有無、知的・精神・発達・社会的困難(引きこもり・貧困等)の領域の垣根、ここを取り去る支援ネットワークと連携スタイルが共通の課題を媒介して生み出される必要が出てきているのだ。

ここの連携の大きな鍵が「地域」であり「社会参加的就労」だ。当事者の連携によるチーム就労、就労単位を個人からチームへと転換していく就労形態をデザインしていく、その手がかりをつかんでいく企画なのだ。

今回は徹底して個人技能と企業就労のテクニカルな話とその限界を浮かび上がらせたい。また、このボーダーの方は、スペアちがさきのように、学齢期の親御さんのネットワークはあるが、青少年期の就労を見据えたネットワーキングはまだ始まったばかりだ。ここを連続する別領域の活動を連携させることを見据えた活動へと視点をシフトしていくことを狙っている。就労は協業という社会的なものであり、企業就労にせよ、地域起業にせよその原点的な組み換えが行われない限り、賃労働の矛盾、労働目的を賃金にすり替える、その抑圧の根拠を越えていくことが出来ないだろう。青少年の労働意欲の減退や、極としての引きこもりの課題などは、時代の追い風の無くなった不況の時代、際立ち問われているテーマなのだ。

連続企画のひとつであるが、このボーダラインの方々を浮かび上がらせ、結集の契機にしていく企画にしていきたいと考えている。手枷(かせ)足枷のなかで、どう話を拡げていったらいいか、ポスターを作りながら、悩ましいところなのだ。

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父はショートステイ時の日課が朝型なので、我が家の夜型と時間差があるため、帰宅後の夜は最終のおしめ交換の前に熟睡しているので、一度起こすことになる。そのときの不機嫌な顔は、なんともいえぬ澱のような不快なものが心に残る。何とか一日が終わったと、湿った紙パンツをゴミ袋に入れて階段を降りてくるその背後で、父のベッドを降りる音が虚しさをかきたてる。取り替えたばかりの紙パンツはすでに濡れ、掃除したポートブルトイレ周りは、漏らした尿で再びびしょびしょになるのだ。転倒の危険もあるので、階段下に荷物を置いて部屋に駆け上がっていくと、パジャマズボン、尿びたしの父が動かぬ足のまま、前傾してベッド柵に手を伸ばしていた。床はびしょ濡れ、元の木阿弥である。母を蝕んだのもこの虚しさ。協力のかけらも見せない父の勝手な行動である。知力の衰えからだけでは説明の付かない家事介護への侮蔑と無理解は、健康なときからだった。目の前で箸を折り茶碗を落とすような憎しみを家族にぶつけてきた父である。介護はそれを超えていかなくては続かない。その傷口がときに浮かんでは消える、ひととしてという立場に立たざるを得ない矛盾、家族・父にという立場に立てない矛盾は我が家にある。福祉労働者の営業スマイルが張り付いてくる矛盾のなかに、介護の論拠の真偽が常に問われている。

ストレスをかわす基本は「仮眠」。夜間傾聴が始まる前の1時間半ほど、眼鏡をはずして目を閉じた。


夜間傾聴:中央林間君(仮名)


(校正1回目済み)

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6/12母の頭部MRI画像を受け取り・藤沢の特養まわり他/6/13 野宿者懇談会ネット作り会議他

2010-06-17 09:21:06 | 引きこもり
2010/06/12 記
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稲城長沼でIPSリカバリーの会合が行われた。今回は仕事の巡回の方と時間の折り合いがつかないので参加できなかった。母がMRI頭部検査を受けた某病院に、データを請求。眼科からの依頼の画像だが、北里東病院の神経内科で使うと告げたところ、データは既に依頼眼科に渡しているとの話だったが、本人ならすぐにデータを出してくれることがわかった。今度は個人の眼科クリニックに連絡をいれたところ、診療が午前中までに取りに来るようにとの話。早速取りに行った。データが書き写しなどの手間がかかるもの以外、すぐに提供してくれることがわかった。しかし昔どおりのXレイフィルムの大きさの画像を提供されると、なんともかさばって始末に困った。データをデジタル化すればUSBメモリで移動できるのに、案外保守的なのだった。コピーの問題なのかもしれない。

今日は家中の清掃を頼んだヘルパーさんが来る。二月に一度ぐらいのペースで、動物園というか物置きと化した私の部屋を除いて、掃除してくれるのだが、この方が母の近隣外出の間を支えてくれることになって、私は眼科からもらってきた画像をコインロッカーに入れて、橋本に向かった。

相模線社中だと言うのに、母からの携帯連絡が2回入った。ひとつは、回った事業所のひとつから、提出資料の記入欄の不足の連絡で、今日は相談員がいるので来て欲しいというものだった。橋本から小田急相模原にもう一件巡回が控えてくるが、先方特養が折れないので、やむをえず仕事の巡回のふたりめの時間帯を夜に変更してもらい、藤沢の特養に向かった。なんのことはない、介護度区分変更があったので、介護保険証の写しを出してくれというものだった。高齢者介護の施設は大概が不便なところにある。ところが職員は車で移動感覚で話をしてくるので、訪問時間が予定を壊してしまう。べつのホームでは、電話連絡だけでいいというところもある。だから矛盾を強く感じるのだ。急ならFAXで事が済むはずだ。

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ここは引きこもり青年家族と受診に連れ添った某精神科病院のそばにあった。話は数分。資料を手渡してそれでおわりだったが、藤沢駅まで往復1時間以上かかる不便なところだ。

中途半端に空いた時間、段取り悪く「HL便り」を持ってこなかったが藤沢市議会事務局に立ち寄り、ある議員ふたりに引きこもり関連の資料投函をした。相模大野の本校に久々に立ち寄り、事務作業。講師の格好をしていないので、なんとも居心地が悪かったが、時間調整をして小田急相模原で学習カウンセリング。高卒資格認定試験は通過しているが、狙う大学のレベルにキャッチアップしていくには、通学がやはり必要だった。授業が明らかに年齢が高いこともあって敷居が高く、出席への促しをしていく。無理強いは失敗の元なので、できるだけリアルに学習の必要性を事例を出して説明していくのだが、当人はやはり険しい表情が浮かんでくる。独学は無理なレベルアップなのだ。

なぜか相模大野に戻る気がしなかった。あらゆる事が順調に運んでいない虚しさを処理しなくてはならなかったから、相模線の方が相性にあったのだった。閉店間際のイトーヨーカ堂で食材を駆け足で買い込み帰宅し、家事介護のルーチンワークをこなした。冷蔵庫の中でニンジンが干からびていた。補充なんてしるかとゴミ箱に捨てたが、意味の無いことをしてみたくなるのは、心が追い詰められている証拠だった。1時間半仮眠を取った。

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2010/06/13 記
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父の着替えを済ませて気がついた。表情が左右アンバランスに見えた。半身麻痺が進行したかと思ったからだった。「たばこ なまこ」を語らせようと仕向けるが、だんまりを決め込んで父は何も語らない。口の動きをチェックしたかったのだが、家族が関わるという場面では、感情的なものが強く影響して働きかけがうまく通らない。

パジャマズボンを履きかえると言って、立たせ、両手をまっすぐ前方に伸ばさせ手を離した。これは以前から悪い方の腕が下がっていくが、そのときの掌が親指が中指と薬指の間に強く押し込まれているのが見えた。つっている。腕をとって観察したが、やはり親指だけ力が入っていた。

父の半身麻痺は、やはり進行していた。ただ着替えのとき、掌をすぼめて上着を通すとき、指をすぼめることが指示しても出来ないまま、だらりと開いたままだから、今回の親指の力は異常だった。このまま指が固まってしまう前兆ではないかと思った。

ベッドサイドの椅子に座らせてから、水の入ったペットボトルを持たせて飲み薬を飲ませた。ペットボトルは床に落ちてしまい、握ることは出来なかった。私はペットボトルのキャップをはずすという左右連携の運動をみようとしたが、すでにそれ以前の状態で、他者がキャップを開けて渡さなければ水が飲めない状態に交代していた。父の片麻痺は手足ともにここ数日のうちに進行していた。

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父の食事状態を改善するために、食器を並べる滑り止めマットを買っていたので、昼食にそれを敷いて食事をさせた。父にはその機能を説明し食事をさせた。ところがラーメン丼が乗ったシートを一生懸命ひっぱり、私を慌てさせた。ラーメン丼の位置を引き寄せようとしていたのだった。丼を持つには片手では重い。だからシートを引っ張った。

思わぬ展開に頭が痛くなった。確かに位置を変えようとするには、ありうる行動だからだ。しかし抵抗の大きなシートは、テーブル面に張り付いている。それを無理やり引き寄せれば、丼がひっくり返ったり、シートが破れてしまう。父はそれをしてしまうだろう。食器が複数載れば、ぶつかって割れることもおきる。

ここしばらくは、食べやすそうな位置に食器を配置し、移動は片手で持てるもののみにし持ち上げさせ、シートの抵抗を利用して食べる方法を伝える必要がある。この「父に教える」ということは、至難の業だ。しかも必ず食事中、尿意にポータブルトイレに立ち上がる癖があるので、その直前直後は、何を言っても無視される。シートを使うか、応援団(ヘルパーさんたち)と相談するか、私は後者を選ぶことにした。彼女たちは仕事の性格上指示待ちだが、経験者だからそれを引き出したほうが安全だからだ。

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とにかく昼食を取らせたあとは、自分の昼食を食べている時間がなかった。今日は紙パンツと尿取りパッドと買い物を一度に詰め込めるコインロッカーがないので、早い時間買い物が出来なくなる紙パンツと尿取りパッドを先に買い、ロッカーに入れた後、活動と巡回、帰ってから遅い夕食を食べさせる段取りにした。母に米と洗濯を頼んで、家を出た。

私は失敗していた。オンライン口座を持っていないので、休日はATM入金できない(翌営業日決済)のだ。この混乱は月曜日に起きる。憂鬱な顔をしてバスを待っていると、隣で私の肩をつつく女性がいた。近所の*さんだった。挨拶をして場を取り繕ったが、時々こういう無視を私は行ってしまう。路上ですれ違うときもかなりの近くになるまで、体型や服装情報が普段と異なる方は誰だかわからない。網膜色素変性症の雲が視界中央にかかり、眼鏡の度が合わなくなっていることが大きいのだが、私は昆虫類とか、政党ポスターとか、人の関心の無いところを眺めていることも多く、それが目をそらしていると勘違いされることも多い。波長がちがうのだ。話は近所の新しく工事している家の噂。小さな敷地にぎっちりと詰め込んだ家屋が出来てきている。天候の次に無難な話題だった。

辻堂・平塚の図書館の書籍更新を済ませ、紙パンツ類を買ってロッカーにつめ込んだあと、海老名で巡回。駅前でレポートメール作成を済ませて、北茅ヶ崎からサポセンへ。この後の野宿者全県パトロール会議前の5/18懇談会会議が16時からあり、Оさんが配布チラシを作ってくれたので、それを受け取りタクシーで茅ヶ崎カトリック教会へ。馬鹿な話なのだが、買い物を終了後買って帰るのに、辻堂のロッカーにおむつ関連をいれているので、辻堂に迂回する必要があった。

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16時開始のプレ会合は、初めから寿のTさんの到着遅刻メールから始まった。藤沢きずな、茅ヶ崎HL支援の会等地元関係者が16時にはだれも集まらない状態で、始まったのが16時20分過ぎ。17時からは全県パトロール会議が始まってしまうので、内実のある話は出来なかった。

この7/15の生活就労支援ネットの芽は、それ自身、何十年とやってきた活動の歴史のある団体にとって特別な魅力のある試みではなかった。それは初めからわかっていたが、私には障がい者領域の活動や、引きこもり領域の領域の活動、セイフティネット形成の時流を意識していた関係で、その交差点(結節点)の発想をしている。ところが周囲の人は就労支援の以前の試みの焼き直しに見えていた。時代認識は日常活動の延長上には出てこない。活動のずらしを作っていくことを通じ、活力を生み出していく活動のダイナミズムを意識していないために、話はすれ違いに終始した。野宿者の支援活動は、生活困難や社会的挫折、そしてそこから生まれた邪心をリスクとする危うい活動だ。あらゆる矛盾が活動に現れる。

だから慎重になるし、そこに新たな活動を付け加えることに抵抗すら出てくる。以前の販売活動についても、会場の参加者の無理解が尾を引く偏見の重さを感じさせる例も珍しくない。だから野宿者の活動は少数派の支持者によって支えられている。だから派手な話(行政参加など)には石橋を叩いて壊そうとする。

そんな空転の中、プレ会議は流されていった。

ーー全県パトロール会議レポートは明日に。


夜間傾聴:□□君(仮名・こちらから)


(校正1回目済み)

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6/11スペアちがさき総会に7/15上映懇談会を提案し/父との深夜早朝格闘技

2010-06-16 04:40:43 | 引きこもり
2010/06/11 記
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9時半からスペアちがさき総会があった。時間が最悪。睡眠不足で全身がしびれていた。Mさんの隣に座っていたが、なんとズボンのチャックが開いていた。座って発見したが、どうでもいいから眠りたかった。Mさんは目をそむけていた。

5時台に父がポータブルトイレを投げ飛ばした。転倒である。父の介助と着替え、部屋の清掃を終えたところに父がTVを大音量でつけ、隣人宅の窓が大きな音をたてて閉まった。冷や汗をかいてTVを消して、父に注意するが状況がつかめないのか水の入ったペットボトルを投げつけてきた。ふたが緩かったのか、転がった床が濡れてびしょびしょに。床を拭いて、父に毛布をかけようとして驚いた。先ほど交換したばかりの紙パンツを脱いで、毛布に包んであった。紙パンツも毛布もそしてベッドも、交換したばかりというのに、尿浸しになっていた。転倒したとき、残っていた尿があったのだとわかったが、なにも紙パンツを下げてベッド内で排尿することはない。紙パンツは中が乾いており、外側がじっとりと濡れていた。片付け終わって7時前。幸い転倒時、父に怪我は無かったが、私らに叱られるとばかり身構える。それが失敗の連鎖となる。紙パンツを履かせても、睾丸を出しているのは決してやめない。ポータブルトイレに一時も早くたどり着き排尿するための工夫なのだろうが、たまったものではない。

とにかく午前中企画は地獄である。以前は夜間傾聴の関係で昼夜逆転の影響が出ていたが、最近はもっぱら父の頻尿の早朝騒ぎが気が気ではない。今回も結局徹夜である。朝のゴミ出しを済ませ、朝刊を持って帰ると母が起きていた。父の朝食を出してから出かけてくれという。朝食を父のサイドテーブルまでもっていくと、上着がびしょ濡れになった父が部屋を歩いていた。毛布を引きずっていた。慌てて長椅子に座らせて周囲を見て驚いた。ベッド際の椅子は濡れた布団をかぶって倒れており、ベッド柵ははずれ、靴下が引っかかっていた。ベランダの窓サッシは開けられて、網戸をわしづかみしたのだろう、取っ手の部分の網に穴が開き、外にパジャマズボンが投げ出されて、今にも風にあおられ落ちそうだった。怒ればまた地獄。「自分で干したのかい?」と聞く。緊張した顔でうなづく父。「手伝わなくていいから、朝ごはんを食べよう。」と、紙パンツ一丁の父をベッドサイドの椅子に座らせ、後片付け。父を誘導してベッドに寝かせて、食事をさげて8時過ぎ。父の上着から移された尿のついた上着を洗濯機に叩き込んでジーンズを履き替えて、あと数分のバス停に飛び出した。いつも出先に父の世話が入る。こんな調子なのだ。

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スペアちがさきの総会前に、配布資料を印刷する必要があった。サポセンの開館が9時半からなので、9時20分、拝み倒して作業し、10分間の曲芸で、資料を持って総会会場に飛び込んだ。

総会は市議会が10時半本会議ということから、9時半の時間が設定されているのがわかった。障害福祉課のA課長や議員当人と秘書の方々3名あとはスペアの古参の方々と、スペア分科会参加の会員の方数名。

定型どおり、議事が進行していったが、日常活動以外の企画のひとつに7/15「輝く未来に Step Up!」上映と勝田俊一氏の講演カップリング懇談会が正式承認となった。自己紹介に1回、企画提案にもう1回の2回発言の場があったが、私の企画は生活困難者の無業者セイフティネット湘南版作りの中に発想されている。その軽度発達障がい・精神障がい+引きこもり青年対象の「企業就労」版企画なのだった。だから地域起業や地域コミュニティショップ・就農等のシリーズの中に今回の提案企画はあった。企画の周辺の概説を語り、一般就労のハローワーク経由の企業就労だけでなく、精神の手帳取得した法定雇用枠に乗るケース等を含んでの「企業就労」とその中での就労をめぐる問題を語りたいと発言した。

スペア参加の親御さんは、まもなく中学生という方が多い。対象は高校生または大学生だが、今回は就労のイメージ作りの提案、自分の娘息子たちがどのような職場に入るのか考えてもらうことも企画に中に入っていった。

まだ未公開の企画があるが、まずはこの企画を成功させようと提案した。

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母から父がぐっすり眠っているから一度家に戻る必要は無いとの連絡を受け、駅前で食事。遅くなったビッグイシューの5月末分の送金を済ませ、海老名河原口の老健と特養に書類をもらい、海老名で巡廻指導。大和経由で藤沢に出てジュンク堂に頼んでおいた書籍を買い込んで夕食の買い物を済ませて帰宅した。帰宅が19時前。

休み無く夕食の準備、父の紙パンツ交換。食事後とにかく仮眠を取った。夜は積み残した生業の作業と、テキスト編集トラブルの対策。明日は稲城市でリカバリーの講演会があったが、その翌日、野宿者支援の全県パトロール会議なので欠席。パト会議準備の提案資料作りをして、続きは明日に残して一夜を終えた。

《購入した資料》
●「13歳の進路」村上龍著
●「児童青年期カウンセリング―ヴィゴツキー発達理論の視点から」


夜間傾聴:小田急相模原君(仮名)


     
(校正2回目済み)

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6/10 アニマルセラピーを行っている老健に入所希望相談しに出かけ/融通の効かない営業マンと

2010-06-15 11:19:24 | 引きこもり
2010/06/10 記
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今日は10時から入所相談を受けに、藤沢を回った。湘南ライフタウンの外れの老健に出向いた。ここは以前から手堅い活動をしているところで、私の塾があったところの知人からも噂が入っていた。

バスがとにかく無い。頻繁に通る路線の停留所から歩くことにした。30分近く早く着いてしまったので、朝食を食べることにした。大概の飲食店は10時開店だから9時半は悩ましい時間だった。偶然,トラッカー相手のラーメン店を発見し、具の少ないラーメンを食べて時間調整。そこに母から連絡が入った。介護保険証を置き忘れているとの内容だった。

昨日郵送で介護保険証が送られてきた。介護度は3から4に変更となっていた。驚いた。定型会話をはぎれよくこなしていた父の様子が家族の肝を冷やしていただけに、やっと思いが通ったと話し合っていた。さっそく証書をケアマネさんに届け、ケアマネさんが我が家に戻してくれた証書だった。母には今回の入所相談には必要ないから大丈夫だと話して携帯を切った。

今回の老健は、藤沢北部の他の老健と比べれば、小田急線で回り込まない分、家族が通うには近いこと、比較的他の老健よりも内部情報が入りやすいことが選択肢となった。藤沢南部の老健は近々申込に行くが、やはり高谷は不便だ。

今回の場所は、事前に一度、申請書類を受け取りに行ってきたところだ。動物的な感覚だが、新しいところとは違い、いわゆる居場所にいるタイプの職員さんを何人も見かける。相談員のTさんもそのひとりだ。Tさんの私への働きかけも、ケースを前提にして探ってくる。それが見えるから話が早い。介護する家族の体制が崩れてサポートが困難になり、至急入所先を探さなければならない状況。当事者(父)が認知症があり、職員の指示がなかなか守られないことと、歩行不安定による転倒が頻繁に起き、見守りができる施設でないと事故が起こりやすく、入所順待ちの受け入れ施設が限られていること。こうした大筋が的確に通じていくのだった。これはレッテル貼りとの境目の会話。その境界線を見極めながら話を修正していく。

こういう対話は、受け入れが可能か否かがその場で出てくる。受け入れ側が見極めたいと思っている情報が、一応提供されるためだ。結果はNo。理由は認知症男性の受け入れ状態が手薄。不安定徘徊が問題化されていた。一応見学させてほしいと頼み、認知症対応のフロアへ。

なるほどと思った。体調の優れない方が数名部屋に残っているが、静かに眠っておられたし、合流スペースでは、全員車椅子に座ってそれぞれの居眠りや、折り紙などをされているが男性の姿が無い。TVは消えており、だれもTVに執着していない。関心が無い感じ。当事者さん相互の会話は、もともと考えていない程度の方が、ばらばらの方向を向いて時を過ごしている。つまり認知症もかなり進行している、静かな女性が集められている感じで、活気のある笑い声もない。明るいが静かなのだ。これでは、ゴジラ登場になってしまう。

次につかまり歩きが出来ない空間構造になっている。車椅子に乗せられた父が次に起こすアクションは、赤子のそれのように、腕を両脇につけて前に差し出す歩行をはじめ、悪い側の足を引き出す限界の4歩目で転倒する。または、立ち損ねて後ろ向きに転倒、車椅子に背中・後頭部をぶつける。つまり、車椅子生活を基本に置き、集中管理する方式は、父には合わないのだ。寝ずとも基本がベッド。だから他の施設でも、集合スペースの壁側の長いすにいつも横たわっている。ベッドを集合スペースに移してきたような形となる。車椅子とベッドの違いは、居場所感覚の有無だ。若いときからハリセンボンのように棘を出して虚勢を張ってきた父の人間観はひとを深いところで信じていないから、車椅子のように他者の関わりでたちどころに動く位置は、不安だと思う。リクリエーションの不参加の閉じた心のこともあるが、基本は父は安定したポジションから離れない。

見学して、これは確かに馴染まないと思った。しかし某特養のように、せん妄があったり、続々とO字型回廊を歩いている方々の認知症フロアに父が入るにしては、定型会話が可能なレベルの父には、これまたマッチングしないのだ。

ため息が出た。相談員のTさんに了解サインを出して玄関へ。と壁に「アニマルセラピー」の写真が。もうここからは脱線である。

この老健ではアニマルセラピーが導入されていた。従順にするよう仕付けられた犬猫や兎などを使って、彼らを触らせたり抱かせたりすると、心が開き、動物に語りかけたり、世話をしようとする。それがきっかけで職員や入所者どうしに会話が生まれたりする。人は関わり響きあうことによって自分を生み出していく社会的存在なのだということが如実にわかる実践なのだ。勿論動物嫌いの方を無理強いしてはいけない。

若手の引きこもり関連では、犬の散歩が取り上げられたり、飼育が昔から試みられている。犬の散歩は、昼夜逆転の生活リスムを直したり、犬に必要とされる有用感が挫折感を回復させたり、更には散歩が出合った隣人との垣根を取り去ったりと、対人関係の仲介役を動物が果たしてくれる。ペットは善きパートナー足りうるからだ。勿論吠え付いたり、跳びかかる犬猫等もいる。それは訓練されたり選ばれたりした、安定したペット達が引き出す効果であることは、いうまでもない。

ペットセラピーのために、この老健を訪問しているボラさん(?)は何というNPOなのかと質問したら大事になった。相談員さん自身が関係しているのではなく担当者が別にいらしたからだ。

相談員さんは、その担当職員さんを探してくださった。しばらくしてその担当者の方が、インターネットの画面コピーを持って私に説明してくれた。結局は私の期待していた近隣、日大農獣医学部の学生さんのボラさんたちなどは、登場しなかった。こちらは以前、アイ・ボランティアのサークルと出会っていたので、もしやと思ったのだが、世の中、そう単純ではないのだった。

話は本部派遣で、派遣されてくるグループは、横浜から来ているようだとの話で、直接情報はつかんでいないようだった。犬猫派遣業も、私の探っていた引きこもり青年の地域起業業種のひとつだった。この仕事の関係者に様子を教えてもらいたかった。しかしダイレクトに行けば、開業すると勘違いされ、構想作りと語ると閉じてしまうこともしばしばだったので、以前、クイールを育てた港北の盲導犬訓練所にお邪魔して、そこから次のセラピー犬関係に飛べないか試みたことがあった。ここは見学企画を時々たてて招待してくれるので、私のように探りの中途半端な立場の者も容認されたからだった。残念なことに、当時はつながっていないなかった。

画面コピーの資料をいただき、近隣老健の名簿をいただいて施設を出た。空振りである。

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14時半には父が帰って来る。大急ぎでバス停にもどり、辻堂駅から辻堂図書館の書籍交換を済ませ、父の好物の太巻寿司を買い込んで、家にもどった。30分前、セーフである。

この日、私は夏期講習テキストの改訂版を入稿する作業でトラぶっていた。原稿は添付メールでコメント付きで送り出しているのだ。ところがその一部分で相談があるから神田まで出て来いとの話が来ていたのだった。印鑑がいるというわけでもない、上司に原稿を渡すときに質問されるのが嫌なために、私を上司に会わせようとする魂胆だった。たかが5分そこそこと事務的な話に、自費の交通費で来いとは何事ぞと、うるさい電話を払っていた。そこの社の出版ではなく、本校で使う非売品。結局電話が来なくなった。と思ったら、本校から電話が入った。校正しないなら、受け入れられないと社から連絡があったという。十数年つきあってきた話が新入社員の逃げ腰でつぶされるのかと本校に事情を説明。しばらくして上司から直接電話が来た。単純な話なのでまとまったが、こういうわからんちんに振り回されるのは沢山なのだ。かならず規則だからと、錦の御旗を振り回す。ろくでもない。

5回も6回も電話で話が中断される。帰宅直後、父の男性器に樋をあてがって、排尿補助をしている途中にもかかってきた。梅雨前の雨どい清掃の電話もパンフレットを入れたから読んでもらえたかとしつこい電話。手間取らせないからとバスの時間がくるのに私を捕まえようとした。客の状態観察が出来ないセールスは向いていないから転業しろと伝えてバスに飛び乗った。この機転という部分、自閉症スペクトラムの青年たちも苦手だが、職業研修を受けていない者の対応はプロの自覚不足である。これは承諾しない。

私は橋本・海老名の2ヶ所の巡回を済ませ、海老名で買い物を済ませて、明日のスペアちがさき総会配布用のチラシ原案をサポセンで仕上げて、タクシーで帰宅。母が医者に出かける父が単独になる時間をなんとか埋め合わせして、夕食と洗濯に飛び込んだ。

さすがに夜間傾聴は無理。休ませてもらった。


夜間傾聴:臨時休業

(校正1回目済み)
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6/7 介護度判定会議の当日に/6/9 母の北里東病院神経内科受診に付き添って

2010-06-13 05:12:59 | 引きこもり
2010/06/07 記
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デイサービスに父を送りだすとき、父が不可解な行動を取った。ベッドから朝食を取らせるためにベッド脇の椅子に座らせた。と、何を思ったか、急に立ち上がりベッドに戻ろうとするのだ。「これからお風呂(デイサービス)に行くのに戻ってどうするの」と問いかけたが、父は聞く耳を持たなかった。結局もう一度ベッドからの降り直しになったが、濡れたベッドに寝転がったので、折角着替えた上着がたちまち尿浸しに湿ってしまった。たちどころにやり直しとなる事態の多さに、介護への虚しさがこみ上げてくる。

ヘルパーさん到着で、やっと階段下まで父を降ろすことができた。しかしこれは歩けることを意味しない。歩行は歩行器がなかったらたちどころに崩れてしまうだろう。父の視線が虚ろになっている。今回は階段の上から4段目で父が気を失うように突然力尽きて私に倒れ掛かり、咄嗟に父を段に座らせた。階段の壁側を向かせ、利き手側手足を階段面側におき、利き手を真下に突く事で腰を浮かせ1段ずつ腰を落として身体を下ろしていく。何とか送迎係の方に引き継いだが、父の体調は、今夜対策を打っておかなくてはならなそうだと、母と話していた。母の9日(水)の北里東病院受診のために、8日から父を2泊3日のショートステイに送り出すことになっていた。外泊が連続しているので、嫌な予感がしていた。

今日は7日である。市の介護度判定会議が行われていた。申請の介護度3>4への移行通過を願った。入所待機の優先順やサービス費用の軽減幅が広がるなどのメリットが出る。

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12:45から平塚の老健の入所相談があった。今回のところは個室が無いので、父のような昼夜排泄目的の徘徊をする者は、常に見守りがいるので敬遠されてしまう。相談を組んでもらったものの、ここは病院に隣接した施設であるが古い施設なので、まだユニット型を取っておらず、案の定、父は職員のセンターの影の部屋(男性認知症用)以外は入れないため、そこで転倒のある方の見守りは出来ないとの応答だった。ここは無理かなと思ってはいたものの、無駄足と選択肢の少なさに、無念さがこみ上げてきた。

母は「背中が痛い」と訴えており、昼間自室のベッドで眠り続けていたらしい。私の携帯に母から夕食の食材の注文の電話がかかってきたが、母はこれから父の迎え入れのあと、留守番の交代をして欲しいといってきた。月曜休みだが気分転換に、これから知り合いの美容院に頼んで髪を染めに行くという。「背中が痛い」というその痛さの程度は本人でなければわからない。私は次の病院系の老健に入所希望申請の巡回中だった。

身体的な疲れと精神的な疲れは様子が違う。私の巡回先の「非定型うつ」の青年の場合、他者からは、わがままとしか見えない。ところが時間をかけて付き合ってみると、そこに病態像が浮かんでくる。当人の意志の弱さや、偏りによって説明しがちな先験的決め付けを排して、まずはその果てしないだらしなさに付き合ってみる。そこに生育歴の転換点が見えてくる時、当事者の病態の手がかりを得ることが多い。母が今訴えている介護の重圧と忌避願望は、胃切除後の病態に深く絡まっている。家族であるから見えてしまうことと、距離を置かなくては見えない対人関係の鳥瞰像とが問われているように感じている。

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母は明日北里東病院の神経内科の受診する。美容院に出かける気持ちはわかるが、その提案の唐突さに、追い詰められた思考の壁を跳ね返るような異常を感じている。

ともあれふたつめの老健は、父の見守りの穴が出来たために、書類を受け取るだけで帰ることに。

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父はベッドの頭の位置を逆にして枕なしで熟睡していた。ベッドに入るとき、利き足を残して入るために、回転が逆になって頭の位置が逆になってしまう。父には、できるだけベッドに近づいてから、利き足側から入るようにと指導しているが、守られたためしがない。場面で立ち止まり考えるという意思が働かない。成り行きに身体を動かしてしまう。逆向きになると寝返りや起き上がることが出来なくなる。利き腕の力に依存しているので、其の腕がつかむところがないためだった。長時間反対側のベッドサイドの硬い部分に倒れたまま頭を乗せていると「うっ血」が始まってしまう。父を起こして頭の位置を逆に直したが、とにかくこれでは留守が出来ない。

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昨日の沼津の***さん本人から、サポーターさんのメールアドレスを使ってメールが飛び込んできた。携帯電話と悪戦苦闘した跡が読み取れて、それは気持ちのこもったものであったが、彼の直情表現が消えたことに治療の傷を見た気がした。

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今日は父に軽食を出した後、母にダメ押しのメールを入れて、夜の巡回に出た。途中、藤沢ジュンク堂に書籍注文。きょうされんのパンフレット。当たりなら紹介する。


夜間傾聴:橋本2君(仮名・こちらから)



2010/06/09 記
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父をショートステイに送り出し、母に連れ添って北里東病院へ。

父は不可解なことに敏感である。母と出かけるこの日、父はベッドから起き上がってこなかった。前日、私が仕事を先に仕上げておくために、明け方までホッチキス止め作業やFAX送り出し作業をやっていた。父も2階で付き合って、やたらにトイレに立つのだった。危ないのでサポートに階段をあがっていくのだが、結局わずかの尿しか出ない。頻尿の状態になって、私の作業は昼夜を問わず、この頻尿に遮断される。不安の表れと解するには、その後の熟睡がよく理解できないところなのだが、この夜間の睡眠時間を小刻みにする排尿が朝の寝起きの悪さにつながっている。

一度中断した集中は、元に戻すのに時間がかかる。この音が聞こえないはずなのに立ち上がる父の排泄行為には閉口している。実際、家具もろともに転倒するときは、この排尿のための移動の失敗によるものだった。

体力が落ちているときの階段移動は細心の注意が必要となる。階段最上段で歩行器から離れて私の対面移動のリードに手を移す場面が、一番転倒のリスクが高い。次に折り始めてから3段目。つまり降り始めの足が再び階段下に下りるときが、踏ん張る側の踏み外しが起きる。正面墜落にはならないが、父は腰を打って仰向けに滑り落ちる状態になる。この2点の危険ポイントを越せば、あとは体力との速さ調整に重点が移ってくる。

私は危険ではあるが、平常のリードより一歩父に接近した位置から、会談下側のリードを行う。利き足を残して、まず麻痺側の足から階段を踏み出して降りていく。逆ではない。このとき、踏ん張り側の足のすぐ一段下に私の脚を置いて、私の脚が邪魔して利き足を降ろせない状態を作る。自然に麻痺側の脚が先に降りるように誘導しているのだ。日常のフォームを作ることを意識して行う。特に行動指示のサインは、必ず決まったものを提示する。

それでも今朝は父の集中力が完璧になくなっていた。階段下の床には一度座る椅子が置いてあったが、もしものために近くに毛布を容易していた。椅子に座れずに尻餅をついたとき、毛布をソリのようにして、父を乗せて玄関のたたきにとめてある車椅子に乗せるためだった。初めから開いていないのは滑る可能性があったからだ。ともあれ、ゆらゆらと横に揺れ、腰が砕けそうになりながら、父は通常の手順を踏んで、車椅子に移って出かけていった。

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父の出発後、時間にゆとりが無いので、父の部屋の整理もざっとすませて家を出た。母は片側の脚の出だしが揺らぐことを訴えていた。わずかだが体中線が傾いているのがわかった。これは以前の母には無かった状態で、ヘルニアが起きてるのではとも思った。日中はそれでも正常に動けるのだが、夜になって食事を終えた頃になると、ダンピングの食物の逆流と同時に、四肢のツリが出てしまう。いわゆるこむら返りが始まるのだった。その主訴をしっかり問診の際に伝えることを母に諭していた。

相模線にしたのも、小田急線まわりだと座れないことが起きるから、安全策をとったのだった。原当麻で下車し本数の少ない北里大学行きのバスに乗るか、タクシーで行ってしまうか、相模大野まわりで行くのもほぼ同じ時間で病院に着く。バスは北里大学までなので、大学のマイクロバスで東病院に向かう。

相模線は座れたが、なんとすぐ隣にスペアちがさきのYさんが。Yさんの御宅は香川だから、出会うのも不思議ではないのだが、Yさんに母を紹介することになった。こういうときは、別になにもないのだが、なにやらぎごちないものである。Yさんは香川で下車していった。7/15の就労支援ビデオと勝田俊一氏(サンシティひらつか所長)の懇談会企画をスペア総会に提案することのダメ押しをされていた。遅れ遅れになっていたこともあって、うなづくも実は耳が痛かった。

北里東病院の外来は異様だった。閑散としていて患者が少ない。しかし次々に私たちの前に患者が割り込み、一向に私たちの番にならないのだった。予約制なのだ。しかしその方たちも延々と待たされた。私たちの番が回ってきたのは、午前中終了の担当医の延長診療2時間後の14時台、つまり外来に4時間弱待たされたのだった。初診は最後に回されたのだ。北里大病院の方はこのような待ち時間はざらなのだそうだ。

母は身を横たえたかった。しかし標準より座面が浅い長椅子なので、身を横たえるわけに行かず、脚を組んでみたりと苦しそうだった。

外来が一向に進まない理由が問診を受けてわかった。カルテ2枚に渡る症状のプロフィール、病歴と商事の進行具合、そして現状を細かい字でぎっしりと書き込んでいるのだった。問診は20分を超えていた。

頚部と腰のレントゲン、血液検査を今日済ませ、筋電図やその他の検査は今月下旬と今月末の2回の通院が決まった。痛み止め等の服薬は、地元の主治医に従って、ここでは専門治療が必要な部分を担当するという。二重治療は保険医療では違反となるから、委託検査の形をとったのだった。

医師は慢性病化する恐れがある病気の可能性を語り、結果が出た後、治療法のレクチャーが必要ならするとの話。ここまで細かい問診を見たのは某精神科以来のことだった。東病院は、北里大病院の外来からの紹介がないと受け付けてくれない。緊急性の高い傷病や、専門性の高い特定疾患、精神科に特化した分院のような機能を持っており、母は胃ガンの手術は、ここの特別な内視鏡手術を受けることで通院し、今回は専門性の高い特定疾患の件で、横浜センターで受診した医師本人の紹介で検査機器の整っている東病院の方で検査をしようということになって通院が実現した。結果的に手術入院時のデータを踏まえて検査することができることになった。次回の検査が神経内科らしい内容なのだが、一応の結果がでるのが今月一杯まで引き伸ばされてしまった。この間も母の症状は進んでいく。どうしようもないテンポの遅さなのだった。

この件を医師にぶつけたが、検査結果が出ないと何ともいえないとの話で、地元主治医は大きく踏み外してはいないから、そちらの治療に委ねて欲しいとの話だった。明確に地元医と専門病院の分業が意識されていた。

母の治療は眼科の方では、簡単な手術を行うという。度の合わない眼鏡は神経系の病状を引き起こすとのM医師の主張から、眼鏡を替えることになった。私の眼鏡の新調は先送りの目にあったが、とりあえず具体的な治療が始まった。

検査を終えて母と病院の支払いをしながら、母は鎮痛剤を飲んでいた。先送りは酷である。結果的に、一応の神経内科の診断が出る月末までは、父の介護は私ひとりで踏ん張る以外なくなってしまった。この事態は帰り道、ケアマネさんに報告を入れ、できる限りのショートステイと通院日に父を預かる体制をお願いした。

始め心療内科や精神科の筋を受診する必要があると考えていた。しかしよりフィジカルな科から探っていったことが正解だったかもしれない。以前心療内科に受診したときは、安定剤の処方が加わって一種シャブ漬け状態にさせられた嫌な経験もしてきた。薬を飲めば日常生活に支障が出、飲まなければ効かないという状態だった。受診したら母は父の介護どころではなくなるという苦い経験があるからだった。

母を相模大野の自然食の店に誘って、今後の見通しについて話した。今回のことで、何らかの病巣が潜んでいる可能性が高まったこと。明日ケアマネさんと連絡調整して、父の介護に臨時シフトを1ヶ月間敷いてもらうこと等だった。

母を藤沢合流の約束をした母の友人親子の娘さんの方に、母をお願いして私は藤沢で母と分かれた。知人に湘南あすなろ会の便りを届けて、その脚で茅ヶ崎サポセンに出向いた。7/15 の就労支援懇談会のチラシ原案を仕上げに行った。以下は前日行われた湘南あすなろ会定例会のメモ。昨日は体力の限界、PC抱えて寝てしまった。その関係で部分書きで申し訳ない。

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補)
(2010/06/08 記)
湘南あすなろ会の定例会は、佐野代表の著書新刊が発行され、その販売の件やら、販売員養成の件、あすなろ会決算と総会の実施の話などを検討した。Kさんの入会、入会規則の更新の話で時間切れとなった。

Oさん、九条の会が忙しいようだ。迷惑をかけてはいけないと思う。今手堅く活動が続いていける体制を固めなおすことにした。


夜間傾聴:6/8 小田急相模原君(仮名)
     6/9 橋本2君(仮名)


(校正1回目済み)
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6/5 父の帰宅待機による予定分断の馬鹿馬鹿しさ寿町バザーへ/6/6 防砂林パトロール参加

2010-06-12 13:59:30 | 引きこもり
2010/06/05 記
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ショートステイから父が帰って来る。父の介護度の判定会議が7日にあるが、介護度3から4への申請、通って欲しいと願う。ショートステイの日にちがもう少し使えないと、まさに今日のような事態が起きてしまう。

私の網膜色素変性症の治療薬(といっても栄養剤のようなもの)が、母の体調悪化の病院対応をしている間に切れてしまった。一応処方箋がないと入手できない薬なので、急遽午前中、東京のクリニックに行かなくてはならなくなっていた。この時間帯、茅ヶ崎では障がい者就労支援の講演会が行われていた。セイフティネット作りの件で、参加予定でいたが、先方に予約参加できる状態ではないので、断られたら仕方が無いが、ともかく当日参加のつもりでいた。それが思わぬ薬切れで参加できなくなるという具合に、やたらに不本意な割り込みがこの間増えて、悩ましい事態になっている。

今日も、御茶ノ水9時に私の主治医のクリニックへ。ここは予約で行っても3時間は優に待たされる外来で、受診後まっすぐ帰っても、父が戻ってくるのが14時半ぎりぎりという状態。東京に出て昼食も取らずに家に戻り、父を受け止めた後、また横浜の寿町のバザーに参加するという無茶苦茶なことが、この間、繰返されて困っている。母の方も神経眼科/神経内科のふたつの課の受診があり、父の入所希望申請巡回が更に加わるという状態で、このふたつの加算された予定が従来の予定をかく乱している。

母が受診する際、眼科は検査薬や治療の一時的な後遺症の関係で同伴を指示していたし、神経内科は全体症状の母代わりの代弁や、症状の経過説明の代弁が必要だった。医師が必要としている情報を、体験から経過に沿って整理して提供するという発想が母には全く無いので、つかみどころの無い表現しにくい母の全身症状を、母の言葉不足の混乱した発言では、受けたい治療に話が結びつかないため、受診のオブザーバー役が必要だった。

専門外来は、一般外来とは違い、一段加えて、期待し求めているものを、医師にはっきりさせる必要がある。その意味で、私が同伴して行く必要があった。つまりふたりで出かけるための対策が必要だった。父をひとり残していくことが出来ないという問題が起きてしまうのからだった。その連れ添いや父の外泊準備の結果、加算の影響があちこちに出てきていた。かかった結果、病院が次回の受診日を二者択一の程度の選択肢で出してくるため、通院や突然割り込みのショートステイ(治療日にあわせた外泊)調整や、父の往復時の自宅待機の拘束回数増大など。日程がかき回されてしまった。

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御茶ノ水の受診が終えたのが12時10分。処方箋を指定薬局に持ち込んで12時30分には、何とかJRに乗ることが出来た。14時少し前に茅ヶ崎着、家に着いたのが父の到着する10分前という状態。間に合ったものの綱渡りだった。

父の眼窩はへこみ、苛立ちを露わにしていた。便秘である。宿泊に浣腸をつけておいたが、どうやら使用しなかったらしい。これは問題だった。もし私の再度の外出時、父が排便騒ぎを起こしたら、母一人では処理できないからだった。ホームへの依頼伝言が伝わっていないと判断し、ふらつく父を何とか階段を昇らせ、ベッドについた直後に電話を入れた。この後の私の予定すべてに影響するからだった。

浣腸は看護師用の長いものだったので使わなかったという。医療行為となるからだった。やりきれなさを抱えて電話を切った。そこで父が急に起き上がり始めた。爆発だった。立ち上がれば部屋中の清掃騒ぎになる。父をなだめて、大声で母の応援を求めた。

呆然とする母に指示。紙パンツと手袋を出させ、大声に勘違いして暴れる父を羽交い絞め状態でなだめ、何とか始末をつけることが出来た。送迎車が戻って行った数分後の出来事だった。しかしこれは幸運だった。これで私が出かけられるからだった。大きな買い物袋一袋分の排泄ゴミを抱えて、庭のゴミ箱に投げ込み、なんとかバスにも間に合うことが出来たのだった。

このような展開がこれからも何年も続くと思うと、母が介護を「拷問」と呼ぶのもわかる気がした。家族の中だけで解決する問題ではないのだ。

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私は横浜の寿町に向かっていた。この日、寿町では生活館の前でバザーが行われていた。関係者と会う好機だった。ところが着いた時点で、シートの一部を残して露天はほとんど撤去されていた。古着を扱っていた方に聞いたところ、12時半で終わりだと言う。私はとうに終わっている時間帯に到着したのだった。この間の悪さのこともあったが、関係者と会えないことの影響が問題だった。

生活館の階段をあがり、事務所に飛び込んでTさんの姿を見つけてほっとした。知的障がいのある野宿者の方にマッサージを頼んでいたところだった。その野宿者の方は、実にうまい手つきでTさんをもんでいたが、私が話しかけると私をもんでくれるという。この方が挟まったおかげで、心のマッサージが一瞬にして出来てしまった。自己紹介をして、今度寿町に来たときは、是非マッサージをお願いすると約束が出来、3人で話し合うことに。

話は茅ヶ崎市新設行政課との懇談会のあと、今後のことを相談する民間側の集まりの日程を決める相談だった。きずなの日程をきいた。21・22日案を私が出すが日程が確実に諾と出来ない用件の重なりがあることがわかった。HLの会の方も電話で明確な応答が得られなかったこともあり、それではと、茅ヶ崎のカトリック教会を会場に行われる13日の全県パトロール会議の前に時間を設定するのはどうかと提案。ぴたりと承諾を得た。このパトロール会議の場でも、湘南あすなろ会の発言をさせてもらうことになった。当日は会議のあとカレーライスが出る。食べていけばいいとの話で、この日は地元の野宿者たちとも、提案の話をすることが出来ることになった。HLの会の方々が承諾してくれれば、この日に決定だが、日曜日はビッグイシュー販売員のEさんが東京事務所でIT講習を受ける日と重なっていた。Eさんの了解を得る必要もあった。

とりあえず、きずなのTさんの了解を得て、次は「さなぎ達」のSさんかTさんに近況を伝え、ビッグイシュー販売前任者のN君の消息をつかむつもりで、ガレージが閉まる間際の事務所に飛び込んだ。さなぎ食堂の方にTさんがいるはずとのことで食堂へ。知人が厨房にいた。食べていけという勧めを辞退。ふたたび事務所に行くとさなぎ達のTさんが戻っていた。Tさんも用事を抱えていたので、取り合えず懇談会レポートを渡し、近況を伝えた。N君は「さなぎ達」を離れて就労自立支援の行政の施設に移ったあと、就労がうまくいかずに寿町に近いところで野宿生活に戻っているらしいとの情報を得たが、「寿町に近い」ということは、寿町でNさんが問題を起こしていたということだった。情報が入ったらまた教えて欲しいとお願いして、事務所を出た。こちらとは13日のパトロール会議でまた会うことができる。

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19時30分からは、平塚のパトロールがあった。これは私は生業の会議があって参加できなかった。それを察してかEさんが、参加するとのことで平塚の見附公園に出かけていた。私はつながりの悪い相模大野の本校に出向き、どのみち外勤講師の発言枠がない進路関係の話だったので、レポートを出して、家の用事があるからと頼んで会議を離脱した。

家に戻ると20時を過ぎていた。Eさんから、集合場所に誰もいないとの電話が何回も入っていたが、私にも状況がつかめなかった。遅い夕食を作りながら、やっと事態がわかった。パトロール参加者は、内輪の人間以外の参加がほとんど無いのだ。集合の時間か場所が変わったのだとわかり、Eさんに謝りの電話を入れた。私からも平塚パトロールの方への外出時の連絡が取れないからだった。

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インスタント食品だらけの食事を父の元に持って行き、愕然とした。父は下半身裸でベッドは便に汚れていたからだった。幸い周辺は汚れていなかったが、ポータブルトイレの中に、またキッチンタオルが投げ入れられていた。トイレのバケツの下に敷いてあるものを父が使ってしまったのだった。繊維が長いのでトイレに流すことが出来ないので、始末が大騒ぎとなるのだ。

父の簡単な清拭と着替えを済ませるころには、夕食はすっかり冷めてしまっていた。母はぼんやりと茶の間に立っていた。父の状態を伝えて、母が一日中、鎮痛剤を飲んで寝ていたことがわかった。こういう状態が今後頻繁に起きる。どうしたものかと思いつつ、母と私の夕食を作ってテーブルに出したときだった。

父の大声が響いた。部屋に駆け上がってみると、早々と食事を終えた父が、ベッドに戻ろうとして、うつ伏せ状でのめりこんでいた。寝返りが打てないのだった。濡れた水袋のような父を抱え込み回転させた。やっとの思いで父を寝かし、夕食を下げると母がいない。みると母は食事はいらないと寝床に戻っていたのだった。母をなだめ、なんとか食事をさせたとき、21時半を過ぎていた。

ここから父の排泄物で汚れた洗濯物と夕食の食器洗いが待っていた。すべて終わった23時、今度は父の寝る前の紙パンツ交換が待っていた。これを済ませて父の部屋を消灯。階段を降りたところで、父に再度呼ばれてTVを点けておいてくれという要求をなだめて、シャワーを浴びたのが23時半。1時からは夜間傾聴待機が始まってしまう。何はともあれ仮眠を取った。

この日、夜間傾聴は名前をだしていない方からが1件。翌日の夕方、平塚で会うことを確認した。沼津に転居していた統合失調症を抱えた方で、サポーターさんと両親を失い空き家となっていた自宅に里帰りしていたのだった。もう2年になっていた。私にとっては二人目の成人後見制度があてはまるケースの方だった。



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2010/06/06 記
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父が外泊に疲れていたらしく、ベッドをずぶ濡れにしていたが、ぐっすり眠っていたので10時過ぎまで起こさなかった。今日は湘南防砂林のパトロールに初参加する日だった。防砂林には個人的には行ったことがあったが、それは平塚の博物館の海岸の生態系観察の下調べで入ったり、ある野宿者の方と、公共自転車システムを作ることで生まれる修理の仕事の件で、まずはテストに、バザーで自転車修理講座の講師をやらないかと持ち込んだときのことだった。野宿者には自転車修理のうまい人が多い。昔、廃品回収で自転車再生屋をやっていたことがある方だったが、ブルーシートの住まいが防砂林だったのだ。そのときは結局会えず、翌日、駅前で出合ったのだが、この話はバザーで自転車修理をしてはどうかという話から、一度来たひとが、故障自転車を取りに家に戻るのかという欠陥が浮かび、パンク修理体験講座にしようと話が出たのだった。ところがこの後、自転車販売業組合の方との話のときに、自転車修理整備技士(旧)資格がないと、故障自転車修理後事故が起きたとき、PL法に触れるという話があり、更に資格をとるのに、有資格者のもとの実務体験が2年いるということで、立ち消えになっていた。

父には朝食を兼ねた昼食を出し、母には強制的にパンを食べてもらった。13時半に集合し、浜須賀あたりから藤沢方向に、2グループに別れて調査に入った。参加者は私を入れて8名。ビッグイシュー販売をやめたTさんもグループに入った。彼にしてみても、レギュラーメンバーにしてみても、先方の住人はおなじみさんばかり。私は自転車話の彼以外は初対面。結局、パトロール参加というより、見学の状態で途中、引き上げることになった。

道のないネットの破れ目をくぐり抜けて、ブルーシートハウスを探す。この日私は平塚で待ち合わせがあったので、行程の半分、辻堂海浜公園の先で離脱したが、ブルーテントハウスに住む理由もなんとなくわかってきた。完全に酒びたりではなく仕事に出るひとたちなのだ。詳細は語れないが、私の歩いた範囲では4名のブルーテントがあった。江ノ島までで20弱のテントがあるという。逆方向の相模川河口までは更に多いという。ハウスは建ててから数年は立っていた。つまり常連さんの家なのだった。

とにかくバスの本数が少なく、辻堂駅に20分待ちで出て、平塚に向かった。この電車の途中、父が紙パンツを脱ぎ捨ててベッド上が尿びたしになっているという母の電話が入っていた。放置しろと目を硬くつむって応答。火事場の仕事のような気分で***さんと会った。

私は平塚図書館に借りていた本の更新があったので、いつも19時閉館なのでそのつもりで更新書籍を持ってきたのだが、今日は日曜日、17時までだった。***さんのサポーターさんに注意されて気がついた。余計なものは食べたくないと、彼の希望にしたがって「老郷」のタンメンを食べて話した。この店はなんとも殺風景で地下庫のような気分がする。その雰囲気を解さず***さんは機嫌よく沼津の病院生活を語ってくれた。サポーターさんが時々覘きに行っているらしい。サポーターさんは職場が沼津、実家が平塚。食品加工関係の方だった。

図書館の書籍を抱えたまま、帰りにサポセンに寄った。今週は母の付き添いと、入所希望施設の巡回で予定が詰まっていた。ビッグイシューのチェックと、iPhoneのプロジェクタ接続コードのチェックを済ませて帰宅した。市の一番古いプロジェクタ以外コネクタが合わないことがわかった。3色のピンプラグ仕様は古く、Dsubピンプラグには合わないのだった。変換コードの変換コードがいるとは信じられない話だ。

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家に戻ってからは、格闘技のようだった。父の紙パンツ交換と着替えと食事と洗濯のフルコースを終えて22時半。入所希望申請先の書類を書いていく。こうして一日が終わって行った。

夜間傾聴:□□君(仮名・母親)


(校正1回目済み)

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6/4 母の神経眼科検診の結果に思う/横断する活動を育てたい

2010-06-08 17:26:37 | 引きこもり
2010/06/04 記
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母の体調はじんわりと悪化の道をたどっている。四肢のしびれとつりが症状のひとつにあったので、胃切除後の食生活バランスの崩れを原因に見て、電解質マグネシウム不足対策とビタミンDの処方を母の主治医が出していたが、症状の改善がみられないので、母はふたつの検査を受けることにした。ひとつは神経内科。こちらは内科主治医の紹介状をもらった。もうひとつは眼球の痛みと眼のしょぼつき、乾きという症状の方は眼科主治医から神経眼科への紹介状をもらっていた。前回、横浜の神奈川歯科大附横浜センターの神経眼科の初診は、一般的なデータの集めなおしのひどいものだったが、今回は専門外来としての相談ということで、少し期待していた。とにかく、母の歩行は不安定だ。反射的な防御が怪しい。前回実際に転んで手首を痛めていたので、検査薬で視角が異常になることだけではなく、この歩行の危うさにもサポートするつもりで、付き添うことにしていた。

問診と検査の結果、母は眼の側に脳からの情報伝達を正常に受け止められない何かが起きていることがわかった。美容整形で使う手法の処置を15日に行うことになり、様子を見ることになった。対症療法とはいえ、ヒアルロン酸やビタミンEの点眼以上の処方が施されるのは、眼科としては初めてだった。9日の北里大の神経内科の検査と合わせて、母の診断が決まってくる。ただ地元の主治医は内科と整形外科の医師だが、股関節手術を勧めていたので、手術となれば、入院期間中、父の介護のサポートやら、母の退院後、母を介護から手を引かせる段取りを進めなくてはならない。とにかく父の入所先探しを徹しなくてはならない状況に入った。まだ少しゆとりがあるように見えるが、近々母も支援が必要になるだろう。診断第一弾、異常あり、要治療。これである。

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検査薬を使わなかったので、母をまっすぐ家に帰す必要はなくなった。相鉄ジョイナスの地下で食事をした。縮んだ母とまともに外食するのは、いつ断ち切られてもおかしくはない。子どものいない家庭は始末するために生活しているようなものだ。無為にすごしたくない。そう思った。

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「わーく」編集部の年間予定表修正版を作った。私の活動は野宿者支援活動以外は、生業の巡回カウンセリングと夜間傾聴の個人活動に囲い込まれている。ここをどう打開するか。その辺の思案と重なっていく。私の発想は地域の無業者セイフティネットワーク作りの視角から入っている。だから野宿者支援活動はその拡張にどう領域を膨らませていくかが基本となっている。野宿者支援も引きこもり者支援も、そして高機能者支援等の諸活動は、それぞれの領域の支援者の活動がローカルに拡がっている。この活動の境界線をどう運動実態として越えていけるかを考えている。その領域にかっちりと固まっていく活動は、それはそれで活動の力をその場面では発揮していくだろうが、現在求められている課題の解決には、横断的な活動の質が求められている。その境界線の断層に閉じ込められたまま、私の活動を終わらせたくない。そのために、丁寧に絡まる紐をほどくように、活動の道を開いていく活動を作ること。「わーく」はその辺を面白がる人の磁場になれないかと思いつつ、成しうる仕事の難しさを思う。4時半。そろそろ空が明るくなってくる。

夜間傾聴:□□君(仮名)
     橋本2君(仮名)


(校正1回目済み)
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6/3 高齢者施設入所相談めぐり再開/間をつくる

2010-06-08 14:52:55 | 引きこもり
2010/06/03 記
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父の朝食と紙パンツ交換、母の食事の下ごしらえを済ませ、いつもより早い朝食後、父があわせてくれない立小便補佐のもどかしさを感じつつ、とにかくバスの時刻に合わせて家を飛び出した。10時の約束で、茅ヶ崎養護学校に行く。とにかく徒歩とバスで行くと、乗継ぎが悪いと1時間は見ておかなくてはならない。

先方からの相談話と、私から資料提供できるものを使ったプレゼンのような話があったのだが、資料を作ってから手渡さなくてはならず、開いたばかりのサポセンに立ち寄って印刷して学校に向かうという寄り道が必要だった。サポセンは9時半開館。この30分の間に資料を作って学校まで移動しなくてはならなかった。

パソコンを確保する際、私が荷物を置いたことに気付かず、知人とちょっと気持ちのよくないやりとりをしなくてはならなかった。ともあれ資料は即席で仕上がり、文化会館前バス停から養護学校の近くに行くバスに乗ろうとしたが間に合わないことが判明。茅ヶ崎駅の戻るタクシーを強引に止めて、養護学校に5分遅刻で飛び込んだ。

私は茅ヶ崎養護にずいぶん来ていなかった。というより進路担当の先生達とは学校外では時々会っていたのだが、学校に来たのは下手をすれば1年ぶりだった。私の書いた不定期通信のコーナーは、すでに別の団体の資料に置き換わっていた。私が若松町のゆめたいショップの実行委を抜けてから、地元の社会活動は湘南あすなろ会の野宿者支援活動に結果的に絞られていたから、こうして学校を訪ねて校内に入ってみると、どこか違和感が拭い去れなかった。

鎌倉養護に異動された**先生とも障がい者就労支援関連企画の場で、話し合っていたが、就労支援となると高等部か卒業生との話となるために、学校へ足を向ける機会がなくなっていた。

今回は高機能の方と作る地域起業関連の話と、7/15の上映&懇談会への招待の話だった。企画が午後なので、研修扱いで参加する形となるので、準備時間がかかるため、ゆとりを取って紹介したのだった。しかし外で会えば話はその場面の企画関連のことになる。こうして時間を割いていただいて話すのは、ついつい長くなってしまう。校門をでたのが11時半。まるまる1時間半、まるで1年分の積もり積もった四方山話をするかのようだった。

話では副産物に、携帯アプリケーションの活用による就労のスキルアップの話もすることができた。携帯電話は連絡用のコミュニケーションツールであるだけでなく、附属機能の電卓や日程表、画像表示によるコミュニケーション補助などの機能を利用できる。旧式の廃棄携帯を提供してもらえば、通信こそ出来ないが、ポータブルな就労補助ツールになりうるからだった。昨年、授業枠外の夏休み企画で、携帯電話の使い方研修をされたとのこと。携帯電話は小型アプリ機として使うことを、夏休み企画として考えていただくことになった。就労の場を考えて話すことも可能だが、生活面のコミュニケーションスキルを上げるツールとしても使えるので、対象者の年齢幅も柔軟に設定できる。実行することになれば、ボランティアとして私も参加できると伝えた。

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次の約束は、寒川町内のホーム入所相談だったが、約束の13時半までは時間があった。西久保のフライドチキンは既になく、呆然。ファミレスで早めの昼食を済ませて寒川に向かった。

寒川図書館に立ち寄って、谷本寛治著CSR関連、広井良典著コミュニティ論関連の書籍を物色。時間つぶし。新刊無し。広井「コミュニティ―公共性・コモンズ・コミュニタリアニズム」があるかと期待したがダメ。ケアの関連の旧著が多い。…寒川図書館は以外にこの分野の書に強いのだが。

知り合いの司書さんに、開架書籍を予約書籍からはずすのは、予約システムの骨抜きだと注文をつける。オンラインで予約するとき、寒川図書館ほど役にしない図書館はない。所有しているのに、オンライン予約は出来ないと遮断されてしまう。認めるものの書籍総数の町民利用確保の関係らしい。館の書の質が高いだけに残念。

余裕30分見て、某特養に向かう。バスが出た後だった。40分無いので歩くことにした。土地勘が無いというのは仕方が無いこと。距離感が全く違うのだ。競歩の末、約束の時間10分遅れて到着。ここは故祖母がショートステイでお世話になったところだったが、記憶というのは曖昧なものだ、商店街から路地に入った記憶が全く違っていた。バス停から数分。電柱案内があるので、迷うことはなかった。

入所希望の件について相談員さんと話すが、父は7日の介護度判定会議で介護度が上る可能性がある。介護度3から4への転換である。これによって入所待ち条件が変わるので、書類は7日過ぎまで保留となった。提携病院が平塚高根沢病院とのこと。何か医療が必要な入院時は東部病院ならとの話をつける。茅ヶ崎市内の病院は救急搬送以外は原則対応していないとのこと。東部病院は前例があるのでとの話。在住していない隣接市町の事業所を利用するときのハンデは結構大きい。

母から用事があるので外出したいとの連絡が入ったが、内容が私が帰りに代行すれば済むことだったので、入所相談巡回の日は散らしたくないと伝え、父の見守りを続けて欲しいと断った。日を分散させると生業の巡回や、社会活動の方にも大きな足かせとなってしまう。

バスで茅ヶ崎に戻る方針を急遽変更。寒川駅からタクシーを使って田村十字路に出る。次の入所巡回先である。ここはアポ無しだったので、相談員さんとの話は10分程度だったが、父の車椅子からの立ち上がりと、頻繁に起きる転倒が問題視された。印鑑を押して必要書類を郵送すれば、一応手続き終了ということになったが、話の内容から期待薄かと思わされた。

タイミングよく来たバスに乗り、平塚駅に戻り、辻堂駅に出た。今度は海側である。本数の少ないバス路線を使うが、これは事前調査しておいた。予定通りのバスに乗って、到着。今度は空振り。夕方は送迎でどこも忙しい。問題を抱えた方の調整に送迎車に乗って移動していたとの連絡があって、書類を受け取るだけで、再度アポ取り直し。

辻堂に戻ったが、時間が早めにあがったので、藤沢北部の老健へ。ここもバスの便が悪い。頻繁に通る路線の近隣停留所を使って歩く。徒歩10数分。まもなく相談員さんの業務時間が終わる間際に飛び込んだ。書類は渡してくれなかった。説明付きでないとダメとのこと。ただ相談予約をその場ですることに。無駄足にならなかったことを善しとせねばと。

藤沢に戻って夕食の買い物。辻堂から帰宅。海老名巡回は日送り。夜間傾聴1件相談あり。某心療内科仲介済み。

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私は高齢者施設の入所相談の巡回のとき、相談員さんをつい驚かせてしまうが、施設職員募集関連情報を最後に聞いてみることにしている。引きこもり青年や精神・高機能の方たちの就労の糸口をつかむためだ。清掃やベッドメイクなどの仕事を想定している。ぽろりと障碍者雇用も考えているようですよと応答があったのは1件、後は怪訝な表情で施設長さんを呼んでくる。これは大概はやんわりと断られる。父の入所条件の心証が悪くなるかなとは思いつつ。

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《気になった書籍》(入手準備中)
●「エル・チャレンジ―入札制度にいどんだ障害者雇用」
●「How to 生活保護―申請・利用の徹底ガイド 雇用不安対応版」
●「参加と協働のデザイン―NPO・行政・企業の役割を再考する 」
●「LLブックを届ける―やさしく読める本を知的障害・自閉症のある読者へ」
●「重度知的障害のある人と知的援助機器―自立の原点を探る」

p.s. 父の紙パンツが夜に切れて大騒ぎ。私が介護から離れると、必ず事件が起きる、嫌になる。母との引継ぎが空転しているからだ。タクシーで閉店間際のジャスコに飛び込んで、紙パンツ確保。路線バスで帰宅中。必需品は買い置きが必要。母は携帯で外出したいといったではないかと反論。こういう諍いがでること自身、介護が危うい綱渡りにあるあることなり。反省。


夜間傾聴:なし

(校正1回目済み)


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母の不調を/6/2 ビッッグイシュー茅ヶ崎販売員Tさんの販売資格停止をめぐって

2010-06-06 11:28:11 | 引きこもり
2010/06/02 記
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2日の夜に書いている。母が手足のつりを訴えて、父の介護から身を引かせて、父の夜の紙パンツ交換を済ませたところだ。母は4日、神経眼科、9日北里大附東病院の神経内科にかかる。それぞれに異常が診断されても、私にはストレスが胃切除の体力の失せた身体にかかったことが原因に見える。母の身体のことと同時に、父の介護の体制が限界に来たということなのだった。

今夜は湘南あすなろ会の定例会があった。会の代表でありビッグイシュー販売員のTさんの販売資格を取り消した日だった。飲酒は、冬場の寒さに耐えるために必要という説があり、ひとの寂しさ、苦しさを紛らわせてくれるとか、ひとの本音の付き合いが生まれるという説がある。しかし活動が順調なとき、飲酒が問題にならないのは、その活動の中に自分のリアルさ、実感のなかにいたから、公私混同せずに膨らませる活きた領域があった。その飲酒に流されないもうひとつの価値が煤けてきたとき、飲酒が問題になる。だから飲酒が問題になるときは、それは飲酒の問題なのではなく、見通しを失った活動の問題なのだ。彼は誰かが作る活動を待ちその活動に乗って動く。住居生活者と異なる悪条件はある。しかし新しく作る活動は寄る辺がない。提案すれば、それは自分で切り開かなくてはならない。ここが難しい。抑圧されてきた者の活動は初めからの諦めとの戦いであり、同僚の傍観の孤立との戦いでもある。その状況を打破する契機がビッグイシューに込められていた。そのTさんが販売を通じて購入者と契約を取り結ぶ販売活動の意味を見失って、収入源の側面に話が歪んでいった経緯が、轍を踏むようなやりきれなさを感じさせた。

公私ともに、胸突き八丁にやってきた感を強く感じている。

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私の生業の巡回は休み続きになってしまった。幸いは母は昼間元気だ。足の痛みが母の外出をためらわせているが、走ったり、階段を無理して早く昇降したりしなければ、なんとかできる。問題は起床時と、夜の就寝の前後の気が緩んだときの激しい症状だった。この不調時、一日3回(深夜を除く)のうちの2回の父の紙パンツ交換が時間的に重なった。私が父の身辺介助をしている時、母は不調を押して食事のあと始末を賢明にやっている。母の両手は掌蹠膿疱症なので水仕事は手袋を付けて行うが、手首から水が入ってしまうので、水仕事は従来敬遠していた。それが一転して、てきぱきと手足の症状対策による中断をしながらも、食器洗いを続けている様子がストレスフルなのだ。母はこの1年半強で、体重が15kg弱減り、身長が10cm縮んだ。体力的にも限界が来ているのだ。

その母の支えてきた分の手間が私の仕事に加わった。父が排尿に立ち上がるたびに、転倒の危険回避にかけつけなければならない。父は頻尿であり、昼間4~5回。夜間3回は毎日対応しなくてはならない。8回を越える見守りでは介護者の外出もままならない。しかし父を施設が入所させてくれない。今回の介護度判定で介護度を上げてくれれば、ショートステイの日数を増やしたり、入所の順待ちの優先度を上げることができる。自営業や私のような不規則勤務の者は、家庭に介護の手があると判断され、優先度を下げられてしまう。入所順待ちの順とは緊急度の順であって、介護度3の場合は、繰り返し自分の前に介護度の高い方が割り込み、順は一向にして減らないという問題があった。私たちは父の前に曾祖母ら4人を送り出している。母の最低限の遺留分を確保すれば、父の有料医療老人ホームの権利を買うゆとりはないのが現実。

だからと言って介護をひとりで抱え込めば、仕事や社会活動のすべてが止まってしまう。そのいずれもが手間隙を底無し沼のように食うものだ。父の介護度判定会議は7日に行われる。せめて介護度を3から4に上げて欲しいと願っている。支援制度枠を広げてほしいのだ。あとは下手な鉄砲のように入所希望を数当たるだけなのだ。

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午前中海老名巡回を済ませて、帰り寒川図書館の書籍更新を済ませた。JRで回り込んで、平塚図書館の更新分を済ませて、戻る道の平塚駅で食材の買い物を済ませると、茅ヶ崎駅から駆け足で家に戻らなければならなかった。水曜日は父のデイサービスの日で、16時半には自宅待機し、一度父を迎え入れてベッドに寝かせるところまでやらなければならなかった。

父は異様に元気なそぶりを誇示していた。しかし、玄関から階段の上がり口までの数mに2回も身体が崩れ、階段ではひたすら急いで階段を、てきぱきと上ろうとし、あやうく段を踏み外しそうになって、私が力づくで阻止した。これが2回繰返された。明らかに歩行能力は落ちており、その分、父が静かになったともいえるのだが、なおさらにしくじりが爆発して、おしめを受容してくれないと、ベッド周りのシーツや毛布などの洗濯物が激増、見守りと家事で在宅介護は破綻する。

既に片手が全く動かせなくなり、食器が動いてしまうので箸が使えなくなって、大半の食事はフォークとスプーンで食べている。汁物はマグカップに変わった。今日、朝の送り出しの階段介助のヘルパーさんに、その社の介護用品カタログから、「滑り止めマット」を注文した。食器の下に敷くのだ。

父の立ち小便の手伝いをしながら、時間が気になってならなかった。あすなろ会の定例会は、このデイサービスの日と重なっている。会議の時間が19時から18時半始まりになった。父がベッドに付くのが実際17時。遅いおやつをだしたり、紙パンツ交換を済ませると17時半になってしまう。夕食の献立を母に引き継いで、この1時間の間にサポセンに到着する必要があった。立ち食いソバをかき込むゆとりがあるかないか、当日の資料を刷る暇があるかないかという状態になった。ところが皆早く時間前に到着しているので、話しかけられたら印刷のゆとりはなくなる。今回も心乱れている状態の中で、Tさんの重要な話をしなければならなかった。

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あすなろ会の定例会には、今回初参加のKさんが同席していた。肝心のTさんが来ない。どうしたものかと思っていると、いつもの調子で入ってきた。とりあえず話を始めていたKさんの紹介や、あすなろ会が地元ネットワーク企画への何らかの参加を拡げて行きたいと、実はTさんの件で、all or nohing の状態を避けるために前段を作っておきたかった。ところが私の小細工はOさんと判断が違っていた。大事なことは先に話すべきだということだった。こうしたもつれの議論があった後、Tさんの件に議題が移った。

ビッグイシュー販売員は、販売中酒気帯びであってはならない。この件では、私が1回確認しており、以前、会の連絡先のOさんの元に購入者からの抗議連絡が来ていた。反省文を書いて数ヶ月のブランク。その復活後の酒気帯び確認だった。更に定時定位置の販売が、以前とは全く異なる不規則短時間販売となって、彼と出会えないという話が私のところにも購入者からの話が来ていた。冊子仕入れ資金枯渇は相談できる体制にあった。そこで路上飲酒しているとの購入者さんの抗議が東京事務所に届くにいたって限界になった。彼は私生活の飲酒だったという。私も厳しい抑圧下にある野宿者の完全禁酒を求めようとは思わない。ただ購入した資金が自立資金に有効に使われるのではなく、酒代になっていると思う購入者の気持ちも否定できない。活動はお互いの交渉で成立しているのだから、客の気持ちを忘れてはならないのだ。彼がビッグイシューを自分の生活自立活動に生かすことを通じて、野宿者支援活動に参加していくスタイルを捨て、より重要な野宿者支援活動に活動を移すというなら、ビッグイシュー販売にけじめをつけるべきだった。

Tさんへの経過説明と異論を受け取る場面となったが、Tさんは覚悟していた。あっさりと了解し、Tさんは販売員資格を失った。

大きな見通しは、妄想でもなんでもない。日常活動を支える土台のようなものだ。Tさんは日常活動をよく知っている。ただその活動の中から、切り拓いていくものの発想が感じられない。その見通しをTさんとの活動の中で育てられなかった限界を痛感している。


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明日、出来るだけ老人ホームを巡回しないと空きの日がなくなりつつある。結論を出した日とTさんの販売離脱を考えるが、野宿者支援活動の会の戦略的な見通しとの兼ね合いで、私の手間隙のゆとりをどう捻出するかを考えると眠れなかった。頭上で父の足を擦る音が聞こえ、ポータブルトイレの蓋が激しく閉じた。午前4時10分、父をベッドに戻しに行ってきた。10時には茅ヶ崎養護学校の進路担当の先生との、引きこもり青年の相談があり、東部病院で私の健康診断の予約をしたあと、香川を回って寒川のホームからホーム巡回を始める。8時半には家をでなければならなかった。あと4時間である。


夜間傾聴:中止(私のコンディション上の問題。ふたり連絡あり。)


(校正2回目済み)

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