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湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

10/29 松戸往復中に考えたこと

2020-10-31 05:41:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/30 

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10/29 続き

半身不随の旧友に会いに、松戸の特養に行ったが、コロナ対策で面会不可。一度戻ったが、奥さんの仲介で、再チャレンジ可能になり、ホームに戻った。


職員の方と玄関前で会い、提供されたポリ袋入りのスマホのLINEで、彼とTV電話が出来た。彼の方も、別の職員の方がスマホを支えてくれたのだ。


ところが、彼は私のことが、はじめ誰だかわからない風の出だし。私は慌てたが、彼はすぐに思い出してくれたが、たちまち泣き出し、会話は顔合わせしただけで終わった。5分ちょっとの会話。職員に礼を言って、ホームを去った。


帰り道、私のスマホが鳴った。奥さんからだった。「会いたくなかった。でも会えてよかった」と、彼から伝言がとどいたという。その複雑な心情から、時の流れの奔流を感じて、奥さんに「ありがとう」と、慌てて礼を告げる以外、何も話せなかった。彼は私の数歳年上だが、旧友3人とも、社会活動から消えることになったことに、私は衝撃を受けていた。


私たちが現場の記憶を咀嚼翻訳していかなくては、今が見えなくなるという危機感がある。歴史という「鏡」の喪失である。


昔、私は灰谷健次郎氏の「朝の少女」という作品を読んで目眩を感じた。作品には素朴な島暮らしが綴られていた。夜が明ければ、また同じ日がくりかえされる死と再生の反復の神話的時間。時間が矢のように直線に流れていくのではなく、循環の輪のように繰り返される世界では、進歩とか変容が見えなくなる。


80年代からリーマンショックをへて、コロナ前に至るまで、日本の時代が、大きな社会変化のうねりがすすんだにもかかわらず、庶民は消費文化に飲み込まれ、誰もが社会は利用するものとしてしか登場しない、そんな消費文化の家畜化の閉塞を生んだのはなぜか。それを通じなくとも、突き抜けて生きてきた者が語る必要がある。


コロナは擬制をむき出しにしてみせた。だから、コロナ分断に手足をしばられようとも、語れば通じる可能性がある。ただ、その前に、語り部の寿命が尽きつつあるとは。帰り道、そう思うと、胸がつまった。


(つづく)


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夜間傾聴:ひとり

(校正2回目済み)

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10/28&29 生き残りの旧友に面会、松戸へ

2020-10-30 04:25:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/28 

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10/28

母に美容院に行くように勧めて予約を取らせた。何のことはない、旧友との再会に、松戸の特養に行くので、母の見守りを美容院にまかせようという魂胆だ。明日の金曜日に予約がとれた。


政治活動から身を引いて、家業のスーパーを継いでいた奴だ。早稲田にいたが、私のように内ゲバのあおりを食らって通学できなくなって、私は間をおき転学したが、彼はすぐに経理系の専門学校に移り、家業を継いだ。私は二足も三足ものわらじをはいて、あがくように時を駆け抜けたが、彼は実直に商いの道を進んでいた。私はやれることは、やり尽くしておきたいと思い、彼は中途半端な転身を良しとしなかった。


20年も間があると、何を話したらいいのかと、この歳になって迷っている。お子さんはいるのだろうか。怯えている私が可笑しい。


本連載の70年代、私はある新左翼の党派に入り、発想の粗っぽさに呆れて、地味だが多様性に寛容な党派にうつり腰を据えた。


社会新報のバイトや、救対センター補佐、議員秘書のおまけのようなことをしつつ、塾屋や三文予備校の非常勤講師をしたり、科学映画下請けのようなことをしていた。時代の香りは感じられたものの、私の的を射ていなかった。結局は「ひとの人生の個別性と孤立と、その共有を阻む差別」を自覚して共有できる仲間をさがしていたのだとわかる。


私と同じ世代との経験の差は(高校生への関わりはしていたが)私の活動基盤はいわゆる学生運動ではなく、地域教育活動や、労働運動(^^)だったこと。ゆえに、ここでもまた、その場には私の内省的課題との共通項がなく、識字や水上生活者と夜間中学や、のちの青い芝支援という差別と貧困を含む領域に関わりつつも、それは、病弱や介護と異端排除について、取り組みに正面から触れてくる活動に出会うことはなかった。


私はのちに、障がい者活動との出会い、不登校・引きこもり支援活動との出会いに、近似の活動を見出すのだが、ここには当事者活動と、子育て活動という新たな壁が交流を阻んでいた。


私が連絡を取った旧友は、別々の出会いによるもので、ひとりは当時の党派活動の関係者で、安田講堂の関係者と私をつないでくれた教員の卵、もうひとりは永山則夫支援の当時学生、最後が総評系専従と学生をやめて、家業を継いだ男だ。私とは、社文会館で出会ったのがはじめ。


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10/29

朝、念のために特養に電話をかけ、面会可能か確認した。見事に断られた。コロナ対策である。しかし職員との直談判で、開ける道もあるはずと、松戸に出かけることにして、無茶だが、面会、やらせてもらいますと家族に電話。


松戸駅から、いっそと、タクシーを拾い時間を稼いだ。しかし、ホームは門前払い、無念。東海道線で品川駅をすぎた頃、ならばと、妻のさんが仲介してくれたのだ。


(面会は次回)


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10/27 旧友に連載に名前を出す許可の電話をしたら…

2020-10-28 06:00:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/27 

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連載記事作成に関連して、ご無沙汰している3人の友達の元社会運動家に電話してショックをくらっている。みな20年間、会っていなかった。なんと2人ともなくなっていたのだ。経緯は教えてくれなかった。


残りのひとりは、脳溢血がはじまっており、半身不随で特養入所していた。私よりやや上のいわゆる団塊の世代だ。意識はしっかりしているが、言語障害をおこしていると語る奥さんの呼吸が浅かった。コロナで面会できないかもしれないが、松戸に行ってくる。


悲しい。

浦島太郎の気分だが、竜宮城にいたわけではない。


<注文した書籍から>

「コロナ危機後の医療・社会保障改革 / 二木 立」

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784326701162


「自己責任という暴力 / 齋藤 雅俊」

https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784624411046


夜間傾聴:なし

(校正1回目済み)


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10/26 東京巡回と内装工事、済みました

2020-10-27 04:56:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/26 

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転居前の土地の端の地下から、明らかに戦前の、糸綴じノートが出てきた。日記や家計簿なのだが、英文の挿入があって、それは昔、英語圏に旅行に行ったときの回想らしかった。短いものだが、工事屋が始末していいものだか迷ったので、我が家に連絡が来た。戦中、英語が敵国語だからと隠したものなのだろうか。まとまった文書ではないのだが、残念なことに、私の家系の縁のものではなく、祖父母が家を買ったときの、前の家主のものだろう。横国大の元職員のつてで、現代史の研究者におくられたが、地名と料理のメモのようで、価値は薄いだろう。しかし、前の家主は何をしていた方なのだろうか。

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10/25

母の東京の主治医の次回予約と、処方箋(地元薬局では、備蓄が無く、取り寄せになる。)を受取りに、母を浜見平の友人に預け、まとめて東京方面の用事を済ませてきた。


薬を抱えて薬局をでてから、まずはじめに、小川町の教材屋に向かった。明日、我が家の扉の改造工事があるので、休日だが、打ち合わせを早めてもらったのだ。


森下経由で門前仲町の友達の店へ。千葉の災害ボランティアの載ったミニコミ誌を肴に、一杯。(私は茶、不粋をたしなめられつつ。)


アメ横にでて、浜見平の☆☆さんに、伝統のハーシーチョコを買い、上野から茅ヶ崎へ。


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10/26

朝から工事が入った。風呂場の扉は内側に開く仕様になっていた。風呂場で倒れた時、その身体がひっかかり、扉が開かない危険がある。折戸に交換。洗面所の鏡脇にコンセントがない。仕切り壁に、きれいに穴を開けて、隣の洗濯機用のコンセントを使えるようにするという、設計ミス補修の改良工事。


後者は時間がかかった。


夕食はカレー。母の清拭。とりあわせのいいこと。


夜間傾聴:ふたり

(校正2回目済み)

p.s. 次回から連載を復活させます。


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10/24 連載(7)/東京の主治医外来通院半年ぶり

2020-10-25 05:29:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/24 

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コロナ禍以降、母の東京の主治医外来への通院を控えて半年を超えたので、判断を迷ったが今日予約が取れたので病院に行ってきた。病院側から定期通院を控えるように指示があったこともあって、かわりに普段扱わない電話予約相談が出来たのだった。


さすがに管理が厳しく、私は診察室やリハ室には入れず、外来会計前に待たされていた。


すいている。各診療科全体の会計なのに、ひとが普段の半分に満たない。母のコースはもともと予約のみなので、混むことはないが、しかし売店はしまっているし、トイレの窓は開放されていた。いつもは駅からタクシーを使うが、車内消毒したがらがらの臨時送迎バスを使った。


診療科外の話だったが、母の足の筋肉が弱まっていた。ロコモの傾向と言われたという。


買い物外出を増やそうという私の提案は、言い終わる前に、「こわいからいやだ」と拒否されてしまったが、これはゲリラ・リハと自称しているのだが、家で目が合ったら、突然、かかと落としや、つまさきだちなとを数分始めるのだが、これを徹底することにした。


まさに直帰。早々に帰宅した我が家でお茶を飲んで、ほっとした。

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連載(7)

70年代は、私の激動期。大きくは、政治と社会活動の確立記。介護の隙間に、フリースクール的私塾経営を開始したり、小川プロ支援活動を媒介にした映画配給会社バイトから始まり、科学映画臨時下請けや、藤沢市議員経由の社会党機関紙局バイトなどが始まり、救援連絡センター活動の活動も、ふかめていく。大学は籍だけとなり、ある勘違いから内ゲバの標的となり短期入院。危険から通学不可能となり中退、これを機会に、いわゆる政治領域から、活動の場を教育系のみに整理した。私のメインテーマである、人生の多様性を同調圧力と差別で排除する社会に抗して生きるという活動に、接点がみいだせないからだった。


この間の私の活動の中から時代と現在の社会に影響する大きなものがあるが、私とすごした方々がいまだ現役であり、影響があるので描ききれない部分が多い難があるのだが、普遍的なところや、塾の活動などの部分は書いておくことにする。


また8090年代は、昔からの趣味を出発点とした、土壌生物や鉱物と地史を塾の自然観察教室と研究者仲介活動や、数学教育系教科教育活動、フリースクールと不登校支援が始まる。


時代的には、職業の系列化、賃金格差がひろがり、政治活動や社会活動離脱組を触媒にした自営活動がふくらんで、一方では社会無関心層が爆発拡大していく激変記でもあった。だからこそ、具体的に背景をおっていかなければならないところだけに、ブラインド部分が口惜しくてならない。


 ここ数日、外出や内装工事が入り、投稿の間があく。お許しを。


(つづく)

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夜間傾聴:ひとり

(校正1回目済み)


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10/23 zoom研修会(11/17〜20)他

2020-10-24 05:50:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/23 

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11/1718203日間、朝1012 時、松林公民館にて「zoomの講習会」がある。700円、定員10(申込制、抽選)

https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/040/548/Zoomchirashi.pdf

二つの難点があって、申込みを見合わせた。ひとつは開始時刻と場所。新居から徒歩40分だし、バスも乗り継ぎが悪く、同じ40分かかる。朝9時にはでかけなければならず、睡眠3時間が3日間は無理だ。もうひとつは、ホスト側のプログラムではないこと。近場で開催してくれることを期待している。申込10/31まで。


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  • 引越し手伝いをしてくれた弟夫婦と、湘南オンラインフレネの元会員のクリーニング屋さんの☆☆さんの5人、慰労会の酒抜き夕食会。予約をした。

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夜間傾聴なし

(校正1回目済み)

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10/22 連載(6)/近所の郵便局にて

2020-10-23 05:44:00 | 地震津波災害ボランティア
-----------2020/10/22 記
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家に前に住んでいた方宛の封書が届くので、近くの郵便局にもっていった。局長は、新居の町内会の会長をつとめているのでご挨拶してきた。彼はぷれジョブの自閉症スペクトラム児の就労体験の場に、郵便局を利用させて下さったり、障害児者の社会参加に協力している方だったから、なおさらの事だった。

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2020/10/21 

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私が1960年代後半という60年も昔の時代から執拗に論をたてているのは、不登校・引きこもりの伴走活動の視角からみているが、より普遍的に社会運動が、複数の割期を持って、大きな質的転換をとげているからであり、社会状況がのれんに腕押しの構造に墜ちる理由の手がかりをあたえてくれるように思うからだ。大枠の話からはいるが、ぜひ目を通して下さい。


日本が高度経済成長期を終えて、私たちの生活は、1973年の第一次オイルショックを境に、生活水準は上昇を終え、停滞の時代へとすすんでいく、1979年の第二次オイルショックの時には、産業も重工業から、家電や自動車にシフトし、産業構造の転換は、経済危機回避策を内包した終身雇用型から職務職能の能力型へと転換し、職場一掃フットワークの軽量化効率化をすすめていく。これは就職できれば安泰という、生活安全保障の確かさを価値として、大企業や公務員、高額所得職を狙って受験競争をしてきた者にとって、常に失職のリスクを負うことであり、職の流動化というマルチな能力を要求されることになった。高度な専門職化と、自営継承者を除く、自主目標を見失った圧倒的多数の流動層の誕生があった。階層は二分岐しはじめる。受験進学の先にエリート化を望む3割(現在は2割)と、そこそこの生活水準継続の流れに身を任せる現状肯定の若者層が生み出された。


オイルショックの激震があったものの、消費社会は飽和から欲望誘導の商品(娯楽・観光・スポーツ等を含む)の取得と消費に主眼が向き、学習は価値空洞化し、手形化、手段化、呪文化していく。ここに「身の回り2mの実社会」と「マスメディアの消費誘導」、情報機器普及による「自己仮想化」に生きるいわば「ジャイロスコープ」的小型化生活感が蔓延していく。


90年代を通して、やがて迎える2008年のリーマンショックまでの期間、その階層分極と、低所得層の崩壊は、中間層の底辺を脅かし、むしばんでいく。日常の混迷、漠とした鬱屈といういじめの土壌がこうしてうみだされていった。


----悠長な話になっているが、不登校・引きこもりは、時代背景によって姿を変えており、また、発達障害の活動との出会いと質の差を明確化していきたいとも考えている。


(つづく)


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夜間傾聴:開店休業

(校正1回目済み)


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10/20 連載(5)

2020-10-21 05:53:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/20 

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不登校・引きこもりの課題は、時代によって様相が異なる。いじめや貧困を背景にした追い込まれ型の不登校・引きこもりは、戦後から通底する形で一定数存在していたが、高度経済成長を通して、終身雇用の上昇志向の椅子取り競争の親世代の価値観が、終身雇用の終焉を象徴に、親の生き方と階層を継げないという社会の節目に到達する。親はモデルにならない閉塞した時代が1960年代後半〜1970年代前半の時代だ。


社会は学園紛争がひろがり、不登校・引きこもりの課題も社会の歪みを色濃く反映して、人生選択の拒否先送りや、受験偏向と競争激化に価値の限界をみたゆえの離脱が社会問題化していく。


受験偏向と競争激化は、学校現場では脱落ストレスによる離脱者攻撃が陰惨な屈折した形行われ、自閉症スペクトラムの子たちが、離脱者とともに、ターゲットとして、あぶりだされていく。スローラーナーが追い込まれていくのも、時代背景を持っている。不登校・引きこもりが合流する形で混在変化していく。


この競争下の学園生活排除の動きは、いじめと他者切り捨て無関心個人主義の蔓延として強まり、人生の早期挫折者を生み出した。


学園紛争の特徴は、進学校の反乱として始まり、大学ではそれが広範な支持を得ていく。



私はこの渦の最中にいた。私は生活環境の特異性(身体症状の個別性、学園外世界の獲得、家族介護補助・ケアラーとしての実生活者)より、教育批判者として戦い、浮き上がって挫折を味わう。


(つづく)

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10/18&19 「障害者と水害被災」/連載(5)

2020-10-20 05:47:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/19 

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ETV に注目の番組あり。録画を!

●10/20 13:0513:35

ハートネットTV

水害から命を守る(1)

「障害がある人の"避難行動"


●10/21 13:0513:35

ハートネットTV

水害から命を守る(2)

「障害がある人の"避難生活"


必見!

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連載(5)

不登校・引きこもりが社会問題化した1960年代後半、高校全入運動のような社会的貧困からの脱却を背景にした知識習得機会均等化の運動が、高度経済成長の流れの中で、高校進学大衆化によって色褪せはじめていた頃、知識習得を資格習得

の手段に落とし込めている発想から、知の質を問う活動が広がりはじめていた。それは受験教育と、競争下のつめこみ教育批判のような「教育の歪み」、「知識の断片化」批判として現れた。


社会は親の世代の生涯雇用職場獲得による職業と階層相続を願いとする親と、実社会の終身雇用の崩壊による未来流動化という見通し崩壊を感じ取っている子どもの不整合が、不登校や引きこもりの土壌となりはじめていた。親と子の社会観の断絶、通じなさが特徴となった。家庭は針の筵、逃げ場のない修羅場となり、実はここが「愛育」と「子育て」という親の「包み込み」教育運動と激しく対立する特徴を持っていた。親にとっての不登校・引きこもり活動は、現場復帰の活動となり、教育現場の構造批判は二の次となった。


この親子の対立の中から、多様化する社会に見合った非受験教育のフリースクールの道、私教育と体験学習の復権がまさぐられ、「子育て」活動の中からは「受験偏向の分かりにくい教育批判」と「わかる教育」が登場してくる。


この火宅と親子対立の不登校・引きこもり活動の特徴は、その後の自閉症スペクトラムの発見によって、「わかる教育」との接近を生むことになる。


脱線だが障害者活動の濃密な親子関係は、不登校と引きこもり活動には窒息しかねない状態であること。次回はこのあたりをかいてみたい。

(つづく)


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夜間傾聴:ひとり

(校正1回目済み)


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10/16&17 連載 私の生育歴から見える世界は、個的なものにすぎないのか(4)

2020-10-19 05:25:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/16 

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ビッグイシュー購入を済ませ、急ぎ地元の購読者宅をまわる。昨日バス乗車のときの転倒事故で意気消沈している母の鍼の終了時刻がせまっていた。母が迷惑をかけまいと、単独行動にでる癖があるため、鍼治療終了予定5分前に鍼灸院にとびこんだ。


今日は外食の日だったが、さすがに外回りを嫌がり、家での夕食となった。


ところが、急に味噌が消える珍事が起きた。母と「こう不可解なことが続くのは、座敷わらしがいるのではないか」と話になった。というのは、白菜1/4 を半分にして冷蔵庫にいれたはずの葉側全部や、焼豚ブロック全部と、もやし半分が忽然と消え失せ、今度は味噌が消えうせた。引越しの後遺症は、食器や調理器具の入れ場をまだ決めていないため混乱していたのだが、それも配置の終盤にさしかかっていたのに、食品に至るとは。全てを中断して、近くのスーパーに味噌を買いにでかけた。


食事を作り始めたのが19時、食べられたのが21時半。なんとも大仕事になってしまった。


しかし、さすがに萎縮していた母も手伝ったので、食事を終えた時点で、母の陰鬱な気分は、かき消えていた。


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連載(4)

私は中学校卒業時、成績順に振り分けられ、学区外の進学校に入学した。運動が即呼吸困難に陥る状態は、中学生になると治まってきたかわりに、季節性の喘息が長期化するようになっていた。


私はすでに自力で社会との接点を作り始めていたが、学年の友人たちは、いわゆる「モラトリアムとしての受験生」を謳歌していた。我が家は、名古屋から茅ヶ崎に移って根付きはじめていたが、高齢から日本橋の店をたたみ、茅ヶ崎に生活を合流させる家族構成の転換があり、病床にあった曽祖母と叔父、そしてまもなく、縁側で大腿骨骨折により、寝たきり生活となる祖母の3人の介護を私らが支えることになり、叔父は徘徊をくりかえしたが、内臓疾患で他界し、父は単身赴任で札幌に出て行った。おり悪く祖父が肺がんを発症、入院生活となったため、遠方受験合格の弟は家を出て行き、介護は母ひとりの肩にのしかかっていた。必然的に私も介護の補助をすることになり、祖父母の管理していた不動産賃貸業を高校生から担うことになっていた。2年の留年は、先に弟が大学生となる矛盾を起こしていた。


高校生時点で、私は政治活動の世界とケアラー、そして家族経営補助をする立場にあった。しかし学校社会は「モラトリアムとしての受験生」を競争に追い込み、絞り上げることしか考えていない。私は生活苦というより、実生活と社会の中の自分を知る位置にあり、生の手応えの中に、知識を反芻することも、授業の隙間に見つけていた。私の疑問から学びを反芻することは、知識の持つ網目構造、ネットワークとの出会いであり、通俗的には脱線分枝深入りとなり、教科カリキュラムの日程と激しくぶつかり、受験精選に反する道に踏み込むことになった。(はからずも、上野千鶴子氏の学生時代回想に、類似の発想が描かれており、可笑しかった。)勿論成績は地を這うようになった。わたしは、人参をぶら下げた疾走馬にはなれなかった。私は不登校を始めていた。挫折というほど純粋ではなく、学校教育の薄っぺらさに辟易として、家族と政治の世界を走り始めていたのだった


(つづく)


夜間傾聴:ふたり(古参)

(校正1回目)


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10/15&16 続き(3)/バス乗車時、母の発作が起きて

2020-10-17 04:53:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/15 

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ここから先は、私の身の回りにも、いわゆる政治活動から身を引き、生きている方もおり、話せる範囲は、いっそう狭まってしまう。ざっくりとした話になる。


私は当時、新左翼といわれる複数の団体だけでなく、いわゆる社会活動団体、特に教育系団体や子育て関連団体、黎明期社会主義を支えた人物、他市の市会議員に接点を持つように動き出す。特に当時、ベトナム反戦活動をしていた「ベ平連」に参加し、少し時間差があるが、当時の教育誌「ひと」の関係者と合流した。


私がここに魅力を感じたのは、私の日常を支えている社会が、日々の生活にブラインドされるかのように、別の力によって社会背景として動いている事。その舞台に意思を表明することによって、私が知らなかったひとの繋がりが生まれ、この広がりの中に、私が抱えてきた閉塞感や、私がなし得るもうひとつの場と、語り得る人物に出会える可能性を期待していたのだった。


確かに次々と登場する政治課題と、その取り組みは、共通課題をめぐってもうひとつの忙しい日々を提供してくれたが、すぐにこの活動が生活次元で行われている「流れ、流されて生きる」平凡な生活感と同質のものをみてしまうことになった。


それは「差別はいけないこと」であり、「分断はかくある社会システムの力動の結果」なのだという言説にあった。そこには、やはり穴が開いているのだった。


私が持ち込んだ「私的境遇と孤立の社会性」という課題は、同心円の中心・台風の目のように、中心を塞ぐことのできない、周辺からの意味づけ論の不気味な欠陥によって、私はその陥穽に落ちてしまうのだった。


私の課題は教育系の活動や、障がい者活動や、、水上生活者の窮乏と被差別系の活動に通底したものを見出したが、いずれも的を射ていなかった。


反戦と社会管理に連なる課題は、いわば社会統治をめぐる公的参加の活動であって、私的境遇の社会性を課題とする活動とはベクトルが違う。


例えば避難所の聴覚障害者の孤立と他者の無理解のように、隣人に事情を諭しても、次々と他者が無理解な行動をとる局面に、社会活動化の必要性が生まれるように、私にとっては激しい運動は、決して楽しいものではなく、命に至る苦しみに満ちたものという他者からの解離、また2年の留年の結果としての孤立と偏見、やがて始まる4世代同居による高齢者介護の補助役という立場は、私的境遇の打開は、個人から他者、理解者との共同の隘路が延々と続くものでしかなかった。求めても関連活動にであえないのだ。


反戦や社会管理をめぐる活動は、私の「公的活動」として意味があるが主軸ではなかった。


(つづく)


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10/16

18時せき母が、辻堂駅からの路線バス乗車する際、発作。バスと敷石の間に崩れ込み、騒ぎとなった。数名の乗客の方々のお手伝いもあって、バス席に休めることが出来た。御助力、感謝します。


夜間傾聴なし

(校正1回目済み)

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10/14 私の生育歴から見える世界は、個的なものにすぎないのか(2)

2020-10-15 04:03:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/14 

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ネットワーキングとは、小学生の理解だから、統計と推論とか、企業活動の総合性とか、教科の断片を実社会ルポにパズルの断片をあてはめていたに過ぎないのだが、新聞写真は点の集合に過ぎないが、その集合から異次元の意味がこめられているような、各教科のパッチからは抜け落ちてしまう、知らされない次元のような、つまらない分割学習の展望の欠陥を感じとっていた。


私立中進学のためと、私には私立高の地学系の教員が家庭教師についた。彼は私を瑞浪等の化石のフィールドに連れ出してくれたり、名和昆虫館の研究員と出会わせてくれたりした。それは広く地史的な時間との出会いであった。一方、ひとの歴史の転換点を新聞の読み方からコーチしてくれた。これも後になってわかったことだが、彼は60年安保の活動家であり、大学の研究者の道をはずれて私学教員になっていたのだった。私は彼から知の世界の広がりの入口を教わったのだと思う。高級なことではない、生きた知識の手応えを伝えてくれたのだと思う。


私立中入学後、私は地学部とアマチュア無線に凝り始め、大学受験を見据えた高校先取り指導がある、猛烈な進度の学習の日々につまらなさを感じ、成績が落ち、喘息と過敏性腸炎の身体の拒絶が激化、また1年留年した。


塾の近くの夜の成願寺川で死を願い茫然と立ち尽くしていた。白い陶土質の無人の川原が満月に照らされ、あたかも死の世界を見ているような不思議な体験に、自殺の無意味さを味わった。仏教に言う悟りのようなものかもしれない。


2年目の五月、父の転勤から、曽祖母、祖父母の店引退と介護の始まりから、茅ヶ崎に移住。市立中編入後、

成績は再び学年3位内にもどり、中3のとき、元の家庭教師の紹介もあって、ひとり日韓条約反対のデモに参加。そこから、生と差別がわかる人物探しを開始した。


(つづく)


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10/13 私の生育歴から見える世界は、個的なものにすぎないのか

2020-10-14 05:51:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/13 

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高知の農業体験をした@@君の母親から、富士通IT系のソフトハウス(古いのかな、この言い方。富士通の孫請けらしい。)のバイトをしつつ、専門学校の準備をしているという。親からの近況報告だった。

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「コロナ禍下の要援護者支援の防災活動ランダムメモ」を書いているうち脱線し、自分の生育歴の体験につながる「不登校・引きこもり」への取り組みの動機を書いていた。ただ「不登校・引きこもり」の課題は時代によって内容がかなりちがっている。私が当事者として、その渦中にいた1960年代後半は、強烈な競争社会の中の受験教育への批判の形をとって、教育の歪みを生徒が内部告発することで、受験体制批判と教育内容の批判が入り混じって活動が拡がっていた。今のように「いじめ」や、「知識習得の文化的価値低下」が前面にでるのではなく、「画一化」「知識習得の社会階層的二極化」が取り上げられていた。


ところが私の個別体験は、かなり異なっていた。重症病歴から「私はいつかいなくなる」という死と人生の一回性を自覚した特異な小学生であったことから、生()を棚上げするような、「目の前にぶらさげた"にんじん"を追う馬」のような「蜃気楼を追う人生」の学習を背後に秘めた受験学習論に、違和感をもっていた。現在を繰り返し未来へ投機、否定していく。未来の希望する職と豊かな家庭取得のための学びとなり、学びは手段化する。それへの違和感は、それを語れる他者不在の異邦人のようだった。


私の身の回りの死にゆく病気の知人や、場面緘黙の子らは貧乏故にいじめられ、私が見るに見かねて負け戦覚悟の仲裁にはいり、双方から疎まれた不思議(地域には""があり、場面緘黙の子はその出身の、かつ母子家庭の子であったことが後にわかった。そういうリアルから、中学からの受験扇動が空疎に響いたこと。呼吸不全から体育実技免除だったが、成績は学年一番はキープしていたため、いわゆる進学層に分けられて、与えられた分類では私は価値観の違う集団にいたという、迷子のような存在だった。「私はいつかいなくなる」という発見は私の喉元につかえたままだったのだ。

 

父の仕事は異動が多く、東京で商売をしている祖父母を残して、国内を転々とした。その中で比較的長くいたのが、名古屋だった。転校するたびにおきまりの転校生いじめに晒されたが、成績が学年3位以内だったため、いじめは手加減された。私は小学一年生のとき、入院で1年留年していたので、それを論拠にした優等生集団からのいじめの方が陰惨であり、犬の糞や雑巾をなめさせられた経験もあった。それをクラス担任が叱ったが、ハーフの子と片親の子の弁護をする叱り方であって、私はそこにいなかった。そんなこともあり、学校は腰掛け程度の価値となり、当時通っていた私塾が開放していた文庫が私の居場所になった。私は理系の本しか読んでこなかったが、ここには児童文学、小説、絵本もあった。学校が終わるとここに来て、1年後には文庫の大半を読み終えていた。この体験が、知識観の元となり、私の私塾開設の原風景となった。知識は内容においてネットワーキングしており、多数の人の営みの産物であることを知った。


(つづく)

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10/11 母の外出支援/コロナ感染自己責任?

2020-10-12 05:02:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/11 

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本棚の転倒防止器具やら、新居の交換LED電球を買いに島忠に行き、母は春先から欲しがっていたメガネの仕上げ調整で駅前の眼鏡屋に。駅改札で合流し、趣味の便箋を買いたいという母の要望に応じて藤沢に。


母の「めまい」は台風に影響される。台風14号が逸れたためだろうか、調子がもどってきている。私は有隣堂書店で

  • 「自己責任という暴力 コロナ禍にみる日本という国の怖さ」  齋藤 雅俊 (著)
  • ISBN978-4-624-41104-6

を購入。


ふたりでサバの味噌煮を買う。夕食用なり。無事終了。


夜間傾聴ひとり

(校正1回目済み)


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10/10 台風と「めまい」を越えて/社会活動の原点メモ

2020-10-11 05:19:00 | 地震津波災害ボランティア

2020/10/10 

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母の不調続く。にわか雨の中、嫌がる母をタクシーに押し込んだ。荒療治と思ったが、茅ヶ崎駅前の眼鏡屋につれて行き、眼鏡を新調させた。駅ビルのトンカツ屋で、夕食を済ませた。


出費だった。しかし、母の活気ある表情は久びさだった。しかし、母の「めまい」は心因性のものではないので、同伴に注意が必要だが、帰りのタクシー(メーターが変わる前に到着)を降りて歩く足取りは、しっかりしたものになっていた。

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「コロナ禍下の要援護者支援の防災活動ランダムメモ」を書いていて、私の社会活動の原点に発想が拡がっていくのを感じた。それは「ひとの生死をめぐる命の等価性と一回性」をめぐるものと、「個的体験と標準という差別に晒される多様性の発見」という基調があり、それは「閉ざされた対話環境」の、天の岩戸をこじあけるような、または無残な片思い。


そんなことが被災地訪問体験や、生育歴の諸相の背後にうかんではきえた。


また、「階層と慈善活動(隠蔽される私)の壁」という影の軋轢。


そして、不登校、引きこもり活動の定形家族と家族制度批判のベクトルと、障害児者活動と「子育て」をめぐる対立という切り口も見えてきた。


夜間傾聴:ひとり

(校正1回目済み)


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