OT引退のYさんと、茅ケ崎駅前で就労窓口について説明。「ハローワークではないからといって、単純に説教していてもしょうがないから、人脈と情報を得る算段をしなければならないだろう」とコメントがついた。私たちが実現したいと思うのが「ケア・サポート」のチーム展開だし、「ピア・カウンセリング」というか「就労しゃべり場」による関連活動の立ち上げにあるのだから、裾野がなければ絶対に成功しない。
頭の軟らかい世話人集団が必要。ひとと情報をつなぐ大人の「就労支援ネットワーク」(地元黒子有識者実践者集団勿論当事者参加可…長い)が必要。僕は製菓喫茶店の親父兼つなぎ屋をせねばならない。早いところ飛田構想から脱皮しなくてはと思う。
Yさんは「自分は個人のカウンセリングもやりきれるか心配だから、とても周囲の人つなぎなどできない」という。僕はこの辺は案外楽天家。ツボにはまった企画をきっちり立ち上げて、オンライン上でつながっていけば、無理な話ではないと思っている。むしろオフラインで顔を合わせた時、栄誉や好き嫌いなどのとぐろをまいた人間関係が、足をひっぱりあうことの方が厄介だ。ここがすっきり行くほど、人は悟っていない。
産業振興課の窓口連携が、就労支援ネットワークを育てていく触媒となるだろう。このことを通信No.011のTOPに書くつもりと言って呆れられた。邪魔が入るよというのだ。そうかなあということで、再検討となったが、まもなく11月。来年度を見極める時期だ。予算が立たなくても、担当課は来年度のイメージを決める。やるべきだという気持ちもある。さて。
明日、障リハ国際シンポに行った帰り、以前立ち消えになっていたパンフ出版の件で編集者と会う。99%ダメになっている話だが1%に賭けてみるつもり。僕の話は、他の話よりは初期設備費がかからない。しかし、人のネットワークの拡がりが生まれてこないと枯渇してしまう。現状がただ事ではないほどの困難が控え、構想が非常識かもしれない。しかし、構想の基本線が通れば、発想は全国に拡がる。
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翔の会チャリティ上映「誰も知らない」14時上映に参加した。どういう観点で翔の会がこの作品を選んだのか、わからなかったが、絵が荒っぽいドキュメントだったにも関わらず、よく練られた心理描写の作品であり、観点が違えば恐ろしく見え方が変わる作品。
●「誰も知らない」オフィシャル・サイト
http://www.kore-eda.com/daremoshiranai/#
この中に不登校の少女がでてくる。親のいない子の家族の中にいつの間にか入り込んで、淡々と死体遺棄までも手伝う仲になっている。この寄る辺無い乾いた感性が、僕の夜の傾聴相手とよく似ている。
子どもだけの家族への情緒的な介入を拒否する映像が、綿密に繰り返されていた。画面3分の1を近景の陰にあて、遠景で出来事が起きる。観客は覗き見の位置に固定化され、参加は拒まれる。
昔の社会派の映画は告発型の社会倫理に訴える方法を取った。固定した社会規範があり、その結論を前提に観客を誘導した。観客は情緒的に誘導される烏合の衆、今からみれば失礼千万な位置にあった。観客は参加し考える存在なのだ。その意味で是枝作品は納得。
崩壊の予感から、子どもの死を通して再び循環の輪へという結末は、親の責任問題を超え、ひとの生活を分断した現代社会の茫漠とした土ぼこりの風を同時代人として浴びている、そういうやりきれなさを味わった。
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10/17(月)の保健福祉部+少子高齢部合同課長クラスと、まち研有志市民団体との懇談会の会合合同メモのゲラがまわってきた。ニート・引きこもり問題の市行政側窓口について、検討して回答する旨の一文あり。前進!今後、提案が、市民経済部(産業振興課上部)と保健福祉部の横断懇談会になれば、意味が大きい。それはこれからの課題。
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中西さんが帰ってきた。ストリングラフィー演奏の上演日程が、来年3月25日(土)になった旨を伝える。子ども課から閑古鳥の悲鳴が入った11月13日のシンポ、当人はあっさりしたもの。保健所企画と時間が重なり、場所までお隣という悪条件。この辺の割り切りは、さっぱりしていて笑えるが、実はぞっとしている。ストリングラフィー動員力のこと。引きこもり側の活力が無い。どうしたものかと頭が痛い。
スタジオ・イブから大きなポスター2枚が届く。期待と憂鬱我に有りと太宰治風に。
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服部さん、よろしく。実は茅ケ崎市長も服部さん。ニート・引きこもりのことをどう裁くか、興味津々なのですが…理解に暗雲か?
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