鶴川君(仮名)が荒れている。本来の担当者が向かった。
昼食会後、相模大野へ。
厚木経由で寒川図書館・平塚図書館・調剤薬局(医院は休み)・サポセンへと。
木曜昼食会、女性センターロビーでぽつねんと食事。藤沢大庭図書館の待機は、不登校・引きこもりの当事者家族との学習相談だった。ただ今回は、この辺が混乱している。私は「わーく」の編集スタッフをしてみたいと思う引きこもり青年と出会うために、定点に立っている。しかしそのことも、私がここにいることすら、情報は当事者に届かないだろう。だから活動の常道では、関連活動を行い、その中で待機のことを伝えていく。もしこの関連活動が孤立し成り立たなくなるなら、チラシを撒こうがポスターを貼ろうが、存在は闇に消えてしまう。こういうときは、近隣活動の場にお邪魔して広告する。それもへたれたら、持久戦となる。
藤沢大庭図書館のはじめ1年は、まったくの空転だった。ともかく定時にそこにいて当事者を待つ。平日なのに時間をつぶしているようなローティーンズに声をかけた。嫌がられたが活動を拓くために藁をもつかむ思いだった。私の近隣には藤沢の関連活動があり、そこには集団があり活動があった。しかし私は特定の政党に属さない、というよりその価値観のつながりが閉鎖的に見えて、そこに属することを拒否した。対立するのどうのではなく、時代をステレオタイプで解釈してしまう転倒が嫌だった。ルーチンワークはそれなりの見返りが得られる。ところが類型からしかものを見なくなってしまう。
だから手元に「不登校・引きこもりの方の相談待機をしています」と書いた紙を置いて、ともかく図書館に足を運んだ。行政関連窓口を訪ねて、待機のことを伝えた。
ところがここにも行政の縦割り体質が邪魔をした。私の本拠は茅ヶ崎である。ところが茅ヶ崎市立図書館は話をしたり、学習指導したりしていると注意される。休憩室は喫煙所のような状態である。かと言って部屋を借りるということは、他者から見れば扉の向こうに見えなくなることであり、約束のない方との出会いを絶つことになってしまう。香川分館は公民館とつながっている分、場を使うことができたが、限られた地域の方しか利用していない難があった。藤沢も辻堂館は話すことが難しかった。ところが限られた地域の方の利用ではあったが藤沢大庭図書館はテーブルのある休憩室があり、近くには公民館とサイゼリヤがあった。そこで茅ヶ崎の住民ではあるが、大庭図書館を合流点にしたのだった。
行政は私が茅ヶ崎市民と知ると、話に消極的になった。なにより、相談が心理相談ではなく学習相談であることを嫌がった。「塾の勧誘」と見極めがつかなかったからだ。こうして月2回1年間20数回はむなしく過ぎて行った。
出会いの契機は、先方の家族が公民館で親の集まりを持ち、終了後サイゼリヤで食事をしたこと。待機を終えコーヒーを飲んでいる私と出会ったことだった。不登校の言葉に、私が声をかけた。それがきっかけとなった。偶然の出会いであるが、見方をかえれば、通っていたからこそ出会えたことだった。確かに行政窓口や、推進センター、教組などから情報を得る道はある。事実その可能性も追っていたが、「塾の勧誘」への警戒感と、私の実績がまた「塾」であることが邪魔をし続けていた。
このサイゼリヤの出会いから、相談は約4年続いた。そして当人の大学進学を最後に、この集団以降の新しい方と会えないまま、再び待機に入っている。背後に組織がないものは、この空転に負けたら何も始まらない。
だから待機から活動を広げるという発想は、組織を背後に持つ者の発想といえる。つながる企画を組織していかなくては、待機の時は膨大なものになってしまう。引きこもる方も互いにつながるのが下手な方だ。当事者同士複数につながる壁は企画の力抜きには越えられないと思っていい。その企画をどこからどうつくるのか。フリースペース論は、だからここで登場する。しかし私は3回の失敗で資本を数百万失っている。(一度にではないから目立たないだけだ。)初動資金と人をどこでどう得るかということで、19年の塾を閉じてから15年、さまよい続けている。
私の雇用先はそういう経過を知っている。だから私の活動を持ち込まないことを条件に採用されている。ここに矛盾がある。当事者と出会いながら、それを活動につなげていくことができない。ただ大田・品川の子達は友人の塾の紹介だ。だから自由さはあるが彼らとて湘南は遠い。
だから仕切りなおしは茅ヶ崎にこだわった。女性センターは彼らが出入りするところではないから、近々場所代えをするが、さて一本釣り風の適地はあるだろうか。悩むところではある。
この木曜昼食会は私の定点である。ここに行けば出会える場。問題は平行して行う中心課題、企画活動である。就労支援PJ、そしてフォーラム懇談会である。このいずれも当事者活動とセイフティネットを生み出すための模索を積み重ねる力が弱い。自分の領域以外の話題には、なかなか広がらない。この線をどう越えていくか、そして「実現のための資力それをソーシャル・ファーム型に置く」と言っても、現実には個人資本持ち出しによって支えれている現状では、周囲はリアリティを持たないだろう。この社会的企業の手法の検討が公民権(話題化)を得るには時間がかかるだろう。
その難関は、夢物語には付き合わないという遮断だ。これは夢物語ではないことがわかるとき、それは私の話の影響というより、周辺にその動きがあちこちで始まったときだろう。ことは準備をしっかりと作っていくこと。だから企業接触や市場調査をまずは加速して蓄積していく。これは結局私個人がやる以外ないだろう。どうじに、新しい活動へと橋渡ししていく、一緒にやっていける過渡期の活動を生み出すこと。蛇が自分の尻尾を飲むような循環論法だが、結局はここだ。
金がないから空間が得られない。そこの運営をはみ出す活動を描くのが私の役割だから、フリースペースは任せられる専業チームがいる。運営に飲み込まれず活動するには、どうしたらいいか。既存の組織の連絡会の形から育てる方法が成り立たない以上、実務者ネットは彼方に去ってしまった。地域の絵は、PJに返されている。
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今日は10時から、方針をめぐって話し合う。当事者活動のことでKさんが話してくれることになったが、論点はますます拡散するだろう。また朝が来た。このまま会に出る。腹くくりつつ、迷いつつ。
夜間傾聴:自由が丘君(仮名)
町田さん(仮名>今夜まで待ってもらった)
鶴川君(仮名)担当者
(校正2回目済み)
昼食会後、相模大野へ。
厚木経由で寒川図書館・平塚図書館・調剤薬局(医院は休み)・サポセンへと。
木曜昼食会、女性センターロビーでぽつねんと食事。藤沢大庭図書館の待機は、不登校・引きこもりの当事者家族との学習相談だった。ただ今回は、この辺が混乱している。私は「わーく」の編集スタッフをしてみたいと思う引きこもり青年と出会うために、定点に立っている。しかしそのことも、私がここにいることすら、情報は当事者に届かないだろう。だから活動の常道では、関連活動を行い、その中で待機のことを伝えていく。もしこの関連活動が孤立し成り立たなくなるなら、チラシを撒こうがポスターを貼ろうが、存在は闇に消えてしまう。こういうときは、近隣活動の場にお邪魔して広告する。それもへたれたら、持久戦となる。
藤沢大庭図書館のはじめ1年は、まったくの空転だった。ともかく定時にそこにいて当事者を待つ。平日なのに時間をつぶしているようなローティーンズに声をかけた。嫌がられたが活動を拓くために藁をもつかむ思いだった。私の近隣には藤沢の関連活動があり、そこには集団があり活動があった。しかし私は特定の政党に属さない、というよりその価値観のつながりが閉鎖的に見えて、そこに属することを拒否した。対立するのどうのではなく、時代をステレオタイプで解釈してしまう転倒が嫌だった。ルーチンワークはそれなりの見返りが得られる。ところが類型からしかものを見なくなってしまう。
だから手元に「不登校・引きこもりの方の相談待機をしています」と書いた紙を置いて、ともかく図書館に足を運んだ。行政関連窓口を訪ねて、待機のことを伝えた。
ところがここにも行政の縦割り体質が邪魔をした。私の本拠は茅ヶ崎である。ところが茅ヶ崎市立図書館は話をしたり、学習指導したりしていると注意される。休憩室は喫煙所のような状態である。かと言って部屋を借りるということは、他者から見れば扉の向こうに見えなくなることであり、約束のない方との出会いを絶つことになってしまう。香川分館は公民館とつながっている分、場を使うことができたが、限られた地域の方しか利用していない難があった。藤沢も辻堂館は話すことが難しかった。ところが限られた地域の方の利用ではあったが藤沢大庭図書館はテーブルのある休憩室があり、近くには公民館とサイゼリヤがあった。そこで茅ヶ崎の住民ではあるが、大庭図書館を合流点にしたのだった。
行政は私が茅ヶ崎市民と知ると、話に消極的になった。なにより、相談が心理相談ではなく学習相談であることを嫌がった。「塾の勧誘」と見極めがつかなかったからだ。こうして月2回1年間20数回はむなしく過ぎて行った。
出会いの契機は、先方の家族が公民館で親の集まりを持ち、終了後サイゼリヤで食事をしたこと。待機を終えコーヒーを飲んでいる私と出会ったことだった。不登校の言葉に、私が声をかけた。それがきっかけとなった。偶然の出会いであるが、見方をかえれば、通っていたからこそ出会えたことだった。確かに行政窓口や、推進センター、教組などから情報を得る道はある。事実その可能性も追っていたが、「塾の勧誘」への警戒感と、私の実績がまた「塾」であることが邪魔をし続けていた。
このサイゼリヤの出会いから、相談は約4年続いた。そして当人の大学進学を最後に、この集団以降の新しい方と会えないまま、再び待機に入っている。背後に組織がないものは、この空転に負けたら何も始まらない。
だから待機から活動を広げるという発想は、組織を背後に持つ者の発想といえる。つながる企画を組織していかなくては、待機の時は膨大なものになってしまう。引きこもる方も互いにつながるのが下手な方だ。当事者同士複数につながる壁は企画の力抜きには越えられないと思っていい。その企画をどこからどうつくるのか。フリースペース論は、だからここで登場する。しかし私は3回の失敗で資本を数百万失っている。(一度にではないから目立たないだけだ。)初動資金と人をどこでどう得るかということで、19年の塾を閉じてから15年、さまよい続けている。
私の雇用先はそういう経過を知っている。だから私の活動を持ち込まないことを条件に採用されている。ここに矛盾がある。当事者と出会いながら、それを活動につなげていくことができない。ただ大田・品川の子達は友人の塾の紹介だ。だから自由さはあるが彼らとて湘南は遠い。
だから仕切りなおしは茅ヶ崎にこだわった。女性センターは彼らが出入りするところではないから、近々場所代えをするが、さて一本釣り風の適地はあるだろうか。悩むところではある。
この木曜昼食会は私の定点である。ここに行けば出会える場。問題は平行して行う中心課題、企画活動である。就労支援PJ、そしてフォーラム懇談会である。このいずれも当事者活動とセイフティネットを生み出すための模索を積み重ねる力が弱い。自分の領域以外の話題には、なかなか広がらない。この線をどう越えていくか、そして「実現のための資力それをソーシャル・ファーム型に置く」と言っても、現実には個人資本持ち出しによって支えれている現状では、周囲はリアリティを持たないだろう。この社会的企業の手法の検討が公民権(話題化)を得るには時間がかかるだろう。
その難関は、夢物語には付き合わないという遮断だ。これは夢物語ではないことがわかるとき、それは私の話の影響というより、周辺にその動きがあちこちで始まったときだろう。ことは準備をしっかりと作っていくこと。だから企業接触や市場調査をまずは加速して蓄積していく。これは結局私個人がやる以外ないだろう。どうじに、新しい活動へと橋渡ししていく、一緒にやっていける過渡期の活動を生み出すこと。蛇が自分の尻尾を飲むような循環論法だが、結局はここだ。
金がないから空間が得られない。そこの運営をはみ出す活動を描くのが私の役割だから、フリースペースは任せられる専業チームがいる。運営に飲み込まれず活動するには、どうしたらいいか。既存の組織の連絡会の形から育てる方法が成り立たない以上、実務者ネットは彼方に去ってしまった。地域の絵は、PJに返されている。
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今日は10時から、方針をめぐって話し合う。当事者活動のことでKさんが話してくれることになったが、論点はますます拡散するだろう。また朝が来た。このまま会に出る。腹くくりつつ、迷いつつ。
夜間傾聴:自由が丘君(仮名)
町田さん(仮名>今夜まで待ってもらった)
鶴川君(仮名)担当者
(校正2回目済み)