2013/09/23 記
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咳き込みがひどくなり、熱(37.6℃)があるので墓参は中止となった。台風が天気図に登場すると、喘息や風邪を引く癖が子どもの頃にあったが、この歳になって復活するとは、思わなかった。さすがに家事を手抜きしても文句をいわれずに済んだ。
27日がボランティア塾の締め切りである。相棒が得られそうも無いが、助手がいる。変則的だが、鶴嶺高生を2名、準備段階からお手伝い願うことにした。またもめるのだろう。
被災時、中学生はクラス単位で、お手伝い願うパターンが増えるだろう。地域と学習集団が私学を除いて重なっているからだ。ところが、避難所や仮設住宅での避難生活の中では、肝心の大学生・高校生は彼の居住地と学習集団が重ならない。このため、ボランティア参加するには、個々人が大人ボランティア集団に飛び込まなくてはならない。ここに高いハードルが存在する。中間支援者が地元活動につなぐ作業が必要となる。
今回は、この辺のシュミレーションを行う。
私と議論し、仮想場面へと誘う相手がいる。それが高校生2名。
また、彼らは従来の友人と、避難生活という地域割りの知人とは違ってしまう。だから避難生活時の活動グループは、避難所を行き来して拠点避難所を決めて活動を行うが、そこには知人を事前につかんでおけば、自分の集団のイメージが沸く。これをもっていてほしいのだ。
そこで、なしうることを考えた。いろいろ活動があるから飛び込みなさいという紹介ではなく、誰か友達と組んで活動につながりなさいという、一歩具体的な提案を行いたい。
被災地で見聞きした高校生の活動は、休校中という制限下、自主学習という縛りがかけれることが多かった。交通遮断をものともせず、高校またはその近くにあつまり、部活のある子は部活を、仲良し集団でおしゃべりをして日をすごす子がいる一方、避難所運営に飛び込んだり、外での大人の手伝いをしている子もいた。学校生活がモラトリアム的な性格を持つがゆえに、大人の営みと分離したまま、受身の高校生が多かったのも事実だった。高校生を家庭に帰し、再建活動の営みの中に自らの立場を体験的につかんでいく大きな実験場が被災地なのだというセンスを大人は持つ必要がある。災害ユートピアに語られる「必要とされる体験」を得る貴重な場面なのだということを踏まえて、彼らの自立活動デザインへと彼らを誘う試みがいる。
彼らの自己表現も、場の制限下で育てるべきだし、参加を個々人の決意による営みとするのではなく、数名規模の行動集団を形成していく誘いを行っていくのだ。
さて提案、高校生に通じるだろうか。
夜間傾聴>ひとり
(校正2回目済み)
2013/05/17 記
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市役所の高齢福祉介護課父の移動の始末の件で相談に行っていた。帰りに市社協にビッグイシューを届け、3箇所ペットレスキュー支援紙をクリニックの貼らせてもらう。藤沢税務署にでかけ、相談を受ける。本数の少ない路線バスで、父の特養の近くに向かい、そこから歩く。行き違いで、不足していた印鑑や介護保健証を持ち込むことになっていたからだ。バスの時刻が父との面会を拒んでいた。バスに競歩で乗り込み、辻堂駅へ。
辻堂図書館で書籍更新。茅ヶ崎に出て糖尿病の治療薬を処方してもらうために、主治医の医院へ。買い出しをして家に戻ると浜見平の++さんが目の前に。父の在宅介護していたときに、お手伝いしてくださった母の友人だった。夕食をともにし、食器を洗ってやっと一息をつくと、21時になろうとしていた。うんざりとした気分が私を包んでいた。まるでマラソンである。
切り替えのため、仮眠1時間。
気分を変えて傾聴開始までに、ストレッチ。
懇談型講演会の講師候補選択。>障がい者フォーラム岩手の**さん追加
「訪問看護と介護 2013/03」誌の再チェック。
図書館で借りた「不埒な希望―ホームレス/寄せ場をめぐる社会学」をざっとチェック。メール応答。母が珍しく茶の間から去ったので、PC持ち込み、作業開始。
ーーーーーーーーーーーーー
深夜の傾聴待機は十年前を頂点にしながら、徐々に固定会員の夜間サポートに変わっていった。今日も%%君の様子を作業をしながら緩やかに見守っている。気を入れれば彼の負担となるからだ。
先日、以前東京の社協の会合で知り合った、命の電話の@@先生からメールが飛び込み、会員専用携帯の番号を伝えた。その後、音声で話し合うことができたのだが、先生のお話は、命の電話の講習を受けて、サポート会員にならないかというお誘いだった。結果からすると、私はここに全力をかけるスタイルは、本来私が願うことを具現する活動形態ではないので、お断りさせていただいたのだが、この夜間傾聴の世界は、公開すれば津波のように、対話を望む方が押しよせる。組織ではない個人が支える運営はむずかしい。またニーズが差別のスティグマから家計困窮の課題まで含むので、神経症を含む心身障がいの青少年の生きづらさへの伴走に的を絞りきれない難がある。加えて私の関心事の社会的弱者の社会参加の協働像が、社会活動としてではなく、個人救済に収束してしまうからだった。正誤というよりスタンスが違うのだ。
作業は教室からの持ち帰り作業だったり、社会活動の準備や、関連読書・ネット探索だったりする。音を絞って狙いの番組を見ていることもある。医療・福祉・教育系と震災関連のドキュメントが大半。ところが今夜(5/18am)は、珍しく「涙の書 ~作曲家タン・ドゥンの世界~」を見ていた。世の中にひしめく生活音や自然音に感覚の断片を感じ取り、織物をつくるように、表現に組み込んで曲をつくる譚盾(タン・ドゥン)の「女書」と家に嫁ぐ女性たちから起こした組曲制作のドキュメント(再放送)だった。2回目なので、ぼんやりと傍らの画面をみていると「涙の書」が始まった。
前回気づかなかったのだが、女書の歌詞を歌う女性たちの記録取材が組曲作りの協力者の取材へと変容し、水辺で洗濯する女性たちの歌声をロックに乗せるという場面があった。違和感があった。伝統的に受け継がれて来た女性の歌が、作曲者の構想に基づいた演出体験をすることで、伝統的な曲相が影響を受ける。私なら記録取材に止め、スタジオで目的に沿って編集するだろう。つまり関わる側が、日々生成し継承される伝統文化に参与するのだ。このことは、音楽に関わる仕事に限らず、カウンセリングの世界でも、リード役をすれば、絆は切れる。解決するのは彼であり、彼が参加する環境との関わりのレスポンスの力だからだ。
p.s. 帰宅時、ポルトに立ち寄り、ビッグイシュー誌配達。
iPhne用アプリに「標高測定機」という無料アプリ発見。震災ボランティア用に使えそうだ。GPS機能から算出。
(校正2回目済み)
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市役所の高齢福祉介護課父の移動の始末の件で相談に行っていた。帰りに市社協にビッグイシューを届け、3箇所ペットレスキュー支援紙をクリニックの貼らせてもらう。藤沢税務署にでかけ、相談を受ける。本数の少ない路線バスで、父の特養の近くに向かい、そこから歩く。行き違いで、不足していた印鑑や介護保健証を持ち込むことになっていたからだ。バスの時刻が父との面会を拒んでいた。バスに競歩で乗り込み、辻堂駅へ。
辻堂図書館で書籍更新。茅ヶ崎に出て糖尿病の治療薬を処方してもらうために、主治医の医院へ。買い出しをして家に戻ると浜見平の++さんが目の前に。父の在宅介護していたときに、お手伝いしてくださった母の友人だった。夕食をともにし、食器を洗ってやっと一息をつくと、21時になろうとしていた。うんざりとした気分が私を包んでいた。まるでマラソンである。
切り替えのため、仮眠1時間。
気分を変えて傾聴開始までに、ストレッチ。
懇談型講演会の講師候補選択。>障がい者フォーラム岩手の**さん追加
「訪問看護と介護 2013/03」誌の再チェック。
図書館で借りた「不埒な希望―ホームレス/寄せ場をめぐる社会学」をざっとチェック。メール応答。母が珍しく茶の間から去ったので、PC持ち込み、作業開始。
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深夜の傾聴待機は十年前を頂点にしながら、徐々に固定会員の夜間サポートに変わっていった。今日も%%君の様子を作業をしながら緩やかに見守っている。気を入れれば彼の負担となるからだ。
先日、以前東京の社協の会合で知り合った、命の電話の@@先生からメールが飛び込み、会員専用携帯の番号を伝えた。その後、音声で話し合うことができたのだが、先生のお話は、命の電話の講習を受けて、サポート会員にならないかというお誘いだった。結果からすると、私はここに全力をかけるスタイルは、本来私が願うことを具現する活動形態ではないので、お断りさせていただいたのだが、この夜間傾聴の世界は、公開すれば津波のように、対話を望む方が押しよせる。組織ではない個人が支える運営はむずかしい。またニーズが差別のスティグマから家計困窮の課題まで含むので、神経症を含む心身障がいの青少年の生きづらさへの伴走に的を絞りきれない難がある。加えて私の関心事の社会的弱者の社会参加の協働像が、社会活動としてではなく、個人救済に収束してしまうからだった。正誤というよりスタンスが違うのだ。
作業は教室からの持ち帰り作業だったり、社会活動の準備や、関連読書・ネット探索だったりする。音を絞って狙いの番組を見ていることもある。医療・福祉・教育系と震災関連のドキュメントが大半。ところが今夜(5/18am)は、珍しく「涙の書 ~作曲家タン・ドゥンの世界~」を見ていた。世の中にひしめく生活音や自然音に感覚の断片を感じ取り、織物をつくるように、表現に組み込んで曲をつくる譚盾(タン・ドゥン)の「女書」と家に嫁ぐ女性たちから起こした組曲制作のドキュメント(再放送)だった。2回目なので、ぼんやりと傍らの画面をみていると「涙の書」が始まった。
前回気づかなかったのだが、女書の歌詞を歌う女性たちの記録取材が組曲作りの協力者の取材へと変容し、水辺で洗濯する女性たちの歌声をロックに乗せるという場面があった。違和感があった。伝統的に受け継がれて来た女性の歌が、作曲者の構想に基づいた演出体験をすることで、伝統的な曲相が影響を受ける。私なら記録取材に止め、スタジオで目的に沿って編集するだろう。つまり関わる側が、日々生成し継承される伝統文化に参与するのだ。このことは、音楽に関わる仕事に限らず、カウンセリングの世界でも、リード役をすれば、絆は切れる。解決するのは彼であり、彼が参加する環境との関わりのレスポンスの力だからだ。
p.s. 帰宅時、ポルトに立ち寄り、ビッグイシュー誌配達。
iPhne用アプリに「標高測定機」という無料アプリ発見。震災ボランティア用に使えそうだ。GPS機能から算出。
(校正2回目済み)
2013/05/02 記
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父の実家の伯父が昼過ぎに亡くなった。享年92才。癌の骨転移に苦しんだ。伯母の後を追うような往生だった。緩和ケアはまさに椿の花が突然落ちるような最後を迎えることになる。
今日NHKの「あの日 わたしは 証言記録 東日本大震災」は、丁度、山田町の「老人介護施設 シーサイドかろ」の職員・上野司さんの証言を伝えていた。3.11海に近い施設「シーサイドかろ」は、デイサービス利用者は無事だったが、96名の入所者中74名が津波の犠牲になった。寝たきりの方は全滅、職員を含むと88名の方が亡くなったという。上野さんは、これからの老人介護施設は高台に作らねばならないでしょうと語る。
今まで寝たきり高齢者の避難の件を考えてきたが、それが伯父の臨終の眼差しの印象が重なり、突然、天然色になったように感じる。目を見開き、私を見つめている眼差しは、私を突き抜けて夢の世界を見つめていた。漂うのではなく、見たものが理解できない眼差し。
今夜は従兄弟が葬儀の調整に奔走しているはずだ。父の実家は代替わりする。今の父にどう語ろうかと悩む。災害ボランティアを行っていると、ひとの死が身近に登場する。仮設の中の仏壇は火を避けるために、LED光源の揺らがないロウソクの光が妙に生々しく感じられたことを思い出した。津波に汚され、ところどころ擦り切れ折れ目のついたスナップ写真。そんな経験がバックラッシュを起こして蘇ってきた。
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連休明けがおそらく葬儀だ。興奮して能弁になっていた母が、やっと眠った。明日はたぶん母は起きてこないだろう。
「災害時の遺体管理」(ISBN: 978-4-903997-03-2)という書籍がある。アメリカ保健機構の著作だ。災害ボランティアをしているときに、私たちは誰の顔を思い浮かべているだろう。郷里の高齢のご両親や親戚、あるいは我が子や連れ合いかもしれない。車や家屋・樹木の一切に至る津波の根こそぎ破壊の現状に、いいしれぬ怒りに似た悲しみに突き動かされているかもしれない。しかし、私はそれに加えて命を断ち切られていく人の表情が見える。生ある者から、死を迎えた者までが脳裏を通り過ぎていく。
この著作は行政・医療・消防・葬儀関係者の専門職向けに書かれているが、その内容は遺体の原型保全と集団管理のテクニカルな話の中に、モノとしての遺体感覚に滑り込んでいかないように、眠りに就いた人の尊厳を端々に織り込んでいる。
人生が引きちぎられていく不条理の背後の死者の眼差しは、日常生活まで連綿として連なっている。生を全うしていくということは、高貴な真理実現なのではなく、日々の生の貴重さと連綿と受け継がれていくひとの共感の中に、死をやがて迎えるものとして受け入れていく営みが突然遮断されたことへの悲しい怒りだ。
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育成会の**さんと話し合った。ひとつは「障害者の避難生活への支援」という東北の被災障がい者への継続支援にまつわる話。これは若干の進展があった。災害の際、目に見える形で生死を分ける困難に直面する身体障がい・重篤な知的または発達障がいの当事者団体の方々に「避難生活の実情」の映画上映を勧めていくこと。現在候補になっている作品3本について、関係者が検討することが伝わった。
ただ「やさしいハンカチ展」については、「茅ヶ崎」というよりは「湘南」のくくりが必要で、現在その規模の活動を支えられる現状にはないこと。予算組も含んで、障がい畑を超えた協力者を得ていく必要があるという話となった。ここで私は、中間支援者として、活動をつなぐ活動から降り、活動を生み出していく立場に転換することになった。空転行脚が再び始まる。
非被災地における東北被災者、特に要援護者継続支援をいかに形にしていくかということと、要援護者の地域防災について、チームをどうつくるかということ、この2つの課題を、まずは出発の形として突出させていくこと。
伯父の生涯を反芻しながら、「誰の笑顔も生み出さない活動」というレッテルを無化する、活動の論拠を探っている。
夜間傾聴>ひとり(昨日から緊急対応・塾長担当へ)
(校正2回目済み)
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父の実家の伯父が昼過ぎに亡くなった。享年92才。癌の骨転移に苦しんだ。伯母の後を追うような往生だった。緩和ケアはまさに椿の花が突然落ちるような最後を迎えることになる。
今日NHKの「あの日 わたしは 証言記録 東日本大震災」は、丁度、山田町の「老人介護施設 シーサイドかろ」の職員・上野司さんの証言を伝えていた。3.11海に近い施設「シーサイドかろ」は、デイサービス利用者は無事だったが、96名の入所者中74名が津波の犠牲になった。寝たきりの方は全滅、職員を含むと88名の方が亡くなったという。上野さんは、これからの老人介護施設は高台に作らねばならないでしょうと語る。
今まで寝たきり高齢者の避難の件を考えてきたが、それが伯父の臨終の眼差しの印象が重なり、突然、天然色になったように感じる。目を見開き、私を見つめている眼差しは、私を突き抜けて夢の世界を見つめていた。漂うのではなく、見たものが理解できない眼差し。
今夜は従兄弟が葬儀の調整に奔走しているはずだ。父の実家は代替わりする。今の父にどう語ろうかと悩む。災害ボランティアを行っていると、ひとの死が身近に登場する。仮設の中の仏壇は火を避けるために、LED光源の揺らがないロウソクの光が妙に生々しく感じられたことを思い出した。津波に汚され、ところどころ擦り切れ折れ目のついたスナップ写真。そんな経験がバックラッシュを起こして蘇ってきた。
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連休明けがおそらく葬儀だ。興奮して能弁になっていた母が、やっと眠った。明日はたぶん母は起きてこないだろう。
「災害時の遺体管理」(ISBN: 978-4-903997-03-2)という書籍がある。アメリカ保健機構の著作だ。災害ボランティアをしているときに、私たちは誰の顔を思い浮かべているだろう。郷里の高齢のご両親や親戚、あるいは我が子や連れ合いかもしれない。車や家屋・樹木の一切に至る津波の根こそぎ破壊の現状に、いいしれぬ怒りに似た悲しみに突き動かされているかもしれない。しかし、私はそれに加えて命を断ち切られていく人の表情が見える。生ある者から、死を迎えた者までが脳裏を通り過ぎていく。
この著作は行政・医療・消防・葬儀関係者の専門職向けに書かれているが、その内容は遺体の原型保全と集団管理のテクニカルな話の中に、モノとしての遺体感覚に滑り込んでいかないように、眠りに就いた人の尊厳を端々に織り込んでいる。
人生が引きちぎられていく不条理の背後の死者の眼差しは、日常生活まで連綿として連なっている。生を全うしていくということは、高貴な真理実現なのではなく、日々の生の貴重さと連綿と受け継がれていくひとの共感の中に、死をやがて迎えるものとして受け入れていく営みが突然遮断されたことへの悲しい怒りだ。
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育成会の**さんと話し合った。ひとつは「障害者の避難生活への支援」という東北の被災障がい者への継続支援にまつわる話。これは若干の進展があった。災害の際、目に見える形で生死を分ける困難に直面する身体障がい・重篤な知的または発達障がいの当事者団体の方々に「避難生活の実情」の映画上映を勧めていくこと。現在候補になっている作品3本について、関係者が検討することが伝わった。
ただ「やさしいハンカチ展」については、「茅ヶ崎」というよりは「湘南」のくくりが必要で、現在その規模の活動を支えられる現状にはないこと。予算組も含んで、障がい畑を超えた協力者を得ていく必要があるという話となった。ここで私は、中間支援者として、活動をつなぐ活動から降り、活動を生み出していく立場に転換することになった。空転行脚が再び始まる。
非被災地における東北被災者、特に要援護者継続支援をいかに形にしていくかということと、要援護者の地域防災について、チームをどうつくるかということ、この2つの課題を、まずは出発の形として突出させていくこと。
伯父の生涯を反芻しながら、「誰の笑顔も生み出さない活動」というレッテルを無化する、活動の論拠を探っている。
夜間傾聴>ひとり(昨日から緊急対応・塾長担当へ)
(校正2回目済み)
2013/04/30 記
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ここ2日、穴をあけていた生業の訪問指導を行った。私の事情に沿って、何段か予定を積み重ねられればいいが、先方にも都合がある。結局、訪問指導は1件。相模原や一部八王子もふくむ地域なので交通費がかさむ。
連休中なので、父親と話すこともできた。某政党の中小企業関係組合の関係者なので、すぐに靖国参拝の話が出たり、在日コリアンの話が出たりする。私にも持論がある。しかし深入りすると、どんどん息子さんの影が薄くなっていく。そのうち飲みましょうと、話をはぐらかせて、息子さんの指導に戻る。しかし、きな臭い時代だ。
我が家にはヘルパーさんが入っている。母の介護度によっているが、私の留守の間、母の居室中心の掃除を頼んでいるのだが、私は交通事故の後遺症で膝を砕いてから、正座といわゆるうんこ座り、膝立ちができないので、細かい床拭き掃除が出来ない。網膜色素変性症の関係で、針の糸通しのような細かい作業は、平常時にはできない。この穴をうめてもらっている。
帰宅途中母から電話、ヘルパーさんが帰ったから、近所の医師に行って薬をもらってくるという。嫌な予感がして、私が茅ヶ崎到着予定時刻から後も、医院にて待つようにと指示。昨夜、母は枕元の蛍光灯が切れたと、朝の5時前まで私に付き合って起きていた。こういう日の翌日は、ダンピングを起こしたり、転ぶ前科があったからだ。
母は医院の看護師さんと話しこんで無事だった。考えすぎかもしれない、いやきっとそうなのだ。安心して帰宅してすぐ、厨房から母の居室に入る部分で、母は悲鳴をあげて座り込んだ。枕元の蛍光灯が下ろされ、ヘルパーさんが蛍光灯を取り替えたらしい後が残っていた。普段はそこにはない電源コードが横断して足元にあった。
幸い難はなかったが、携帯電話を手元に置かない母のその位置は、固定電話まで遠く、来客のない我が家は、もし怪我をしたら、私の帰宅までそのままでいなければならないだろう。「入浴は私のいるときに」とは何回も言っていたが、一見健常に見える母でさえ、孤立の穴が空いている。孤独死とは、特殊なひとに起きることではなく、こうした加齢ゆえの出来事の延長上に起きている、連続したものだ。
浜竹の近くの母の友人は、夫に先立たれて単身生活を送っていた。その方は民生委員さんたちが、しょっちゅう覗いていたが、入湯したままこの世を去り、3日間放置されていた。こういうことが身近なところで起き、情報はブラインドされている。
こういうことを感じているからこそ、仮設住宅の避難所生活の中では、特異なことではなく、おこるべくして起こってくると思う。封じられ宙吊りの未来を抱え、足元の家計に火がつく状態に置かれていたら、自殺という意味ではなくとも、心身はもろくなっている。膨大な数の被災者の心身の健康をケア専門職の巡回に押し付けるのは酷だ。
母をベッドに誘導し、湿布を探している私に、感のいい母は、「こいつは誰の心配しているのか」と思っているに違いなかった。居心地の悪い背中の視線を感じ我に返ったのだが、母の向こうに被災高齢者の仮設住宅敷地のはずれで、遠い街中をぼんやり眺めていた何人もの孤立した高齢者の方々が重なってみえることもまた真実なのだ。
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夜中、母は私の喪服をいじっていた。気が早いよとたしなめつつ、高齢者の死の身近さに平然としている日常に、ため息が出る。月中に父が特養に移る。隙間を意識しないと社会活動が消える。育成会の**さんと明日会うが、時間と場所は前日にとした件を悔いている。連絡が取れないのだ。こうして時間が何気ない形で食いつぶされていく。焦るなと深呼吸をする。
夜間傾聴>なし
(校正2回目済み)
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ここ2日、穴をあけていた生業の訪問指導を行った。私の事情に沿って、何段か予定を積み重ねられればいいが、先方にも都合がある。結局、訪問指導は1件。相模原や一部八王子もふくむ地域なので交通費がかさむ。
連休中なので、父親と話すこともできた。某政党の中小企業関係組合の関係者なので、すぐに靖国参拝の話が出たり、在日コリアンの話が出たりする。私にも持論がある。しかし深入りすると、どんどん息子さんの影が薄くなっていく。そのうち飲みましょうと、話をはぐらかせて、息子さんの指導に戻る。しかし、きな臭い時代だ。
我が家にはヘルパーさんが入っている。母の介護度によっているが、私の留守の間、母の居室中心の掃除を頼んでいるのだが、私は交通事故の後遺症で膝を砕いてから、正座といわゆるうんこ座り、膝立ちができないので、細かい床拭き掃除が出来ない。網膜色素変性症の関係で、針の糸通しのような細かい作業は、平常時にはできない。この穴をうめてもらっている。
帰宅途中母から電話、ヘルパーさんが帰ったから、近所の医師に行って薬をもらってくるという。嫌な予感がして、私が茅ヶ崎到着予定時刻から後も、医院にて待つようにと指示。昨夜、母は枕元の蛍光灯が切れたと、朝の5時前まで私に付き合って起きていた。こういう日の翌日は、ダンピングを起こしたり、転ぶ前科があったからだ。
母は医院の看護師さんと話しこんで無事だった。考えすぎかもしれない、いやきっとそうなのだ。安心して帰宅してすぐ、厨房から母の居室に入る部分で、母は悲鳴をあげて座り込んだ。枕元の蛍光灯が下ろされ、ヘルパーさんが蛍光灯を取り替えたらしい後が残っていた。普段はそこにはない電源コードが横断して足元にあった。
幸い難はなかったが、携帯電話を手元に置かない母のその位置は、固定電話まで遠く、来客のない我が家は、もし怪我をしたら、私の帰宅までそのままでいなければならないだろう。「入浴は私のいるときに」とは何回も言っていたが、一見健常に見える母でさえ、孤立の穴が空いている。孤独死とは、特殊なひとに起きることではなく、こうした加齢ゆえの出来事の延長上に起きている、連続したものだ。
浜竹の近くの母の友人は、夫に先立たれて単身生活を送っていた。その方は民生委員さんたちが、しょっちゅう覗いていたが、入湯したままこの世を去り、3日間放置されていた。こういうことが身近なところで起き、情報はブラインドされている。
こういうことを感じているからこそ、仮設住宅の避難所生活の中では、特異なことではなく、おこるべくして起こってくると思う。封じられ宙吊りの未来を抱え、足元の家計に火がつく状態に置かれていたら、自殺という意味ではなくとも、心身はもろくなっている。膨大な数の被災者の心身の健康をケア専門職の巡回に押し付けるのは酷だ。
母をベッドに誘導し、湿布を探している私に、感のいい母は、「こいつは誰の心配しているのか」と思っているに違いなかった。居心地の悪い背中の視線を感じ我に返ったのだが、母の向こうに被災高齢者の仮設住宅敷地のはずれで、遠い街中をぼんやり眺めていた何人もの孤立した高齢者の方々が重なってみえることもまた真実なのだ。
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夜中、母は私の喪服をいじっていた。気が早いよとたしなめつつ、高齢者の死の身近さに平然としている日常に、ため息が出る。月中に父が特養に移る。隙間を意識しないと社会活動が消える。育成会の**さんと明日会うが、時間と場所は前日にとした件を悔いている。連絡が取れないのだ。こうして時間が何気ない形で食いつぶされていく。焦るなと深呼吸をする。
夜間傾聴>なし
(校正2回目済み)
2013/04/29 記
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社会活動の空転はいつものことと自分に言い聞かせつつ、気を取り直して伯父のホスピスを訪ねた。父方の親戚は父の宗教の法事荒らしへの反発と、私の奇行(ボランティアへの無理解)から縁が遠くなっていた。そんな関係からか、伯父に会っても悲しみは深くないドライな自分に呆れもする。
明るい個室に眠りこけている伯父の面影がやはり父に似ている。病室には誰もいない。深くしっかりとした呼吸、枕元のログを見てもバイタルは悪くない。今の状態なら激痛が襲っているはずなのに、緩和ケアとはこういうところなのかと、改めて感心する。麻酔薬の効果だ。椿の花のように、ある日突然花が落ちる。
伯父のいるワン・フロアーのどこの病室も親族の姿がない。午前中に来たのだろうか。
目を開けて、ルートがついていない側の手が宙を探っている。掌を包み声をかける。ナースセンターで、マスク着用を要求され、しぶしぶかけていたマスクをはずし、私であることを伯父に語りかけた。父と違い伯父の聴力は落ちていない。それにも関わらず私に向けられた視線は私を見ていなかった。
人間の重要な対人認識の特徴である「模倣」は残っている。うなづきながら問いかければ、私のうなづきにシンクロしながら伯父もうなづく。しかしそれには同意の意味はこめられていない。乳児の微笑みと同じく、相手を理解するために、共通の動作をし、そこから湧き上がる感情の記憶をさぐっている。喉の渇き、空腹感、視覚の効かぬ位置からの怒りのキャッチなど、乳幼児は鋭敏だ。大人になるにつれ、それは潜在化していくが無くなるわけではない。伯父のそれは乳幼児のそれのように、私を探る原始的な認識プロセスを踏んでいるのだった。
私の言葉は、おそらく伯父にとって意味をなしていないだろう。文節と関係なく私はうなづきを繰り返した。注視は長く続かないが、その範囲内で語りかけても、話と無関係に伯父はうなづいていた。推測だが声色、声の調子は伝わるかもしれない。しかし、伯父は私を固有名詞を持って眺めていないのがわかった。伯父が外してしまった酸素マスクをそっとかざしてみた。手はマスクに関心を示さなかった。
看護師の点滴チェックが入って、私は容態を看護師に訊いたが、医師の予約をしてくださいと断られた。ホスピスは、うかつに表現できないシビアなところなのかと、改めて思う。容態の急変したときの親族の怒りが看護師にふりかかる。祖母の臨終の日の介護も私が泊まっておこなった。生き物が無生物へと変容していく、微妙だが厳然とした変化。伯父もまた夢の中にいる。しかし座薬も効かなくなった祖父の憔悴しきった断末魔の姿、身をよじり歯が欠けるほど食いしばって血反吐のなかに死を迎えた母方の叔父とは違った、作られた静穏の中に伯父がいる。
身辺整理は行き届いているので、低い椅子をベッド脇まで寄せて、1時間ばかり昔の話題を語りかけた。ところどころ同意を得るようにして。しかしそれも伯父は10分弱で眠りに落ちた。眠る伯父に語り続けて、母の名代も果たしてきた。
入退出のログに署名しながら、親族のシフトの様子を聞いた。しかしそれも、守秘の壁に阻まれてしまった。私はスイカのカードを持ってきていた。介護に通院する際の交通費の足しにしてもらいたかったからだ。私は親族に会えなかったときのことを考えて、看護師に断られないように、作戦をたてていた。カードを封筒に入れ、「先日、親族に会ったとき、先方がカードを置き忘れて行ったが、返そうと持ってきたが会えなかった。私は遠方にいるので、あす親族が来た時に渡して欲しい」と嘘をついたのだった。勿論親族には、カードを預けた旨をメールしておいたのだが。
私は伯父に語りかけながら考えていた。こうしてひとの中にいて亡くなるのではなく、誰の目にも触れず、世間の谷間で忘れ去られ、亡くなっていく方の孤独のことだ。
辻堂の駅に現れ、しばらくの間、構内で過ごしていた**さんは、急に姿を消したと思ったら、早朝,酔って歩いていたところを日立市の路上でひき逃げされた。私の名刺を大事にしていてくれたので、そこから警察が私に連絡して、彼の消息がわかった。病院関係者の協力を得て、私も交えて親族探しをした結果、豊島区に遠縁がわかり、転院していく車内で、**さんは息を引き取った。警察からの連絡でそれがわかった。茅ヶ崎市の生活保護課の++さんと話したが、声が詰まってしまった。まさに犬死だったからだ。孤独死とは、誰の目からも外れて、ひとの谷間に死を迎える者とは限らない。ひとからひとの受け渡しの最中、誰にも心を通わせられずに他界する者もまた孤独死である。
母と辻堂で外食して帰宅したが、ずっしりとした疲れが襲ってきた。連休中、ご近所は朝が早い。私が寝るときに彼らは出かけていく。ここ数日、睡眠時間が4時間を切っていた。仮眠を1時間半ほど取る。作業が停滞している中でのことなので、なんとも言えない。
この時期、一般就労の3ヶ月目の転職変動到来には早いが、手帳を使った就労の場面も、リクルート業者の合同面接会が再開しはじめる。そのダイレクト広告が入ってきた。しかし、これはほとんどすべてが視覚障がいを除く身体障がい者を対象にしていると言っていい。
昨年は横浜会場に、一名相模原の塾から、塾長担当の成人女性が求職申請を出した。国籍は日本だがブラジル人とのハーフだったために、身体障がいの手帳を持っていながら、そちらの方で門前払いの辛い憂き目をみた。客相手ではないのに、軽いイントネーションの訛りから、職場の意思疎通を問われたという。
これから、数は少ないが補充募集なのか、合同相談会がときどき入るようになる。今年は精神障がいの方の求人が増えているが、影響を見ている。
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K2インターナショナルは、引きこもり青年の社会参画として、災害ボランティアに熱心だ。自分が必要とされている経験ができるからだ。
私が茅ヶ崎に拘束されているから、なおさらに思うのだが、被災地に災害ユートピアの体温が残るうちに、滞在計画をたてて行くといいと思っていて、候補はいないかと探っていた。塾のスタッフが、福島からの避難者が市内にいるからと、彼を連れて行って、彼は彼で、避難家族に何をしたらいいのかわからなかったと、現地出立の芽をつぶしてしまった。災害ユートピアは被災地だからこそ醸し出されるものなのに、スタッフは其の辺が理解できない。塾長のつてから多賀城市を紹介していたが、一度冷えた意欲を引き出しなおすのは困難だ。更なる誘いは同僚の誘いでもあればいいが、その同僚がいないのが引きこもり者の特徴だからだ。うーん、被災地体験のある協力者が欲しい。
薬剤師畑の講師を探している。被災時、内部障がいや、精神障がいの方、持病を持った特に高齢の方の治療薬ルートの確保は難しい。薬剤師会の方では、すでにマニュアルが出来ていると聞く。ここからの講師も考えたい。
夜間傾聴>なし
(校正2回目済み)
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社会活動の空転はいつものことと自分に言い聞かせつつ、気を取り直して伯父のホスピスを訪ねた。父方の親戚は父の宗教の法事荒らしへの反発と、私の奇行(ボランティアへの無理解)から縁が遠くなっていた。そんな関係からか、伯父に会っても悲しみは深くないドライな自分に呆れもする。
明るい個室に眠りこけている伯父の面影がやはり父に似ている。病室には誰もいない。深くしっかりとした呼吸、枕元のログを見てもバイタルは悪くない。今の状態なら激痛が襲っているはずなのに、緩和ケアとはこういうところなのかと、改めて感心する。麻酔薬の効果だ。椿の花のように、ある日突然花が落ちる。
伯父のいるワン・フロアーのどこの病室も親族の姿がない。午前中に来たのだろうか。
目を開けて、ルートがついていない側の手が宙を探っている。掌を包み声をかける。ナースセンターで、マスク着用を要求され、しぶしぶかけていたマスクをはずし、私であることを伯父に語りかけた。父と違い伯父の聴力は落ちていない。それにも関わらず私に向けられた視線は私を見ていなかった。
人間の重要な対人認識の特徴である「模倣」は残っている。うなづきながら問いかければ、私のうなづきにシンクロしながら伯父もうなづく。しかしそれには同意の意味はこめられていない。乳児の微笑みと同じく、相手を理解するために、共通の動作をし、そこから湧き上がる感情の記憶をさぐっている。喉の渇き、空腹感、視覚の効かぬ位置からの怒りのキャッチなど、乳幼児は鋭敏だ。大人になるにつれ、それは潜在化していくが無くなるわけではない。伯父のそれは乳幼児のそれのように、私を探る原始的な認識プロセスを踏んでいるのだった。
私の言葉は、おそらく伯父にとって意味をなしていないだろう。文節と関係なく私はうなづきを繰り返した。注視は長く続かないが、その範囲内で語りかけても、話と無関係に伯父はうなづいていた。推測だが声色、声の調子は伝わるかもしれない。しかし、伯父は私を固有名詞を持って眺めていないのがわかった。伯父が外してしまった酸素マスクをそっとかざしてみた。手はマスクに関心を示さなかった。
看護師の点滴チェックが入って、私は容態を看護師に訊いたが、医師の予約をしてくださいと断られた。ホスピスは、うかつに表現できないシビアなところなのかと、改めて思う。容態の急変したときの親族の怒りが看護師にふりかかる。祖母の臨終の日の介護も私が泊まっておこなった。生き物が無生物へと変容していく、微妙だが厳然とした変化。伯父もまた夢の中にいる。しかし座薬も効かなくなった祖父の憔悴しきった断末魔の姿、身をよじり歯が欠けるほど食いしばって血反吐のなかに死を迎えた母方の叔父とは違った、作られた静穏の中に伯父がいる。
身辺整理は行き届いているので、低い椅子をベッド脇まで寄せて、1時間ばかり昔の話題を語りかけた。ところどころ同意を得るようにして。しかしそれも伯父は10分弱で眠りに落ちた。眠る伯父に語り続けて、母の名代も果たしてきた。
入退出のログに署名しながら、親族のシフトの様子を聞いた。しかしそれも、守秘の壁に阻まれてしまった。私はスイカのカードを持ってきていた。介護に通院する際の交通費の足しにしてもらいたかったからだ。私は親族に会えなかったときのことを考えて、看護師に断られないように、作戦をたてていた。カードを封筒に入れ、「先日、親族に会ったとき、先方がカードを置き忘れて行ったが、返そうと持ってきたが会えなかった。私は遠方にいるので、あす親族が来た時に渡して欲しい」と嘘をついたのだった。勿論親族には、カードを預けた旨をメールしておいたのだが。
私は伯父に語りかけながら考えていた。こうしてひとの中にいて亡くなるのではなく、誰の目にも触れず、世間の谷間で忘れ去られ、亡くなっていく方の孤独のことだ。
辻堂の駅に現れ、しばらくの間、構内で過ごしていた**さんは、急に姿を消したと思ったら、早朝,酔って歩いていたところを日立市の路上でひき逃げされた。私の名刺を大事にしていてくれたので、そこから警察が私に連絡して、彼の消息がわかった。病院関係者の協力を得て、私も交えて親族探しをした結果、豊島区に遠縁がわかり、転院していく車内で、**さんは息を引き取った。警察からの連絡でそれがわかった。茅ヶ崎市の生活保護課の++さんと話したが、声が詰まってしまった。まさに犬死だったからだ。孤独死とは、誰の目からも外れて、ひとの谷間に死を迎える者とは限らない。ひとからひとの受け渡しの最中、誰にも心を通わせられずに他界する者もまた孤独死である。
母と辻堂で外食して帰宅したが、ずっしりとした疲れが襲ってきた。連休中、ご近所は朝が早い。私が寝るときに彼らは出かけていく。ここ数日、睡眠時間が4時間を切っていた。仮眠を1時間半ほど取る。作業が停滞している中でのことなので、なんとも言えない。
この時期、一般就労の3ヶ月目の転職変動到来には早いが、手帳を使った就労の場面も、リクルート業者の合同面接会が再開しはじめる。そのダイレクト広告が入ってきた。しかし、これはほとんどすべてが視覚障がいを除く身体障がい者を対象にしていると言っていい。
昨年は横浜会場に、一名相模原の塾から、塾長担当の成人女性が求職申請を出した。国籍は日本だがブラジル人とのハーフだったために、身体障がいの手帳を持っていながら、そちらの方で門前払いの辛い憂き目をみた。客相手ではないのに、軽いイントネーションの訛りから、職場の意思疎通を問われたという。
これから、数は少ないが補充募集なのか、合同相談会がときどき入るようになる。今年は精神障がいの方の求人が増えているが、影響を見ている。
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K2インターナショナルは、引きこもり青年の社会参画として、災害ボランティアに熱心だ。自分が必要とされている経験ができるからだ。
私が茅ヶ崎に拘束されているから、なおさらに思うのだが、被災地に災害ユートピアの体温が残るうちに、滞在計画をたてて行くといいと思っていて、候補はいないかと探っていた。塾のスタッフが、福島からの避難者が市内にいるからと、彼を連れて行って、彼は彼で、避難家族に何をしたらいいのかわからなかったと、現地出立の芽をつぶしてしまった。災害ユートピアは被災地だからこそ醸し出されるものなのに、スタッフは其の辺が理解できない。塾長のつてから多賀城市を紹介していたが、一度冷えた意欲を引き出しなおすのは困難だ。更なる誘いは同僚の誘いでもあればいいが、その同僚がいないのが引きこもり者の特徴だからだ。うーん、被災地体験のある協力者が欲しい。
薬剤師畑の講師を探している。被災時、内部障がいや、精神障がいの方、持病を持った特に高齢の方の治療薬ルートの確保は難しい。薬剤師会の方では、すでにマニュアルが出来ていると聞く。ここからの講師も考えたい。
夜間傾聴>なし
(校正2回目済み)
2013/04/28 記
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父の兄の病状が末期的だったが、緩和ケアで一時的に意識を取り戻していると連絡があったと、母。病院に行くために、訪問指導の日程替えや、授業の講師交代依頼など、慌ただしくしているうちに、母の買い物袋を預かっているからと、某タクシー会社から連絡が入った。母もまた、私の真似ではないが、乗ったタクシーの中に買い物袋を忘れていた。袋の中に母が投函しようとしていた封書があって、それで身元がわかった。よりによって藤沢のタクシーだった。私が昔、塾兼自然教室を営んでいた教室のそばだった。辺鄙な場所だ。
相模大野校の帰り、湘南台で下車、バスで営業所のそばのバス停で降り、買い物袋を回収した。そこに母から電話。月曜日、病院に私が行くと伝えておいたとの話。余計なことをしなければいいのに、私は母の封書を投函せねばと思い立ち、そこまではよかったのだが、まだアンケートの中身が書いていない私の大きな茶封筒を間違えて投函してしまった。日は暮れかかり、休日、諦めて辻堂に向かった。どうかしているのだ。
家に戻ると一通の葉書。寄稿依頼していた大船渡の元看護師さんからのものだった。私は、ボランティア参加している訪問看護活動の近況を描いて欲しいと伝えていたが、葉書には「津波に負けず、生きているよ」という彼女の祖父が孫を抱いているスナップ。仮設を出て、遠野の祖父の家に転居したという近況が描かれていた。通信原稿には厳しい内容。落胆を飲み込んで、今度、おじいちゃん(実は私より4つ年上)にインタビューさせて下さいねと応答メールを送信しておいた。虚しい。この伝わらぬ意図、急がば回れである。
「看護 2013/02号 "ともに歩む"東日本大震災 復興支援」を読み進めている。大槌町の記述に出会い、ネットワークの「拠点」のキーワードを開いている。的を射ている講師さがしの作業だが、非効率この上なし。
夜間傾聴:なし
(校正2回目済み)
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父の兄の病状が末期的だったが、緩和ケアで一時的に意識を取り戻していると連絡があったと、母。病院に行くために、訪問指導の日程替えや、授業の講師交代依頼など、慌ただしくしているうちに、母の買い物袋を預かっているからと、某タクシー会社から連絡が入った。母もまた、私の真似ではないが、乗ったタクシーの中に買い物袋を忘れていた。袋の中に母が投函しようとしていた封書があって、それで身元がわかった。よりによって藤沢のタクシーだった。私が昔、塾兼自然教室を営んでいた教室のそばだった。辺鄙な場所だ。
相模大野校の帰り、湘南台で下車、バスで営業所のそばのバス停で降り、買い物袋を回収した。そこに母から電話。月曜日、病院に私が行くと伝えておいたとの話。余計なことをしなければいいのに、私は母の封書を投函せねばと思い立ち、そこまではよかったのだが、まだアンケートの中身が書いていない私の大きな茶封筒を間違えて投函してしまった。日は暮れかかり、休日、諦めて辻堂に向かった。どうかしているのだ。
家に戻ると一通の葉書。寄稿依頼していた大船渡の元看護師さんからのものだった。私は、ボランティア参加している訪問看護活動の近況を描いて欲しいと伝えていたが、葉書には「津波に負けず、生きているよ」という彼女の祖父が孫を抱いているスナップ。仮設を出て、遠野の祖父の家に転居したという近況が描かれていた。通信原稿には厳しい内容。落胆を飲み込んで、今度、おじいちゃん(実は私より4つ年上)にインタビューさせて下さいねと応答メールを送信しておいた。虚しい。この伝わらぬ意図、急がば回れである。
「看護 2013/02号 "ともに歩む"東日本大震災 復興支援」を読み進めている。大槌町の記述に出会い、ネットワークの「拠点」のキーワードを開いている。的を射ている講師さがしの作業だが、非効率この上なし。
夜間傾聴:なし
(校正2回目済み)
2013/04/27 記
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連休が始まった。といっても生殺し状態はここ5年になる。だから連休といっても。普段の生活と代わり映えしない。親戚の葬儀が近いので、遠出もままならない。
NHKスペシャル「東日本大震災 ふるさとの記憶をつなぐ」を観た。私は陸前高田の枯れた一本松のモニュメント化に、違和感を感じている。地縁・コミュ二ティの統合の象徴であるというが、「なぜ今、建立なのか」がわからない。家族や家を失い、見えない近未来という状況、透析に遠方まで出かけねばならず、福島のように、母子を遠方避難させて、家族が離れ離れになっている「今」、それは地縁の絆の課題とは無縁とでもいうかのように、一本杉をたて、祭りに集中するその力の一部でも振り向けられないのかと、その影に男主導のケア無理解、しょうもなさを感じる。
しかし復興の影で、以前のまちに染み付いた日常生活の記憶の着陸の場のない悲しさ、無価値のようにまちが知らない町へと変貌していく、特に高齢の方の寂しさは、無視していいものではない。
京都大学防災研究所の宮本匠さんの被災者意識調査のモニタリングの映像が収められていた。縦軸に気持ちの高揚と落胆、横軸に月日を置いて、被災当事者の主観グラフを描いてもらう。これを「復興曲線」と呼ぶのだそうだが、そのグラフが、共通の波形を示すという。
被災>避難所生活>仮設生活>自営業の部分再開
(まちの復興進行)>落胆
という道筋で、急落したグラフが仮設入所で回復し、仕事が部分再開していくところで、仮設入所でV字復活し、まちの復興の進行の様子を見ながら、まちに刻まれた自分の生きてきた過程が失われるという喪失感を味わう。その喪失感は、被災し、ひとと家族を失った時点の悲しみよりも、深く下落しているところに特徴がある。
それほどに漂泊する日々の生活の、出口のない寂しさ・悲しみは深い。
ドキュメントは山田町の「『失われた街』模型復元プロジェクト」の公開の様子を捉えている。昔の映像資料から被災以前の山田町の1/500 発泡スチロール(石膏?)模型を被災者に公開して、我が家と街にまつわる思い出の場所に、色を塗ってもらう。
このとき、子どものような無邪気な表情に、被災者の表情が変わる。模型製作者は自宅の屋根に絵筆で彩色してもらう。思い出が一気に湧き上がり、笑顔の対話が始まる。思い出の場所には「干している魚を猫にとられた」というような、たわいのない記憶をプラ板に描いて、模型に差し込んでいく。白一色だった模型のあちこちに、血が流れいるように色彩が帰ってくる。じもとのほたてかっぱ神社が抜けていると指摘し、かっぱ音頭を踊りだす。抑圧された記憶が解凍された映像が続く。
私は無条件で地縁・血縁の絆を賞賛するものではない。しかし、ひとの生涯はまちと出来事の中に刻まれていく。その意味で、被災した体験の深い傷もまた、改めて感じている。
復興曲線が警告した2年目の落胆、これが孤立した単身者のもとでも影を落としていること、忘れてはないらないのだと思う。今、認知症となった高齢の方を地域医療が支えきれなくなっている。今回の連続セミナー(懇談会)の講師選びのなかで、某精神科病院の職員の方に交渉している中に、被災後の、行き場を失った高齢単身者の入院打診が増えているという話を聞いた。社会的隔離・病院という終の棲家の流れだ。
岩手県の介護度認定者数の2012年度統計では、介護度5・4が減り、要支援から要介護1・2の層が膨らんでいるという。避難所の劣悪な非プライベート生活(フーコーのパノプティコン)と硬い廊下と激しい室温変化等のストレス、狭い仮設の顔を突き合わせた高ストレス生活が、ストレスに弱いところから命の切り詰めにつながった結果だった。
私は偶然、2013/02/11付の朝日新聞の署名記事「被災地から 地域医療の疲弊あらわ」という宮城・南三陸駐在 伊藤喜之記者の記事を読んでいた。
診療所に、インフルエンザにかかったとして外来にやってきた患者がどのような治療経過をたどったかを書いたものだった。崩れていく地域医療の現実を指し示す静かなしかし恐ろしい内容の記事だった。
こうした地域医療と保健、単身者の孤立が、(今回は高齢者主で書いたが)医療ケア関係者に押し付けられている現状を放置してはならないだろう。我が家の模型に色付けしたときの笑顔はわかるのだ。しかし、忘れ去られてはならないものがいる事、非被災地有志がお手上げのまま、手の届く「防災」だと定形訓練に走るのは、いただけない。手立てを考えよう。継続支援のケア活動を考えよう。
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「看護」誌、2013.02号「"共に歩む"東日本大震災復興支援」号を読み始めている。訪問看護支援の話が主だが、訪問看護介護は、訪問看護師さんと保健師さんとの連携が一本化されていない状況も残されてるようで、復興支援員さんたちと巡回に協力する現地ボラと、非被災地支援者活動の企画をたてていくことの重要性。「孤立させるなよ、情けない…」これをたてていきたい。
連休は、障害者就労の合同面接会の再情報を聞くために、横浜を徘徊している。生業は今日・月曜・5/3が出勤、あとは、通信とハンカチ展の件で平塚・藤沢を回って関係者と会っている。
今日はこれから、ハンカチ展の原稿を書く。
夜間傾聴:橋本3君(母親)
ふたり
(校正1回目済み)
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連休が始まった。といっても生殺し状態はここ5年になる。だから連休といっても。普段の生活と代わり映えしない。親戚の葬儀が近いので、遠出もままならない。
NHKスペシャル「東日本大震災 ふるさとの記憶をつなぐ」を観た。私は陸前高田の枯れた一本松のモニュメント化に、違和感を感じている。地縁・コミュ二ティの統合の象徴であるというが、「なぜ今、建立なのか」がわからない。家族や家を失い、見えない近未来という状況、透析に遠方まで出かけねばならず、福島のように、母子を遠方避難させて、家族が離れ離れになっている「今」、それは地縁の絆の課題とは無縁とでもいうかのように、一本杉をたて、祭りに集中するその力の一部でも振り向けられないのかと、その影に男主導のケア無理解、しょうもなさを感じる。
しかし復興の影で、以前のまちに染み付いた日常生活の記憶の着陸の場のない悲しさ、無価値のようにまちが知らない町へと変貌していく、特に高齢の方の寂しさは、無視していいものではない。
京都大学防災研究所の宮本匠さんの被災者意識調査のモニタリングの映像が収められていた。縦軸に気持ちの高揚と落胆、横軸に月日を置いて、被災当事者の主観グラフを描いてもらう。これを「復興曲線」と呼ぶのだそうだが、そのグラフが、共通の波形を示すという。
被災>避難所生活>仮設生活>自営業の部分再開
(まちの復興進行)>落胆
という道筋で、急落したグラフが仮設入所で回復し、仕事が部分再開していくところで、仮設入所でV字復活し、まちの復興の進行の様子を見ながら、まちに刻まれた自分の生きてきた過程が失われるという喪失感を味わう。その喪失感は、被災し、ひとと家族を失った時点の悲しみよりも、深く下落しているところに特徴がある。
それほどに漂泊する日々の生活の、出口のない寂しさ・悲しみは深い。
ドキュメントは山田町の「『失われた街』模型復元プロジェクト」の公開の様子を捉えている。昔の映像資料から被災以前の山田町の1/500 発泡スチロール(石膏?)模型を被災者に公開して、我が家と街にまつわる思い出の場所に、色を塗ってもらう。
このとき、子どものような無邪気な表情に、被災者の表情が変わる。模型製作者は自宅の屋根に絵筆で彩色してもらう。思い出が一気に湧き上がり、笑顔の対話が始まる。思い出の場所には「干している魚を猫にとられた」というような、たわいのない記憶をプラ板に描いて、模型に差し込んでいく。白一色だった模型のあちこちに、血が流れいるように色彩が帰ってくる。じもとのほたてかっぱ神社が抜けていると指摘し、かっぱ音頭を踊りだす。抑圧された記憶が解凍された映像が続く。
私は無条件で地縁・血縁の絆を賞賛するものではない。しかし、ひとの生涯はまちと出来事の中に刻まれていく。その意味で、被災した体験の深い傷もまた、改めて感じている。
復興曲線が警告した2年目の落胆、これが孤立した単身者のもとでも影を落としていること、忘れてはないらないのだと思う。今、認知症となった高齢の方を地域医療が支えきれなくなっている。今回の連続セミナー(懇談会)の講師選びのなかで、某精神科病院の職員の方に交渉している中に、被災後の、行き場を失った高齢単身者の入院打診が増えているという話を聞いた。社会的隔離・病院という終の棲家の流れだ。
岩手県の介護度認定者数の2012年度統計では、介護度5・4が減り、要支援から要介護1・2の層が膨らんでいるという。避難所の劣悪な非プライベート生活(フーコーのパノプティコン)と硬い廊下と激しい室温変化等のストレス、狭い仮設の顔を突き合わせた高ストレス生活が、ストレスに弱いところから命の切り詰めにつながった結果だった。
私は偶然、2013/02/11付の朝日新聞の署名記事「被災地から 地域医療の疲弊あらわ」という宮城・南三陸駐在 伊藤喜之記者の記事を読んでいた。
診療所に、インフルエンザにかかったとして外来にやってきた患者がどのような治療経過をたどったかを書いたものだった。崩れていく地域医療の現実を指し示す静かなしかし恐ろしい内容の記事だった。
こうした地域医療と保健、単身者の孤立が、(今回は高齢者主で書いたが)医療ケア関係者に押し付けられている現状を放置してはならないだろう。我が家の模型に色付けしたときの笑顔はわかるのだ。しかし、忘れ去られてはならないものがいる事、非被災地有志がお手上げのまま、手の届く「防災」だと定形訓練に走るのは、いただけない。手立てを考えよう。継続支援のケア活動を考えよう。
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「看護」誌、2013.02号「"共に歩む"東日本大震災復興支援」号を読み始めている。訪問看護支援の話が主だが、訪問看護介護は、訪問看護師さんと保健師さんとの連携が一本化されていない状況も残されてるようで、復興支援員さんたちと巡回に協力する現地ボラと、非被災地支援者活動の企画をたてていくことの重要性。「孤立させるなよ、情けない…」これをたてていきたい。
連休は、障害者就労の合同面接会の再情報を聞くために、横浜を徘徊している。生業は今日・月曜・5/3が出勤、あとは、通信とハンカチ展の件で平塚・藤沢を回って関係者と会っている。
今日はこれから、ハンカチ展の原稿を書く。
夜間傾聴:橋本3君(母親)
ふたり
(校正1回目済み)
2013/04/26 記
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母が眼科の日だといいだして、「めまい再発」の翌日なので、行きだけ眼科に連れて行く。眼科の方でも「めまい」をチェックしてもらっているが、診察中発症しているわけではないし、原因は眼科的なものではないのではないかとの話もあって、眼内レンズの定期検査だけで、薬も一般的なものしかでなかったようだ。とにかく突然の症状で、尾をひくわけでもない、癲癇のような脳波異状もない。ただ胃切除の患者さんに、訴える人がいるという。
私も塾があるので、母は気分が悪ければ、タクシーで家に戻れと指示し、JR相模原に向かった。来月の予定を話し合っているところで、携帯が鳴った。父がこれからお世話になる特養のケアマネさんだった。父の入所日が来月の中旬に決まり、準備に入ることになった。父の兄の近々の葬儀と父の施設移動が来月は、かさなる。教材屋の夏期講習テキスト作りの山場と新入講師の研修合宿への伊東応援通勤も重なる。通帳を見ながらため息をつく。
-------
東日本大震災の時、宮城県内に眼鏡の提供があった。どこからの支援か問い合わせをかけたり、薬剤師会関係に災害支援に出向いた方の打診もしていた。後者の方が少し道が開けた。都内在住の薬剤師さんから応答メールがあった。それとは別に、「薬剤師のための災害対策マニュアル」を入手することができた。支援活動との接点が見えるかもしれない。期待している。補聴器提供の様子は、まだ掴んでいない。
茅ヶ崎の手をつなぐ育成会の関係者と連絡をとった。連休前に会いたかったが、連休中に企画があるとのことで、1日まで待つことにした。用件は「障がい者避難生活状態紹介」の上映会の件と「やさしいハンカチ湘南展交流アレンジ版」の相談だった。育成会も「天心の譜」の上映を行うので、ぶつかってしまうのだ。自閉症児者親の会の●6/16「海洋天堂」上映等々、ぶつかってしまう。
私の脳裏には「東北被災者の継続支援」「災害弱者孤立化対策」のことが、出口を探してとぐろを巻いている。具体的な連携に結びつく活動を作りたいと思う。それには地域防災を媒介させながら、ひとつはケア関連行政職員と民間支援者との横断交流勉強会作りであり、もうひとつは被災者との私的民間交流につながる支援活動つくりなのだと思う。民泊推進などである。土台を整えておかなくてはと思う。
薬剤師さんとは、狛江で会う事を提案している。連休中に会えるか。
育成会が「「働く」の教科書 ―15人の先輩とやりたい仕事を見つけよう! 」を出した。就労支援に携わっている者には、ありがたい書だ。県の方から就労の様子を紹介するパンフが送られてくるが、就労の実例を、当事者も買うことができる形で提供されたことは、話しやすくなる。継続して出して欲しいと思う。(cf.図版)
母が外食にしたいと電話してきた。茅ヶ崎の「てんや」が閉店したのは痛いが、私にとっては糖尿病対策にはいいことなのだ。安いところで手を打たせるために大戸屋に連れて行く。野菜が硬いの味付けが濃すぎるなど、さんざん文句を聞かされて帰宅。
低血糖のような症状がでて1時間ほど仮眠。
夜間傾聴>ひとり
(校正1回目済み)
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母が眼科の日だといいだして、「めまい再発」の翌日なので、行きだけ眼科に連れて行く。眼科の方でも「めまい」をチェックしてもらっているが、診察中発症しているわけではないし、原因は眼科的なものではないのではないかとの話もあって、眼内レンズの定期検査だけで、薬も一般的なものしかでなかったようだ。とにかく突然の症状で、尾をひくわけでもない、癲癇のような脳波異状もない。ただ胃切除の患者さんに、訴える人がいるという。
私も塾があるので、母は気分が悪ければ、タクシーで家に戻れと指示し、JR相模原に向かった。来月の予定を話し合っているところで、携帯が鳴った。父がこれからお世話になる特養のケアマネさんだった。父の入所日が来月の中旬に決まり、準備に入ることになった。父の兄の近々の葬儀と父の施設移動が来月は、かさなる。教材屋の夏期講習テキスト作りの山場と新入講師の研修合宿への伊東応援通勤も重なる。通帳を見ながらため息をつく。
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東日本大震災の時、宮城県内に眼鏡の提供があった。どこからの支援か問い合わせをかけたり、薬剤師会関係に災害支援に出向いた方の打診もしていた。後者の方が少し道が開けた。都内在住の薬剤師さんから応答メールがあった。それとは別に、「薬剤師のための災害対策マニュアル」を入手することができた。支援活動との接点が見えるかもしれない。期待している。補聴器提供の様子は、まだ掴んでいない。
茅ヶ崎の手をつなぐ育成会の関係者と連絡をとった。連休前に会いたかったが、連休中に企画があるとのことで、1日まで待つことにした。用件は「障がい者避難生活状態紹介」の上映会の件と「やさしいハンカチ湘南展交流アレンジ版」の相談だった。育成会も「天心の譜」の上映を行うので、ぶつかってしまうのだ。自閉症児者親の会の●6/16「海洋天堂」上映等々、ぶつかってしまう。
私の脳裏には「東北被災者の継続支援」「災害弱者孤立化対策」のことが、出口を探してとぐろを巻いている。具体的な連携に結びつく活動を作りたいと思う。それには地域防災を媒介させながら、ひとつはケア関連行政職員と民間支援者との横断交流勉強会作りであり、もうひとつは被災者との私的民間交流につながる支援活動つくりなのだと思う。民泊推進などである。土台を整えておかなくてはと思う。
薬剤師さんとは、狛江で会う事を提案している。連休中に会えるか。
育成会が「「働く」の教科書 ―15人の先輩とやりたい仕事を見つけよう! 」を出した。就労支援に携わっている者には、ありがたい書だ。県の方から就労の様子を紹介するパンフが送られてくるが、就労の実例を、当事者も買うことができる形で提供されたことは、話しやすくなる。継続して出して欲しいと思う。(cf.図版)
母が外食にしたいと電話してきた。茅ヶ崎の「てんや」が閉店したのは痛いが、私にとっては糖尿病対策にはいいことなのだ。安いところで手を打たせるために大戸屋に連れて行く。野菜が硬いの味付けが濃すぎるなど、さんざん文句を聞かされて帰宅。
低血糖のような症状がでて1時間ほど仮眠。
夜間傾聴>ひとり
(校正1回目済み)
2013/04/25 記
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母のめまいが再発した。昨夜、胃の切除後遺症のダンピングがあって、眠れなかったことが原因のようだ。よりによって医者が休みの日に発症とは。地元医に電話をしてみたところ、駐車場の改修で医院にいた。カルテをかいてくれることになって、常備薬補充の形で薬を得ることができた。実のことを言えば、市販薬と大差ないことは分かっているのだが。
午前中、起こされたので、失敗ばかりしている。調剤薬局で代金を支払って、ついでに眠気止めドリンクを買ったら、薬を忘れた。私の目の悪い右側にものをおくと、名人芸のように傘やハンカチ、買い物袋を置き忘れる。試写会のあとも傘を忘れてしまった。私の後を薬局のご主人が薬を持って追いかけてきてくれた。感謝。
家に戻ると、生協の配達食料品が届いていたが、受け取り慣れていない母は、冷凍ものをストーブの前においてしまった。半分溶け出していて、焦って冷凍室にいれるが入りきれない。食べてしまえと冷凍うどんを使ったが、考えてみれば母はいま、食べられない状態。結局2人前食べることになった。糖尿病患者がなんとも杜撰な話ではある。
すっかり調子が狂い、教材の違う封筒を相模大野校に持ち込み冷や汗をかいた。ニュースで出たばかりというのに、藤沢駅階段でつまづいた。大丈夫ですかと助っ人2名。恥ずかしい。
帰宅してから、二時間ほど仮眠をとった。
今日は結局、何もできなかった。
日本障害者フォーラム(JDF)のドキュメント映画「命のことづて」を買うことに、1万円。
沈没。すみません。
夜間傾聴>明け方に、ひとり
p.s. 障害者総合支援法を語る講師の提案で**さんにメール。他流試合が出てくるが、そのほうがお勧めと書いた。埼玉県の精神保健センターのPSWさんからメール。応答の気力なし。
(校正2回目済み)
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母のめまいが再発した。昨夜、胃の切除後遺症のダンピングがあって、眠れなかったことが原因のようだ。よりによって医者が休みの日に発症とは。地元医に電話をしてみたところ、駐車場の改修で医院にいた。カルテをかいてくれることになって、常備薬補充の形で薬を得ることができた。実のことを言えば、市販薬と大差ないことは分かっているのだが。
午前中、起こされたので、失敗ばかりしている。調剤薬局で代金を支払って、ついでに眠気止めドリンクを買ったら、薬を忘れた。私の目の悪い右側にものをおくと、名人芸のように傘やハンカチ、買い物袋を置き忘れる。試写会のあとも傘を忘れてしまった。私の後を薬局のご主人が薬を持って追いかけてきてくれた。感謝。
家に戻ると、生協の配達食料品が届いていたが、受け取り慣れていない母は、冷凍ものをストーブの前においてしまった。半分溶け出していて、焦って冷凍室にいれるが入りきれない。食べてしまえと冷凍うどんを使ったが、考えてみれば母はいま、食べられない状態。結局2人前食べることになった。糖尿病患者がなんとも杜撰な話ではある。
すっかり調子が狂い、教材の違う封筒を相模大野校に持ち込み冷や汗をかいた。ニュースで出たばかりというのに、藤沢駅階段でつまづいた。大丈夫ですかと助っ人2名。恥ずかしい。
帰宅してから、二時間ほど仮眠をとった。
今日は結局、何もできなかった。
日本障害者フォーラム(JDF)のドキュメント映画「命のことづて」を買うことに、1万円。
沈没。すみません。
夜間傾聴>明け方に、ひとり
p.s. 障害者総合支援法を語る講師の提案で**さんにメール。他流試合が出てくるが、そのほうがお勧めと書いた。埼玉県の精神保健センターのPSWさんからメール。応答の気力なし。
(校正2回目済み)
2013/04/24 記
--------------
一昨日、茅ヶ崎市の高齢福祉介護課の++さんと話をしたとき、「従来の防災活動参加者が、なぜ高齢化しているのかということを問うことがあったでしょうか」と、++さんに問いかけ、「若いひとがもっと関心を持ってくれるといいですね」と、話がかみあわなかった件が、気になってならなかった。私には東日本大震災の被災地に出向いたボランティアは若い方が多いという印象をもっていたからだった。
この話、多くは、「活動が地味だから」とか、「昼間の企画が多いから」とかいう応答ばかりだった。++さんの場合は質問の真意が伝わらなかったのだ。災害のときは、働きかける相手が見える、誰に喜んでもらえるかが見えること。大枠さえあれば、未経験でも参加ができる。参加しながら熟達していけばいいという論が共感を得た結果だ。「手応えをえつつ、つながりながら学ぶ」というべきか。
このボランティアの成長を社会がはっきりと社会的力として認知したのが、東日本大震災だった。だから学習と訓練、環境修復中心の災害ボラ活動が場面を軽視しているために、学校化した活動に、フィットしたものを感じられないという限界があったからだ。必要性だけでなく、ひとに働きかける気力の源泉を気づかされた。災害救援・環境整備と避難所運営という活動が、被災者の仮設住宅入居によって、一区切りとなった。そこに、従来の防災活度が、何事もなかったように接木されるから、異様に感じるのだ。
また、応援団形式の産業・生活環境支援を仮設期にも適合させようとするので、被災者が見えなくなってしまう。活動自身の転換が要求されていることに気づいていないかのように見えるのだ。災害がある度に、救援投げ銭と励まし応援と環境整備が立ち上がり、被災者の仮説入居を境に潮が引いて、被災者が置き去りになるということは繰り返されていたのだが、東日本大震災は質・量ともにボランティアが社会的影響を与えた。こ『東日本大震災から2年~被災地の障害者はいま』」のことが引き継がれずに、旧態の防災活動にシフトしてしまった。このことへの違和感があるのだ。仮設期に合った継続支援と交流のなかで考える、いわば新たな活動の枠組みを創造していく試みが感じられないからだ。そのアイロニーを++さんに問いかけていたように思う、反省。
----------
今日、「バリバラ『東日本大震災から2年~被災地の障害者はいま』」と「逃げ遅れる人々」の試写を行った。応答があった方はふたりだったが、参加された方はひとりだった。
とにかく5~7月は団体総会と上映会が林立して、後発活動が非常に入りにくい状態だった。私の頭はふたつの重圧を感じていた。ひとつは南海トラフと連鎖する首都直下地震の発生確率が高まっている危機感。もうひとつが、仮説入居を境に東北被災者への継続支援が現地滞在型支援へと収束し、その滞在型が弱体化して、継続支援が断ち切られていく、支援活動の切り替え無策への危機感がある。
災害時要援護者の支援について、「高齢者の外出同伴・孤立化防止」「障がい者の避難生活支援」が今、求められている。これを7月まで忙しいとなると、上映は7月か9月になろう。9月ならば、約半年の時間が流れてしまう。これでは被災者は孤立してしまう。なんとかならないものかと思案する。
「バリバラ」の方は、NHKだけあって、構成から主題までコンパクトに整理されており、上映後の議論がまとまる良質の作品だ。もうひとつの「逃げ遅れる人々」は、被災者をもって、語らせるという、避難生活の中の孤立化、不自由さが淡々と流れていく。
このあとの「やさしいハンカチ展Part2」についても、これは「9月展示即売会」として、考えていけないかと、上映中**さんに聞いた。
学校を巻き込むことになると、年間計画に基づくことになるから、授業に食い込むことは無理。やると来年度になるし、3・4月は人事異動。熱心に引き受けてくれた先生が、来年度いるとはかぎらないという。いつも思うのだが、年間計画を立てて、行動するという。これは組織の活動方法であって、偶然出会った活動との交流とか、時流の変化に即応した活動と臨機応変に対応することが出来ない死に体の活動論だと思う。もっと動態的な活動論に立てないかと思うのだ。
サポセンで、初めてクッキーとコーヒーをいただいた。おいしかった。
さて力技が続くのかと。
荷物を駅ロッカーにいれて、橋本へ。
障子のさんが歪んで見える。天井を見る。視力いつまであるか…。
夜間傾聴>ひとり
(校正2回目済み)
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一昨日、茅ヶ崎市の高齢福祉介護課の++さんと話をしたとき、「従来の防災活動参加者が、なぜ高齢化しているのかということを問うことがあったでしょうか」と、++さんに問いかけ、「若いひとがもっと関心を持ってくれるといいですね」と、話がかみあわなかった件が、気になってならなかった。私には東日本大震災の被災地に出向いたボランティアは若い方が多いという印象をもっていたからだった。
この話、多くは、「活動が地味だから」とか、「昼間の企画が多いから」とかいう応答ばかりだった。++さんの場合は質問の真意が伝わらなかったのだ。災害のときは、働きかける相手が見える、誰に喜んでもらえるかが見えること。大枠さえあれば、未経験でも参加ができる。参加しながら熟達していけばいいという論が共感を得た結果だ。「手応えをえつつ、つながりながら学ぶ」というべきか。
このボランティアの成長を社会がはっきりと社会的力として認知したのが、東日本大震災だった。だから学習と訓練、環境修復中心の災害ボラ活動が場面を軽視しているために、学校化した活動に、フィットしたものを感じられないという限界があったからだ。必要性だけでなく、ひとに働きかける気力の源泉を気づかされた。災害救援・環境整備と避難所運営という活動が、被災者の仮設住宅入居によって、一区切りとなった。そこに、従来の防災活度が、何事もなかったように接木されるから、異様に感じるのだ。
また、応援団形式の産業・生活環境支援を仮設期にも適合させようとするので、被災者が見えなくなってしまう。活動自身の転換が要求されていることに気づいていないかのように見えるのだ。災害がある度に、救援投げ銭と励まし応援と環境整備が立ち上がり、被災者の仮説入居を境に潮が引いて、被災者が置き去りになるということは繰り返されていたのだが、東日本大震災は質・量ともにボランティアが社会的影響を与えた。こ『東日本大震災から2年~被災地の障害者はいま』」のことが引き継がれずに、旧態の防災活動にシフトしてしまった。このことへの違和感があるのだ。仮設期に合った継続支援と交流のなかで考える、いわば新たな活動の枠組みを創造していく試みが感じられないからだ。そのアイロニーを++さんに問いかけていたように思う、反省。
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今日、「バリバラ『東日本大震災から2年~被災地の障害者はいま』」と「逃げ遅れる人々」の試写を行った。応答があった方はふたりだったが、参加された方はひとりだった。
とにかく5~7月は団体総会と上映会が林立して、後発活動が非常に入りにくい状態だった。私の頭はふたつの重圧を感じていた。ひとつは南海トラフと連鎖する首都直下地震の発生確率が高まっている危機感。もうひとつが、仮説入居を境に東北被災者への継続支援が現地滞在型支援へと収束し、その滞在型が弱体化して、継続支援が断ち切られていく、支援活動の切り替え無策への危機感がある。
災害時要援護者の支援について、「高齢者の外出同伴・孤立化防止」「障がい者の避難生活支援」が今、求められている。これを7月まで忙しいとなると、上映は7月か9月になろう。9月ならば、約半年の時間が流れてしまう。これでは被災者は孤立してしまう。なんとかならないものかと思案する。
「バリバラ」の方は、NHKだけあって、構成から主題までコンパクトに整理されており、上映後の議論がまとまる良質の作品だ。もうひとつの「逃げ遅れる人々」は、被災者をもって、語らせるという、避難生活の中の孤立化、不自由さが淡々と流れていく。
このあとの「やさしいハンカチ展Part2」についても、これは「9月展示即売会」として、考えていけないかと、上映中**さんに聞いた。
学校を巻き込むことになると、年間計画に基づくことになるから、授業に食い込むことは無理。やると来年度になるし、3・4月は人事異動。熱心に引き受けてくれた先生が、来年度いるとはかぎらないという。いつも思うのだが、年間計画を立てて、行動するという。これは組織の活動方法であって、偶然出会った活動との交流とか、時流の変化に即応した活動と臨機応変に対応することが出来ない死に体の活動論だと思う。もっと動態的な活動論に立てないかと思うのだ。
サポセンで、初めてクッキーとコーヒーをいただいた。おいしかった。
さて力技が続くのかと。
荷物を駅ロッカーにいれて、橋本へ。
障子のさんが歪んで見える。天井を見る。視力いつまであるか…。
夜間傾聴>ひとり
(校正2回目済み)
2013/04/23 記
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明日は試写会である。「命のことづて」(JDF)は、公開権買取方式であることと、時間が30分で内容が粗いので、講師を決めた講演会にタイアップする形でないと、役不足ということで、試写は観たがDVDは、買い取っていない。
ETV「バリバラ『東日本大震災から2年~被災地の障害者はいま』」は視覚障がいの方の困難表現がもう一歩だが、全体に直感的で優秀な作品だ。しかしこれは著作権交渉がいる。バリバラのスタッフの講演と組にできたらと、緩い連絡を始めている。
最後は「逃げ遅れる人々」は良質の作品だが、精神・知的・発達の各障がい者被災と避難生活が取材が弱い。
「バリバラ」「逃げくれる人々」の2本を試写し、上映会または上映・講演会が実現できないか打診している。
団体を巡回して驚いた。5~7月は年次総会や上映会や見学会などの企画が目白押しに行われる。そのうちの一つは憲法改正のつばぜり合いを反映したものだったが、東北被災者支援や防災の企画は、なりを潜めている。保健・医療的な視座からは、高ストレスの長時間持久戦の心身の悲鳴は、ここ数年表面化してくるだろう。最たるものは孤独死だが、規模の大きい東日本大震災では、行政関連職と医師たちだけでは、人手が足らなくなる・。そういう意味で危機が始まったという認識が私にはあるが、全国が揺れ、群発地震がおきているのに、危機感を共有できない寂しさがある。
市役所分庁舎の売店経由で身体障がい関連団体への呼びかけをお願いしてきた。ハンカチ展は、湘南の方もなんらかの枠組みで、交流することを加えたい。横浜展見学は、それ自体が目的ではないのだが、ことづてだったので、真意が伝わらないだろうなと、ため息がでた。
投げ銭型参加(外野便乗型参加)を脱し、民間継続交流によって、孤立化を超える支援者参加型の運動構造への転換を図っているのだが、前者の発想のままことは動いていく。そこにいる限り活動は閉塞し、強引な幕引きになってしまうのだが、この民間交流の構造を活動に持たせていくことが、生きていくことへの共感を踏まえていくことが、忍び寄る危機を超えていくと考えている。ここのところが、繰り返し軋轢のもとになってしまう。
「訪問看護と介護 3月号」(医学書院)を読みすすめている。
「リハビリテーション」誌と異なり、被災地の訪問巡回活動をしている保健師さんたちの組織行動の吟味と、岩手の戸別訪問アンケートから、「災害対応マニュアル」を作り効率化と保健師自身の健康管理が進められている。いわゆる外野(支援者)は、訪問スタッフ・復興相談員のような地元の被災者臨時雇用の方々との連携ということになろう。まだまだ有資格者以外は、集会所やエクステリア担当の形で待機状態でいる。
支援者連携の問題意識は残念ながら感じられなかった。食事会や手作業を通じた全国交流の姿で活動が運営されていることで、生活支援が行われている。しかし、ここでは見えない人たちがいること、より高齢な嫁姑の姑世代や、男性高齢者、歩行困難や軽い認知症が始まっている方、寝たきりの方が、障がいを持った成人の方等が視野から消えている。ここの領域を訪問看護・介護の担当者が支えているが、ここに高ストレスの坩堝がある。支援活動がここに至っていない。
長期的には「過疎化・高齢化・無医化」という傾向に向かっている第一次産業依存の地域は、上記の課題が、地域の矛盾を広げることになる。
これは、流動性と産業多様化がある湘南では、そのまま重なるわけではないが「高齢化・孤立化・生活格差化」が進行していく。だから構えが異なるが、被災という衝撃が、社会を顕在化してしまうことは、覚悟して立ち向かう必要がある。
群発地震・南海トラフや首都直下型地震の予兆の続く現在、だからこそ、生き抜く知恵がいる。その構えを既存の活動の中に関連付ける必要がある。それゆえに、上映会や、ハンカチ展連想は、つながるいとぐちとして、検討して欲しい。
専門職の職業集団の壁や、各種地域活動の扉を叩き続ける以外ないのかなと、思うのだ。
--------
橋本3君、白衣の件を一度話そう。
夜間傾聴:中止
(校正1回目済み)
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明日は試写会である。「命のことづて」(JDF)は、公開権買取方式であることと、時間が30分で内容が粗いので、講師を決めた講演会にタイアップする形でないと、役不足ということで、試写は観たがDVDは、買い取っていない。
ETV「バリバラ『東日本大震災から2年~被災地の障害者はいま』」は視覚障がいの方の困難表現がもう一歩だが、全体に直感的で優秀な作品だ。しかしこれは著作権交渉がいる。バリバラのスタッフの講演と組にできたらと、緩い連絡を始めている。
最後は「逃げ遅れる人々」は良質の作品だが、精神・知的・発達の各障がい者被災と避難生活が取材が弱い。
「バリバラ」「逃げくれる人々」の2本を試写し、上映会または上映・講演会が実現できないか打診している。
団体を巡回して驚いた。5~7月は年次総会や上映会や見学会などの企画が目白押しに行われる。そのうちの一つは憲法改正のつばぜり合いを反映したものだったが、東北被災者支援や防災の企画は、なりを潜めている。保健・医療的な視座からは、高ストレスの長時間持久戦の心身の悲鳴は、ここ数年表面化してくるだろう。最たるものは孤独死だが、規模の大きい東日本大震災では、行政関連職と医師たちだけでは、人手が足らなくなる・。そういう意味で危機が始まったという認識が私にはあるが、全国が揺れ、群発地震がおきているのに、危機感を共有できない寂しさがある。
市役所分庁舎の売店経由で身体障がい関連団体への呼びかけをお願いしてきた。ハンカチ展は、湘南の方もなんらかの枠組みで、交流することを加えたい。横浜展見学は、それ自体が目的ではないのだが、ことづてだったので、真意が伝わらないだろうなと、ため息がでた。
投げ銭型参加(外野便乗型参加)を脱し、民間継続交流によって、孤立化を超える支援者参加型の運動構造への転換を図っているのだが、前者の発想のままことは動いていく。そこにいる限り活動は閉塞し、強引な幕引きになってしまうのだが、この民間交流の構造を活動に持たせていくことが、生きていくことへの共感を踏まえていくことが、忍び寄る危機を超えていくと考えている。ここのところが、繰り返し軋轢のもとになってしまう。
「訪問看護と介護 3月号」(医学書院)を読みすすめている。
「リハビリテーション」誌と異なり、被災地の訪問巡回活動をしている保健師さんたちの組織行動の吟味と、岩手の戸別訪問アンケートから、「災害対応マニュアル」を作り効率化と保健師自身の健康管理が進められている。いわゆる外野(支援者)は、訪問スタッフ・復興相談員のような地元の被災者臨時雇用の方々との連携ということになろう。まだまだ有資格者以外は、集会所やエクステリア担当の形で待機状態でいる。
支援者連携の問題意識は残念ながら感じられなかった。食事会や手作業を通じた全国交流の姿で活動が運営されていることで、生活支援が行われている。しかし、ここでは見えない人たちがいること、より高齢な嫁姑の姑世代や、男性高齢者、歩行困難や軽い認知症が始まっている方、寝たきりの方が、障がいを持った成人の方等が視野から消えている。ここの領域を訪問看護・介護の担当者が支えているが、ここに高ストレスの坩堝がある。支援活動がここに至っていない。
長期的には「過疎化・高齢化・無医化」という傾向に向かっている第一次産業依存の地域は、上記の課題が、地域の矛盾を広げることになる。
これは、流動性と産業多様化がある湘南では、そのまま重なるわけではないが「高齢化・孤立化・生活格差化」が進行していく。だから構えが異なるが、被災という衝撃が、社会を顕在化してしまうことは、覚悟して立ち向かう必要がある。
群発地震・南海トラフや首都直下型地震の予兆の続く現在、だからこそ、生き抜く知恵がいる。その構えを既存の活動の中に関連付ける必要がある。それゆえに、上映会や、ハンカチ展連想は、つながるいとぐちとして、検討して欲しい。
専門職の職業集団の壁や、各種地域活動の扉を叩き続ける以外ないのかなと、思うのだ。
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橋本3君、白衣の件を一度話そう。
夜間傾聴:中止
(校正1回目済み)
2013/04/22 記
--------------
障害者リハビリテーション協会の月刊誌「リハビリテーション3月号」と、医学書院の「訪問看護と介護3月号」を読んでいる。災害弱者支援茅ヶ崎懇談会(懇談型講演会セミナー)の今年度企画書を書いている。通信創刊号とともに、巡回配布する。
読んでいる専門誌は、いずれも東日本大震災の特集をしている。前者では、視覚障がい者の被災と避難生活レポートが出ているが、非日常の環境に置かれて身動きが取れなくなっている状況が伝わってくる。同じ障がい者でも身体障害系の困り感は抜き差しかなわぬ切迫感がある。知的・発達・精神の混乱と様子が異なっている。
また一般向け避難所には、とても住民の理解が得られないことがわかってしまう悲しさ。それゆえに福祉避難所への移動を求めるが、肝心の福祉避難所が常に後手に周り、障害者は世間の隙間に、その場をしのいでいる。これは福祉避難所のモデルができていないのだ。
これは懇談会(セミナー)で話を煮詰めてみるべきテーマではないか。
また例の少ない貴重な資料となるが、陸前高田市訪問調査の紹介2編が貴重。ただこのこと自身を論ずるのは、ケア支援関係者向けであり、今年、河北新報に骨子が乗った。本編では障がい者被災の現状が個人単位で把握できる。まもなくアンケート調査を吟味した報告書が出る予定。
この号には、JDFや育成会からの寄稿もあって、講師に招待したい方もいる。
「訪問看護と介護3月号」の方はあす記載。
--------
市の高齢福祉課の**さんと話す。高齢者の救護の課題は、茅ヶ崎もかわらない。ここによりイメージしやすい企画を作りたいが、さてどうするかという話。
私の高齢者アプローチは、災害救護・医療・生活再建からの切り口で、近未来の東北被災地の「過疎化・高齢化・無医化」という像を見据えている。茅ヶ崎の課題は「高齢化・孤立化」となる。この辺の差異が、セミナーの議論の目的である関係者領域横断協力・民間活動の医療介護系行政との連携のところで、案外大きな差が出てしまう。阪神淡路大震災の方が近いように見える。東北の継続支援という話だと、行政は引いてしまう。舵取りが難しい。
帰りに市民自治推進課にたちより雑談。
サポセンに「やさしいハンカチ展」パンフレットを届けた。5~7月は総会や各団体の映画会やなにやらで、日程が決まらないだろう。無理せず9月上旬まで伸ばしてかんがえると告げた。
---------
相模大野校の授業を終了して、家に戻るとデリバリー釜飯の冷えたものが待ち構えていた。やっと最近は「親を孤食させる気か」という鬱憤晴らしはなくなった。
鶏ササミをゆがいて刺身状にしておかず追加。糖尿病食である。
夜間傾聴:ひとり
(校正1回目済み)
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障害者リハビリテーション協会の月刊誌「リハビリテーション3月号」と、医学書院の「訪問看護と介護3月号」を読んでいる。災害弱者支援茅ヶ崎懇談会(懇談型講演会セミナー)の今年度企画書を書いている。通信創刊号とともに、巡回配布する。
読んでいる専門誌は、いずれも東日本大震災の特集をしている。前者では、視覚障がい者の被災と避難生活レポートが出ているが、非日常の環境に置かれて身動きが取れなくなっている状況が伝わってくる。同じ障がい者でも身体障害系の困り感は抜き差しかなわぬ切迫感がある。知的・発達・精神の混乱と様子が異なっている。
また一般向け避難所には、とても住民の理解が得られないことがわかってしまう悲しさ。それゆえに福祉避難所への移動を求めるが、肝心の福祉避難所が常に後手に周り、障害者は世間の隙間に、その場をしのいでいる。これは福祉避難所のモデルができていないのだ。
これは懇談会(セミナー)で話を煮詰めてみるべきテーマではないか。
また例の少ない貴重な資料となるが、陸前高田市訪問調査の紹介2編が貴重。ただこのこと自身を論ずるのは、ケア支援関係者向けであり、今年、河北新報に骨子が乗った。本編では障がい者被災の現状が個人単位で把握できる。まもなくアンケート調査を吟味した報告書が出る予定。
この号には、JDFや育成会からの寄稿もあって、講師に招待したい方もいる。
「訪問看護と介護3月号」の方はあす記載。
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市の高齢福祉課の**さんと話す。高齢者の救護の課題は、茅ヶ崎もかわらない。ここによりイメージしやすい企画を作りたいが、さてどうするかという話。
私の高齢者アプローチは、災害救護・医療・生活再建からの切り口で、近未来の東北被災地の「過疎化・高齢化・無医化」という像を見据えている。茅ヶ崎の課題は「高齢化・孤立化」となる。この辺の差異が、セミナーの議論の目的である関係者領域横断協力・民間活動の医療介護系行政との連携のところで、案外大きな差が出てしまう。阪神淡路大震災の方が近いように見える。東北の継続支援という話だと、行政は引いてしまう。舵取りが難しい。
帰りに市民自治推進課にたちより雑談。
サポセンに「やさしいハンカチ展」パンフレットを届けた。5~7月は総会や各団体の映画会やなにやらで、日程が決まらないだろう。無理せず9月上旬まで伸ばしてかんがえると告げた。
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相模大野校の授業を終了して、家に戻るとデリバリー釜飯の冷えたものが待ち構えていた。やっと最近は「親を孤食させる気か」という鬱憤晴らしはなくなった。
鶏ササミをゆがいて刺身状にしておかず追加。糖尿病食である。
夜間傾聴:ひとり
(校正1回目済み)
2013/04/21 記
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母の介護度チェックで担当者が自宅にやってきた。母の場合は、突然のめまいによって、外出機会が減ったことが引き金となった二次障がいの歩行不安定。医師の診断で介護度がついたが、歩行中、時々休めば歩行距離の限界は健常者並みだ。結局、認知症の長谷川方式チェックもあっさりと、下肢の筋力低下を押さえただけで、軽い雑談で終わって行った。
母は社交的性格なので友人は多いが、同じ世代の友人が次々と心身不調や、癌によって外出不可能になったり、亡くなってしまったりと、その人数が激減しているため、筋力回復で通っているリハの場が、介護度認定からはずされてしまったら、出会いの場がますますなくなってしまうと、結果を心配している。老人会の文化にも、家族自慢・野球の話・吝嗇な感情剥き出しの話に嫌気を感じて馴染めないという。一番情けないのは、携帯電話人口の少なさ。デジタルデバイドにうんざりしている。
高齢者の社会的孤立は、災害がなくても忍び寄っている。災害が起きて、避難生活に分断され、地域単位で支援が入っても、心身健康な高齢者に支援が偏在してしまう。母の場合は、趣味的な共通項や、個人のゴシップ的な話題ではない時流の世間話が出来ない人との交流は消極的だろう。私の父との軋轢体験から、宗教的な徒党を組むことも嫌がる。ところが、特養や老健のデイサービスをみても、こういうひとは、ひとりソファーにすわって外を見ているのを見かける。男性が多い。
被災時に、こういうひとは外出したがったり、仮設住宅の狭い部屋に閉じこもっていることが多いだろうなと想像する。心身の疲れからではなく、場面がモノカルチャーであるために、結果的に孤立してしまうマイノリティがいるだろうなと思う。
ケアの活動が、こうしたマイノリティや、心身不調の高齢者に及んでいないこと、家庭の事情を抱えるために、距離感を保ちたい方が蟻地獄の穴の入口に立っているように思えてならない。
支援の多様性を生み出すゆとりが支援活動にない。これが地縁の薄い都市部・準都市部の避難生活の場では、大きな問題になるだろう。SNSや、世代縦断交流のような試みが、ハードルの高い試みではあるが当面必要となる補完行動だろう。
-------
「災害弱者支援茅ヶ崎懇談会」(懇談型講演会・ケア関係者交流会またはセミナー)の今年度予定に手間取っている。
前年度、岩手・気仙地方の生活支援ネットワークのアクティブ**氏の登場の場面作りに困難を感じて、今年度に持ち越されたが、「要援護者」という広いくくりの中の災害対策交流のため、「高齢者」をたてれば「障がい者」が、「障がい者」をたてれば「高齢者」の関係者が会場に来ないことが目に見えている。ここを越して、黒田裕子氏の災害看護の話題を引き継ぐ論議を企画していたつもりだったが、時期が、はずれてしまったという感じがしている。
**さんに対しても、上京ついでに茅ヶ崎にでてきてもらおうという企みも、南三陸支援者が圧倒的な茅ヶ崎では、交流した茅ヶ崎側の見返り(メリット)が提供できない難が足を引いている。
今考えているセミナーの企画は
1)JDF映画「生命のことづけ」提唱
2)**さんと「福祉フォーラム・東北」の役員さん
3)大洋会か共生会からの障がい者生活再建談
4)JR茅ヶ崎駅駅長さん>外出時被災について
5)阪神淡路大震災関係から勝部さん
6)気仙地方または釜石の病院関係者
7)彼岸休みを利用した被災地訪問強行軍ドライブ(2泊3日数名・現地レンタカー)
8)SFC・県立福祉大の医療・看護系教官からゲスト
というところから、年度支出18万円(個人出資)で収まる企画を絞り込む。セミナーは資料吟味の会もあり。
--------
JDF(日本障害者フォーラム)関係の方に面会を求めている。「生命のことづけ」関連の講師の件。なかなかぴたりの担当者の方に出会えない。
「ノーマライゼーション」誌2013/03号に触れられている陸前高田市訪問調査の記事を奈良**大MLに紹介。元資料とともに、吟味を依頼。被災地から遠く離れた私たちの支援活動の水路を開くものになりうるか。
24日は障がい者避難生活関連の映像作品の試写を行う。13時半に茅ヶ崎サポセンにて。数名かな、甘いか。
夜間傾聴:なし
(校正2回目済み)
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母の介護度チェックで担当者が自宅にやってきた。母の場合は、突然のめまいによって、外出機会が減ったことが引き金となった二次障がいの歩行不安定。医師の診断で介護度がついたが、歩行中、時々休めば歩行距離の限界は健常者並みだ。結局、認知症の長谷川方式チェックもあっさりと、下肢の筋力低下を押さえただけで、軽い雑談で終わって行った。
母は社交的性格なので友人は多いが、同じ世代の友人が次々と心身不調や、癌によって外出不可能になったり、亡くなってしまったりと、その人数が激減しているため、筋力回復で通っているリハの場が、介護度認定からはずされてしまったら、出会いの場がますますなくなってしまうと、結果を心配している。老人会の文化にも、家族自慢・野球の話・吝嗇な感情剥き出しの話に嫌気を感じて馴染めないという。一番情けないのは、携帯電話人口の少なさ。デジタルデバイドにうんざりしている。
高齢者の社会的孤立は、災害がなくても忍び寄っている。災害が起きて、避難生活に分断され、地域単位で支援が入っても、心身健康な高齢者に支援が偏在してしまう。母の場合は、趣味的な共通項や、個人のゴシップ的な話題ではない時流の世間話が出来ない人との交流は消極的だろう。私の父との軋轢体験から、宗教的な徒党を組むことも嫌がる。ところが、特養や老健のデイサービスをみても、こういうひとは、ひとりソファーにすわって外を見ているのを見かける。男性が多い。
被災時に、こういうひとは外出したがったり、仮設住宅の狭い部屋に閉じこもっていることが多いだろうなと想像する。心身の疲れからではなく、場面がモノカルチャーであるために、結果的に孤立してしまうマイノリティがいるだろうなと思う。
ケアの活動が、こうしたマイノリティや、心身不調の高齢者に及んでいないこと、家庭の事情を抱えるために、距離感を保ちたい方が蟻地獄の穴の入口に立っているように思えてならない。
支援の多様性を生み出すゆとりが支援活動にない。これが地縁の薄い都市部・準都市部の避難生活の場では、大きな問題になるだろう。SNSや、世代縦断交流のような試みが、ハードルの高い試みではあるが当面必要となる補完行動だろう。
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「災害弱者支援茅ヶ崎懇談会」(懇談型講演会・ケア関係者交流会またはセミナー)の今年度予定に手間取っている。
前年度、岩手・気仙地方の生活支援ネットワークのアクティブ**氏の登場の場面作りに困難を感じて、今年度に持ち越されたが、「要援護者」という広いくくりの中の災害対策交流のため、「高齢者」をたてれば「障がい者」が、「障がい者」をたてれば「高齢者」の関係者が会場に来ないことが目に見えている。ここを越して、黒田裕子氏の災害看護の話題を引き継ぐ論議を企画していたつもりだったが、時期が、はずれてしまったという感じがしている。
**さんに対しても、上京ついでに茅ヶ崎にでてきてもらおうという企みも、南三陸支援者が圧倒的な茅ヶ崎では、交流した茅ヶ崎側の見返り(メリット)が提供できない難が足を引いている。
今考えているセミナーの企画は
1)JDF映画「生命のことづけ」提唱
2)**さんと「福祉フォーラム・東北」の役員さん
3)大洋会か共生会からの障がい者生活再建談
4)JR茅ヶ崎駅駅長さん>外出時被災について
5)阪神淡路大震災関係から勝部さん
6)気仙地方または釜石の病院関係者
7)彼岸休みを利用した被災地訪問強行軍ドライブ(2泊3日数名・現地レンタカー)
8)SFC・県立福祉大の医療・看護系教官からゲスト
というところから、年度支出18万円(個人出資)で収まる企画を絞り込む。セミナーは資料吟味の会もあり。
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JDF(日本障害者フォーラム)関係の方に面会を求めている。「生命のことづけ」関連の講師の件。なかなかぴたりの担当者の方に出会えない。
「ノーマライゼーション」誌2013/03号に触れられている陸前高田市訪問調査の記事を奈良**大MLに紹介。元資料とともに、吟味を依頼。被災地から遠く離れた私たちの支援活動の水路を開くものになりうるか。
24日は障がい者避難生活関連の映像作品の試写を行う。13時半に茅ヶ崎サポセンにて。数名かな、甘いか。
夜間傾聴:なし
(校正2回目済み)
2013/04/20 記
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公益法人・日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA 2800名)主催の「やさしいハンカチ展 Part2」(横浜・馬車道駅1b出口 4/20~29)に行ってきた。会場は圧倒的な子どもパワーである。
被災地の子どもの原画に基づいて、デザイナーがハンカチに仕上げている。385枚のハンカチが展示され、それらは即売されている。希望に応じられるように、同じ図柄が何枚も準備されている。1枚\1.2k-。欲しい図柄は3枚あったが、予算不足で、Web通販で買うことに。
学校の協力のもとで絵を描いた小学生は、岩手でいうと、大槌町の町立大槌・安渡・赤浜・大槌北小の小学生。(三県全8校)販売収益は、小学校ではなく、製作者の子どもたちに託される。それをどう使うかを考えることに、もうひとつの夢を託している。
見ていると、普段の子ども絵画展と異なった印象を受ける。まとまりがよく、ハンカチとしての商品価値が高いのだ。ハンカチ原画指導授業にデザイナーが入っているが、印刷んためのスキャナ工程で色が出にくい黄色やいわゆる肌色、また細いかすれ線など技術的な部分を注意している程度で、あとは自由に描かせている。
この原画を枠入れしたり、連続させたりとデザイナーが加工している。ここがいわゆる「まとまりのよさ」「印象の違い」になっている。この試みは賛否があろうが、ハンカチ製造販売という営業手法に、子どもを参加させている面白みがある。これは販売収益を子どもに託すというプロセスも一連のものだ。
発想としては、「ハンカチをメディアとして考える」という試みだが、非被災地側にしてみると、自分たちは消費者として逆定義されてしまう。販売収益によって、自らの夢を叶えていくというコンセプトなのだが、「ハンカチというメディア」を、インタラクティブに変容させることは不可能なのかと疑問を持つ。つまり非被災地からのメッセージをハンカチとして届けたり、即売会に協力して同時販売し、収益を寄付するという形だ。
まだ私の発案に過ぎないが「湘南展」を開きたいと思っていることを主催者側の方々に告げ、その際は、相談に乗って欲しいこと、「特別支援校&卒業生とのコラボ」という絵に描いた餅もあってねと話した。
いわゆる救援寄付期は終わっている。避難生活と生活再建の時期の販売活動・制作参加・ハンカチ交流という意味合いを、構想段階ではっきりさせたうえで、いわゆる「投げ銭」型の寄付ではなく、「参加交流作りの寄付」の内実を煮詰めた方がいい。東北の被災者家族の見守り支援としては、面白いと思う。
もうひとつは、技術方法論的な面白さである。ハンカチをデザイナーが商品に仕上げている部分だ。ここを徹していくと、袋とか包装紙、封筒等のデザインを子どもの活動・地域活動への拡張、デザイナーさんの協力の糸口作りにもなる。今回の東北被災者の子ども支援という目的だから、そこからの逸脱は謹んだ方がいい。まずは協力関係と実績作りが大事と考える。
まずは展示を見て欲しい。私は紹介活動を始めるが、それこそタージあたりの組織が取り組んだらどうか、余計なことではあるが。時代というか段階というか、現在の支援活動の現状を活性化する一助になるはずだ。
私の活動は、いわば影であり根っこ。被災者の医療と保健の構想立てと、連携と待機の芽作り活動にある。また飛田かといわれれば、活動の魅力が傷つく。それほどに「ハンカチ展」は可能性を秘めている。必要性の活動の論理から解き放たれている点において、私の活動と異なる。私の抱える活動は、必要性と実現可能性を煮詰める中に創造性を育てる活動だ。だから二兎を追うような気がするのだ。
その憂鬱の権化の活動の延長上に「災害弱者(要援護者)の避難生活」伴走支援と、災害弱者の地域防災ケアネット作りとして、「障がい者の安全避難と避難生活」という内容のドキュメンタリー映画の上映がある。障がい者と家族にとっては、被災イメージ作りであり、支援者や一般観客にとっては、災害の際の災害弱者ケア支援の手立ての必要性を掴み取る企画である。ハンカチ展は、地域支援活動活性化と民間交流促進に目的があり、映画会はケア懇談型講演会作りに向けられる。
勿論、二兎を追う必要があるしらけた状況なら、突っ込みをやるが…。「持続は力」ではなく「持続しか出来ない」という状況もまた、私にはリアルだ。定番ボケしない実現可能性のある道を歩みたい。
(参考資料)
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●「(2013年1月28日 読売新聞)」
●「385枚のしあわせのハンカチ展 PART 2」
●「日本グラフィックデザイナー協会」
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夜間傾聴>相模原の塾長(長話なり)
橋本3君(母親)
(校正3回目済み)
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公益法人・日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA 2800名)主催の「やさしいハンカチ展 Part2」(横浜・馬車道駅1b出口 4/20~29)に行ってきた。会場は圧倒的な子どもパワーである。
被災地の子どもの原画に基づいて、デザイナーがハンカチに仕上げている。385枚のハンカチが展示され、それらは即売されている。希望に応じられるように、同じ図柄が何枚も準備されている。1枚\1.2k-。欲しい図柄は3枚あったが、予算不足で、Web通販で買うことに。
学校の協力のもとで絵を描いた小学生は、岩手でいうと、大槌町の町立大槌・安渡・赤浜・大槌北小の小学生。(三県全8校)販売収益は、小学校ではなく、製作者の子どもたちに託される。それをどう使うかを考えることに、もうひとつの夢を託している。
見ていると、普段の子ども絵画展と異なった印象を受ける。まとまりがよく、ハンカチとしての商品価値が高いのだ。ハンカチ原画指導授業にデザイナーが入っているが、印刷んためのスキャナ工程で色が出にくい黄色やいわゆる肌色、また細いかすれ線など技術的な部分を注意している程度で、あとは自由に描かせている。
この原画を枠入れしたり、連続させたりとデザイナーが加工している。ここがいわゆる「まとまりのよさ」「印象の違い」になっている。この試みは賛否があろうが、ハンカチ製造販売という営業手法に、子どもを参加させている面白みがある。これは販売収益を子どもに託すというプロセスも一連のものだ。
発想としては、「ハンカチをメディアとして考える」という試みだが、非被災地側にしてみると、自分たちは消費者として逆定義されてしまう。販売収益によって、自らの夢を叶えていくというコンセプトなのだが、「ハンカチというメディア」を、インタラクティブに変容させることは不可能なのかと疑問を持つ。つまり非被災地からのメッセージをハンカチとして届けたり、即売会に協力して同時販売し、収益を寄付するという形だ。
まだ私の発案に過ぎないが「湘南展」を開きたいと思っていることを主催者側の方々に告げ、その際は、相談に乗って欲しいこと、「特別支援校&卒業生とのコラボ」という絵に描いた餅もあってねと話した。
いわゆる救援寄付期は終わっている。避難生活と生活再建の時期の販売活動・制作参加・ハンカチ交流という意味合いを、構想段階ではっきりさせたうえで、いわゆる「投げ銭」型の寄付ではなく、「参加交流作りの寄付」の内実を煮詰めた方がいい。東北の被災者家族の見守り支援としては、面白いと思う。
もうひとつは、技術方法論的な面白さである。ハンカチをデザイナーが商品に仕上げている部分だ。ここを徹していくと、袋とか包装紙、封筒等のデザインを子どもの活動・地域活動への拡張、デザイナーさんの協力の糸口作りにもなる。今回の東北被災者の子ども支援という目的だから、そこからの逸脱は謹んだ方がいい。まずは協力関係と実績作りが大事と考える。
まずは展示を見て欲しい。私は紹介活動を始めるが、それこそタージあたりの組織が取り組んだらどうか、余計なことではあるが。時代というか段階というか、現在の支援活動の現状を活性化する一助になるはずだ。
私の活動は、いわば影であり根っこ。被災者の医療と保健の構想立てと、連携と待機の芽作り活動にある。また飛田かといわれれば、活動の魅力が傷つく。それほどに「ハンカチ展」は可能性を秘めている。必要性の活動の論理から解き放たれている点において、私の活動と異なる。私の抱える活動は、必要性と実現可能性を煮詰める中に創造性を育てる活動だ。だから二兎を追うような気がするのだ。
その憂鬱の権化の活動の延長上に「災害弱者(要援護者)の避難生活」伴走支援と、災害弱者の地域防災ケアネット作りとして、「障がい者の安全避難と避難生活」という内容のドキュメンタリー映画の上映がある。障がい者と家族にとっては、被災イメージ作りであり、支援者や一般観客にとっては、災害の際の災害弱者ケア支援の手立ての必要性を掴み取る企画である。ハンカチ展は、地域支援活動活性化と民間交流促進に目的があり、映画会はケア懇談型講演会作りに向けられる。
勿論、二兎を追う必要があるしらけた状況なら、突っ込みをやるが…。「持続は力」ではなく「持続しか出来ない」という状況もまた、私にはリアルだ。定番ボケしない実現可能性のある道を歩みたい。
(参考資料)
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●「(2013年1月28日 読売新聞)」
●「385枚のしあわせのハンカチ展 PART 2」
●「日本グラフィックデザイナー協会」
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夜間傾聴>相模原の塾長(長話なり)
橋本3君(母親)
(校正3回目済み)