昭和の公文書と気象のこと

2009-08-23 00:00:28 | 美術館・博物館・工芸品
国立公文書館へ行く。ダブル企画で、「戦前から戦後へ」と「気象」の同時開催である。

まず、「戦前から戦後へ」。

昭和改元→普通選挙実施(昭和3年)→不戦条約(3年)→金輸出解禁(5年)→満州事変(6年)→国際連盟脱退(8年)→二・二六事件(11年)→国家総動員法(13年)→米・英に宣戦布告(16年)→ポツダム宣言受諾(20年)ここまでが戦前である。各原本の多くが展示されている。

通してみると、大正から昭和になってから、徐々に国家の方向が変わっていったことがわかる。決して、一気に方向が変わったわけじゃなく、あくまでも少しずつ全体主義に向かっていったのだろう。

一つのポイントが昭和3年の「不戦条約調印」。昭和3年8月27日にパリで締結され、翌4年6月27日批准。7月25日に公布される。同条約は、国家の政策の手段としての戦争の放棄と国際紛争の平和的解決を規定したものである。

この条約の第一条にある「人民の名において・・」という文言が、当時の大日本憲法に規定する天皇の統治大権に反するのではないかとの議論が巻き起こったそうだ。そして、当時の田中内閣は、この文言が日本には適用されない(「人民の名において」たる字句は帝国憲法の条章より観て日本国に限り適用なきものと了解する)と宣言するのである。

この二枚舌外交からして、あやしいものだ(核寄港密約みたいな話だ)。結局、外交と国内世論の板挟みになっていき、こぶしを振りおろしてしまうことになる。

syusenそして、ポツダム宣言受諾案。

昭和20年8月14日の御前会議で「終戦の詔書」案が検討され、「戦局日ニ非ニシテ」が「戦局必スシモ好転セス」と修正されたりして、文言が確定する。

展示されているのは詔書の交付原本だが、新たに書き換えられずに、修正のあとがはっきりわかるようになっている。



次に、「気象」。

主に経験を中心とした江戸の天気予報から、明治になって、近代的科学技術による気象学に一転する。今でも気象予報士というのは難関試験であるが、急に開国して、気圧やら風力やら潮流といった科学技術の世界に入って、この道を進んだ者は、一体、どれほどの苦労をしたのだろう。それでも明治16年に書かれたスカスカの天気図が展示されている。

さらに、国家戦略として明治20年に、中央気象台が開設される。おもに軍事目的だったようだ。

少し気になる話が、太平洋戦争中に天気図が公表されなくなった点。

それくらいの話は以前から知っていたのだが、年表を読んでみると、日米開戦(昭和16年12月8日)の直前に天気予報の公表が禁止され、終戦の日(昭和20年8月15日)に再開したことになっている。

kishoしかし、そうであるなら、

1.天気予報の公表をやめた段階で、「開戦」を予知されるのではないか、と思わなかったのだろうか。

2.開戦の段階から、日本周辺の天気図を隠そうとしていることから言えば、最初から日本の周りに敵が群がることを予想していたのだろうか。

と思うのだが、残念ながら確認のすべはない。