フランス絵画の19世紀

2009-08-10 00:00:47 | 美術館・博物館・工芸品
横浜美術館で開催中のフランス絵画の19世紀展(6月12日~8月31日)に行く。人口360万人の大都市横浜にふさわしい現代的な中に古典的なデザインを織り込んだ巨大美術館だが、本当はチマチマと展示品を買い集めているようだ。何しろ、緊縮財政だ。(もちろん、中田市長の責任ではなく、ずっとずっと前の首長のせいだろう)



この展覧会も開港150年記念の一環らしいが、ペリーが横浜にきたことと、19世紀フランス美術には、直接的には何の関係もないだろう。時期はきわめて重なるのだが。

フランスといえばルノアールを筆頭にした印象派というのが、頭に浮かぶが、本展は、その印象派に至る直前のフランスにフォーカスがあるということが特徴である。当時のフランスは美術では後進国だった。

もともと西欧の絵画は教会のプロパガンダから発生したようなところがあり、壁画や天井画、そして絵画にしても、聖書に登場する逸話を題材に、「教会に行けば、きれいな女性や筋肉たくましい男性や、無残に血を流したSM的な描写をみることができる」ということだったようだ。しかし、そのうち種が尽きていくわけだ。



そして次に登場したのが、ギリシア神話。これがなかなかロマンティックかつスペクタクルで絵画にぴったりだった。さらに、ギリシアは暑いところだから女性も薄着だったり、森の中で入浴したり、海辺で裸のまま、うっかり眠ったりする。素材の中で、人間(神様)の部分は神話から頂戴し、バックの情景はフランスの海や森になっていく。

そうなると、徐々にフランス人の得意な世界に入っていくわけだ。やがて、下書きにギリシア神話を使うこともなくなり、いきなり現実の風景や、人間たちの心の中に入っていくわけだ。



その先に印象派があった、となれば自然なのだが、実は別の事情があった。

ローマ賞。

どの国でも、役人が権力と予算を持つとロクなことにならない。当時のフランスは、自国が美術後進国であるという認識を持っていて、若手の画家たちのコンテストをして、優秀者を官費で海外留学させていた。行く先は、「ローマ」。ローマの美術学校への入学費の肩代わりである。

そして、留学から帰ってくると、「ローマ帰り」として、もてはやしていたわけだ。

そのうち、このローマ賞も若手ではなく、何度も何度も挑戦しては破れ、というように芸術家になって素晴らしい絵画を後世に残そうという本来の目的からずれていくわけだ。日本の裁判官制度みたいなものである。



そして、印象派は芸術家たちの大集団として突然のようにパリを大席巻し、無数の名画を地球上に残し、そして画家たちはパリを離れ、自らの好みの風景を求め、それぞれ郊外に散っていったわけだ。

そして、誰もいなくなったパリにやってきたのは、日本人画家たち。官費留学である。