言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『日本独立』を観る

2021年01月06日 09時20分35秒 | 映画

日本独立

 今月4日に今年初めての映画鑑賞。近所にも映画館があるが、あまり観たいものが見つからない。歩いていける所に二か所ある映画館はいづれも109シネマズで同じ系列。スクリーンの数に違ひはあるもの、中身は似たり寄つたり。ならば、少し足を伸ばして梅田の劇場を探すと、この映画が見つかつた。この映画の存在はまつたく知らなかつた。主演(白洲次郎役)も浅野忠信。その妻(白洲正子)役は宮沢りえ。吉田茂は小林薫、と一流どころ。幣原喜重郎(石橋蓮司)内閣の閣僚である健保草案を作つた松本烝治国務相には柄本明まで当てられてゐる。それで、こんな扱ひとはどういふ訳なのだらうか。もちろん、答へは分かつてゐる。流行らないからである。

 今月4日だから、もう仕事初めの人はゐるだらう。でも電車の人は平日の午前にしては少なかつた。映画館も混んでゐるといふ雰囲気ではなかつた。それでもまだ正月休みに映画を観に来たといふ印象が強い。時間ギリギリで上映場所に座ると結構席は埋まつてゐた。しかし、年齢は私よりも皆上の人ばかりである。これでは流行るまい。

日本独立

 原因は偏へに内容による。占領政策の一環として憲法をアメリカ主導で作るといふことの事実の周知とそれが独立国家としての不義についての啓蒙とを、今の大多数の人々は「大事なできこと」とは思つてゐないからである。「戦争に負けてもこの国は誰にも渡さない」とキャッチコピーをこの映画は掲げるが、その独立を果たすために尽力した吉田や白洲の「渡すまい」とした意思を「渡された」と自覚する者が少ない。鑑賞後、映画館下の喫茶室で感想を語り合つたが、その場違ひの空間では、この種の映画の感想を語るといふ行為すらが空しいほどの明るくて底抜けた解放感なのである。正月休みゆゑとは思ひたいが、たぶんさうではないだらう。白洲次郎がGHQとやり合ひ、松本大臣が米国案に怒りをぶつけたその事実も、「でも、今平和なんだからいいんぢゃない」といふ空気に吹き飛ばされてしまふだらう。

 私は、だから吉田茂の妥協こそが問題だつたと思つてゐるが、では当時の誰がマッカーサーと談判できたかと言へば、それは無理であらう。それも含めて戦争に負けた結果である。

 映画には、吉田満の『戦艦大和ノ最期』を巡る検閲のシーンが出てくる(映画では「最後」となつてゐた)。この本は創元社から出版される予定だつたので、当然ではあるが小林秀雄が出て来た。吉田満は渡辺大、小林秀雄は青木崇高。

 ただ、かういふ映画はやはり作つておくことが大事だと思ふ。今の世が受け容れずとも、必ずこれを観る人が出てくる。そして、吉田茂の成果と課題とをきちんととらへ、戦後の日本がどういふ道を選んだのかを知つておくことは「大事」であると思ふからである。

 監督は、伊藤俊也

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