言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

メディアの進化は自我の肥大化

2016年09月23日 09時52分32秒 | 日記

 私が子供の頃は、家に電話がなかつた。当時はクラスや学校で「生徒名簿」といふものが作られてゐたから、家の電話番号が記されてゐたが(その程度には普及はしてゐた)、電話番号の後に(呼)といふ字が記されてゐるところがあつた。我が家もさうで、小学校3年生だつたか電話機が入るまで、さうなつてゐた。それはどういふ意味かといふと、近所の家の電話番号を記し、そこから「呼び出し」てもらふといふ意味である。50メートル先の家に母が頼んでさうしてもらつたのだらうと思ふ。つまり、電話機の普及時には人と人とが否応なしに交流し、関係を作らなければならなかつた。

 母の立場を思へば、頭を下げ電話の呼び出しを御願ひし、時々はお礼の品を持つて挨拶に行つてゐたのだらう。その家は農家だつたので、食事の余りを持つて豚小屋に餌をやりに行つたことも何度もあつた。豚の息遣ひ、匂ひを感じ、時々は家人とお会ひするので挨拶をするといふこともあつた。小さな祠があつたのでそれにお参りするのも日課のやうであつた。その家の二十歳前の息子さんがオートバイの事故で亡くなり、あつけない生をなんとなく感じた記憶もある。私の家の出来事ではないが、さういふことを覚えてゐるのは、我が家に電話がなかつたといふことが大きいと思ふ。

 そして家に電話が入り、そこから引越し、「ご近所付き合ひ」といふことが少しずつなくなつた(母親の性格上、母はいつでもお付き合ひをしてゐたと思ふが)。思春期を迎へますます内向し、あまり遊びに出ることもなくなつた。

 ポケベルといふものが普及し、営業の仕事をしてゐた父親は会社に寄らずに家からお客さんのところへ行き、あるいはお客さんのところか家に帰ってくるといふことが増えた。父親の様子を見てゐると、忙しくなつたといふよりは何だかそれでいいのかなといふ印象を受けた。

 私はさういふ電子メディアを最初に使つたのは、28歳ぐらゐではないかと思ふ。PHSから携帯電話へといふ当時としては一般的な「正常進化」である。

 電子メールといふものはパソコンの普及で一気に進んだ。40代では、さういふ機器がなければコミュニケーションができないといふ状況になつた。

 福田恆存はかう言つてゐる。「要するに、人間関係を稀薄にすることが近代化である、といふ定義が成り立つほど、近代化というものは、人間と人間の直接関係、言葉をかえていえば、摩擦というものをなくしていくことが近代化というものだと思う。」

 近代化の必然としてメディアの進化がある。つまりはメディアの進化は人間関係の希薄化を招く。そして、近代とは何かと言へば、自我の発見によるものであり、その後に起きた変化はその肥大化であるとすれば、メディアの進化は自我の肥大化である。それは「正常進化」である。したがつてそれを止めることはできない。できるのは、その自覚である。それが出来さへゐれば、少しはまともな社会が出来上がると思ふのだが、どうだらうか。

 

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