言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

教育の普及は浮薄の普及なり

2016年09月06日 20時31分13秒 | 日記

 教育について考へると、ふと頭によぎるのが「教育の普及は浮薄の普及なり」といふ言葉である。御存じの通り、齋藤緑雨の言葉である。大学進学者が増えても決して世の中よくはならないといふことである。

 しかし、裏を取つて「教育の普及なければ浮薄の普及なし」が真かと言へば、真ではない。さらに対偶を取って、「浮薄の普及ならずんば教育の普及にはあらず」(2020年3月12日 癡呆獵人氏のご指摘で訂正。さらに「対偶」を「待遇」と記してあるのに気づき、それも訂正。読者はありがたい)も何かしつくりとこない。浮薄の普及は、教育と関係なく、もつと深いところで起きてゐる現象のやうに感じる。となれば、教育などといふことができることはほとんど無いに等しいといふことになつて、もはや自壊的な理解になりさがつてしまふ。しかし、さう絶望しなければできないのが教育ではないか、そんな風にも思ふのである。

 学力といふことに限つて言へば、あるいは解決の方法があるのかもしれない。確かに、教へ方のうまい先生、とてもよくできた教材、学びを深め合ふ環境、さういつたものはある。しかし、浮薄の普及といふ問題はもつと深層で起きてゐることであつて、例へば道徳の蒸発、文學の停滞、安全の崩壊、などなどである。

 さういう問題は、きつと何かのきつかけで劇的に変化するのであらう。一握りの人々が守り続けていくうちに、時が満ちることによつて訪れるのである。ちゃうどノアの方舟のやうにである。ノアの家族だけが守つてゐた約束事は、当時の社会では非難の対象であつたはずだ。なぜそれが分かるかと言へば、聖書にはノアが「御一緒に船に乗りませんか」と人々に声をかけたといふ記録がないからである。もちろん、山の上に船を建造し始めてから百年以上も経つてなほもその作業を続けてゐる変人ノアに親近感を寄せる人はゐるはずもない。そして現在において、「私」もまたその他大勢の人間であつて、決してノアのやうな義人ではないと自覚するしかない。道徳が蒸発しつつある現在、「私」はその張本人であり、文學の良し悪しさへ分からない文学徒であり、安全よりも便利さを求めてしまふ大衆の一人に違ひない。

 さういふことを考へてゐる。

 この夏、二度、福田恆存の『教育の普及は浮薄の普及なり』を讀んだ。昭和44(1969)年に雑誌『潮』に発表されたものである。東京大学安田講堂事件が、その年の1月18日19日に起き、その年の東大入試が行はれなかつた。それを踏まへて5月号に発表されたものだ。

 極めて硬質の、福田恆存らしい文章である。かういふ文章が一般誌に載つてゐた時代は、皮肉なことに今よりも「浮薄」ではない。といふことは、この文章が書かれてから半世紀経つた現在から見ると、教育の普及した現在の方が浮薄が普及してゐるといふことを現実が裏書してゐるやうに思はれた。しばらくは、この文章を巡つて感想を書いていきたい。

 ちなみに、先日生徒に東大で入試が無い年があつたのを知つてゐるかと訊くと、一様に驚いてゐた。「可哀相に、そんなことがどうしてあるのですか」といふ声が上がつた。五十年の歴史は、もはや共有されてゐないのである。

コメント (2)
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