言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

教育の普及は浮薄の普及なり 7(最終回) ・・・ 絶望的でありながら甘受すべき未来

2016年09月15日 08時40分03秒 | 日記

  教育の普及が浮薄の普及にならない場合があるとすれば、それは知の横暴を制御する「何か」がある場合である。

 西洋においては、それが教会であり神である。私たちの社会においては、随分貧相ではあるが、しつけであつたり共同体であつたりする。世間体といふ言葉でもいい。さういふものが浮薄の広がりを抑制してゐた。

 ところが、近代的な知はさういふ「伝統」「慣習」を破壊する力として作用した。西洋では(絶対神をいただくイスラム圏で今後どういふことになつていくかも興味深い)それを相対化するキリスト教の力があつた(言葉の正しい使ひ方としての「反知性主義」)が、日本にはそれほどの力は存在しない。親は子に奉仕する役割になり、教師は生徒へのサービス提供舎になり、行政は住民の苦情解決担当者になつてしまつた。神社もお寺も冠婚葬祭の業者であり、肥大化する自我を抑制する力を有してゐない。いやむしろそんなものを求めてもゐない。

 教育の普及も官民一体の世俗の欲望追求の手段となつてをり、もはや絶望的である。ひろく言へば、これもすべて神の思し召しであるのだから、もう受け入れるしかない。

 一つの学校とは言はない。一つの教室、一つの授業だけでも、さういふ流れに抗ひ続けていくことができればと思つてゐる。反知性主義といふ言葉の使ひ方を正すことはその端緒となる気がしてゐる。

コメント (2)
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