言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語192

2007年09月06日 21時01分19秒 | 福田恆存

(承前)

  假名遣ひの彼我によつて「美しく深い文學の出現を期待する」と考へることは、皮肉なことに彼等が主張することゝは全く逆の「新假名遣い絶對主義」とでも呼ぶべき極めて保守的な思想なのである。なぜなら、彼等の思想の根本は「表音」にあるのだから、發音の仕方が變はれば今現在の「新假名遣い」も古いものとして捨てられなければならない。なのに、「新假名遣い」によつて「美しく深い文學の出現する」のであれば、それを不磨の大典のごとく保守しなければならないからである。

言つておくが、福田恆存もそして私も「歴史的假名遣ひ絶對主義者」ではない。すべての「主義」を排斥した福田恆存が、假名遣ひにおいてのみ「主義者」になるはずはないのである。そして、そもそも假名遣ひの新舊によつて文學の質が決まると短絡するのは、假名遣ひの問題以前の「文學觀」が疑はれてしまふ。さういふ決定的に不備のある文學觀があるから、先のやうに國語改惡を「世界に誇るべき成績だ」などといふトンチンカンなことが書けるのである。もはや度し難い誤りである。

こんな文學者に、日本國家は文化勳章を與へ、國語を保守する福田恆存には、文部省の外廓團體からの日本藝術院賞しか與へられなかつた。私たちの戰後とはさういふ時代であるとは言へ、あまりに理不盡である。しかし、かういふ歴史はいつの日か斷罪される。だから歴史は恐い。そしてだから歴史を信じるのである。

  桑原自身は自らを「一インテリ」と呼ぶのであるが、内心では「自分自身は森鴎外や幸田露伴のような頭脳」を持つてゐると考へてゐるのであらう。だからこそ、「現代假名遣い」に改惡しても、社會的混亂を引き起すことはなかつた、と言つて喜べるのである。國民は、鴎外を讀めないから、新假名にしてもどうでも良いと腹の内で思つてゐるから、のんきに「世界に誇るべき成績だ」などと言つてゐられるのである。自分たち「インテリ」だけが鴎外を理解してをり、さういふ文豪の偉業は我我が守り續けるから心配はゐらない、安心だといふのが腹の内であらう。

  少少穿ちすぎかもしれない。が、明らかなことは次のことである。

「社会的混乱」を云々するならば、歴史的假名遣ひのままにしておいたら「社会的混乱」が起きたといふことを實證しなけれならない。もちろん實證は無理だから、せめて意をつくして説明すべきである。しかしそんなことはしない。歴史を重んじるといふ立場こそ、「世界に誇るべき成績だ」。彼等の思考には「歴史」などといふ觀念は初めからないのである。

  そもそも、「社会的混乱」などといふことを心配してゐるところを見ると、じつは「社会的混乱」を招きかねないと案じてゐると言ふのが本當なのではないかと勘繰りたくもなる。漢字の體系を壞し、ローマ字化によつて支那文明の流れを斷ち、その間隙を埋めるために共産主義が利用されたといふ支那の状況をここで想起すれば、「假名」の變更といふことが大變なことであつたといふことは事實である。

あるいはその傍證として、傳統を守り繁體字を使ひ續ける中華民國(臺灣)の發展状況も考慮に入れれば、文字の人工的な變更といふことがいかに文明にとつて有害無益であるかといふことは自明なのである。今日、支那が發展して見えるのは、共産主義を捨てたからであり、簡體字からローマ字化への「文字の進化」を實現しようとする執念が忘れられてゐるからである。

コメント (4)
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