言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

總理大臣が辭任するといふこと

2007年09月12日 22時40分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

  安倍總理大臣が御辭めになつた。靖國も行かず、テロ對策特別措置法も延長せずに、拉致も前進させずに御辭めになる。腑甲斐ないことだ。

   首相自身にも慙愧の念もあるだらうが、それと共に、憤慨する思ひもあつたのではないかと想像する。ずゐぶんと御怒りになつてゐたのであらう、私はさう思ふ。政治については分からない。しかし、多くを語らないこの政治家に對して、「國民」の身勝手な言ひ分の方がみつともないと思つた。參議院で負けた――「パンとサーカス」(年金とタレント候補)ばかりを求める國民に、どうして憲法問題の價値が分かるだらうか。そんな國民の民意なんて、どうでも良い。負けて正解である。あれは、安倍總理の勳章である。

  今日もこんなことがあつた。 「辭めろ、辭めろ」と言つてゐた新聞記者どもが、辭めると「無責任だ」と連呼する。何とも言葉の輕い新聞記者連中である。もうやつてゐられないと御思ひになつただらう。私は同情する。ほんたうにやつてゐられない、あんな連中を相手に會見をしなければならない政治家は氣の毒である。そして、そんな「國民」を相手に選擧を鬪はなければならないのも氣の毒である。「國民は裸だ」と言へる政治家がゐないなら、せめて政治評論家が言つてあげれば良い。

  國民は馬鹿だよ、ああいふ政治家を大事にしなければ未來がないではないか。

  主權は國民にあると言ふ。それなら主權者をチェックする存在が必要である。それは政治家ではないか。政治家は堂堂と、國民を批判せよ。それが民主主義である。

  多くを語らないのではなく、語れないのだらう。語るにたる國民ではないのである。

  逆説めくが、民主黨のおじゃま代表は、これでいよいよ詰腹を切らされることになるだらう。アメリカをどこまで追ひ込む氣か。内心「困つたな」と思つてゐるに違ひない。彼の得意技は「サジ投げ」である。もうすぐ匙は投げられよう。

コメント (4)
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