言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語196

2007年09月16日 19時20分36秒 | 福田恆存

(承前)

  福田恆存の「『國語改良論』に再考をうながす」にたいして、桑原は反論する。いや反論をすることはできないので、同じ「知性」の十二月號に「私は答えない」といふ文章を書いて、論爭から降りてしまつたのである。その理由がふるつてゐる。

「私は論争を恐れるのでもなければ、それが嫌いなのでもない。むしろ客観的にみれば、好きな方かもしれない。しかし論争と口げんかは別であつて、口げんかはしたくない。そして、私が福田氏に答えるならば、口げんかになってしまうことは必至なのだ。(中略)

 論争ということは、ことに国語改革問題のようにすでに、よきにせよ悪しきにせよ、実践過程に上つている問題についての論争は、それによつて事情がはつきりし、実践上に何らかの具体的方策(自分の希望する方向においてにせよ、その反対の方向においてにせよ)がもたらされるようでありたい、そうでなければ議論などしたくない、と私は考える。そのためにはレトリックぬきで、静かにやりたい。」

 全文で、原稿用紙九枚ほどの文章である。なぜ福田とは論爭しないのかといふただそれだけのことを書いてゐるのである。この文章を、評論家の三好行雄は「賢明」と書いたが(『現代文学論争』臼井吉見編、「現代かなづかい論争」解題)、それは福田恆存によつてこつぴどく論破されずに濟んだ桑原への同情によるものなのか、あるいはレトリックに終始する福田恆存の論法への批難をこめてのものなのか、不明である。

が、レトリックなきロジックなどといふものがあると思つてゐる桑原の文章觀に私は同意し難い。何ともナイーブな思想家である。言葉は論理(言ひたい「こと」=What to say)だけで出來てゐるものではない。修辭(「いかに」言ふか=How to say)を通じて表現されるものである。そんなことも知らずに書き續けられた當時のインテリといふものの淺薄さを、浮かび上がらせた文章である。

  したがつて、これは桑原の完全なる敗北宣言である。もちろん、本人は勝利宣言のつもりで言つたのだらう。默殺をもつて、福田恆存を論壇から追ひやらうとしたのである。現實は「現代かなづかい」で動いてゐるのである。現實追認の勝ち馬に乘らうとしただけの發言なのである。「国語改革問題のようにすでに、よきにせよ悪しきにせよ、実践過程に上つている問題」などといふ言葉がそのことを暗示してゐる。有體に言へば、國語は「現代かなづかい」で動き出したのだから今更どんな理屈を言つても無駄だよ、と言つてゐるにすぎない。そこには、一遍の論理も誠實さも、國語にたいしての見識も示されてはゐないのである。

それが證據に、桑原の論は的を射てゐない。假名遣ひ論の本質は全く關係ないことに紙幅が割かれてゐる。福田恆存が的確に指摘したやうに、彼の擧げた例は、字音假名遣ひばかりであり、活用のある言葉については何も言はないのである。假名遣ひとは和語に對するものが主であり、そもそも外國語である漢字の讀みについて、「現代仮名遣い」の優位性を説いても致し方ない。

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