言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

梶井基次郎「のんきな患者」

2007年09月18日 09時53分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫) 梶井基次郎全集 全1巻 (ちくま文庫)
価格:¥ 924(税込)
発売日:1986-08
 今、まとまつた評論を書いてゐるが、連休中にその仕事にかかりきりになると、少少退屈して來た。退屈をまぎらはすのはあまりうまくないから、散歩ぐらゐしか手がないが、昨日は暑かつた。古本屋でもひやかしに行かうかと思つたが、それもせずに部屋にこもり、結局關係ない本を讀んで時間を過ごした。

 前前から、讀まう讀まうと思つてそのままになつてゐた『梶井基次郎選集 全一卷』(大和書房。「ちくま文庫」はこれを基にしたものか)を手にした。「檸檬」は學生時代に讀んでゐたし、「城のある町にて」は何年か前、その舞臺である三重縣の松阪に宣長の舊居を見に行つたをり、旅館で讀んだ。そこで、今囘は「のんきな患者」を讀んでみた。大阪の庶民の話であつた。「吉田は肺が惡い。寒になつて少し寒い日が來たと思つたら、すぐ翌日から高い熱を出してひどい咳になつてしまつた」で始まる。病氣の苦しみを抱へながら、しかも逃げることもできずに、「附合ふ」といふことは、貧しさから逃れられない人人の生き方のメタファーであるのだらうか。今の年金問題の悠長な「嘆き」とは全然質の違ふものを感じた。冷靜なのである。熱くなつてゐない。怒りを示すのでもなく、苦しみを宣傳するのでもない。すごいな、そんな感じがした。しかし、これがかつての人はすばらしかつたといふことを意味するのかと言へば、さうでもない。「のんきな」だけである。「貧すれば鈍す」といふことなのかもしれない。ただ、「衣食足りて禮節を知る」――私たちの社會に足りないものはそれだらう。

 最後は、かういふ文章で終はる。

 自分の不如意や病氣の苦しみに力強く堪へてゆくことの出來る人間もあれば、そのいづれにも堪へることの出來ない人間も隨分多いにちがひない。しかし病氣といふものは決して學校の行軍のやうに弱いそれに堪へることの出來ない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではどんな豪傑でも弱蟲でもみんな同列にならばして嫌應なしに引摺つてゆく――といふことであつた。

  「のんきな患者」とは、かういふことを知りながらじつとしてゐられる人のことなのか。

 昭和七(1932)年『中央公論』に發表。原稿料をもらつた最初の小説である。

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言葉の救はれ――宿命の國語196

2007年09月16日 19時20分36秒 | 福田恆存

(承前)

  福田恆存の「『國語改良論』に再考をうながす」にたいして、桑原は反論する。いや反論をすることはできないので、同じ「知性」の十二月號に「私は答えない」といふ文章を書いて、論爭から降りてしまつたのである。その理由がふるつてゐる。

「私は論争を恐れるのでもなければ、それが嫌いなのでもない。むしろ客観的にみれば、好きな方かもしれない。しかし論争と口げんかは別であつて、口げんかはしたくない。そして、私が福田氏に答えるならば、口げんかになってしまうことは必至なのだ。(中略)

 論争ということは、ことに国語改革問題のようにすでに、よきにせよ悪しきにせよ、実践過程に上つている問題についての論争は、それによつて事情がはつきりし、実践上に何らかの具体的方策(自分の希望する方向においてにせよ、その反対の方向においてにせよ)がもたらされるようでありたい、そうでなければ議論などしたくない、と私は考える。そのためにはレトリックぬきで、静かにやりたい。」

 全文で、原稿用紙九枚ほどの文章である。なぜ福田とは論爭しないのかといふただそれだけのことを書いてゐるのである。この文章を、評論家の三好行雄は「賢明」と書いたが(『現代文学論争』臼井吉見編、「現代かなづかい論争」解題)、それは福田恆存によつてこつぴどく論破されずに濟んだ桑原への同情によるものなのか、あるいはレトリックに終始する福田恆存の論法への批難をこめてのものなのか、不明である。

が、レトリックなきロジックなどといふものがあると思つてゐる桑原の文章觀に私は同意し難い。何ともナイーブな思想家である。言葉は論理(言ひたい「こと」=What to say)だけで出來てゐるものではない。修辭(「いかに」言ふか=How to say)を通じて表現されるものである。そんなことも知らずに書き續けられた當時のインテリといふものの淺薄さを、浮かび上がらせた文章である。

  したがつて、これは桑原の完全なる敗北宣言である。もちろん、本人は勝利宣言のつもりで言つたのだらう。默殺をもつて、福田恆存を論壇から追ひやらうとしたのである。現實は「現代かなづかい」で動いてゐるのである。現實追認の勝ち馬に乘らうとしただけの發言なのである。「国語改革問題のようにすでに、よきにせよ悪しきにせよ、実践過程に上つている問題」などといふ言葉がそのことを暗示してゐる。有體に言へば、國語は「現代かなづかい」で動き出したのだから今更どんな理屈を言つても無駄だよ、と言つてゐるにすぎない。そこには、一遍の論理も誠實さも、國語にたいしての見識も示されてはゐないのである。

それが證據に、桑原の論は的を射てゐない。假名遣ひ論の本質は全く關係ないことに紙幅が割かれてゐる。福田恆存が的確に指摘したやうに、彼の擧げた例は、字音假名遣ひばかりであり、活用のある言葉については何も言はないのである。假名遣ひとは和語に對するものが主であり、そもそも外國語である漢字の讀みについて、「現代仮名遣い」の優位性を説いても致し方ない。

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言葉の救はれ――宿命の國語195

2007年09月14日 09時13分43秒 | 福田恆存

(承前)

桑原がもし「この間の事情については全く無知だ」と心底思ふのなら、まづは「この間の事情について」詳しく知るべきであるし、「全く無知」なら、どうして新假名遣ひが「よい」ものだと言へるのだらうか。ゴッホの繪なら盜んで來ても良いものには違ひないが、それが盜んで來たものであると知つたら、自分の家に飾つておく人はゐまい。「この間の事情」が大事なのである。

  インテリとは、「この間の事情」を知らずに意見を言ふ人のことを言ふのだらうか。直觀がさう言はせてゐるとでも言ふのだらうか。もちろん、國語については誰が口を出しても構はない。それは「みんなの国語」であるから當然である。しかし、「みんな」の中には、歴史的假名遣ひを「よい」ものとする人もゐるのではないか。こんなものを多數決で決めるといふのは、愚の骨頂である。國語はどうあるべきかといふ理念の次元で考へなければならなし、保守的な立場で考へるべき最たるものである。

  桑原が「よいもの」と考へたものであつても、それが「みんなの国語」になるわけではない。それこそ戰後民主主義に反する行爲であらう。既に事が決着してから(國語改惡が斷行された後から)、おためごかしにかういふことを書くことを、私たちの國語では卑怯といふのである。福田恆存はかう記してゐる。

  「率直にいつて、私は國語改良案は、もつともつと論議されるべき問題だとおもひます。いまからでも遲くはない。ただちに『歴史的かなづかひ』に戻れとは申しません。現行のままでいいから、論議は充分に明るみでしてもらひたい。また、させてもらひたいものです。すでに『現代かなづかい』に決まつたものとして、問答無用の態度は引つこめていただきたい。」

「『國語改良論』に再考をうながす」

  福田恆存にしては、ずゐぶん遠慮した言ひ方である。福田の反論を記しておくことにする。

「たくさん漢字を知つてゐる人間が、その苦勞を一般人から解除してやらうといふ善意は、金持が貧乏人に向つて、金ゆゑの不幸を説いて聽かせるに似てゐませんか。

  これはこじつけではありません。たとへ古典は讀めなくとも。また讀みつこないにしても、そのつながりをつけ、道を通じておく教育は必要なのです。原則はむづかしく、正しいかなづかひはできなくとも、一向さしつかへありますまい。古典からの距離は個人個人によつて無數のちがひがある。その無數の段階の差によつて文化といふものの健全な階層性が生じる。それを、專門家と大衆支配階級と被支配階級といふふうに強ひて二大陣營に分けてしまひ、兩者間のはしごをとりはづさうとするのは、おほげさにいへば、文化的危險思想であります。」

  この文章によつて、「『國語改良論』に再考をうながす」はほぼ締めくくられてゐる。昭和三十年の雜誌「知性」十月號に掲載されたものである。金田一、桑原は全く大衆に迎合してゐるやうに見えて、じつはインテリである自分自身の立場を保身してゐるのである。「二大陣營」の一方の立場を維持し續けたいのである。文化傳統は、インテリと學者とによつて守られるべきもので、大衆には簡易な表音的な流動的な改良國語を使はせれば良いといふのである。「みんなの国語」などといふタイトルをつける姿勢にその欺瞞ぶりが示されてゐる。

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總理大臣が辭任するといふこと

2007年09月12日 22時40分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

  安倍總理大臣が御辭めになつた。靖國も行かず、テロ對策特別措置法も延長せずに、拉致も前進させずに御辭めになる。腑甲斐ないことだ。

   首相自身にも慙愧の念もあるだらうが、それと共に、憤慨する思ひもあつたのではないかと想像する。ずゐぶんと御怒りになつてゐたのであらう、私はさう思ふ。政治については分からない。しかし、多くを語らないこの政治家に對して、「國民」の身勝手な言ひ分の方がみつともないと思つた。參議院で負けた――「パンとサーカス」(年金とタレント候補)ばかりを求める國民に、どうして憲法問題の價値が分かるだらうか。そんな國民の民意なんて、どうでも良い。負けて正解である。あれは、安倍總理の勳章である。

  今日もこんなことがあつた。 「辭めろ、辭めろ」と言つてゐた新聞記者どもが、辭めると「無責任だ」と連呼する。何とも言葉の輕い新聞記者連中である。もうやつてゐられないと御思ひになつただらう。私は同情する。ほんたうにやつてゐられない、あんな連中を相手に會見をしなければならない政治家は氣の毒である。そして、そんな「國民」を相手に選擧を鬪はなければならないのも氣の毒である。「國民は裸だ」と言へる政治家がゐないなら、せめて政治評論家が言つてあげれば良い。

  國民は馬鹿だよ、ああいふ政治家を大事にしなければ未來がないではないか。

  主權は國民にあると言ふ。それなら主權者をチェックする存在が必要である。それは政治家ではないか。政治家は堂堂と、國民を批判せよ。それが民主主義である。

  多くを語らないのではなく、語れないのだらう。語るにたる國民ではないのである。

  逆説めくが、民主黨のおじゃま代表は、これでいよいよ詰腹を切らされることになるだらう。アメリカをどこまで追ひ込む氣か。内心「困つたな」と思つてゐるに違ひない。彼の得意技は「サジ投げ」である。もうすぐ匙は投げられよう。

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言葉の救はれ――宿命の國語194

2007年09月11日 06時20分00秒 | 福田恆存

(承前)

  多くの作家の文章に見られる、歴史的假名遣ひの書き間違ひを桑原は指摘するが、といふことは、その人たちよりも本人は歴史的假名遣ひに精通してゐるといふことになる。「国民のすべてが森鴎外や幸田露伴のような頭脳をもちえぬ以上、改良を考えるのは当然」と書いてゐた本人が、それほど精通してゐる假名遣ひを「むつかしい」と言ふのも、ずゐぶん變な話で、何のことはない國民を馬鹿にした話である。これまた「おためごかし」である。國民のためを裝つてじつは旗色の良い方向で自己の主張を展開し、言論界での位置を確保しようといふ魂膽はあまりに見え透いてゐる。インテリの自己欺瞞、俗耳に入りやすい主張をあへて述べてゐるに過ぎない。

  桑原は、こんなことも書いてゐる。

「改良論者たちは決して『ルーズな気持ちから』『誤用を公認』しようというのではない。歴史の進行とともに発音もおのずと変る。一千年前の表記法では今日の日本語に即さないから、これを発音に近く改め、改めた上はみなでこれを正確に用いようというのである。」

 改惡論者がいつも言ふ主張である。そしてこれしかないといふ意味で、一枚看板である。發音は時代と共に變はる。だから、表記も變はる。それは自然な流れであると言ふわけだ。

  しかし、今私が書いた文章の中で「だから」の前後の文を順接で結びつけることができるためには、「表記は發音通りに書かなければならない」といふ前提がなければならない。

例へば、「新しい機種のゲームが發賣された」から「買ふ」といふ文が正しいとするためには、ゲームを買ふことが正しい、あるいは好もしいといふ前提がなければならないのと同じである。ところが、それはゲームをすることが良いといふ子供の論理を信じる人人か、子供に媚びるゲームソフト會社の社員にしか通用しない理屈である。

さうであれば、桑原の論は、國語改惡を善とする人人にとつての話にすぎない。文字は發音通りなどといふことが、どうしてさうやすやすと信じられてしまふのか、私には分からない。このことは、時枝誠記のところでも述べた。文字の表記を作り出す段階では、表音的にならざるを得ないのは當然であるが、文字の體系=假名遣ひが成立してから後には、その傳統を漸進的に改良してゆくのが筋道である。それと全く關係ない「表音主義」などといふ原理で國語を改造するのはとんでもない暴擧である。幼い頃には小遣ひを親から毎日いくらいくらと決めてもらつてゐたからといつて、成人してから自分で稼いでゐるにもかかはらず、お金が足りないから親に小遣ひをもらふといふのは、人格を疑はれる愚行であるのと同じである。それは獨り立ちしてゐない愚者の行動である。表音主義とは、子供の小遣ひ頂戴主義と同斷で、さういふ發想自體が言語の自立性と、かへつて連續性をも否定したものである。

  桑原は「この間の事情については全く無知だが、アメリカの占領下にできたものでもそれがよいものなら、いたずらにナショナリズムに走らず、これを守りたいというのが私の立場である」

などと言ふが、新假名遣ひが「よいもの」であるかどうか全く考へたことがないから、かういふ無責任なことを平氣で書けるのである。

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