今日、私の職場にダライ・ラマ法王がいらつしやつた。學生らを前に、わづか45分の間だけであつたが説法をしてくださつた。私はチベット佛教については不案内であるが、その内容は分かりやすく、かつ話し方や仕種が釀し出す雰圍氣に、全身が包みこまれてしまつた。世が世なら國家元首であるその方が、今目の前で語る場面に立會ふのは、もしかしたらこれが最初で最後かもしれない。緊張した嚴肅な空氣が會場をおほつてゐた。
私の學校では、毎朝般若心經をあげることが日課になつてゐる。それで法王樣の前でもいつものやうに讀誦した。般若波羅多・・・
學生への説法であるから、學ぶことの意義から始められた。
「般若」とは、學ぶこと、勉強すること、であるが、もう一つ、世界がどうなつてゐるのか、世界のありやうについて考へるといふことである。
では、次に「波羅多」とはどういふ意味か。それは人人に親切にすること、人人に對する慈しみの心を持つといふことの大切さを意味してゐる。學ぶ目的は何か、自分のためではなく、周圍の人人を幸福に導くためである。その目的を忘れてはいけない。 そもそも、「般若波羅多」とは、人人を幸せにするために學びますといふ誓ひを佛樣の前に唱へることである、私はさういふ風に聽いた。專門家からすれば、違ふかもしれないが、拙い理解力でそのやうに聽いた。法王も言はれたやうに、若い人達は内にエネルギーをためてゐてはいけない。外に發散することが大事である。その發散してゆくことが、人に親切にするといふことであらう。
般若心經を御存じの方は、よく知つてをられると思ふが、その御經には「般若波羅多」といふ言葉が五囘出てくる。それほど大事な言葉である。何も分からずに御經を讀むことも大事であるが、知つて讀誦することも大事であらう。法王樣の話された説明は、今まで私が讀んだ注釋書にはなかつた説明であつたけれども、やはり十二分に咀嚼された、生活的なものであつた。
日本は經濟的に發展してゐるが、心の安定を持てない人が多い。最近の日本のニュースを御聽きになつてゐるのであらうか、自殺の多い事を危惧してをられた。心の安定は、自分の事だけを考へてゐては得られない。他の人のために生きる中で得られるものである。勉強を一所懸命することは大事である。しかし、人への親切心を持ち續ければ、ゆつくりゆつくり21世紀は良い時代になつてゆくだらう。
21世紀は、少しづつ平和が作り出されてゆく時代である。平和は拜んでゐては訪れない。その爲には對話と親切心が大事である。21世紀は對話の世紀であるといふことを期待してゐる、さう話されて説法を締めくられたが、中共政府に追はれて亡命して來られた方が話す言葉だけに、その意味は重い。學生らに話すために、少少理想主義的な面もないとは言へないが、得がたいひとときであつた。
學ぶとは何か、生きるとは何か。さういふことを考へずに、學ぶ人、生きられる人は、それはそれで幸せではあらう。しかし、さういふ疑問をもちながら、その上でさらに深く「波羅蜜」の境地に致れれば、その人の人生は更に深いところで幸せをつかむことができるのだと思つた。
今日は一日、幸せであつた。合掌。