言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

悲劇『知的怠惰を論ふことの自己欺瞞』

2006年11月01日 23時07分51秒 | 日記・エッセイ・コラム

次の話は、東の國の話である。唯一神のゐないその國にあつては、自我は自我によつて否定する以外に方法がなく、論爭はいつも泥仕合を呈するといふのが常態であつた。

  そこに、知的怠惰を批判する批評家がゐた。激しい口調で論ふのを信條としてゐた。既にかなりの數の書物を出し、イエスの言葉を引き、カントの言葉を用ゐ、シオランの言葉を擧げ、シェイクスピアを援用し、スタイナーの發言を取上げて、相手を徹底的に論破してゐた。向ふところ敵なしの御仁であるが、いよいよ斬るべき相手もゐなくなり、少少空しさを感じ始めてゐるところであつた。

  神を信じてもゐないその批評家は、聖書の「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」を引いて、政治と文學、政治と道徳とを峻別せよと辻辻で叫んでゐた。そして、預言者は故郷から捨てられた舊約聖書の記述よろしく、論壇といふ故郷から捨てられてしまつたと言ふ。神が立てたソロモン王は、「主御自身が建ててくださるのでなければ 家を建てる人の労苦はむなしい」と書き記したが、神を信じてゐない者は、ただ自我の芯で戰ふことに疲れ、徒勞感を告白することしかできなかつた。

  聖書にはかう書いてあつたはずだ。「口からはいるものは人を汚すことはない。かへつて、口から出るものが人を汚すのである」と。知的怠惰を論ふことが、自身の知的誠實を示す證據にならない。知的誠實は、批判に向つて營まれるよりも、むしろ創造に向つて用ゐられることを願はれてゐた。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟に向つて、あなたの目からちりを取らせて下さい、と言へようか。僞善者よ、まづ自分の目から梁を取り除けるがよい。」

  知的怠惰を論ふその批評家は、相手を論ふことによつて知的誠實さを示さうとした結果、自分自身の知的誠實を磨く機會を奪つてゐることに氣附かなくなつてしまつた。

  なぜだらうか。知的營爲を道徳的實踐と同一視し、文學を道徳と同一視してしまつたからである。神のゐない國だから、文學が神の御言葉を代辯しなければならないと考へたからである、いやさうあるべきだと願つたからである。神のゐない國の悲劇である。無いものねだりといふことである。しかし、文學は、そんなことはどうでもよいと思つてゐる人によつても作られるのである。

  さう云へば、それ以前にも『作家たちの態度』を語つた批評家がゐた。確かに「詩的正義」をめぐつて語られたものであつたが、その人は神を信じてゐた。神を語ることはなかつたが、神のゐない國にあつては、さうせざるを得ないといふことを心得てゐた。演戲といふ言葉を用ゐたその人間論『人間は劇的なるものだ』といふ書は、そのことを示してゐた。

  思想を受け繼ぐといふことは、實に困難である。

  神のゐない東の國の或る批評家の悲劇について、私はやうやく書き始めた。緞帳が上がるまでに、臺本は書き上がるか。

コメント (2)
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