『諸君!』11月號の「本の廣場」に、留守晴夫先生が自著『常に諸子の先頭に在り』の紹介を書いてゐる。この本は、多くの人に讀まれるべきであるし、『諸君!』が本書を紹介しようとすることを喜んだが、中にひとつ不愉快なことがあつた。
それは、本書がもともと『月曜評論』といふ月刊誌に連載されたものであることを、「あるミニコミに連載した」と書いてゐたことである。『月曜評論』と明記することに何か不都合でもあるのだらうか。私は、留守先生が「あるミニコミ」などと書いたことをいぶかしく思つたし、憤りさへ感じた。
本書を、以前評論家の潮匡人氏が「産經新聞」で紹介したが、潮氏は、『月曜評論』連載と明記してゐた。それがマナーであり、當然のことだと思ふ。
私には、留守先生にどんな理由があるのか、あるいはないのか知るすべを持たないが、讀者はその誌面のみを基に考へるしかないのであるから、不愉快な思ひをここに記しておく。
特に知的誠實を訴へるべき書である。栗林忠道の精神もまた誠實に徹してゐるところに宿つてゐるものだ。さうであれば、「ミニコミ」などといふ言ひ方は、發行者への非禮であらう。私は、かういふ姿勢は留守先生の嫌ふ「ゴム人形」のそれであると思ふ。
そもそも、なぜ「ミニコミ」といふ言ひ方が「発行者への非礼」になるのですか。
手許の『辞林21』には「ミニコミ」は「少数者に対して情報を伝達すること、またその伝達媒体。マスコミに対して言ふ」とあります。
別に「ミニコミ」といふ言葉に侮蔑の意味などない。それとも前田さんは「少数者」しか読まない「ミニコミ」を軽蔑してをられるのですか?
「ゴム人形」とは福沢諭吉が「相手次第でどうにでも態度を変へる」我が国民性を評した言葉ださうですが、留守氏は礼儀も顧みず己を利するために「態度を変へ」て知的誠実を犠牲にした「ゴム人形」といふわけだ。
それだけ他者を非難するからには相当の根拠を挙げるべきではないですか。
「ためにする批判」って印象を受けました。
ちなみに野嵜氏は、ご自分の公開日記に「人の言葉を適當に拾つて來て、その人に投附け返して、それで勝つた氣になる」などと書いてますが、お前がいうなって感じです。
お前もな。
どうも私の感覺がをかしいといふことで落ちつきさうですね。
ですが、やはり訂正はする氣になりません。留守先生が當該書を出すきつかけになつた媒體が『月曜評論』である以上、それを私なら明記する。さういふ感覺を大事にしたい、さういふことです。どうしてわざわざ「ミニコミ」などと書くのでせうか、分かりませんね。まつたく分かりません。
初出は『月曜評論』である。
『月曜評論』はミニコミである。
したがつて、初出はミニコミである。
まつたく論理的に正しい。でも、その理屈では、どうして『月曜評論』が、留守先生の原稿を活字にしたのか、といふことが分からない。
私の視點は、どうして『月曜評論』と書かないのか、なのであつて、どうして「ミニコミ」ではだめなのか、をいくら説明されても「わかつちやゐないね~」とつぶやかざるをえませんね。
終はり。
しかし留守氏を「ゴム人形」と評したのを訂正する気がないのなら、さうである所以を「感覚」ではなく論理的に説明すべきです。