言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「事実と正直に向き合いたい」とは何の謂ひぞ

2014年09月15日 19時59分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 朝日新聞の日曜版に、特別編集委員の星浩氏が、こんなことを書いてゐた。腰を痛めて、臥せつてゐたが、笑ひを止められず腰に激痛が走つた。

「新聞記者になった時の、あのドキドキ感、事実に基づいて良い記事を書いたときの達成感を、思い出そう。そして、事実に向き合う真摯な姿勢を、紙面で表現していく。私たちがやるべきことは、それに尽きる。」

 やつたことの大きさと、それを知つた時の反省との二つの点から、この文章は落第である。

 今回の誤報が単に誤報であるのか、それが明らかになつてゐない時点で「誤報問題」としてのみ理解し、ただちに反省の弁を述べる、そこにこそ問題がある。端的に言つて自己欺瞞である。誤報があたかも真実であるかのやうに思ひ込む、一連の誤報問題と構図は全く同じものである。それで「事実と正直に向き合いたい」とは何の謂ひぞである。事実と正直に向き合つてゐたと思ひ込んでゐたのであらう、当該の記者も。事実と嘘とが訳の分からないやうな状況に自ら陥つてゐたのである。自己を正当化し、何かを企んでゐる者には、都合のよい事実こそが真実なのである。その辺りの経緯について、海千山千を乗り越えてきた特別編集委員には分からないはずはない。いや、私の場合にはさういふこともなかつたときつぱり言へるほど自己欺瞞が深いのかもしれない。自分は誠実で、真摯な記者であつたと思つてゐるのであらう。活字にするとすべてが真実に思へてしまふ。

 社内報ならともかく、かういふ歯の浮くやうな「きれいごと」は勘弁してもらひたい。こんな文章を載せるために購読料を払つてゐるのではない。今回の事件について、星氏が自ら机を離れ「事実に基づいて良い記事を書」かうとしてゐるとはとても思へない。「事実に向き合う真摯な姿勢を」と書くのなら、ソウル支局がどうして大阪本社に特ダネを渡したのか、それ一つでも事実を記してほしい。「事実と向き合いたい」の「たい」とは誰にたいする願望なのか。自分は蚊帳の外にゐて、今回の事件を他人事として見てゐるからであらう。

 語るに落ちるとはかういふことである。自分は今回の件を、「他人事」として見てゐますといふことを天下に示してしまつたといふことである。その意味で、この記事もまた朝日新聞の一つの典型を示してゐる証拠といふことにならう。

 大丈夫か。

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