言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

文學以前の生活

2010年08月29日 18時29分39秒 | 文學(文学)

蛍川・泥の河 (新潮文庫) 蛍川・泥の河 (新潮文庫)
価格:¥ 380(税込)
発売日:1994-12
  今朝、トランクルームに本を探しに行つた。すると宮本輝氏の『泥の河』が目に止つた。同時に輯録されてゐる『螢川』の印象は強烈に覺えてゐるが、こちらの方は記憶にない。確かに讀んだはずなのに不思議である。しかし、讀んで見てしみじみと心が打たれて離れない。きつと以前讀んだときもさうであつたであらうのにである。またいつの日か忘れてしまふのであらうか。悔しい思ひも片隅にある。

  解説を桶谷秀昭氏が書いてゐた。これも失念してゐた。

――『泥の河』で出發した宮本輝は、若年にして文學以前の生活に心を勞した人の翳をその表情に漂はせてゐた。

   この小説は、昭和三十年の大阪を描いてゐる。かう書かれてゐた。「昭和三十年の大阪の街には、自動車の數が急速に増えつづけてゐたが、まだかうやつて馬車を引く男の姿も殘つてゐた。」

   土佐堀川の邊りでも馬車が歩いてゐた。さういふ時代からまだ半世紀である。

   桶谷氏は、かうも書いてゐる。

――近代生活の味を知つてしまつた日本人が、銀子の感受性を失つてしまつたとしたら、やはりそれは美徳の喪失にほかならないのである。失はれた美徳は、いまの日本人が再び貧困に見舞はれる事態になつたとしても、取り戻すことはできなのではないだらうか。むしろ貧してさらに淺ましくなる心性が露呈するかもしれない。

「銀子」とは、この小説のなかで泥に浮ぶ船の中で生活する家の女の子の名前である。無口であるが強い心の持ち主で、生活に耐えてゐることにも決して負けない少女である。「お米がいつぱい詰まつてゐる米櫃に手ェ入れて温もつてるときが、いちばんしあはせや」と言ふ女の子である。

   古風な小説である。が、かういふ小説が殘るのではないか。

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