言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語264

2008年05月01日 07時51分18秒 | 福田恆存

詩人・評論家・作家のための言語論 詩人・評論家・作家のための言語論
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:1999-03
(承前)

 吉本隆明氏にたいして、國語學者の時枝誠記はかう書いてゐる。

「氏の論述には、他説の引用が非常に多い。他人の説は、あるところで自説と一致してゐるやうに見えて、實はその方向が全然異なつてゐる場合すらあるのである。東海道線と中央線の交叉點のやうなものである。私が氏に期待したいことは、他説などにおかまひなしに、氏の論旨を嚴密に追及(ママ)、展開されることをやつていただきたいことである。私の詞・辭論などを引用することは、讀者を昏迷に陷れるだけのものではないかを惧れるのである」

(『吉本隆明をどうとらえるか』芳賀書店・昭和四十五年。一五六頁)

  東京大學の國語學の主任教授が、「讀者を昏迷に陷れるだけのものではないか」と危惧するのである。それほどに内容が分かりにくい。何も引用が惡いといふのではない。ずばりと言ひ切らずに、いたづらに言葉をちりばめて自説の韜晦なのか、單に自分自身が論旨を明確にしえないゆゑか、のらりくらりしてゐて讀者を惑はしてゐる、時枝はさう言ふのだ。

  そんな吉本氏であるが、「自己表出」「指示表出」といふ氏の言語論のキーワードについて、平成十一年三月に氏自身が出した『詩人・評論家・作家のための言語論』といふ本を出した。これは語りおろしのやうで、讀みやすい。この本を手がかりにまとめてみる。

帶には「僕の本を初めて読む人にも分かるように書きました。しかし、『詩人・評論家・作家のための~』とあるのはぼくの自信のあらわれです」と書くぐらゐ分かりやすく、かつ本格的に專門家の識眼にも堪へうるものといふのである。さうであるにもかかはらず、本書でも理解が困難でありすぎて私にも讀めないのであれば、それは吉本言語論自體の難解さ(それは何のための難しさかが分からないといふ意味で、それ「自體の難解さ」である)といふことを意味するのである。

 本來は、該當部分全部を引用したいが、それでは紙幅が足りないので、拔萃引用することにした。

<自己表出>

・「だれかとコミュニケーションする目的で発したのではなく、反射的に口をついて出た言葉です。」

・「内側だけで出てくる表現です。」

・「内臓そのものにかかわりのある表現です。」

・「内臓に関係づけられるこころの表現」

・「自己表出を第一義として発せられた言葉でも、少しの指示表出性をもっています。」

<指示表出>

・「何かを指し示すための表現です。つまり視覚的に景色をみてああきれいな景色だなといったりするのがそれです。」

・「じぶんのほうに何か飛んできたので、おもわず石だといったとします。そのばあいは、感覚的に眼が飛んできた物をみたからで、こころのなかで『あっ』といおうとしたのではないのです。つまり、じぶんのこころのなか、人間の身体でいえば内臓の動きとはまったく関係がありません。感覚を受けておもわず『あっ、何か飛んできた』といったので、このばあいは指示表出に属します。」

・「感覚とかかわりが深い言葉の表現です。」

・「脳に結びついており、それを第一義とする表現は言葉の指示表出に関係があるとかんがえればわかりやすいとおもいます。」

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