言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『学校は何をするところか?』を読む

2018年08月11日 14時26分03秒 | 本と雑誌

 

学校は、何をするところか?
苫野 一徳,菊池 省三
中村堂

「学校は何をするところか?」といふ問ひだけは共有できたが、結論には共感が出来するところなかつた。

  苫野一徳氏はこれまでにも何冊か読んでゐるので結論は分かりやすい。氏の教育目標は生徒自身の相互承認による共通了解の達成である。承認といふ言葉が今回は非常に具体的に説明されてゐたので、それは勉強になつた。褒める、称賛するから、存在だけは認めるまでが承認ださうだ。ニーチェの「愛せない場合は素通りせよ」といふ言葉を引いて承認の最低レベルを示してくれたのは、極めて実践的な内容である。哲学者は実践家でもあつた。

  一方、菊池省三氏は私の最も苦手なタイプである。生徒の自主性を重んじ、授業中も立ち歩けと指示するらしい。失敗感を与へない。ほめ言葉のシャワー。などなど、見えない権力構造が透けて見えるやうである。もつとも授業そのものを見てゐるわけではないので、実際の場面は本当に生徒たちが生き生きと活動してゐるのかもしれないが。ただ、次のやうな生徒の感想は私には「協同」的とは思へなかつた。

ーーーーなにも書けなかったけど、立ち歩いてまわりの友達に聞いて文書は書けました。

ーーーーほかの人の意見が聞けたから、この子は、こんな考えをしたんだなと思えた。

 

  これに対して菊池氏は、「協同的な学びに踏み込んでいる」と評価してゐる。それには強い違和感がある。これは依存的と評していいのではないか。そもそも立歩きも対話も、本人の知の開発が目標であらう。楽しさ、がそこに繋がつてゐなければ、ストレスレスなだけではないか。そんな気がする。

  今日は、日本中で宮崎県の県北地区だけ土砂降りの雨。外に出られず、読書に集中。収穫は、……

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