言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の国語265

2008年05月07日 14時49分45秒 | 福田恆存

(承前)265

 前囘は、吉本隆明氏の著作『詩人・評論家・作家のための言語論』から、その言語觀の中心的なワード「自己表出」と「指示表出」とに關するものを拔萃して引用したが、それらを見てお分かりいただけるやうに、心にかかはるものが「自己表出」、腦にかかはるものが「指示表出」といふのが、吉本氏の言語觀であるらしい。『言語にとって美とはなにか』よりも數段理解しやすいので、これでやつと氏の考へてゐることが分かつた。

  しかし、ここまで來て私は、吉本氏といふ詩人・批評家の本質が、この言語觀に表はれてゐるといふことに氣が附いた。それは吉本氏といふ人が、自身の心の内に「他者」を入れることができない人物であるといふことである。

「表出」といふのは、いづれにせよ内部から外部へと向ふ動きなのであつて、言葉がそもそも外部にあるものだといふ意識は乏しい。なるほど詩人は、自分の内部から言葉が出てくるのをじつと待つのが生業であらうから、それはそれでもつともなことであらう。が、さういふ自身の文學スタイルをして一般的な言語のあり方としてしまふことについては、もつと慎重であつてよい。いや慎重でなければならない。言葉は、私が生まれてくる以前からあつたものであり、社會に流通してゐるものである。もちろん、なにかの言葉を選ぶといふ行爲は、内部にあるものが導いたのではあるが、「表出」といふことにおいて言葉の本質が現はれると考へるのは、どう控へ目に言つても言ひ過ぎである。

  吉本氏がいみじくも書いてしまつたやうに、「だれかとコミュニケーションする目的で発したのではな」いといふところから既に、言葉といふものの本質を見誤つてゐることが分かる。言葉は私たちが發明したものでない以上、いつでも外部から來るものである。もちろん、「あっ」とか「うっ」とかいふ呻き聲ならば、それは自分が發したと言つても良いだらう。しかし、それを言葉の端緒とするかどうかについては、もつと嚴密は研究が必要である。言葉が音と共に意味を持ち、連續することによつて文脈を生じ、さらに一つ一つの言葉に新たな意味を附加してゆくといふ「成長」は、呻き聲の延長線上にはない。もしそれが連續してゐるといふのであれば、私たちは文を話せるのに、なぜ猿はそれを出來ないのか、また一生の間に獲得した知識や文法を文化を通じて傳承できるのが言葉の效用だとすれば、猿にはそれがなぜ出來ないのか、を説明することができない。

  内部からの表出としてのみ言葉を考へるといふのは、どうやらかなり特殊な考へ方といふことにならう。

  では、今度は逆に、言葉は外部だけに存在してゐるものであらうか、と言へばさうでもない。近代言語學は、言葉を自己の外にあるものとして、いはば道具的存在としてとらへてきた(instrumentalism)。しかし、たとへば私たちの日本語で考へたとき、「明日は晴れるだらう」といふのは、天氣豫報で晴れると豫想してゐるといふ客觀的に存在してゐる事實を表してゐるのではなしに、「晴れるだらう」と私が豫想してゐるといふ主觀的事實を表してゐるのである。「It will be fine tomorrow.」といふ客觀的な事實を日本語で表現することはできない(無理やり言へば、「氣象廳の豫報によれば、明日は晴れるそうだ」と言ふことになる。いちいち「誰誰によれば」とつけるのは日常的な用法にはならない)。

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