言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「水平線の歩き方」を觀て

2011年05月22日 20時51分38秒 | 日記・エッセイ・コラム

 今日、久しぶりに芝居を觀て來た。梅田のシアター・ドラマシティーで觀るのは初めて、中ホールぐらゐの大きさで、芝居を觀るには丁度よいと思つた。

  觀て來たのは キャラメル・ボックスのハーフタイムシアターで「水平線の歩き方」といふもの。K君の勸めであつた。あらすじを細かく書くことは、約束違反だから書けないが、ある青年が醉ひ潰れてアパートに歸ると、そこには二十年以上も前に死んだはずの母親がゐた、といふところから始まる。その理由は、最後になつて明かされることになる。始めは母親と認めなかつた青年も、口調やら口癖やら共通の思ひ出やらを確認するうちに、實の母だと認めるやうになる。そして、母親がゐなくなつた後の出來事を話し始めるのだつた。

   笑ひがあり、テンポがあり、そして泣かせる。キャラメル・ボックスの芝居は三度目だが、「さうだ、さうだ、かういふ芝居だつた」とすぐに分らせてくれる演出である。始めの方に、すべてのキャストが舞臺に出て來て、不思議な踊りを見せるのには、多少の戸惑ひと違和感とがあるが、それでも「さうだつた、さうだつた」といふ感じがしてきたのだから不思議である。コアのファンには、すでに定番の作り方で、「始まるぞ」といふ合圖になつてゐるのかもしれない。

   セリフが良かつた。作者の作り出す言葉が保守的な色合ひが濃く、私には聽き易かつた。「お母さん、今は看護婦とは言はないで、看護師と言ふんだよ。」「それはをかしい。看護婦といふ言葉の響きだけで、すでに醫療行爲だよ。」といふ何氣ない會話(私の記憶による)も、笑ひながらも十二分に頷けるセリフだつた。當日配られたリーフレットには、演出家の成井豐氏が、「僕は『思ひ出作り』といふ言葉が嫌ひです。思ひ出は人工的に作るものではなく、心の中に自然と殘るものだと思ふからです。」と書いてゐたが、それもまた心地好い言葉であつた。

   この舞臺に立つ役者は、觀る限りにおいて善人の塊のやうな人人ばかりである。ここを出自とする上川隆也も、テレビドラマ『大地の子』を觀た限りにおいて善人の塊のやうであつた。センチメンタルで優しい芝居作りが味ではあるが、もつと毒氣が欲しいなといふ感じも否めないが、それでも舞臺の隨所に、深く心の根子に差込んでくる言葉があつて觀てゐて快い。

  コアな觀客に舞臺が支配され過ぎて、自由な演出や主題の選定が束縛されるのではないかといふ懸念を私は勝手に持つてゐるが、それはすべての經濟集團が抱へる問題なのであつてみれば、ことさら演劇だけが解決すべき課題でもあるまい。

  かうした、笑はせて、泣かせて、考させる芝居をしばらくは觀てゐたいといふ氣持ちに素直にならせてくれた。それで滿足である。

   良い日曜日であつた。

  6月2日からは、東京での上演。

http://www.caramelbox.com/stage/halftime2011/tokyo_f.html

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