言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

硫黄島訪問と青山繁晴氏の熱情

2010年12月23日 15時14分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 尊敬する留守晴夫先生の『栗林中道傳』を讀んでから、私はすつかりこの人物に心醉してゐる。大東亞戰爭末期、本土から1000㌔以上離れた孤島での戰ひに、あれほどの人物と二万を越える人材とを投入して祖國防衞戰が繰り廣げられたのかを本書で知らされ、祖國への思ひと英靈への信を深くするに致つた。

   あれほどの人物を送つて何とか本土決戰を後らせたいといふ軍上層部の生き殘りの念と、一分一秒でも本土に生きる國民の生存を確保したいといふ最前線の兵士の願ひとは、桁違ひにその思ひの質が違つてゐる。組織幹部の怠慢と兵卒の眞摯とは、今日にも續く日本人の未熟である。そのことを私は感じるから、あの戰爭を肯定する氣にはなれない。何が「アジア解放」だ、そんなことを公言して憚らない今日の保守派の言論人は、自分の卑しい心性に目をつぶり、日本の歴史を美化するだけの盲目の思想家に過ぎまい。美化とはもつと批評的行爲であるべきで、纖細な手つきで自國の歴史を見、その中で浮かび上がつてくる一人の人物の中にのみ見出す行爲であらう。その意味では栗林中將の生き方にそれを探つた留守氏の批評こそが目指すべきものであらう。

    さて、それはともかく、先日録畫してあつた關西テレビの夕方のニュース番組「アンカー」の水曜日恆例の青山繁晴氏のコーナーを見た。先日行はれた菅總理の硫黄島遺骨收拾に對する批判であつた。閣議が終はつてから急いで飛行機で飛び、わづか數時間ゐただけで、いかにもパフォーマンスといつた行爲であり、スーツから作業着に着替へたものの、それはまつたく汚れてをらず、形だけのものだつたとの批判であつた。

    聞けば、青山氏は四年ほど前に當地に行き、地下壕にも入つたやうだ。氏の英靈に對する思ひは十二分に分かる。しかし、である、一國の總理の作業着が汚れてゐない、わづか數時間で歸つて來た、それらのことであれほど批判するのは果たして穩當だらうか。自民黨時代にも小泉氏は行つたが、それ以外に誰が行つたのか。

   政治家はその行爲で評價されるとしたら、今囘の件は、その動機はどうあれ、當地に出かけたといふことは良いことだと思ふ。あとは最後の骨一體まで拾ふと誓つたのであるから、それをきちんと實行したかどうかこそが首相としての資格を問はれるべき問題である。青山氏には、そのことを今後とも追及して欲しい。氏は激情家であるから、思ひだけをみると贊意を寄せたい氣になるが、今囘の番組にはあまり贊同出來なかつた。それにこの方よく泣かれるが、あまりその姿は美しくない。情に訴へるといふのは、ジャーナリストとしてはどうかとも思ふ。論旨は極めて明解で説得力のあるものなのだから、それだけで十分である。來年も、この番組は見てゐたい。

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