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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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澄邁県金江鎮雅頭村と新村で

2016年12月09日 | 海南島史研究
 11月9日午後2時半に、雅頌村の隣の雅頭村を訪ねました。
 「侵瓊日軍美亭郷人民概況」と「侵瓊日軍美亭郷民衆概況」に、
   “雅頭村の9歳の少女王玉蘭は7か所刺されて気を失ったが、別の村からきて遺体を集め
  ていた人に救われた”
と書かれています。
 王玉蘭さんは、いまもお元気で、雅頭村から南に7、8キロの金安農場に住んでいるとのことでした。

 午後3時ころ、雅頌村の北隣り、雅頭村の東隣りの新村を訪ねました。
 村の入り口の広場で、侯大英さん(90歳)に話を聞かせてもらうことができました。侯大英さんは、
   “父(侯定祥)と母(劉氏)と伯父(侯定科)と兄(侯家修)が日本兵に殺された。この日、
   村に入ってきた日本兵は村人14人くらいをわたしの家に集めて銃剣で刺し殺し、家に火を
   つけて燃やした。わたしは、日本兵がくるとすぐに逃げたので助かった。
    両親や伯父は逃げなかったが、年上の者は日本兵に襲われる危険がなく逃げる必要が
   ないと思っていたからだ。
    日本軍がこの村を襲ったのは、国民党軍を支援していると考えたからだと思う。近く
   の大美村で国民党軍が日本兵を殺したことがあった。
    この村に国民党軍が泊まったことはないが、コメなどをもらいに来たことがある。そ
   のときわたしは国民党軍をみた。
    両親を殺され、家も焼かれたので、生活するのが苦しかった。よその村に行って牛飼
   いをしたこともあった”
と話しました。そばにいた李秀南さん(84歳。女性)は、
   “わたしの夫の父(陳海貴)は新村の村長だった。村の梁居福さんなどが日本軍に美倫
   村に連れていかれたので、救おうとして、ニワトリをかついで美倫村に行った。しかし、
   そのまま帰ってこなかった”
と話しました。梁居福さんの息子さんの梁明享さん(1928年生)は、
   “あのとき父は30歳あまりだった。父が殺され、家も焼かれたので、生活がとても苦しか
   った。村人すべてが日本軍に苦しい生活をよぎなくされた。
    わたしの母は身体が弱く、背中がまがっていた。母ができないので、わたしが水汲みを
   した。遠くの村に行って物乞いをしたこともある”
と話しました。黄吉民さん(1946年生)は、
   “祖母(王氏)と兄2人が日本兵に殺された。母から聞いたことだが、6歳だった上の兄(黄
   吉清)は祖母に抱かていた。一人の日本兵がその兄になにか食べ物を渡した。兄がそれ
   を食べている時に、もう一人の日本兵が兄を銃剣で刺し殺した。その銃剣は兄のからだを
   貫いて祖母も殺された。5歳だった下の兄(黄吉光)は日本兵に噛みついたらしい。怒った
   日本兵が兄の足の指を全部潰した”
と話しました。侯大英さんに日本兵に焼かれた家のあった場所に案内してもらいました。そこは、話を聞かせてもらった広場のすぐ近くで、大きな20メートルあまりの樹や灌木が密集していました。
 案内はしてくれましたが、侯大英さんは、その家のあった場所をほとんど見ようとしませんでした。
 
                                 佐藤正人
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