■わたしはわたしである わたしはなぜ、パルチザンになったか
金永昇
(6)軍警の無慈悲な弾圧と虐殺は憎しみと怒りを湧きあがらせた
わたしの父は春窮期を無事に超すために、山で砥石にする石を掘って磨いて、市で売って‘糊口之策’を維持していた。
そのころ、밀재出張所にいた機動隊7人が、戦争準備のために、三鶴里산산学校運動場で毎日女性たちに竹槍訓練をさせていた。
機動隊が毎日光州から霊光邑に来るバスに乗ってくるのを知って、パルチサンたちは道路角の연암橋で待ち伏せしてバスを転覆させ、警察6人を射殺した後、佛甲山に後退した。1人は負傷したまま生還した。その後一人だけ生き残ったと銃殺されたという話も聞いた。
何時間か後、霊光の機動隊が出動し、追撃する中、父は外から聞こえる銃声に驚いて砥石を掘った穴にうずくまっていたところを見つかった。
機動隊は、父がパルチサンが待ち伏せ攻撃をする道案内をしたと言い張り、死ぬほど殴ったあと白状しないといってタオルで目かくしをして森の中に引っ張っていき銃殺しようとした。
ちょうど밀재出張所長がそれを見て、どんな人間かみてみようとタオルをとったとき、“この人はそのような人でない。밀재出張所が石垣を積むときも仕事をした人で、ここで長い間砥石にする石を掘っている人だ。 銃殺してはいけない“といった。父は生き残った。
このことを伝え聞いたわたしたちの家族は惨憺たる思いを押えることができなかった。
まず担架を作って父を家に運んだ。殴られた傷を治すため、当時農村で治療法とされていた人糞をろ過して飲みながら、数か月を患った。当時青年たちはある青鉛団を作って竹槍訓練をさせるような状況であった。
(7)討伐の時の横暴
その後、村の青年たちがパルチサンとなって入山した。
1949年秋、パルチザンは佛甲山の龍泉(ヨンチョン)寺で討伐隊の奇襲にあい、村の金ヨンハという青年が山を越えて村に入ってきた。これを追撃してきた討伐隊は、村の裏山を完全包囲し、夜が明けるとともに各種重火器で集中射撃を加えながら村に押し入ってきた。討伐隊が一軒づつまわり、洪家の庭に集結せよとの命令を伝え、村の人たちはわけも分からないまま出て行った。
討伐隊は一軒づつ捜索する過程で、わたしの家の納屋の灰の中から軍服と短刀、手榴弾を探し出し、長兄に、隠したことを正直に言えといって、死ぬほどなぐりつけた。この光景を目撃し、幼な心に火(천불)が出るほど(煮えたぎる)怒りが込み上げてきた。その服は隣家の金ヨンハの服だった。
当時、わが家の納屋の灰の中に服を埋め、農民が着るパジチョコリを着て牛のまぐさ籠と鎌を持って、変装した姿で集合場所に出てきたとはまったく知らなかった。結局金ヨンハは逮捕されてしまった。
集結した村の人たちのうち、青年たちはひどく殴られ、車やリヤカーで、支署留置場に運ばれ一週間程度留置されたあと、解放された。このようなことは一度や二度ではなかった。
こうした弾圧はことばで言い尽くすことができないほど、多い。このことはわたしを社会改造運動に立ち上がらせた。
(8)叔父の惨状を見て
1948年の秋、下の叔父が警察署保安課長が乗ったジープに轢かれ、太ももの骨がつぶれる重傷を負った。 この話を伝え聞いた長兄が話をつけに行ったが、臆して一言も発することができないのを見て、わが家に人がいないと切に感じ、早くおとなになり、かならず復讐しようと二つのこぶしをぎゅっと握って誓った。
結局叔父は障害者になり、補償は当時アール・ラン米(輸入米)5升程度をもらっただけだった。当時は警察弾圧の恐怖のもと、ただ震えている状態だった。
(9)学校の教師にたいする支署巡査の虐殺蛮行を見て
1950年6月初め、わたしが通っていた学校の体育担当チョン・ビョンテ先生が支署の巡査と居酒屋で酒を飲んで言い争いになったあげく、“赤だ”とその場で撃ち殺された。
遺体はかますで覆われて支署の前の道路に置かれた。家族は遺体を家に連れていくことができなかった。夏だったので、道路周辺を通りすぎるとき腐った臭いが強烈だったが、結局7月23日、人民軍によって解放をむかえてはじめて遺体が収容された。この光景を見て、当時、警察軍隊の虐殺蛮行に歯がみをした。
(10)ようやく解放の世で
1950年7月23日、人民軍によって解放され、わたしたちの世を迎えた故郷は、苦痛を受け弾圧された世紀の風がようやく成就したと思えた。
農民は土地を無償で分配され、女たちは男と平等の権利をもつことになり、貧しさのために学ぶことができなかった子どもや少年も学びの道がはじめて開かれることになったという喜びで、新しい社会建設に一つの心一つの志で動員されていった。こうして、わたしは少年団活動と里党細胞委員会(行政単位の里にできた組織)で面党部(行政単位の面にできた組織)と連絡事業を熱心にする過程で9.28後退(註)をむかえることになった。
【訳者註】1950年9月15日、韓国軍と国連軍が仁川に上陸し、6月28日から人民軍の支配下にあったソウルに9月28日に入った。人民軍は後退を始めた。
(11)9.28後退後、入山してパルチサンになった
9.28後退後、米軍をはじめとするいわゆる国連軍は侵攻して占領する場所ごとに、殺人、強姦、略奪、放火などをおこなった。
隠れていた右翼勢力が立ち現われ牛耳っている状況で、家族は村の人たちといっしょに入山した。
結局わたしは下山しないで残り、4年余りのパルチサン闘争の中で、地雷50か所にあたり、最後には銃3発にあたって重傷を負って捕虜となり、死刑、無期、反共法2年、社会安全法13年、合計35年9か月を服役して非転向者として出獄して、今日も変わりなく汎民族統一運動のイバラの道の中で残った人生を捧げているところだ。
金永昇
(6)軍警の無慈悲な弾圧と虐殺は憎しみと怒りを湧きあがらせた
わたしの父は春窮期を無事に超すために、山で砥石にする石を掘って磨いて、市で売って‘糊口之策’を維持していた。
そのころ、밀재出張所にいた機動隊7人が、戦争準備のために、三鶴里산산学校運動場で毎日女性たちに竹槍訓練をさせていた。
機動隊が毎日光州から霊光邑に来るバスに乗ってくるのを知って、パルチサンたちは道路角の연암橋で待ち伏せしてバスを転覆させ、警察6人を射殺した後、佛甲山に後退した。1人は負傷したまま生還した。その後一人だけ生き残ったと銃殺されたという話も聞いた。
何時間か後、霊光の機動隊が出動し、追撃する中、父は外から聞こえる銃声に驚いて砥石を掘った穴にうずくまっていたところを見つかった。
機動隊は、父がパルチサンが待ち伏せ攻撃をする道案内をしたと言い張り、死ぬほど殴ったあと白状しないといってタオルで目かくしをして森の中に引っ張っていき銃殺しようとした。
ちょうど밀재出張所長がそれを見て、どんな人間かみてみようとタオルをとったとき、“この人はそのような人でない。밀재出張所が石垣を積むときも仕事をした人で、ここで長い間砥石にする石を掘っている人だ。 銃殺してはいけない“といった。父は生き残った。
このことを伝え聞いたわたしたちの家族は惨憺たる思いを押えることができなかった。
まず担架を作って父を家に運んだ。殴られた傷を治すため、当時農村で治療法とされていた人糞をろ過して飲みながら、数か月を患った。当時青年たちはある青鉛団を作って竹槍訓練をさせるような状況であった。
(7)討伐の時の横暴
その後、村の青年たちがパルチサンとなって入山した。
1949年秋、パルチザンは佛甲山の龍泉(ヨンチョン)寺で討伐隊の奇襲にあい、村の金ヨンハという青年が山を越えて村に入ってきた。これを追撃してきた討伐隊は、村の裏山を完全包囲し、夜が明けるとともに各種重火器で集中射撃を加えながら村に押し入ってきた。討伐隊が一軒づつまわり、洪家の庭に集結せよとの命令を伝え、村の人たちはわけも分からないまま出て行った。
討伐隊は一軒づつ捜索する過程で、わたしの家の納屋の灰の中から軍服と短刀、手榴弾を探し出し、長兄に、隠したことを正直に言えといって、死ぬほどなぐりつけた。この光景を目撃し、幼な心に火(천불)が出るほど(煮えたぎる)怒りが込み上げてきた。その服は隣家の金ヨンハの服だった。
当時、わが家の納屋の灰の中に服を埋め、農民が着るパジチョコリを着て牛のまぐさ籠と鎌を持って、変装した姿で集合場所に出てきたとはまったく知らなかった。結局金ヨンハは逮捕されてしまった。
集結した村の人たちのうち、青年たちはひどく殴られ、車やリヤカーで、支署留置場に運ばれ一週間程度留置されたあと、解放された。このようなことは一度や二度ではなかった。
こうした弾圧はことばで言い尽くすことができないほど、多い。このことはわたしを社会改造運動に立ち上がらせた。
(8)叔父の惨状を見て
1948年の秋、下の叔父が警察署保安課長が乗ったジープに轢かれ、太ももの骨がつぶれる重傷を負った。 この話を伝え聞いた長兄が話をつけに行ったが、臆して一言も発することができないのを見て、わが家に人がいないと切に感じ、早くおとなになり、かならず復讐しようと二つのこぶしをぎゅっと握って誓った。
結局叔父は障害者になり、補償は当時アール・ラン米(輸入米)5升程度をもらっただけだった。当時は警察弾圧の恐怖のもと、ただ震えている状態だった。
(9)学校の教師にたいする支署巡査の虐殺蛮行を見て
1950年6月初め、わたしが通っていた学校の体育担当チョン・ビョンテ先生が支署の巡査と居酒屋で酒を飲んで言い争いになったあげく、“赤だ”とその場で撃ち殺された。
遺体はかますで覆われて支署の前の道路に置かれた。家族は遺体を家に連れていくことができなかった。夏だったので、道路周辺を通りすぎるとき腐った臭いが強烈だったが、結局7月23日、人民軍によって解放をむかえてはじめて遺体が収容された。この光景を見て、当時、警察軍隊の虐殺蛮行に歯がみをした。
(10)ようやく解放の世で
1950年7月23日、人民軍によって解放され、わたしたちの世を迎えた故郷は、苦痛を受け弾圧された世紀の風がようやく成就したと思えた。
農民は土地を無償で分配され、女たちは男と平等の権利をもつことになり、貧しさのために学ぶことができなかった子どもや少年も学びの道がはじめて開かれることになったという喜びで、新しい社会建設に一つの心一つの志で動員されていった。こうして、わたしは少年団活動と里党細胞委員会(行政単位の里にできた組織)で面党部(行政単位の面にできた組織)と連絡事業を熱心にする過程で9.28後退(註)をむかえることになった。
【訳者註】1950年9月15日、韓国軍と国連軍が仁川に上陸し、6月28日から人民軍の支配下にあったソウルに9月28日に入った。人民軍は後退を始めた。
(11)9.28後退後、入山してパルチサンになった
9.28後退後、米軍をはじめとするいわゆる国連軍は侵攻して占領する場所ごとに、殺人、強姦、略奪、放火などをおこなった。
隠れていた右翼勢力が立ち現われ牛耳っている状況で、家族は村の人たちといっしょに入山した。
結局わたしは下山しないで残り、4年余りのパルチサン闘争の中で、地雷50か所にあたり、最後には銃3発にあたって重傷を負って捕虜となり、死刑、無期、反共法2年、社会安全法13年、合計35年9か月を服役して非転向者として出獄して、今日も変わりなく汎民族統一運動のイバラの道の中で残った人生を捧げているところだ。
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