三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海口市咸来鎮(現、大致坡鎮)美良村と新橋村で

2016年12月12日 | 海南島史研究
 11月11日午前9時半に、美良村を訪ねました。わたしたちがはじめて美良村を訪ねたのは、2007年1月20日でした(このブログの2007年4月15日の「人びとの平和なくらしを、日本軍は壊した 3」、2013年8月1日の「日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 26」、および2007年2月発行の紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『写真集 日本の海南島侵略と抗日反日闘争』30頁)をみてください)。
 それから、ほぼ10年が過ぎていました。
 王禄美さん(1929年生)に自宅で話を聞かせてもらいました。
   “日本軍はこの村になんども来た。日本軍が来ると村人は逃げたが、あるとき3人が村の
   外で捕まって殺された。日本軍は村の家をたくさん焼いた。そのとき家のなかのゆりかご
   にはいっていた赤ん坊が家ごと焼かれたことがあった。両親は赤ん坊を家に残して逃げ
   たが、日本軍は、大人には悪いことをしても赤ん坊は傷つけないと思。
    日本軍が何回も来るので、村人はよその村で暮らした。わたしは両親といっしょに大
   水村の近くの咸吉村に移った。
    子どものとき児童団に入っていた。歌を習ったり、見張りをしたりした”
と話しました。王禄美さんの連れ合いの符恵連さんは、共産党軍の兵士が歌っていたという歌を大きな声で2曲歌ってくれました。実家の村で覚えて歌っていたといいます。歌詞は、一曲は「恋人は軍隊に入る。わたしは助ける」、一曲は「慌てないでください。わたしたちはみなさんの軍隊です。殺人軍隊ではありません。泥棒の軍隊ではありません」という意味でした。
 符恵連さんの実家の村には共産党軍が泊まっていたこともあったそうです。そばにいた韓美容さん(1927年生)は、
   “わたしの実家の村は大致坡の近くだ。12~13歳の時革命に参加した。
    解放後に結婚してこの村に住んでいる。昔のことはあまり覚えていない。共産党の
   兵士の看護をしていた”
と話しました。
 王禄美さんと符恵連さんの家の隣の王禄任さん(1932年生)は、
   “ここから遠くない大水村の近くの龍馬坡に日本軍の基地があった。美良村の近くで
   咸来郷の共産党郷長だった呉多仁が龍馬坡から来た日本軍に発砲されたことがあっ
   た。
    呉多仁は負傷したが逃げることができた。その後、日本軍は美良村の村人を集めて
   お辞儀させて殴った。そして日本軍は、靴がこわれたので靴を買うカネをよこせといっ
   たので、村人が集めて日本軍に渡すと、日本軍は去っていった。日本軍がこの村にき
   て村人を殺し、家を焼いたこと、そしてカネを集めさせて盗っていったことは、忘れるこ
   とはできない。
    わたしも王禄美といっしょに児童団に入っていた。昆山村で共産党の歌を歌ったこと
   もあった。
    大水戦闘のときわたしは9歳くらいだったが、近くで歌を歌った。戦闘が激しくなったの
   で、美良村に戻った。
    ‘大水戦闘は、日本軍ではなく国民党の軍隊が武器を運んでいるとき共産党の軍隊
   が攻撃した戦闘だ。国民党軍の兵士の数がふえていったのに共産党軍は弾丸がなくな
   った。たくさん人が死んだ。共産党軍の犠牲者が多かった’と当時大人から聞いた”
と話しました。王禄任さんは、わたしたちが2007年1月20日に話を聞かせてもらった王禄全さんの弟でした。王禄全さん(1911年生)は、7年ほどまえに99歳で亡くなったそうです。
 そのあと、2007年1月20日に話を聞かせてもらった王綏川さん(1931年生)の家を訪ねました。王綏川さんは4年ほど前に胆石が原因で82歳のときに亡くなられていました。

 隣の新橋村に大水戦闘に参加した人がいるというので、王禄美さんの息子さんに小雨が降ってましたが案内してもらいました。
 その人は黄広進さん(1929年生)で、
   “この村は明湖村でだったが新橋村に含まれた。いま新橋村は上新橋村と下新橋村に
   分かれているが、下新橋村はむかしの明湖村だ。明湖村で日本軍は村人を5、6人殺し
   た。
    わたしは両親と大水村のほうに逃げた。そこで半年くらい過ごした。
    大水戦闘は7日間続いた。はじめ共産党軍が国民党軍を包囲して攻撃したが、国民党
   軍の援軍が来て強くなったので共産党軍は撤退した(大水戦闘については、このブログ
   の2015年5月14日~6月14日の「1942年1月の「大水戦闘」について」1~19をみてくだ
   さい)。
    日本軍がいなくなってから、わたしは共産党の呉克之の護衛をした”
と話しました。そばにいた王金蘭さん(1944年生)が、母から聞いたという次のようなことを話しました。
   “わたしの母は結婚して明胡村に住んでいた。美良村を襲って村人を殺し家を焼いた日本
   軍が明胡村に来た。母は、1歳になっていなかったわたしを家の隅に隠した。
    1人の日本兵がわたしを抱いて家のわきにあった豚小屋(猪欗)のすみに運び、木の小
   枝や葉や草で覆って、他の日本兵に見つからないように隠した。母がもどると、わたしは
   眠っていた”。

                          佐藤正人
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