三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

澄邁県永発鎮永跃村と龍楼村で

2016年12月02日 | 海南島史研究
 紀州鉱山の真実を明らかにする会としては30回目、海南島近現代史研究会としては17回目の海南島「現地調査」の2日目の先月(11月)5日午後、わたしたちは、澄邁県永発鎮南部の永跃村を訪ねました。 
 唐有交口述・何運平記録整理「永跃三村九、二七惨案紀実」と周宗修・雷丁華「倒戈奇縁」(澄邁県政協文史資料委員会編『澄邁文史』10〈日軍侵澄暴行実録、1995年?〉、および唐有交口述・何運平整理「我所歴的新呉“九・二七”血案」(海南省政協文史資料委員会編『海南文史資料』第11輯〈『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上〉、1995年8月)に、“1941年農歴9月27日(11月15日)に日本軍が永跃村に侵入し、家を焼き、住民を定安県新竹の北側の石窟の近くに連行して殺した”と書かれています。
 永跃村の中心部の大きな榕樹の下で、当時17歳だった周家泰さん(1924年生)と出会うことが出来ました。周家泰さんは、
   “日本軍が村に来た時に、わたしは村にいたが、捕まらなかった。日本軍に捕まったの
   は10人以上だった。捕まった人はみんな農民だったが銃剣で殺された。1人が逃げるこ
   とができた。周明意さんだ。殺された人たちは穴に放りこまれた。そのうえに草がかぶせ
   られた。日本軍はそれに火をつけたがすぐに大雨が降ってきて日本軍がいなくなった。火
   は消えた。
    逃げた周明意さんが村に戻って村人が銃剣で殺され埋められた場所を知らせた。遺族
   がその場所にいって掘り起こすと、2人の遺体の下に1人がまだ生きていた。唐有交さん
   だ。10年ほど前に死んだ。隣村の人だ。
    わたしの兄の周家成は共産党に入党して、1948年か49年頃に国民党に殺された”
と話しました。そばにいた周保修さん(1971年生)は、
   “わたしの叔父は、あのとき日本軍に殺された。叔父の名は、周家権。殺されたとき23歳
   だったと父から聞いた”
と話しました。

 永跃村を出て、永発鎮中部の龍楼村を再訪ねました。前回訪ねたのは2011年11月9日でした。
 河英俊「日軍大焼大殺龍楼村的滔天罪行」(『澄邁文史』10)、および河英俊整理・范運新編集「日軍対龍楼村的焼殺暴行」(『海南文史資料』第13輯〈『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続〉、1996年8月)に、“日本軍が1939年2月23日に龍楼村に侵入して家を焼き、家畜などを奪い、村人を殺した。日本軍は、さらに2月27日にも龍楼村に侵入し、村の男90人あまりを近くの瓊山県東山鎮上宅村に連行して一軒の家のおしこめてガソリンを浴びせて焼き殺した”と書かれています。
 わたしたちは、その75年半後の2011年11月に、はじめてに龍楼村を訪ねたのですが、村には当時のことを直接的に知る人がいませんでした。さらにその5年後のことし11月にも訪ねましたが、1939年2月の日本軍の龍楼村での犯罪の実態を知ることはほとんどできませんでした。
                               佐藤正人
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