三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

臨高県皇桐鎮親仁村と和伍村で

2016年12月11日 | 海南島史研究
 11月10日午後3時ころ、美吉村の麦廷榜と王雪江さんに案内されて親仁村を訪問しました。
 劉成福述「皇桐郷親仁村惨案紀実」(『臨高文史』政協臨高県文史資料研究委員会編 10〈日本侵臨暴行史料専輯、1995年12月〉)に、
   “澄邁県橋頭鎮博岸に駐屯していた日本兵を満載して福山鎮方面に向かっていた自動車
   を、臨高県と澄邁県の県境の頭神村付近で待ち伏せていた国民党遊撃隊の李王明の部
   隊が、1943年農歴3月9日(4 月13日)午前11時に襲撃した。
    李王明の部隊は、13人の「鬼子」を斃し、迅速に親仁村の方向に転移した。
    この日午後、親仁村地域に侵入し、親仁村の村民17人、和伍村の村民4人、美營村の
   村民3人、その他の村の村民7人を虐殺した”
と書かれています。
 親仁村の自宅で呉朝発さん(87歳)は、
   “日本軍はこの村で17人か18人殺した。みんな銃剣で殺された。あの日、兄の呉洪義
   (音読み。ホンイ)が殺された。20歳だった。兄が殺された場所はここだ。
    9歳の子どもも1人殺された。80歳を過ぎていた老婆の呉三銭が田んぼで腹を刺され
   て死んだ。家は草でできていたが、16軒焼かれた。父と母とわたしは、逃げたので助か
   った。当時、村の周りは原生林だった。
    村に入ってきた日本軍は、逃げ遅れた村人をヒモで縛った。1人の若者がヒモをはず
   して逃げた。日本軍がその若者を追いかけているスキに、他の村人は逃げることがで
   きた。
    村の近くの道を国民党軍の兵士が大勢歩いているのを見たことがあるが、村に泊ま
   ったことはなかった”
と話しました。呉朝発さんの家の向かいに住む王金花さん(1935年生)は、
   “わたしの夫の呉廷英(1935年生)の父と兄は日本軍に殺された。兄は7歳だった。夫
   の母は土匪に殺された”
と話しました。

 親仁村を離れ、隣の和伍村を訪問しました。
 呉明智さん(1938年生)に自宅の庭で話を聞くことができました。呉さんは、
   “日本軍が来たとき、わたしは美營村に住んでいた。60年あまり前に美營村の村民はみ
   んな和伍村に移った。いまは、美營村はない。
    美營村で日本軍に何人も殺されたが、わたしがいまはっきり覚えているのは呉大光の
   妻だけだ。
    日本兵に会ったらお辞儀をしなければならなかった。国民党兵は見たことがなかった。
    村の大人がたくさん臨高東北の馬裊や澄邁西北の包岸に連れていかれて戦壕を掘ら
   されたり道路をつくらされたりした。わたしの父も連れていかれた。父は包岸で日本兵に
   ひどく殴られ、怪我をして村に戻ってくるのにずいぶん苦労した”
と話しました。和伍村には呉明智さんの他には日本軍時代のことを話せる人はいませんでした。

                           佐藤正人
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする