11月12日午後2時半過ぎに、美桐村を訪ねました。
わたしたちがはじめて美桐村を訪ねたのは、美良村を訪ねたのと同じ、2007年1月20日でした(このブログの2007年2月3日 の「咸来で 3」、2007年4月14日の「人びとの平和なくらしを、日本軍は壊した 2」をみてください)。
自宅の近くの広場で馮祖文さん(1934年生)は、
“日本軍は近くの美桐洋を処刑場にした。
日本軍が来たとき、わたしは村人6人といっしょに逃げた。子どもはわたしをいれて
2人。あとの5人は大人だった。そのうち、馮世存とその妹、馮各清、呉輝儒の4人は
殺された。あとの1人は助かった。”
と話しました。そばにいた馮祖書さん(1938年生)は、
“わたしの父(馮世英)は共産党に協力していた。わたしが4歳のとき道姆橋で日本軍
に殺された。わたしは祖父と両親と美桐村を離れて近くの村に移っていた。しかし、漢
奸が父の居場所を教えたらしい。日本軍が父を連れに来た。わたしは、祖父と母とい
っしょに、捕まった父のあとに途中までついていった。母は最期までついていった。母
は、父が道姆橋のところで水を飲まされ殴られ殺されるところを見た。そのとき日本軍
は7~8人を殺した”
と話しました。馮祖書さんが見せてくれた王方策編著『咸来風雲』(南海出版公司、2011年6月)の「抗戦時期咸来郷民被日軍殺害名単表」には、馮祖書さんの名が記載されていました。
馮祖文さんの息子さんに三輪車で案内してもらって、むかしの美桐村の中心部に行きました。そこは、わたしたちが10年ちかく前に訪ねた時に廃墟になっていましたが、いまもそのままで、より灌木が生い茂っていました。10年ほどまえは、そこから日本軍が処刑場にしていたという美桐洋が見えたのですが、いまは大きな樹や灌木にさえぎられていました。
その廃墟のなかの廃屋のひとつは、欧瓊琚さんの家だったところですが、欧瓊琚さんが龍發で日本軍に殺されてからは人が住まなくなったとのことでした。
佐藤正人
わたしたちがはじめて美桐村を訪ねたのは、美良村を訪ねたのと同じ、2007年1月20日でした(このブログの2007年2月3日 の「咸来で 3」、2007年4月14日の「人びとの平和なくらしを、日本軍は壊した 2」をみてください)。
自宅の近くの広場で馮祖文さん(1934年生)は、
“日本軍は近くの美桐洋を処刑場にした。
日本軍が来たとき、わたしは村人6人といっしょに逃げた。子どもはわたしをいれて
2人。あとの5人は大人だった。そのうち、馮世存とその妹、馮各清、呉輝儒の4人は
殺された。あとの1人は助かった。”
と話しました。そばにいた馮祖書さん(1938年生)は、
“わたしの父(馮世英)は共産党に協力していた。わたしが4歳のとき道姆橋で日本軍
に殺された。わたしは祖父と両親と美桐村を離れて近くの村に移っていた。しかし、漢
奸が父の居場所を教えたらしい。日本軍が父を連れに来た。わたしは、祖父と母とい
っしょに、捕まった父のあとに途中までついていった。母は最期までついていった。母
は、父が道姆橋のところで水を飲まされ殴られ殺されるところを見た。そのとき日本軍
は7~8人を殺した”
と話しました。馮祖書さんが見せてくれた王方策編著『咸来風雲』(南海出版公司、2011年6月)の「抗戦時期咸来郷民被日軍殺害名単表」には、馮祖書さんの名が記載されていました。
馮祖文さんの息子さんに三輪車で案内してもらって、むかしの美桐村の中心部に行きました。そこは、わたしたちが10年ちかく前に訪ねた時に廃墟になっていましたが、いまもそのままで、より灌木が生い茂っていました。10年ほどまえは、そこから日本軍が処刑場にしていたという美桐洋が見えたのですが、いまは大きな樹や灌木にさえぎられていました。
その廃墟のなかの廃屋のひとつは、欧瓊琚さんの家だったところですが、欧瓊琚さんが龍發で日本軍に殺されてからは人が住まなくなったとのことでした。
佐藤正人