三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「わたしはわたしである わたしはなぜ、パルチザンになったか」 1

2016年12月22日 | 韓国で
■わたしはわたしである わたしはなぜ、パルチザンになったか

                               金永昇
(1)故郷の春
 わたしは1935年8月7日、全羅南道霊光郡畝良面三鶴里신성村235番地で、7人兄弟姉妹の3男として生まれた。
 故郷の村はパルチサン闘争の戦跡地の一つ、佛甲山(불갑산。プルガプサン)の霊峰にそって伸びた안개봉우리(霧が峰)のふもとにあるこぢんまりした村だった。
 村の入り口には、村の安全と平和を見守る守護神のように、今も堂山木(神木)が枯れ木となってそびえている。
 村には16世帯が住んでいた。
 村には20人余りの青年がいたが、ほとんどが無学者であった。 これは社会が産んだ貧困の結果であった。
 村には、富裕な土地持ちである洪一家が地主として住んでいた。わたしの父は、地主の洪一家のもとで、20年余り作男暮らしをして得た10余マヂギ마지기(訳注:2千坪余り)の小作地を耕して生きてきた、貧農であった。
 わたしの家族は10人余の大家族だった。そのため、一年間農作業をしても、春窮期をやりすごすには、ことばでは語れない苦難を体験しなければならなかった。このような貧しい生活環境の中で、わたしは幼年期を送った。
 学校は5年間しか通えず、書堂に3年通った。 この間、1950年6月に戦争が起き、7月23日ころに、大田の攻防戦で大韓民国軍が朝鮮民主主義人民共和国人民軍に敗北し、人民軍が西海岸を南下していた。

(2)反日意識が芽生えた契機
 日帝末期の10才の時、長兄が流言飛語に問われ日本の警察に逮捕された。
 長兄は、警察支署、警察署、木浦監獄、大邱監獄、最後には平壌(ピョンヤン)監獄で8.15解放を迎えて出獄することができた。
 長兄の逮捕・投獄によって、日本人にたいする憎悪心がうまれた。
 この憎悪心が解放後もそのまま引き継がれた。 解放後の政局はアメリカの占領統治のもと、日本の植民地時代となんら違うところがなかった。

(3)パルチサンとの接触
 解放後の政局で、村の青年たちが左翼運動に立ち上がり、自然と青年たちの影響を受けるようになった。そのようななかで、1948年の麗水14連隊の烽起後、佛甲山にも30人余りの武装部隊が49年末まで活動していた。この武装部隊はときどき村に降りてきて食事を用意させた。感受性が鋭敏な年ごろのわたしにとって、かれらとの接触はあまりにも自然なことだった。

【訳者註】麗水14連隊の烽起:1948年10月19日、全羅南道麗水郡駐屯の国防警備隊第14連隊が、済州島で の4・3烽起鎮圧のための出動命令を拒否して烽起した。
 順天郡に駐留していた第14連隊の部隊も合流し、烽起軍の活動地域は周辺に拡大していったが、27日に政府軍に鎮圧された。この後、烽起軍に協力したとみなされた住民は正式な裁判もなく連行され、殺害された。その数は、数千人とされる。烽起軍のなかには智異山に入り、パルチザン活動をした人たちもいた。
    
(4)パルチサン隊長との約束
 わが家でもパルチサン隊長の食事を用意したことから、自然と影響を受けることになった。
 あるときパルチサン隊長に、パルチサンになりたいというと、‟君はまだ幼いから一生懸命勉強して、将来わたしたちの後をつぎなさい”といわれた。そうすると誓った記憶がまだなまなましい。そのとき、姉が接触していて、姉の影響で、手伝いもした。銃の撃ち方をそのとき習った。

(5)村の青少年少女に文字を教えた
 村の子どもたちは、貧しさのために学校に入ることができず、いくつかの家庭を除いては家族に文字を知っている人はいなかった。
 わたしは書堂に通い、知識の豊かな先生から国文を体得したので、村の夜学の先生となって、国文と数学(足し算、引き算、掛け算)などを、学校にかようことができなかった青少年少女たちに教え、文字を読み書きできるようにするのに寄与した。そして夜学を通じて村の青年たちから赤旗の歌、農民歌を習った。
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