三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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澄邁県文儒鎮加丙村と排坡園村(旧、北雁村)で

2016年12月05日 | 海南島史研究
 11月6日午前11時に澄邁県文儒鎮加丙村に着きました。
 蔡有祥「日軍在紅花岭下的暴行記略」(澄邁県政協文史資料委員会編『澄邁文史』10〈日軍侵澄暴行実録、1995年?〉、および海南省政協文史資料委員会編『海南文史資料』第11輯〈『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』上〉、1995年8月)に、
   “紅花岭山麓の加丙村に侵入した日本軍を、加丙村に駐屯していた国民党保七団第三
   營(營長:李茂營)が、第一營、第二營の救援を受け、朝8時から夜8時までの12時間、日
   本軍に反撃し、日本兵70人あまりを殲滅した。
    その後、日本軍は連続的に加丙村を襲撃し、多くの村人を殺し、村を焼いた。村人は、
   深山に逃げたが300人あまりが病気や飢えで死んだ。
    日本軍は紅花岭周辺の14個の村を襲い、159人を殺し、家を275軒焼き、女性21人を
   強姦した。霊聖村、南斗圓村、黄肚村、土尾村は壊滅的な被害を受け、無人村となった”
と書かれています。
 
 加丙村で、李月瓊さん(1917年生)に話を聞かせてもらうことができました。
 李月瓊さんは、
   “日本軍が村に来たとき、わたしは山に逃げた。銃の音がしなくなってから村にもどった  
   ら、家が燃やされていた。加丙村は、上加丙村と下加丙村にわかれていたが、上村の家
   は全部燃やされていた。下村の家は何軒か残っていた。
    日本軍は村に何度も爆弾を落とした。ある家に落ちた爆弾が爆発しなかった。その爆
   弾に村人が水をなんどもかけ、遠くに深い穴を掘って埋めたことがある。
    村にいたとき、捕まって縄で縛られたことがある。コトバがわからない男に、てまねで
   ‘山に逃げた村人を連れてこい’といわれて釈放された。だが、わたしは村に戻らなかっ
   た。
    弟が田で働いているとき、銃で頭を撃ち抜かれて殺された。19歳だった。発砲したのが
   誰かはわからなかった。
    わたしの息子張運興(1944年12月生)が牛飼いに野原にいっているとき、悪い人が銃で
   撃った。わたしは息子を抱いて家につれてもどったが、まもなく死んでしまった。毎日泣い
   て暮らした。殺したのが誰なのかはわからない。11歳だった”
と話しました。
 李月瓊さんに話を聞かせてもらったあと、近くの王漢叢さん(1924年生)に自宅で話を聞かせてもらうことができました。
 王漢叢さんは、
   “日本軍にたいして国民党軍と共産党軍がいっしょに戦った。共産党軍は国民党軍より
   弱かった。
    日本兵が村に入ってくる前に、日本軍の飛行機がなんども爆弾を落とした。
    村人はコメを山の中に草の倉庫をつくって隠した。日本軍の飛行機はその草の家をね
   らって機関銃を撃ったことがあった。コメのなかに機関銃の弾が残っていた。
    村人が日本軍に石浮につれていかれて十字架にはりつけられて軍刀(あるいは銃剣)
   で腹を切られて殺された。
    わたしは日本軍が来たとき山に逃げた。逃げたとき1人だった。山で3年ほどの間、1人
   で暮らした。イモなどを探して食べた。村から逃げた人のなかには餓死した人も多かった。
   病気で死んだ人も多かった。山にはヒルがいた。ヒルに血を吸われて足の皮膚が化膿し
   て腐った。たまには村に戻った。
    日本軍がくる前には村には300人あまりが住んでいた。日本軍がいなくなったとき70人く
   らいが生き残っていた。”
と話しました。海南警備府の「陸上部隊兵力配備要図」によると1943年3月の時点で石浮には60人の海南警備府舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の日本兵が「駐屯」していました。

 加丙村をでて、近くにあると思われる北雁村を探しました。北雁村は、日本侵略期に国民党瓊崖守備軍の司令官であった王毅さん(1900~1949年)の故郷です。
 北雁村の附近だと思う道でバイクに乗っていた人に、王毅さんの生家の場所を訊ねると、その人が、案内してくれました。北雁村は、隣の排坡園村に併合されて、無くなっていました。
 王毅さんの生家は、日本軍に焼かれ、その後再建されたとのことでした。その家もいまは廃墟になっていました。その廃墟の近くに住む排坡園村の王欽信さん(1937年生)は、
   “日本軍が来たときは子どもだったが、怖かった。日本軍の飛行機がなんども来て爆弾を
   落とした。日本兵が入ってきて、村の家を全部焼いた”
と話しました。
 排坡園村の中に、日本軍が焼いた家の石の土台や石の壁の一部がそのまま残っていました。

                               佐藤正人               
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