三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

対熊野市訴状 「結論」

2011年05月31日 | 紀州鉱山
 約1万5千字の熊野市を被告とする訴状の「(四) 結論」の全文は、つぎのとおりです。

■(四) 結論 「追悼碑建立の地」には、二つの公共性がある 
  2010年3月28日に、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑が除幕された。
  「朝鮮の故郷から遠く引き離され、紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち。父母とともに来て亡くなった子どもたち。わたしたちは、なぜ、みなさんがここで、命を失わなければならなかったかを明らかにし、その歴史的責任を追究していきます」と記された追悼碑の前には、犠牲者35人の名前を記した35個の石が置かれていた(甲第6号証の1)。
  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立したのは、朝鮮人と日本人である。
  本件原告も朝鮮人と日本人である。
  朝鮮の故郷から強制連行され、紀州鉱山で命を失った朝鮮人を追悼する意味は、朝鮮人と日本人では同じではない。しかし、朝鮮人も日本人も、共に、「なぜ、みなさんがここで、命を失わなければならなかったかを明らかにし、その歴史的責任を追究していきます」と犠牲者に約束している。
  本件土地の公共性は、朝鮮人と日本人の歴史的諸関係にかかわっている。韓国江原道議会議員一同が、「追慕碑の敷地にたいして、“公共性がない”と言う理由で課税したという話に接しました。これは、非常に不当な処分であり、残念に思います」と述べているのもそのためである。

  当該地紀和町(当時は板屋町)の了解の上で、1300人以上の朝鮮人が紀州鉱山に連行され、劣悪な生活環境の下で、過酷な労働を強いられた。石原産業の元職員の証言によれば、「彼らは銃や日本刀を持った軍人に監視されていた」のである。その歴史的事実を後世に語り伝え、その歴史的責任を追究するためのひとつの基点として、「鉱山資料館」の斜め前に当たるこの地に、本件「強制連行された朝鮮人の追悼碑」は公共性を帯びて建立されたものである。 
  当該市長がこの追悼碑建立について「何らの義務も責任もない」として宅地並みに課税して良いはずはないのである。
  本件追悼碑は、熊野市(旧紀和町)の「紀州鉱山における真実の歴史を刻み、その責任を問い続けるモニュメント」として今後も末永くここに在り続けるであろう。本件追悼碑のある空間には、その歴史的意義において金銭では計りえない価値がある。

  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の除幕集会には、100人を超える方がたが参加し、地元の方々は元より、日本各地から、韓国からも、沢山の老若男女が集い、新聞を見て参加した人も複数あったのである。正に不特定かつ多数の多彩な参列者に囲まれ、70年間忘れられて来た強制連行の朝鮮人犠牲者へのはじめての追悼式が、本件土地で行なわれたのである。
  「墓地」が訪れる人を拒まない、不特定多数の人々に開かれた空間としての公共性を持つのと同様、本件「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑建立の地」もまた訪れる人を拒まない、不特定多数の人々に開かれた「公共性ある空間」であったことを証明するような集会であった(甲第6号証の2・3)。
  繰り返すが、熊野市が文化財指定するほどに公共性を認めて管理している「英国人墓地」は、そこに英国人捕虜の遺骨は存在しないのであるから、実質は「英国人捕虜の追悼碑の土地」であり、「朝鮮人の追悼碑建立の地」と「追悼の場」であることにおいては異なるところがないのである。どちらも、「戦時下の紀州鉱山で何があったか」その歴史的事実を後世に伝えるモニュメントとしての碑を持つ空間である。
  異なるのは、追悼される対象と、その対象がそれぞれに問う「歴史的責任」である。「英国人墓地」が問うのは、日本政府と日本軍が国際法(ジュネーヴ条約32条ほか)を無視して、俘虜を危険な労働に使役し、1年の内に16名を死に至らしめた事実である。
  英国人捕虜の犠牲者には石原産業が早々に墓地を建て、地元老人会が手厚く「慰霊祭」を続けているという情報が、英国人と結婚した紀和町出身の一女性から元捕虜達に伝えられて、王立英連邦墓地委員会から感謝の意が表されるなどしている。
  本件「強制連行された朝鮮人の追悼碑」が問い続けるのは、日本国と日本軍と日本企業と地方行政が植民地朝鮮の人びとを強制的に連行し、過酷な鉱山労働に就かせ、その本名を名乗らせずなどして人権を踏みにじり、35名を死に至らしめた事実である。それゆえ、本件追悼の場には、本名を記した35個の石が置かれねばならなかったのである(甲第4号証の2)。
  三重県だけでなく、日本の多くの地域に植民地朝鮮から強制連行された人びとが、採鉱、鉄道・道路敷設、ダム建設、工場などで、過酷な労働条件の下で働かされ、命を奪われた人も多い。その犠牲者に対する地域自治体の対応は、その歴史に対する責任の取り方を表している。
  2010年11月7日、相生市長参列の下で「第16回目の追悼式」を行った兵庫県相生市では、播磨造船所に強制連行された「朝鮮人犠牲者の追悼碑建設」のために、市営墓地の一部の土地を無償提供する議案に議会が全会一致で賛成した事実がある(甲第7号証の1)。
  岐阜県(甲第7号証の2)では、1956年6月、元岐阜市長が委員長を務める中国人殉難者慰霊県実行委員会が、強制連行された県内5現場(瑞浪市・各務原市ほか)で死亡した72人の合同慰霊祭を行い、日本赤十字の船で遺骨を中国に送還した。以後1990年まで県内各地の慰霊事業に岐阜県から助成金が支出されている。
  同様な事例として、2011年2月12日の『北海道新聞』によれば、上川管内東川町で戦時下の朝鮮人強制動員を調べている町民有志のグループが同月17日から韓国を訪ね、同町内の遊水池建設に動員された90歳の男性2人に聞き取り調査を行う予定であり、調査に協力している東川町が費用の半額を助成した(甲第7号証の3)。
  このほか、強制連行された犠牲者の追悼の場に、群馬県(甲第7号証の4)は県立公園の一部を提供し、大牟田市(甲第7号証の5)でも市立公園を提供するなど、自治体がその責任において協力的に関わっている。
  このように、他県・他市において、強制連行された犠牲者の追悼碑建設用地として自治体が公有の土地を提供しているのは、「歴史の真実を刻み、その責任を忘れさせないモニュメントである追悼碑の建立」等に公共性を認めているからである。民間有志の想いが実って建設・建立に至った場合においても、それぞれの自治体は、強制連行・強制労働という過去の負の歴史を想い、その反省を迫られて設置・建設に協力したのであり、議会の承認を得て、住民の税金を用いて「現地で生存者からの聴き取り調査」に、あるいは、犠牲者の「納骨堂」建設や「慰霊祭」等に、堂々と補助金を支出することができるのは、「追悼の場」に「歴史の真実を刻み、その責任を問い続けるモニュメント」としての存在意義があるからで、行政と住民が大いに公共性を認めているからである。言い換えればそこには地域の住民と行政がともに承認する公共性の共通認識が存在するからである。

  本件「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の追悼碑建立の地」も「他県・他市の追悼碑の地」も、「英国人墓地」という名の「英国人捕虜の追悼碑の地」も、同様に二つの意味で公共性がある。
  既に述べて来たことを繰り返すが、その一つは、「不特定多数の人々に開かれた空間」としての公共性であり、今一つは「歴史の真実を刻み、その責任を問い続けるモニュメント」としての公共性である。
  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑建立の土地に熊野市が固定資産税を課すことは、朝鮮人を紀州鉱山に強制連行し強制労働させた過去の歴史に向き合うことをせず、加担した当該自治体がその歴史的責任をとろうとしていないためである。
  「英国人捕虜の追悼碑の地」を保持し続けてきた熊野市が、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人にかかわる諸事実を隠蔽し、紀州鉱山で命を奪われた朝鮮人を追悼しようとしないばかりか、その追悼の場に課税するという不公平な処分をすることは赦し難い不正義である。それは未来に向けて「歴史の真実を語り継ぐこと」への妨害行為を行政が行うことである。歴史を歪曲し、隠蔽・改竄する地方行政の権力の濫用である。

  本件「追悼碑建立の土地」は、地域の特殊事情とその用途における特異性から、通常の宅地とは比べ難い特別の事情ある事案であり、「歴史の真実を刻み、その責任を未来に語り継ぐ存在」として在り続ける「本件追悼碑建立の土地」に、形式的な所有者の名において通常の住宅としての評価に基づく固定資産税を賦課することは相当ではなく、被告熊野市の「処分」及び「決定」は、公共性・公平性の観点からみて、極めて不当な判断であり、不公正な処分である。

  よって、原告らは、公正・妥当な司法の判断によって、本件「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の追悼碑建立の地」に対する2010年度固定資産税の賦課に対して、原告が求めた「異議申立」を棄却した被告熊野市長の「決定」を取り消し、本件土地への「固定資産税減免不承認処分」及び「固定資産税の賦課処分」を取り消し、本件不動産は「免税」とするのが相当であることを確認する判決を求めて、本件裁判を提起するものである。
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