■三、海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働
①、日本軍隊性奴隷制度
日本軍が海南島に侵入を開始したのは、1939年2月だったが、はやくもその翌月3月に、海口の海軍情報部長は、台湾台北の海軍武官室を通じて台湾拓殖会社に「慰安所」設置を依頼した。これは、日本外務省・日本海軍・日本陸軍の三省連絡会議の決定に基づくものであった。 台湾拓殖会社は、ただちにこれに応じ、田村組に請け負わせて、5月に海口に「海軍慰安所」を新築した(註:朱徳蘭編『台湾慰安婦調査と研究資料集』中央研究院中山人文社会科学研究所、1999年7月)。
海南島に侵入した日本軍の主力は海軍であった。日本海軍は、海南警備府本部を海口におき、海南島全域を5つに区分し、第15警備隊、第16警備隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の5部隊に軍事支配させた。第15警備隊の司令部は海口に、第16警備隊の司令部は三亜に、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の司令部は嘉積(現、瓊海)に、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の司令部は那大(現、儋州)に、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の司令部は北黎におかれた。司令部がおかれた5個所にはすべて大規模な「慰安所」が設置された。
今回の「現地調査」で、わたしたちは、この5か所のうち、嘉積、海口、那大、三亜の4か所の「慰安所」跡の確認し、その周辺で調査・聞き取りを試みた。
【写真】01 嘉積の「慰安所」があった場所。
当時の建物は残っていない。当時、「慰安所」の掃除をしていたという女性(82歳。名前は教えてくれなかった)に会った。
いまも「慰安所」近くにすむその女性によると、当時「慰安婦」は20人以上おり、「慰安婦」とされていた漢族女性が近くに住んでいるという。
【写真】02 嘉積の旧佐世保鎮守府第八特別陸戦隊司令部の建物。
現在、瓊海中学校の校舎として使われている。
日本軍は、司令部をおいた嘉積、海口、那大、三亜、北黎以外の各地でも性的暴行をおこない、「慰安所」を設置した。その位置や実数を、わたしたちはまだ確認できていないが、今回の「現地調査」では、そのうちの、新村、新盈、白馬井、石碌、保亭、陵水、后石の「慰安所」跡を訪れた。黄流と藤橋の「慰安所」跡も探したが、時間が足りず、みつけることができなかった。瓊山、金江、石浮、南呂、楡林に「慰安所」があったことは確認していたが、行けなかった。筆者たちは、1998年6月に崖城に行ったが、そのときは、「慰安所」(“華南庄”と“崖泉庄”)として使われた建物が残っていた。
日本の敗戦後、戦犯容疑者として中国軍が抑留した日本人のなかに、瓊山で5年間「慰安所」を経営していた森本幸市がふくまれていた。森本が経営していた「慰安所」“銀華荘”には「中国人慰安婦」は含まれていなかったという。森本は、「慰安所」経営のためでなく、「夫婦共常ニ中国人特ニ商人ニ対シ親切ナラズ」という理由で拘留されたようである(註:『海南警備府残務処理報告書綴』)。
【写真】03 新盈の「慰安所」 2002年3月31日、撮影
【写真】04 新盈の「慰安所」 2002年10月16日、撮影
1、「戦地后勤服務隊」
海南島の「慰安所」には、海南島の漢族、黎族、苗族の女性、朝鮮や台湾から連行された女性が監禁された。海南島では、「慰安所」に監禁する性奴隷制度とは別個に、村落に侵入した日本軍の将兵による性的暴行、自由剥奪、継続的な性的犯罪がおこなわれた。
保亭黎族苗族自治県の県都保亭に住む黎族の張応勇さんは、1942年に保亭黎族苗族自治県地域に侵入してきた日本軍が、道路建設工事労働者あるいは田独鉱山労働者として強制的に集めた村人のうち、少女を「戦地后勤服務隊」に編入したという事実を、1987年以来の聞きとり調査で明らかにしてきた。「戦地后勤服務隊」にいれられた黎族や苗族の女性からの聞きとりによると、「戦地后勤服務隊」にいれられた少女たちは、日本軍将兵の性奴隷にさせられたという。保亭黎族苗族自治県の村落地域に侵入した日本軍将兵によって強姦された少女が「戦地后勤服務隊」にいれられたばあいもあったという。
わたしたちは、張応勇さんの案内で、少女時代に性奴隷とされた黎族の黄玉鳳さんと陳金玉さん、苗族の玉民さんの自宅を訪ね、話しを聞かせていただくことができた。この人たちは、両親や姉妹兄弟たちといっしょに暮らしていた村に侵入してきた日本軍の将兵によって、12歳から14歳のとき自由を奪われ、継続的に性的暴行をうけていた。
黄玉鳳さん(1926年6月生まれ。黎族)は、つぎのように話した。
「外国の女性たちが1か月に1度来るのだが、その女性たちが来ている間、3~4日間は、兵隊たちはみんなそっちに行くので、わたしたちは少し休むことができた」。
「外国の女性たち」というのは、朝鮮や台湾や日本から連れてこられた女性たちのことである。現地で性奴隷にされた少女たちが見かけた「外国の女性たち」は、化粧をし、きれいな服を着ていたという。現地の少女たちは、海南島に朝鮮や台湾、ときに日本から連れてこられて「慰安所」を巡回させられていた女性たちの不在を埋める形で、日本軍の性奴隷を強制されていたのである。
陳金玉さん(1826年12月生まれ。黎族)は、日本軍基地に連れていかれたあとも、6回逃げたという。
陳金玉さんの証言。
「6回、逃げた。連れ戻されるたびに拷問されたが、最後には、父母を連れてきて、“お前が逃げるからこうなるんだ”といって、父にも母にも、日本軍兵士ガ電気拷問をした。そのときから、“運命”だと思って逃げるのをやめた」。
玉民さん(1929年ころ生まれ。苗族)は、監禁されていた日本軍兵舎から逃げ、父、母、妹の全家族で山にはいったが、日本軍が「投降」したことを知らず、1945年末まで山中に隠れ住んでいたという。
【写真】05 黄玉鳳さんから話しを聞く
【写真】06 陳金玉さんの家のまえで
【写真】07 玉民さんを囲んで。右端は張応勇さん
【写真】08 陳亜扁さんから話しを聞く
陵水黎族自治県では、黎族の陳亜扁さん(1928年生まれから話しを聞かせていただいた。
陳亜扁さんは、家にきた日本軍人に自分の家で強姦され、日本軍に連れて行かれるのを、両親はどうすることもできなかった、という。陳亜扁さんは、日本軍がいなくなって、家に帰ったが、まわりから差別された。故郷で暮らすことに精神的に耐えらきれなくなって、山の中で社会と隔絶された生活を始めたが、1950年5月に共産党軍が海南島を解放したあと、行政機関に指示されて山を降りたという。
漢語(海南語、広東語、北京語)を話せない黎族や苗族の女性が、自らが属する共同社会を離れて生き抜くことは、たやすくはなかっただろう。自分が生まれ育った村で日本軍隊性奴隷にされた女性たちは、日本が敗戦し、日本軍が撤退したあと、「日本娘」「日本妓」などと呼ばれて、深く傷つけられながらも、その村を離れて生きることはできかった。
①、日本軍隊性奴隷制度
日本軍が海南島に侵入を開始したのは、1939年2月だったが、はやくもその翌月3月に、海口の海軍情報部長は、台湾台北の海軍武官室を通じて台湾拓殖会社に「慰安所」設置を依頼した。これは、日本外務省・日本海軍・日本陸軍の三省連絡会議の決定に基づくものであった。 台湾拓殖会社は、ただちにこれに応じ、田村組に請け負わせて、5月に海口に「海軍慰安所」を新築した(註:朱徳蘭編『台湾慰安婦調査と研究資料集』中央研究院中山人文社会科学研究所、1999年7月)。
海南島に侵入した日本軍の主力は海軍であった。日本海軍は、海南警備府本部を海口におき、海南島全域を5つに区分し、第15警備隊、第16警備隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の5部隊に軍事支配させた。第15警備隊の司令部は海口に、第16警備隊の司令部は三亜に、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の司令部は嘉積(現、瓊海)に、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の司令部は那大(現、儋州)に、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の司令部は北黎におかれた。司令部がおかれた5個所にはすべて大規模な「慰安所」が設置された。
今回の「現地調査」で、わたしたちは、この5か所のうち、嘉積、海口、那大、三亜の4か所の「慰安所」跡の確認し、その周辺で調査・聞き取りを試みた。
【写真】01 嘉積の「慰安所」があった場所。
当時の建物は残っていない。当時、「慰安所」の掃除をしていたという女性(82歳。名前は教えてくれなかった)に会った。
いまも「慰安所」近くにすむその女性によると、当時「慰安婦」は20人以上おり、「慰安婦」とされていた漢族女性が近くに住んでいるという。
【写真】02 嘉積の旧佐世保鎮守府第八特別陸戦隊司令部の建物。
現在、瓊海中学校の校舎として使われている。
日本軍は、司令部をおいた嘉積、海口、那大、三亜、北黎以外の各地でも性的暴行をおこない、「慰安所」を設置した。その位置や実数を、わたしたちはまだ確認できていないが、今回の「現地調査」では、そのうちの、新村、新盈、白馬井、石碌、保亭、陵水、后石の「慰安所」跡を訪れた。黄流と藤橋の「慰安所」跡も探したが、時間が足りず、みつけることができなかった。瓊山、金江、石浮、南呂、楡林に「慰安所」があったことは確認していたが、行けなかった。筆者たちは、1998年6月に崖城に行ったが、そのときは、「慰安所」(“華南庄”と“崖泉庄”)として使われた建物が残っていた。
日本の敗戦後、戦犯容疑者として中国軍が抑留した日本人のなかに、瓊山で5年間「慰安所」を経営していた森本幸市がふくまれていた。森本が経営していた「慰安所」“銀華荘”には「中国人慰安婦」は含まれていなかったという。森本は、「慰安所」経営のためでなく、「夫婦共常ニ中国人特ニ商人ニ対シ親切ナラズ」という理由で拘留されたようである(註:『海南警備府残務処理報告書綴』)。
【写真】03 新盈の「慰安所」 2002年3月31日、撮影
【写真】04 新盈の「慰安所」 2002年10月16日、撮影
1、「戦地后勤服務隊」
海南島の「慰安所」には、海南島の漢族、黎族、苗族の女性、朝鮮や台湾から連行された女性が監禁された。海南島では、「慰安所」に監禁する性奴隷制度とは別個に、村落に侵入した日本軍の将兵による性的暴行、自由剥奪、継続的な性的犯罪がおこなわれた。
保亭黎族苗族自治県の県都保亭に住む黎族の張応勇さんは、1942年に保亭黎族苗族自治県地域に侵入してきた日本軍が、道路建設工事労働者あるいは田独鉱山労働者として強制的に集めた村人のうち、少女を「戦地后勤服務隊」に編入したという事実を、1987年以来の聞きとり調査で明らかにしてきた。「戦地后勤服務隊」にいれられた黎族や苗族の女性からの聞きとりによると、「戦地后勤服務隊」にいれられた少女たちは、日本軍将兵の性奴隷にさせられたという。保亭黎族苗族自治県の村落地域に侵入した日本軍将兵によって強姦された少女が「戦地后勤服務隊」にいれられたばあいもあったという。
わたしたちは、張応勇さんの案内で、少女時代に性奴隷とされた黎族の黄玉鳳さんと陳金玉さん、苗族の玉民さんの自宅を訪ね、話しを聞かせていただくことができた。この人たちは、両親や姉妹兄弟たちといっしょに暮らしていた村に侵入してきた日本軍の将兵によって、12歳から14歳のとき自由を奪われ、継続的に性的暴行をうけていた。
黄玉鳳さん(1926年6月生まれ。黎族)は、つぎのように話した。
「外国の女性たちが1か月に1度来るのだが、その女性たちが来ている間、3~4日間は、兵隊たちはみんなそっちに行くので、わたしたちは少し休むことができた」。
「外国の女性たち」というのは、朝鮮や台湾や日本から連れてこられた女性たちのことである。現地で性奴隷にされた少女たちが見かけた「外国の女性たち」は、化粧をし、きれいな服を着ていたという。現地の少女たちは、海南島に朝鮮や台湾、ときに日本から連れてこられて「慰安所」を巡回させられていた女性たちの不在を埋める形で、日本軍の性奴隷を強制されていたのである。
陳金玉さん(1826年12月生まれ。黎族)は、日本軍基地に連れていかれたあとも、6回逃げたという。
陳金玉さんの証言。
「6回、逃げた。連れ戻されるたびに拷問されたが、最後には、父母を連れてきて、“お前が逃げるからこうなるんだ”といって、父にも母にも、日本軍兵士ガ電気拷問をした。そのときから、“運命”だと思って逃げるのをやめた」。
玉民さん(1929年ころ生まれ。苗族)は、監禁されていた日本軍兵舎から逃げ、父、母、妹の全家族で山にはいったが、日本軍が「投降」したことを知らず、1945年末まで山中に隠れ住んでいたという。
【写真】05 黄玉鳳さんから話しを聞く
【写真】06 陳金玉さんの家のまえで
【写真】07 玉民さんを囲んで。右端は張応勇さん
【写真】08 陳亜扁さんから話しを聞く
陵水黎族自治県では、黎族の陳亜扁さん(1928年生まれから話しを聞かせていただいた。
陳亜扁さんは、家にきた日本軍人に自分の家で強姦され、日本軍に連れて行かれるのを、両親はどうすることもできなかった、という。陳亜扁さんは、日本軍がいなくなって、家に帰ったが、まわりから差別された。故郷で暮らすことに精神的に耐えらきれなくなって、山の中で社会と隔絶された生活を始めたが、1950年5月に共産党軍が海南島を解放したあと、行政機関に指示されて山を降りたという。
漢語(海南語、広東語、北京語)を話せない黎族や苗族の女性が、自らが属する共同社会を離れて生き抜くことは、たやすくはなかっただろう。自分が生まれ育った村で日本軍隊性奴隷にされた女性たちは、日本が敗戦し、日本軍が撤退したあと、「日本娘」「日本妓」などと呼ばれて、深く傷つけられながらも、その村を離れて生きることはできかった。